遠く聞こえる波の音は化け物の唸り声に似ていて、不安を煽るばかりだった。浜辺から少し離れた洞窟は、衛善さんを担ぎ込んだ時はまだ高かった陽の光が差し込んでいたのに、今は焚べた火が無ければ何も見通せない。時間経過を気にしていられない程に、片腕を失った兄弟子の姿は私の胸を深く抉った。
あの巨体に身体ごと鷲掴みにされたのだ。当然至るところを打撲で覆われ、骨折だって何箇所もある。止血消毒の為に炎で腕の断面を焼いた一瞬だけ衛善さんは苦悶の絶叫を上げ、すぐに再び意識を失ってしまった。ごめんなさい、ごめんなさい、そう繰り返しながら心臓の鼓動を確かめ、弱々しい音がこのまま止まないことを祈り、そして出来る限りの手当てを続ける。私の荷物はとにかくこの時代の救急用品でいっぱいにして旅立ったのだけれど、それも初日にして持つか不安になる程の重体だった。
衛善さんは上半身を押し潰され即死するという運命からは免れた。しかし、辛うじて回収出来た刀も、利き腕が無ければもうまともに握れない。私が、もっと早く駆け付けていたら。悔やんでも悔やみきれない思いを抱えながら、もう一度心音を確かめる。心なしか強まってきたように聞こえる、生きようとするいのちの音。僅かだけれど、落ち着いてきたようにも思える呼吸。私は本当に一瞬、良かったと安堵の溜息を吐き目を閉じたつもりが、そのまま意識を手放してしまったのだった。
パチ、と火が爆ぜる音で飛び起きた。この状況で寝落ちるなんて不覚過ぎる。敵はいない?どれくらいの時間寝ていた?衛善さんは無事?様々なことが一度に押し寄せ、頭を抱えながら視線を落としたその時。
「衛善、さん?」
瀕死とも呼べる重傷で意識を失っていた隻眼の兄弟子と、目が合った。
「・・・世話をかけたな」
仰向けに身体を横たえた、包帯だらけの痛々しい姿。それでも私を見上げる衛善さんの片目は、優しさと威厳を併せ持つ普段通りのものだ。それだけに、もう二度と戻らない右腕が哀しくて堪らなくなる。私にその資格は無いと理解しながら、鼻の奥にツンとしたものが込み上げた。
「私が、もっと早く駆けつけていたら・・・」
「お前が負い目を感じる必要は無い。命を拾えたのはお前がいたからこそだ。礼を言う」
衛善さんは落ち着いていた。身体の欠損も消耗も受け入れた上で、穏やかな顔で私に勿体無い言葉をくれた。そして次の瞬間、その空気を厳しいものへと引き締める。
「だが、ここまでだ」
「え?」
「私のことは良い、早く士遠と合流しろ」
先生の名前を出されたことで、私はこの島に来た本来の意味を揺り起こされる。でも、この状況で今言われたことに頷けるかと問われればそれは別問題だ。
「何言ってるんですか・・・こんな状態で、置いて行ける筈が・・・!」
「お前が無理にこの任へ着いた目的は、他にあるのだろう」
耳鳴りがした。今何を言われたのか、咄嗟には理解が追いつかない。言葉が出てこない私を見上げたまま、衛善さんが僅かな苦笑を浮かべた。
「漠然とした感覚ではあるが、わかっていた。士遠とお前が何かをひた隠しにこの日を迎えたことも、珠現や桐馬に対する強い確執も・・・期聖も、恐らくは一枚噛んでいたのだろうな」
先見の明は他言無用とされたその時から、私の理解者は先生ひとりだった。期聖も私を助けてくれたけれど、お金と引き換えに事情は明かさない割り切った協力関係だった。他の誰にも明かさず、珠現と桐馬に対しても表向きは何でもない同門の振りを装えていた筈なのに。このひとは、何もかも見通した上で全て黙っていたという。恍けることは出来なかった。
「何で・・・そこまで見抜いて、どうして私の参加を認めてくれたんですか」
「己が斬られる危険を押してでも、浅ェ門になりたい。山田家の良き未来の為にその力を振るうと。お前はそう言って、刀を磨く道よりも刀を握る道を選んだ」
衛善さんが刀を研ぐ、静謐で特別な時間を思い起こす。純粋な刀の美しさに魅入る間だけは、使命や重圧を忘れることを許されたような気がしていた。このひとはそんな私の未熟さすら、静観することで見守ってくれていたのだろうか。過去を懐かしむような衛善さんの声は優しかった。
「何を秘めていようとも、その覚悟と志に嘘偽りは無い。私にそう信じさせるだけのことを、お前自身が三年で積み上げたのだ。今この時に至っても、お前の志願を受け入れたことに後悔は無い」
何かを察しながら何も言わず、素性の知れない私を信じてくれただなんて。こんなにも懐の深い理解者が先生以外にもいたことに、私は今日まで気付けなかった。もしもを考えればきりが無い程に、後悔の念が渦を巻く。
「確認するが、放り投げたのは慶雲の首で間違いないな」
「・・・はい」
「咄嗟の機転で救われたことは確かだが・・・まったく。突然髪を断った時といい、お前には驚かされてばかりだ」
衛善さんが微かに苦笑する。髪を整えて貰った時の優しい記憶が頭を過ぎる度、もう再びは叶わないだろう現実が胸の奥に沁みた。
例外なく包帯で覆われた左手が動き、ゆっくりと私の方へと伸ばされる。慌ててそれを迎え入れると、衛善さんは私の手を力強く握った。
「正式には刑場だが、お前の実力には誰も異を唱えまい。死罪人の首を落としたのであれば、今日この時を以て免許皆伝とする」
免許皆伝。代行免許の者が、死罪人の首を落とすことで得られる栄誉ある肩書き。幕臣の立ち合いなど無くても、このひとの言葉があればそれだけで十分な意味を持った。
「・・・拝命します」
衛善さんの真剣な声が、力強く握る左手が、私を本物の浅ェ門にしてくれた。語尾が震えそうになりながらも誉を受けとった私に対し、その隻眼が満足そうに細められる。
「、私の刀を手に取ってみろ」
「え・・・?」
横たわる衛善さんのすぐ隣に鎮座し続けた刀。私はそれを言われた通りに両手で掲げた。
鞘に収まっていても背筋が自然と伸びてしまう。試一刀流第一位の愛刀。まるで衛善さん本人の様な威厳ある雰囲気であり、同時に不思議と安心して握らせて貰えているような心強さを伴った。衛善さんに無言で促されるまま、私は緊張感と共にその刀身を鞘から引き抜く。惹き付けられる様な美しさを放つ太刀だった。でも、私の目は一か所に釘付けになる。
柄と刀身を繋ぐハバキから覗く、逆巻く竜の紋様。“覗き竜”と称されるこの名刀を、私は知識の上で知っている。
「―――小竜、景光」
「写しだがな・・・やはり、鑑定士の素質もあったか。つくづく惜しい逸材だ」
写し―――複製だとしても、これ程までに美しく存在感を放つ日本刀がそう何振もあるだろうか。鎌倉時代の名刀、小竜景光。その写し。まるで思いがけない場面での出会いに、私は思わず感嘆の息を零す。衛善さんはそんな私の様子を見て、穏やかに微笑んだ。
「私が試一刀流一位に就いた時より賜った、良い刀だ。免許皆伝の祝いとして持って行け」
今後こそ私の思考は完全に止まった。そして、幾秒かの時を置いて動き出す。納得出来ない。貰い受けるなんて、そんなこと出来る筈が無い。
「受け取れません」
「言っておくがお前の刀と交換だ、丸腰になる訳ではない」
「それでも!ずっと一緒だったんでしょう・・・!この刀だって、私よりも衛善さんを守りたい筈です・・・!」
確かに私は生まれた世界で、刀に宿る付喪神の文化に触れたことがある。でも、それを差し置いても今強く抗議したい。ずっと傍にいて、大事に磨かれてきたからこその美しさがこの刀には宿っている。持ち主の傍にいたいと、刀だって願う筈だ。
「お前は相変わらず、変わったことを言う」
衛善さんは優しい苦笑を浮かべたかと思えば、次の瞬間には重々しい厳しさで私を射抜いた。
「刀に意思があるとするならば尚の事、満足に動けぬ私より、お前の手に渡るべきだ。“私の刀”であれば、今執るべき最善は何か、当然理解する筈だ」
長く共に在るからこそ持ち主の意向を理解する筈だと、衛善さんの主張は揺らがない。私は震える手で刀身を鞘に納め、それを突き返すことも抱きかかえることも出来ずに俯いた。
侍としての終焉、そして浅ェ門としての脱落を悟り、長く傍にあった刀を手放そうという、衛善さんの覚悟を認めたくない。でも、認めざるを得ない。泣くな。強くそう念じる度に、涙腺が刺激され私の視界を歪ませていく。
「小竜景光、写し。長きに渡り罪を斬り、幾度も私の手で磨き上げてきた頼れる刀だ。戦に不慣れなその刀よりは、きっとお前の力になるだろう」
涙に暮れる私を宥めるような衛善さんの声は優しい。私は遂にその刀を自分の方へ引き寄せ、そのまま衛善さんの腹に覆い被さる様な形で咽び泣いた。
こんな筈じゃなかった。もっともっと、上手くやれた筈なのに。不甲斐ない。情けない。私は弱い。
「泣いている暇は無い筈だろう。顔を上げてよく聞け、。兄弟子として、お前に命じる」
厳しい言葉とは裏腹に、突っ伏した私の頭を撫でてくれる左手は優しい。ゆるゆると持ち上がった視界の先で、衛善さんはしっかりと私を見据え厳命した。
「一刻も早く此処を発ち、お前が為すべきことを為せ」
他の誰でもない、衛善さんが私にそう命じている。どんなに厳しい内容であっても、山田家の者として撥ねつけることは出来ない。背筋は自ずと伸び、涙を払い鼻水を啜り、私は酷い顔のまま正座の上に小竜景光の写しを掲げた。私の気持ちが固まったことを察し、衛善さんの雰囲気が和らぐ。
「後は頼んだぞ、山田浅ェ門」
こんなに光栄な言葉を、こんな状況で聞きたくはなかった。私は傍に立て掛けていた自分の刀を引き寄せ、衛善さんの左手に握らせる。どうかこのひとを守って。付き合いの短い持ち主からの、何にも代えがたい願いだ。
「絶対・・・絶対に、後で迎えに来ますから」
私の振り絞るような一言に対し、衛善さんは何も言わず微笑むばかりだった。
* * *
洞窟を出ると、静かな浜辺と瑠璃色の美しい空が私を出迎えた。涙も乾き切らず熱をもった目元に、夜明けを目前に控えた冷たい空気が吹き付ける。
しっかりしなくちゃ。熱い瞼を降ろし、私は自分の氣を練る。先生の氣は、衛善さんが目を覚ました頃から感じていた。遥か遠くから少しずつ近付いて来てくれる、霞色の氣。私からもその細い糸を辿り、先生もまた私の山吹色の糸を手繰り易い様、氣の練度を上げていく。
兄弟子の事実上の脱落を経て、私の心は極めてギリギリのところで中道を保っていた。自分への憤りはどうしたって消えない。でも、衛善さんが私に大切な刀を託し、背中を押してくれたことも無駄に出来ない。私はもう代行じゃあない。衛善さんに免許皆伝を直々に許され、後のことを託された山田浅ェ門なのだから。
地平線の向こう側から、何層にも渡っての夜明けが近付いて来る。先生の氣を辿って波打ち際を進む私の足が、止まった。まだ遠くて小さいけれど、確かに人影がある。この浜をずっと進んだ先に、待ち望んだひとの姿を見つける。
「・・・先生」
情けない声が零れ落ちた瞬間、先生がこちらに向かって駆けて来るのを目にして、私もふらつきながら走り出す。足が縺れても気にならない。どんどん速度が上がり、心拍数も上がっていく。些細なことで躓き転ぶと、波が私の膝へ打ち寄せた。冷たい。でも、澄んだ海水が私の不安を押し流して引いていくように思える。
視界は時を刻むごとに明るくなっていった。遠過ぎて小さかった先生の姿も、はっきりと認めることが出来る。私は痛みも構わず起き上がり、残りの距離ももどかしく全力で駆け抜けた。
「せん、せ」
「・・・!」
互いに勢いを落とさないままの邂逅は、先生からの強い抱擁という思いがけない形で静止した。これは、私の恋心とは関係無い。ただひたすらに、私を案じてくれていたことが伝わってくるような、誠実な体温だ。計画よりずっと時間がかかってしまったけれど、やっと会えた。安堵のあまり上陸から今までのことを泣きながら全部吐き出したい思いをぐっと堪えると同時に、優し過ぎる抱擁は解かれた。
「大事は無いか。その血は、君のものではない様だが・・・」
「私は、大丈夫です」
私の両肩をそっと掴んで気遣ってくれる先生の表情を見つめているだけで、擦り減った心が丸くなっていく。先生の声が、体温が、その優しさが、私を支えてくれる。縋り付いて子どもの様に泣き出したい衝動を、私は静かな波に乗せて遠くへと流した。
「状況を、報告しても良いですか」
「・・・ああ、そうだね」
私の方から半歩退くと、先生はすぐに状況を読んで合わせてくれる。甘えている時間は無い。ここまでの情報共有は必要なことだった。
「こちらは昨日担当罪人を規則違反により斬首した。以来、君を探しながら島の様子を調べていたよ。異形の蔓延る、悪夢の様な島だな。仙薬も存在するかもしれんと思える程、この島そのものが現実離れしている」
「私の死罪人は、森の中で人面の蝶に刺されたことで花と化し首を落としました。浜で衛善さんが陸郎太に襲われている現場に遭遇し、咄嗟に慶雲の首を投げつけ注意を逸らすことには成功しましたが・・・」
言葉が瞬間詰まる。臆病な自分を叱咤して、私は先生を真っ向から見上げた。
「衛善さんは・・・重傷で右腕を失いました」
流石に先生の表情が曇る。誰にとっても衛善さんの存在は大きい。言葉を震わせず、瞳を潤ませず、私は必要なことを言葉に変えていく。
「出来る限りの手当はしました。今は、近くの洞窟に隠れて貰っています」
「・・・そうか。大変だったね」
優しい声は間に合わなかった私を責めないどころか、労わってくれる。自己嫌悪を飲み込み、私は両の拳を握り締めた。
「責任を持って守るべきだとも考えました。でも、私は・・・」
「更に優先すべきことがある、か」
あんな状態の衛善さんを一人残して、私は先生と合流する道を選んだ。為すべきことをしろと、衛善さんに背中を押して貰ったこともある。そして二日目の朝を迎えようという今、もう時間が無いことを実感せざるを得ない。
「・・・先生、聞いてください。大事なことなんです」
私に良からぬ代償が降りかからないよう、必要以上の情報は受け付けない。先生の有難い思いは理解しているつもりだ。でも、今警告しなければ間違いなく後悔する。私がこの世界に来て最初に願い、今も最優先事項として掲げる未来改変。あの太陽の様な笑顔を喪う訳にはいかない。
「待て、」
先生は私の口元に触れるか触れないかの距離まで人差し指を掲げ、言葉を封じた。辺り一面が明るくなっていくことと対比のように、眉間を寄せ思い詰めた表情に影が差す。先生は意を決した様に、一呼吸の末に口を開いた。
「・・・典坐か」
瞬間、波の音が凪いだ。
先生の理解力の高さを、今日ほど痛感したことはないだろう。現実離れした島の危険性、既に死罪人達は何名かこの世におらず、浅ェ門もまた脱落者が出始めている状況。私から得た断片的な情報、山田家に迫る危機という単語。そして今の私の様子から、次に危険に晒されるであろう者が典坐だということに、先生は自力で辿り着いてしまった。
「典坐に、命の危機が迫っている。そうだね」
「・・・はい」
恐れていた日が迫る。私の絶望的な肯定に対し、先生が浮かべた表情。それは厳しさを伴いながらも、決して悲観一色のものではなかった。
「典坐の居場所なら、大まかに追える筈だ」
「え・・・」
「と同じさ。長く共に暮らした弟子のことなら、わかるよ」
氣は誰もが持って生まれる力だ。例え本人が意識していなくとも、先生なら典坐の氣を辿れる。小さな希望が生まれた。
海の向こう側から、遂に眩い太陽が昇り始める。東雲の瑠璃色が柔らかく溶けて、朝の光が私たちを包んでいく。
「急いだ方が良さそうだ。すぐに行けるか」
私が暗闇に迷う度、先生が明るい方向を指し示してくれる。いつだって、私の力になってくれる。私は感謝なんて言葉では表しきれない思いで下唇を噛み、大きく頷いて見せた。
「・・・はい、先生」
このひとの協力に報いたい。お願い、間に合って。
夜明けの波打ち際を、私たちは祈るような心地で駆け出した。
* * *
先生の案内で辿り着いた、砂浜と森の境界。地面には抉られたような窪みが散見され、草花は人が倒れ込み潰された塊が複数残る。派手な戦闘形跡、それは生い茂る植物に付着した血液が後押しとなり、私の心臓を締め付けた。
「これって・・・」
「あまり時間は経っていないようだ。近いな」
先生の冷静さによって何とか足元の感覚を保てる。島に上陸して以来、正史は想定外の方向に捻じ曲がり続けていた。
朱槿と典坐たちは既に遭遇している可能性が高い。でも少なくとも私が知る限り、この浜にいた段階では典坐が一度吹き飛ばされた後、隙を狙った猛攻により二人は森の中へ逃げ込む筈なのだ。こんなにも激しい攻防の跡が色濃く残るのはおかしい。またしても何かが正史からずれ始めているとしたら。既に典坐が何らかの致命傷を受けている可能性だってある。植物にべたりと付着した血が朱槿の物なら良いけれど、嫌な胸騒ぎがする。居ても立っても居られず森へと踏み込もうとしたその時だった。
「典坐!!」
森の薄暗さを劈く様な悲鳴が響き渡った。ヌルガイの声。それを理解した時には、私の足は既に氣を凝縮した状態で全力疾走を始めていた。それは先生も同じで、私たちは並走しながら一心に悲鳴の発信源を目指す。
やがてそれは、私の目に飛び込んできた。考えたくもなかった光景。それでも、本で何度も涙したが故に脳に焼き付いてしまった悪夢―――朱槿の一撃で腹から血を流し膝をつく、年下の兄弟子の姿。
そこから先、先生の動きは迷いが無かった。刀を鋭く投げつけ朱槿の首を遠くへ刎ね飛ばし、素早く拾い上げた愛刀で斬り落とした首を更に二つに断つ。力無く倒れ込んだ典坐を抱え、森の奥へ。私は呆然と取り残されるヌルガイを小脇に抱え、先生の後を追うことで手一杯だった。
こんなことある筈が無い。だって、本当の悲劇は先生が二人と合流してから起きる筈で。それまで、典坐はダメージはあれどこんな致命傷を負う予定じゃなかった筈なのに。死にまつわる運命はどこまでも私を嘲笑う。どうして。どうして。
暫くの距離を空けたところで、先生は典坐を降ろし応急処置に取り掛かる。私もそれに倣い足を止めれば、ヌルガイが依然として意識の無い典坐に飛び付いた。
「典坐っ・・・!しっかりしろ、典坐、典坐・・・!」
あんなに切望したヌルガイとの対面も、まるで画面の向こう側のように遠く感じてしまう。典坐が死んでしまったら、意味が無い。私はこの時の為に全てかけて来たのではなかったか。脇目を振らずもっと早くに先生と合流すべきだったのか。でも、衛善さんを見殺しにすることが正解だったとは考えたくもない。目の前がどんどん暗くなっていく。指先の感覚が薄まっていく。その時。
「、息をしろ。落ち着くんだ」
先生は必死に典坐の傷を塞ごうとしながら、私に向けて声だけを傾けた。びくりと肩を震わせ現実に呼び戻された心地で、私は言われた通り慌てて酸素を取り込む。肺が収縮して手が震えた。棒立ちになったまま息もせず現実逃避だなんて、何を考えているのか。
「脈と呼吸は失われていない。場所を更に遠くへ移す必要はあるが、まだ間に合う」
「・・・っ・・・典坐・・・」
まだ、間に合う。その言葉に引き寄せられる様に、私は先生の隣に膝をついた。
程度に関わらず、気絶する程に傷付き血を流す兄弟子の姿は堪える。でも、目を背けずよく観察すれば理解出来た。確かに失血はあるけれど、あの悪夢の様な光景とは違うということ。致命的ないくつもの大穴が胴や喉を貫通する、あの惨状とは明らかに違うということ。
典坐は、まだ助かる希望がある。暗く淀んだ視界が明るさを取り戻した。
「助けてくれっ・・・!」
ひしと横から飛びつかれ、私は目を丸くする。ヌルガイはポロポロと大粒の涙を零しながら懸命に訴えていた。
「典坐、オレを庇ってこんなことに・・・!お願いだ!何でもするよ、典坐を助けて・・・!」
打算を何ひとつ持たない純粋な涙が、私を在るべき姿に引き戻す。
私はこの子の涙を無くす為に。典坐の命を守る為に。そして先生の心を傷付けない為に此処へ来た。山田家で過ごす中で増えた望みも勿論あるけれど、私の大事な原点が今此処に揃っているという思いが、ヌルガイと触れ合うことで強く固まった。
感謝の気持ちと共に私はそっと綺麗な涙を拭い、その頭を出来る限り優しく撫でる。これまでの選択に迷いや悔いを抱いている場合ではない。この子をこれ以上悲しませてはいけない。典坐はまだ間に合う。先生に任せれば、きっと。
そして私には、別の役割がある。
「大丈夫、先生に任せて」
「センセイ・・・?」
「そう、この人に付いて行って。離れないで」
為すべきことを為せ。衛善さんの言葉が私の決意を更に強固なものにした。
「」
「すみませんでした、今は落ち着いてます。典坐とこの子のこと、お願いします」
私の決断をいち早く察した先生の表情は険しかったけれど、どうしたって一緒に行くことは出来ない。朱槿はもうじき追って来るだろう。私はそれを迎え撃つ。心ははっきりと決まっていた。
「えっ・・・一緒に逃げないのか?!」
「心配してくれてありがとう。ここは私が食い止めるから、先生の手伝いをよろしくね」
ああ、可愛いな。夢で何度も見た様に、雪合戦やおしくらまんじゅう、何でもないことで大笑いできる状況なら良かったとも思うけれど。追い詰められた今だからこそ、この子や典坐を守らなくてはと私の心は強く燃える。
「君ひとりを奴に立ち向かわせろと、本気で言っているのか」
「先生。この時の為に私がいるんですよ」
何の為に弟子入りをしたのか。何の為に今日までがあったのか。典坐の窮地すら読み解いた先生なら、私の言っていることを理解出来ない筈が無い。先生がどんなに優しいひとか、どんなに私を心配してくれているのか。それを理解しながら、こんな形で別離を強要する私は酷い弟子だろう。
先生、ごめんなさい。でも、今こそ恩を返す場面だとはっきりと感じる。私は努めて明るく、先生に笑いかけた。
「それに。先生にはこれまで内緒にしてましたが・・・実は今、目の前に三人目の推しが現れて、オタクとしてかなり滾ってるんです。我が推し揃い踏みって奴ですよ。精神力は攻撃力に直結するでしょう、そういう意味では今かなり絶好調です」
「オタク・・・?オシ・・・?」
ヌルガイが初めての単語に小首を傾げている。可愛くていつまでも眺めていたくなる。これきり会えなくなるなんて耐えられない。オタクは欲張りな生き物である。絶対、もう一度会う。三人で揃っている姿を必ずまた見たい。そうして自分自身を奮い立たせた。
「典坐が起きてくれたら更に完璧なんです。だから、後でまた三人の並びを拝ませてください」
「・・・」
劣勢は覚悟の上だ。それでも喰らい付いて見せる。決して捨て身な訳じゃない。ここまでの月日を、無駄にはしない。
「・・・先生の弟子を、信じてください」
先生は、遂に私の思いを汲んでくれた。典坐を担ぎ、ヌルガイを傍に引き寄せ、険しさと憂いを織り交ぜた表情で私を見る。先生の苦しい思いが伝わってくる様で胸が締め付けられた。
大丈夫、私は戦える。もう一度この三人と会う為なら、どこまでも戦える。
「・・・典坐の処置を終え次第戻る。それまで持ち堪えてくれ」
「はい、必ず」
そして三人は森の更に奥へと消えていった。私は見送りの最後まで笑えていただろうか。少なくとも背後を振り返った今、頬は凍て付いたように堅く、怒りは静かに燃えている。私の方からも道を引き返し始めてから間も無く、奴は姿を現した。
「あれ、違う人間だ。さっきの手負いは逃したのか・・・追跡する手間が増えた、面倒だなぁ」
天仙のひとり、“如イ元君”朱槿。女の姿で私の前に現れた。
怠そうに面倒と称するその殺戮が、どれだけの涙を生むと思っているのか。私は怒りを懸命に調整し中道へ持っていく。例えどんな強敵だとしても、一歩も退きはしない。短い髪が逆立つような憤りを抑え込み、私は低く声を絞り出した。
「・・・通さない。あんただけは、絶対に」
「人間のクセに生意気な口を利くんだね。お前嫌い。さっさと倒して次に行くよ」
その腕が触手の様に伸び、私の喉元を絞めようとうねり迫る。鋭く息を吸うと共に私はその一手を屈むことで回避し、抜刀と同時に素早く切り上げた。手だったものが四散し、朱槿が怪訝な顔をする。氣を防御に回したが故の素の斬撃、にも関わらずここまで叩けるとは。私自身、期待以上の切れ味に全ての血管が興奮で脈打つのを感じた。
小竜景光、写し。一切の誇張を抜きにして、頼りになる刀だ。洞窟で別れた兄弟子に心から感謝し、そして逃がした三人に思いを馳せる。決して負けられない。私を覆う氣が、一層の使命感と共に研ぎ澄まされていく。
当然瞬く間に朱槿の腕は再生した。苛立った様に草木を薙ぎ払い、こちらを足止めしながら奴が前に進もうとしていることを悟り、私の中で警鐘が鳴り響く。練った氣を足と刀の二つに分け、勢い良く懐へと飛び込み切りかかった。これには朱槿も咄嗟に後方へ飛び退く。
「だから、通さないって言ってんだろうが・・・!」
浅い。急所の丹田は流石に一撃では獲らせてくれないらしいが、横一閃に破れた服の隙間から覗く腹の傷はなかなか治る様子を見せない。今度は切先に私の氣を込めたのだ。
私は土属性、水属性である朱槿の相克―――五行の上では天敵だ。
「・・・お前、何者だ」
「私は山田浅ェ門」
相手は天仙、余裕なんて一欠片も無い。でも、戦える。条件は奴の相克、衛善さんから譲り受けた名刀を携え、そして何より先生が与えてくれた全てがこの身に宿っている。静かに、激しく。氣を最良の形に整え、私は宿敵に刃を向けた。
「お前を止める為に此処へ来た」
ここから先は何があっても通さない。大一番の火蓋は切られた。