今、これまでの人生で最も強く“生きている”と感じる。身体中の血液が、細胞が、氣が、激しく巡り私を突き動かしていた。

森の奥深く、軋む様な轟音を上げて大樹が縦に割れ、大地が小刻みに揺れる。落雷と見紛う破壊力が単なる手刀とは恐れ入るけれど、相手は天仙だ。私は深い踏み込みから跳躍を経て、退くであろうところを逆に前進しながら斬撃を放ち、割れた巨木越しに目の合った朱槿を苛立たせた。
最初こそ気怠げだった表情が、余裕の無い歪み顔、その頻度が徐々に高まりつつある。派手な動きで必要以上に地を抉り、なぎ倒した木の幹と土埃で視界や足場を悪くしようと足掻くのは、奴がじわじわと押されている証だ。逃がさない。私は丁寧に呼吸を繰り返した。

朱槿と対峙してから結構な時間が経過している筈が、疲労感はそれ程深刻には私を蝕んでいない。氣が正しく循環しているとはっきり感じられた。この局面で培った全てを発揮出来ている喜びはあれど、慢心はしない。今より一秒先は更に速く、更に強く、更に鋭く。目くらましの土煙を切り払い、顔を歪めた朱槿の懐へ深く踏み込んだ次の瞬間、奴の姿が掻き消えた。
冷静に。私は納刀しながら注意深く氣を練る。消えた訳じゃない。氣を限界まで薄めて探知から逃げているだけだ。私が隙を見せたその瞬間襲って来る。

、上だ」
「はい!」

尤も、隙を突けたところで二対一だ。普通の人間ならいざ知らず、こちらは二人して氣の知識を三年間存分に積んできた浅ェ門なのだから。素早い助言から真上を睨み、屈辱に歯を食い縛る朱槿の額を容赦無く斬り上げた。

先生が加勢に戻って来てくれたことは、戦力の面でも私の精神安定の面でも大きな意味を伴った。典坐の応急措置は済み、今はヌルガイが看てくれているお陰で、私は目の前の憎き相手に専念出来る。こうして先生に背中を守られているのだから、安心感も桁違いだ。

「調子に乗るなよ、人間」

相克と言えど丹田を破壊しない限りは復活してしまう。朱槿の身体は宙に浮いたまま、比較的ゆっくりとした速度で、ぱくりと開いた額が端から蔦で縫合されるように再生されていく。
逆光を背負った気味の悪い光景は、次の瞬間には頼もしさで色を変えた。先生の跳躍は静かで高く、空中で私を睨む朱槿の背後を容易く取る。先生の振り抜く軌道を読み私の方からも逆手で切り返せば、双方からの斬撃を受けた朱槿の身体が捩れ飛び大木へとめり込んだ。メキメキと割れる様な音は果たして樹か仙道の体組織か。いずれにせよ数秒の猶予を得て、私は着地した先生と隣り合い剣を構え直した。

「消耗はしていないか」
「絶好調です。先生は」
「ああ、問題無い。お互い今の調子を保っていこう」
「はい、先生」

強がりでは無かった。島に上陸して以来、ここまで長時間の戦闘は初めての筈が、実に調子が良い。氣を扱い易くなった、とも言える。この島に漂う空気そのものが、外からの侵入者に何かしらの進化を促しているのだろうか。であれば、物語中盤から皆の氣の練度が上がっていくのも納得出来る。
先生の意識が一部和らぐのを感じたのはそんな時だった。勿論お互いに警戒は解いていない。でも、確かに先生の氣は穏やかな温かさで私に触れてくれた。

「良い刀だ」
「・・・はい」

美しく輝く刀身は、長丁場にもまるで草臥れた様子が無い。当然だろう、私にとってはほぼ初陣でも、幾度も罪を断ち続けてきたこの太刀は歴戦の強者と呼べる。私を助けるどころか率いてすらくれる様な頼もしさを宿した刀だ。私がこの名刀を衛善さんから譲り受けた背景を、先生は説明せずとも理解してくれているように思えた。

その刹那。澄んだ刃に映り込んだ不自然な光が、私に警告を発する。迷う暇は無く、先生の身体を力一杯横に突き飛ばした。次いで伸ばした私の腕を掠めるのは、まるで弾道の如き氣の塊。危機感知に優れた先生が遅れを取る程に、予兆は微塵も感じられなかった。私だって不穏の片鱗をこの刀が反射させてくれなければ気付きもしなかった筈だ。間髪入れずの追撃は襲って来ない。大木にめり込んだ状態から一切の予備動作も無しに放つ為には、一発が限度だろうことが幸いした。

・・・!」
「掠り傷です。それよりも・・・」

ダウンしたと見せ掛けて放った姑息な一撃は、明確に先生を狙っていた。私の大事なひとを。心臓を中心に怒りの炎が燃え上がる。足元に散らばる名も無き石ころのひとつを拾い上げ、私は必要以上の氣を捩じ込んだ。
限りなく速く飛べ。強く鋭く、奴の臓腑を抉れ。穏やかではいられない負の感情を糧に、全力で腕を振り降ろす。

「っ・・・私の先生に何すんだクソがぁ!!」

殆ど破裂の様な音を立て、朱槿が押し込められていた大樹が砕け散る。氣を込めた無機物を投げる策は有効な様であったけれど、今の一撃は明らかに氣を消費し過ぎた。中道から外れた分だけ、身体への負荷が重くなることくらい、理解していた筈なのに。瞬きの刹那、視界がぶれる。いけない。
危機感を覚えた次の瞬間には、私は先生に担がれる様にして大きな像の影に避難させられていた。手早く私の腕の出血具合を確認し、申告通り擦り傷であったことに安堵しながらも先生の表情は重く曇っている。氣の消耗が一気に進んだことは当然筒抜けだ。

「・・・
「すみません、カッとなり過ぎました」
「いや、すまない。これは私の落ち度だよ」

俯き唇を噛むのはほんの束の間、先生は素早く頭を切り替えてくれた。

「庇ってくれたことに感謝する。立て直せるか」
「勿論です」

私の言葉に被さる様にして、隠れた像の端が吹き飛んだ。僅かに覗き見ればすぐさま追撃が飛び、再び影に忍ぶしか無い。ああ、あれは相当にぶち切れている顔だ。私の投石で欠けた脇腹を修復途中の朱槿が、仁王立ちになって両手を掲げ、無数の氣を放出していた。グミ撃ちとか勘弁して欲しい、こっちは戦闘民族じゃないっての。

「媒介無しに硬質化させた氣を飛ばして来るか・・・ますます常軌を逸しているな」
「流石にあれは人間辞めないと真似出来そうにないですね」

飛んでくる氣の弾は凄まじい殺気に満ちている。少しでも気を緩めれば間違いなく命取りになるだろう。でも、怒りに身を任せた攻撃が中道からかけ離れた行為であることは、先ほど身をもって学んだばかりだ。天仙と言えど氣は無尽蔵ではないし、私たちを炙り出そうとする破壊行為は猛烈な威力を秘めながらも隙が多い。反撃に打って出るのなら今が好機だ。

「距離を縮めて一気に叩きます。先生は後方から援護お願いできますか」
「それは私が先を行きたいところだが・・・」
「私でないと奴に致命傷は与えられません」
「・・・そうだな」

氣の属性とその相性。私が朱槿の相克であることを、先生は理解してくれている。

を信じるよ」
「・・・ありがとうございます」

大切なひとが私を案じてくれる。その上で、信頼を預けてくれる。負けられないという強い思いを幾重にも纏い、私と先生は息を合わせて別々の方向から飛び出した。

氣の弾丸が止んだ代わりに、両腕を触手の如く張り巡らせた朱槿の網が私たちを待ち受ける。触れれば無傷では済まないだろう、毒々しい色の棘が無数にこちらを向いていた。片っ端から切り捨て、剣圧で跳ね飛ばし、渾身の力で避け切りながら前へと進む。私が氣を込めて斬った朱槿の傷口が、まるで酸を浴びた金属の様に焼け爛れていくのがわかる。

―――効いている。確実に消耗し、平静を保てなくなった分、奴はこれまでで一番追い詰められている。行ける。そうして私が遂に奴の懐へ潜り込み、鋭い呼吸と共に振り抜いた一閃。そこに対して朱槿は、広げた体組織を急速に纏めることで防御と攻撃の両立を図ったらしい。
太い管の様な茨の蔦で私の右手は刀ごと拘束され、口から吐かれた氣の弾丸で右頬を裂かれ、焼け付く様な痛みが走った。

「っ・・・!」
!!」

普通ならここで意識が揺らぐのだろうけれど、先生の声が必死さを帯びる分だけ、私は痛みを棚上げに出来る。刃を封じ、顔を傷付けたことで油断しきった朱槿の顎を目掛けて、私は左の拳を力一杯振り上げた。

「―――この程度で、怯むかよ!!」

我ながら綺麗な軌道でアッパーが決まり、瞬間弛んだ蔦の隙間から右手を引き抜くと同時に、鋭い太刀で奴の鎧たる触手を悉く切り刻む。

「っこの・・・!」
「拳は飾りじゃないんでね・・・!」
「何なんだよお前っ・・・人間のクセに・・・!」

遂に直接手を翳すことで防戦一方となった朱槿に対し、私は猛攻を畳み掛ける。どんなに背後を取ろうと無機物を操ったとしても、先生が対処してくれると信じているからこその攻撃一択だったが、確実に戦局が傾いたことを肌で感じ、私の氣は更に強く滾った。
やれる。朱槿を、倒せる。無論この後は鬼尸解が待つだろうけれど、今ならきっと勝てる。

―――本当に?もしこのまま朱槿を倒したとして、本来起きるべき戦闘が消失した画眉丸は、氣をどうやって学ぶ?
不意に数々の迷いが浮かび上がったものの、今更引き下がれる筈も無く。

「その氣、気持ち悪いんだよ・・・!」
「勝手に言ってろ・・・!」

私はこいつを許さない。正史で典坐を先生から奪い、ヌルガイを泣かせたこいつを、決して許さない。
静かに、激しく。怒りと平静の中間を、丁寧に斬る。そうして遂に届いたと思われた朱槿の丹田への一撃は。

「・・・っ!」

思いもよらない盾により、防がれた。

朱槿と私の間に、先生ではない新たな影が割り込む。

「っ・・・なんで」

信じ難い光景だった。
花を仮面の様に纏い、更に片手に掲げた本で執拗に顔を隠す、雌雄同体の天仙―――文殊公々、桂花。こんな場面で出て来る筈の無い人物が、私と追い詰められた朱槿の間に立ち塞がっていた。

「新手か・・・!」
「っ先生・・・!駄目、下がってください・・・!」

この物語を中途半端にしか知らない私でも、決して忘れず脳に叩き込んだ氣の相関図がある。桂花は金属性、木属性である先生の相克―――決して戦わせてはいけない相手だ。同時に、土属性の私では決定打を与えられない厄介な敵でもある。

何故。こんな大事な局面で、よりによって属性以外ほとんど未知数の天仙が、どうして割り込んでくるのか。私は困惑と悔しさに歯を食い縛った。

「・・・桂花、なんで」
「別に」

疲弊しきった朱槿を、桂花の手がとんと押す。まるで水面に吸い込まれるかのように、満身創痍だった仇敵の姿が掻き消えた。何の事象が働いているのか理解は追いつかないながら、このままでは逃げられてしまうことだけはわかる。

「っ待て・・・!」

焦りと恐怖を押し殺し踏み込んだ私の一歩は、ぴたりと額を指さされたことで硬直した。
桂花は依然として本を片手に顔を隠したまま、私を攻撃する素振りは見せない。しかし、私の動きを止めた指先が、するりと弧を描く様に真横へと向けられる。自然と、私の視線もそれを追った。

「良いの?」

―――指し示す先には、火の手が上がり始めた森があった。
心臓がばくんと脈打つ。あの炎は画眉丸の火法師。陸郎太との戦いが佳境である証。そして、源嗣の命が既に尽きているかもしれないという恐怖の狼煙だ。

ほんの一瞬で視線を戻した先に、既に桂花の姿は無く。朱槿の気配も掻き消え、私たちは天仙達の撤退という結果に呆然と立ち尽くした。

「退いたか・・・、怪我をしたのは頬と腕だな。他に傷めた所は無いか」
「・・・」
?」

何故、桂花が燃える森を私に指し示したのか。良いのか、とは。どういった意味の問いだったのか。あの天仙が、何を知っているというのか。無数の疑問が頭を埋め尽くす。
でも、今の私に悩んでいる時間はない。弾かれたように駆け出そうとする私の手は、先生の手により素早く掴まれ引き止められた。

「先生、私行かないと・・・!」
「然るべき備えも無しには行かせられない」

先生は荷から大きな手拭を二枚出すなり、一枚で私の鼻から下を手早く器用に覆い、頭の後ろで結び目を作る。煙を極力吸わない為の備えだ。燃え盛る木々の中へ飛び込もうという私の為に、必要なこと。私が呆然としている間に自分も同様の装備を身に着け、よしと頷いた先生は私を真っ直ぐに見下ろしていた。

「火の手は危険も多い。本来なら私が先を行きたい所ではあるが、生憎目標がわからない・・・先導は任せる。念の為、私は先ほどの者達の気配を警戒しながら付いて行こう」
「・・・先生」

今、私が何をしたいのか。一言の説明も無しに、多くを察し、救いの手を差し伸べてくれる。

「典坐の容態は彼女が看ている。私は今、の補佐に就くことが正しいと判断した」

疲労と混乱の波に足元を取られながらも、今仲間の為に何とか藻掻きたいという心許なさを、先生が支えてくれる。

「今度こそ君を一人で行かせたくない。わかって貰えるだろうか」
「・・・ありがとう、ございます」

あの炎の中で何が私を待つのか。恐怖に竦みそうになる弱い手を、そっと握って貰えた様な心地で私は駆け出す。お願い、無事でいて。祈りの言葉を、心の中で何度も繰り返した。



* * *



鉛の様な足を引きずるようにして森を歩く。燃え盛る景色は遠く、煙対策の手拭は外れ、今は先生が私を先導していた。

結論として、あの炎の中に源嗣の遺体は見つからなかった。首を落とされた陸郎太の巨大な屍、その付近をいくら探しても恐れていた仲間の姿は見当たらず、私たちは被害に合う一歩手前で煙の充満する区域から抜け出した。
源嗣もまた、正史とは違う運命を辿っている。その事実が緊迫の鎧を砕いてしまったのか、今こんなにも私の体は重い。

「・・・大丈夫かい」

少しでも早く典坐の無事を確かめたい思いから、休むこと無く進もうと提案したのは私だった。こちらを小さく振り返る先生はそれを汲んで足を止めはしないものの、その声は気遣いに満ちている。
先生だって、間違いなく疲労感に苛まれている筈なのに。理由も聞かず炎の中まで付き添って、何の成果も無く出て来たことを愚痴りもしない。喉の奥がじわりと焼け付くようなほろ苦い思いに、私は形だけでも口端を上げようと努め―――そして、俯いた。

「核心には触れません。だから・・・少しだけお話しても良いですか」
「勿論だ」

苦しい胸の内を抱えきれない私の弱音に対し、受け止める先生の声はどこまでも優しい。お互いに顔を合わせず、前を向いて歩き続けている状況に助けられた。今立ち止まって先生と正面から向かい合ったら、今度こそ大事な糸が切れてしまうような気がした。

「あの火事は、助太刀に入りたかった局面が終わりかけの印でした。結果的に私は間に合わなくて・・・でも、そこに倒れていた筈の浅ェ門も、見つからなくて」
「陸郎太の遺体以外にも、本来であれば浅ェ門の誰かがあの場に取り残されていた筈だった、と」
「はい」

約束を違えない範囲で、私は心に負ったものを少しずつ言葉に変えていく。朱槿を退けることに成功し、源嗣の遺体も見つからなかった。結果だけ見れば安心出来る筈が、ひとつも心は安らがない。

「運命が変わって、生き延びてくれていると信じたいんですけど・・・なんだか、不安なんです」

本で顔を隠したあの指先が、今も額に突き付けられているような不安が抜けない。上陸して以来ずっと感じていた違和感の最たる形として、桂花は私の心に消えることのない傷跡を残した。
いる筈の無いひと。知らない未来。私に齎された、先を知るという唯一の強みが儚く崩れていく音。

「私の死罪人は本来と違う死に方をしました。衛善さんは片腕を失って、典坐も私が知るよりずっと早く会敵して・・・さっきだって、あの戦いに天仙がもう一人介入して来るだなんて。どう考えてもおかしいんです」

震えそうになる語尾を堪え、一度言葉を飲み込む。

「私が知っている未来と、今が・・・少しずつ、ずれ始めてる」

声に出すことで楽になる筈が無い。わかっていた筈のことで、私は酷く空虚な思いに苛まれた。
先のことを知っているからこそ、戦えるのに。先手を取れるからこそ、皆の役に立てるのに。“先見の明”を取り上げられたら、私の価値は―――。

「先生、すみません。本当ならもっと、的確に先のことを案内出来る筈だったのに・・・こんな大事な局面で、未来が曖昧になるだなんて。私、先見の明が無かったら」
が謝る理由などひとつも無いよ」

珍しく、私の言葉に被せる様な遮り方だった。先生は歩みを止めずこちらを振り返らない。それでも、私は否応無しに惹きつけられてしまう。霞色の氣が、憂いを帯びた気配がした。

「先刻の戦い、の導きで氣を学んでいなければどうなっていたことか」
「・・・先生」
「謝るべきは私の方だろう。君に庇われ、怪我まで負わせてしまった。師として恥ずべきことだ」
「そんな・・・!良いんです、怪我なんて大層なものじゃないですし、あのまま先生が直撃を受けていたらと思うと・・・!」

怒り、焦り、そして殺意と致命的な消耗。短時間で氣という名の命を削った様な怒涛の展開を思い起こし、私は無意識に先生の方へと伸ばしかけた手を引っ込めた。先生が責任を感じる必要なんて無い。中道を貫くことが如何に大事か、身をもって知ることが出来た。不意に先生がこちらを振り返るような予感に、私はさっと視線を逸らす。

「・・・お、推しを守れただなんて。オタクとして、生涯誇れる勲章です」

「だから、謝らないで下さい。実際、刀の反射が無ければ私も反応出来たか怪しいところもあって・・・頭に血が昇ると中道も全然保てませんし、私もまだまだ修行が足りていないんです」

もっと強くならなきゃいけない。先生の弟子として恥ずかしくないように、もっと、もっと。先生と言葉を交わす内、成長を望む思いが後ろ向きな淀みを徐々に塗り替えていく。先生の見えない筈の視線は、ほんの数秒で私から剥がれていった。

「・・・私も己を戒めるよ。立ちはだかる壁が如何に強敵かを思い知った。更なる研鑽を積む必要がある。どれ程の猶予があるかは不明だが、引き続き共に精進しよう」
「はい、先生」
「あと、気が昂ると時折言葉が汚くなるのはよろしくないな」
「・・・はい、先生」

最後のお小言から僅かな空白を経て、私たちは同時に小さく噴き出す様に笑う。先生はすごい。話しているだけで、私は先程と比べて息がし易くなっていた。

長い森を抜け、岩肌の目立つ丘に差し掛かったのは丁度そんな時のことだった。この島がどれ程地獄渦巻く場所か知っていながら、吹き抜ける風が柔らかくて、どこか心地良さすら覚えてしまう。


「はい」
「我々の選択ひとつで、未来は変わるものだ」

不思議だった。きっとさっき聞いたなら心臓が押し潰されそうだった話に、今なら落ち着いて耳を傾けることが出来る。

「先のことが不透明なのは世の常だよ。君の知る未来が、今形を変えつつあるとして。が重荷に感じることではないと、私は思う」

先生の歩みが止まり、私は斜め後ろで立ち止まる。今度こそ振り返った先生の表情は、普段通り穏やかな包容力に満ちていた。

「私は未来の先取りよりも、自慢の弟子の―――山田浅ェ門の剣技を頼りにしている。例えこの先、先見の明が機能しなくなったとしても、それは決して変わらないよ」

ゆっくりと瞬き、今言われた言葉を噛み締める。
思えばずっと、先生は私の先見の明を最小限にしか受け付けようとしなかった。先を知る私ではなく、戦力としての私を信じ、自慢の弟子と呼んでくれた。
もしも、先見の明が機能しなくなったとしても。最悪と思われた可能性を明示されて尚、先生から寄せられる信頼は変わらない。身体中の力が抜けた様な、細胞が全部生まれ変わった様な、慣れない感覚に戸惑いはあるものの、桂花の登場で胸に刺さった棘の痛みが薄まったことを直に感じる。

ああ、私は、ほっとしているんだ。あまりの安堵と光栄さに、言葉がうまく出て来ない。そんな私に一切気を悪くすることなく、先生は更に先へと導いた。
小高い丘の裏手、くり抜かれた様な空洞の奥、苔だらけの岩をいくつも避けて辿り着いた先に。

「さあ、着いたよ」

私は、分岐された運命の向こう側を見た。
隠れていた二つの影の内ひとつが、私たちの姿を認めるなり飛び出して来る。

「あっ・・・!良かった!無事だったんだな・・・!」

別れる前は涙と不安に溢れていた表情が明るい。生死のかかった状況から一時脱した今、改めて目にした小柄な少女は私の意識を釘付けにした。
ヌルガイ。典坐と一緒に幸せになって欲しいと何度も願っては叶わない現実に涙した、私の大事な推しのひとり。

「あの、言われた通りにしたよ。まだ意識は戻ってないけど、傷は塞がったままだし、呼吸も安定してる」
「ありがとう。助かった」

先生への状況報告を済ませ、依然として典坐を任された使命感に燃える瞳が私を映す。

「大丈夫か?顔、怪我してる・・・」
「あ・・・」

その声と瞳が心からの心配を伝えてくれる。自分でも殆ど忘れていた頬の傷を指摘され、私は狼狽えた。
先が拓けたんだ。本当に、典坐を救った未知の道筋が今、拓けたんだ。
大好きな推しのひとりを改めて前にした思いと、これまで最優先に掲げて来た目標が達せられた脱力感に、私の言葉がまたもや迷子状態に陥る―――その時だった。

奥から微かに聞こえる、呻き声。私たちの耳は確かにそれを拾い上げる。心臓の鼓動が激しく打ち鳴らされた。

「っ典坐?!」

いち早くヌルガイが飛び付き、先生もそれを追う。私は足がその場に縫い付けられたように直立し、三人の姿を瞬きも惜しむ心地で見守ることしか出来なかった。

「・・・ヌルガイさん・・・無事っすね」
「典坐ぁぁ!!」
「まったく。無事はこちらの台詞だろう」
「先生・・・来てくれたんっすね」

生きてる。典坐が、生きてる。先生もヌルガイも喜んでる。誰も悲しまない、心から望んだ世界線。

「二人が助けてくれたんだ。センセイと、えっと・・・」

ヌルガイが私を振り返り、先生が場所をずらすことで寝たままの典坐から私への道を空ける。

「・・・さん」
「てん、ざ」

私なんて、どうだって良いのに。ただ、三人が笑ってくれれば、それで良いのに。温かな笑顔が私に向けられていることが尊くて、嬉しくて。私は漸く、よたよたと頼りない足取りで近付き、先生の隣に座り込む。

「生きてる?」
「はい、お陰様で」
「大丈夫、なんだよね?」
「みたいっすね。さんこそ、頬が痛そうっすよ」

この島で起きる数々の悲劇を回避したい。その中でも一番に阻止したかった死の運命を打ち破って、歳下の兄弟子が私に笑いかけてくれている。
良かった。本当に、良かった。安堵なんて言葉じゃ足りない、念願が叶った奇跡で目が回りそうだ。

「先生とさんが、助けてくれたんでしょう?」

もう開かないんじゃないかと怖かった目が、私を見てる。もう聞けないんじゃないかと不安で仕方なかった声が、私に向けられてる。大好きで堪らない、太陽みたいな笑顔にもう一度会えた。私のこれまでが、確かな形で報われた瞬間だった。

「ありがとうございます。必ずまた会えるって、信じてました」
「オレもまだ言えてなかったけど、逃がしてくれてありがとう。命の恩人だ」

大好きなふたりから注がれる感謝の言葉は、あまりに眩しくて、どういたしましてと受け止めるには尊過ぎて。上手く言葉が出ずに首を振るばかりの私の肩に、そっと先生の手が置かれた。

「私からも、ありがとう」

穏やかな声が私を讃えてくれる。

のお陰で、弟子を喪わずに済んだ」

先生の笑顔が、私の全部を認めてくれる。

「よく、頑張ったね」

感情の水位が、遂に限界を超えて溢れ出す。私は、子どもの様に声を上げて泣いた。