水面は豊かに波打ち、櫂のひと掻きで容易く船を前進させる。まるで、島自体が手ぐすねを引いて私たちを待ち構えているかの様に。霧がかった景観、船上からでも微かに感じる芳しい花の香り。極楽浄土とは名ばかりの、命の実験場。気の遠くなるような年月、人間の愚かさを利用し搾取を続けた天仙たちがこの島の奥にいる。尤も、撒き餌に群がる贄の皮を被った侵略者の私だって、偽るという意味ではひとのことを言えないのだろうけれど。
「とんだ肩透かしであったな」
「はい?」
落胆と侮蔑に満ちた声だった。私は手縄で繋いだ相手を見上げる。“百本狩り”いがみの慶雲。もっととんでもなく規格外な大男を想像していたのだけれど、源嗣や威鈴を見慣れているせいか身長的にはそれ程の脅威を感じない。それよりも横幅の重厚感がなかなかの圧を伴った。武具に魅入られたからって身体に埋め込んで一体化させるとか、鎧の下を想像しただけで吐きそう。本で画眉丸が言っていた表現は正しい。間違いなく変態だ。ともあれ常軌を逸したこの死罪人は、失望半分嘲笑半分の目で私を蔑んでいた。
「御様御用とは、どれ程血に塗れ殺伐とした猛者共かと期待したが・・・慣れ合いの多き俗な連中の寄せ集めではないか」
ああ、母船から降りた時のことを言っているのかと合点がいった。
先生の読み通り、私たちは役人に名を呼ばれた順に小舟に乗り換え岸へと向かい、進行方向もバラバラの方角を指示される為、霧に阻まれすぐ他の組は見えなくなるような出だしを命じられた。
そんな中、比較的最初の方で呼ばれた典坐が母船を降りる寸前で足を止めたのだ。真っ直ぐな背中は動く様子が無い。何事かと思えば、彼は私と先生を振り返り、力強く拳を宙に掲げて見せた。何とも爽やかで眩しい、私の大好きな笑顔と共に。周りの目や立場など一切介さない激励だった。勿論典坐はすぐさま役人からの催促と小言を受け進路へ戻ったけれど、私が素早く掲げ返した拳も、苦笑交じりの先生の頷きも、きっと受け止めてくれたに違いない。船上にいたのが身内だけだったなら、全速力で駆け寄って抱擁を交わしていただろう、それ程の信頼と熱意を典坐なりに凝縮した決意表明が、慶雲の目には下らない慣れ合いと映ったらしい。
一向に構わない。理解して欲しいなどとは欠片も考えていないのだから。私は貼り付けたような笑みを浮かべて見せた。
「ええ。和気藹々とした健全な職場ですよー」
「首斬りを生業にして笑わせる。ときにその頭は、この世を憂いてのことか?」
「あはは、出家じゃないんですから。結構気に入っている髪型なので何も憂いていません」
まるで興味感心の無い相手に取り入ることは、酷く虚しい不快感を伴った。目が笑っていないと悟られないよう、ギリギリを攻めた表情を保持することも絶妙な消耗を感じる。桐馬はこのひと月、ずっとこんな気持ちだったのだろうか。それにしても無駄に口数の多い男だ。
「お喋りなら付き合いますけど、上陸したら走りながらでお願いします。時間が無いので」
「時間?」
「細かいことはお気になさらず。ああ、それと」
浜はもう目前に迫っていた。私は刀を引き抜き、慶雲に向かい切っ先を小さく振り下ろす。手縄が呆気なく儚くなった。厳めしい面の奥から、怪訝な目が私を見据える。
「・・・貴様、何を考えている」
「ありとあらゆることを」
突如として訪れた静寂を埋めるように、一際大きく波が飛沫を上げた。私は瞬間の真顔を潜め、口角を努めて明るく引き上げる。
「なーんて。両腕振れた方がどう考えても走り易いじゃないですか。私は森の中に早いところ拠点を構えて落ち着きたいんですよ。水場と寝床の確保は基本ですし、もたもたしてたら良い場所取られちゃいます」
呑気な口調でペラペラと述べるのは台本上の台詞で、私の頭の中とは切り離されたような心地だ。早く森に入りたい。一刻も早くこいつを画眉丸にぶつけたい。慶雲の無駄話で貴重な時間が浪費される未来を、私はまず修正する必要があるのだから。
先生と合流する前に私がしなくてはならないこと。それはいち早く“監視役としての役目”を終えて浜へ引き返し、衛善さんの助太刀に入る時間を捻出することだ。理性の無い陸郎太は恐らく正攻法では倒せない。正史通り、画眉丸の炎と佐切の氣の合わせ技でしか勝ち目は無いだろう。一対一どころか二対一でも分が悪過ぎる。討伐ないし撃退する必要はない、逃走の隙を生み出せればそれで良い。実直な衛善さんは罪人の監督放棄を拒むだろうけれど、相手との力量差を読み違えるひとではない筈だ。今は眠ったままでいるものの、空腹で癇癪を起こした奴の手に負えなさを目にすれば、きっとわかってくれる。先生と合流するのはそれからだ。
日が沈む前に落ち合うことが叶えば、明日起きる絶対に阻止すべきこと―――典坐と天仙の会敵も防げる。説明は難しくとも、衛善さんの協力を得られれば、より早く佐切たちの元へ駆けつけ、源嗣が陸郎太から負わされる致命傷も回避することが出来るだろう。そして仙汰の花化は更にそこから一日猶予がある。立ち向かうべき障壁の危険度は刻々と増していくけれど、落ち着いてひとつひとつ対処すればきっと道が拓ける。この物語の未来を書き換え、皆で生きて帰る。私はただ、その為だけに行動する。なかなか煮え切らない慶雲に対し、私はより露骨な言葉を使うことにした。
「貴方は殺戮と武具の斬れ味を楽しみたい。私は急ぎ森の中で安全確保をしつつ仙薬探しで手柄を取りたい。サクサク行きましょうよ。道中、どんな刃傷沙汰があったとしても・・・私は一切止めに入りませんから」
罪人同士の殺し合いなど最初から想定されたこと。むしろ血で血を洗う闘争の末に仙薬が差し出されることを御公儀は望んでいる。あるかどうかもわからない人智を超えた薬の為に、死んでも構わない者たちを魔境に放ち、無罪放免が叶うのはただ一人。悪趣味なことだが、武具を血に染めることに快感を覚えるこの男にとっては願ったり叶ったりといった展開だろう。慶雲がニタリと凶悪な笑みを浮かべた。
「免許皆伝ですらない小娘が目付役と聞いた時はどうなることかと思ったが・・・なかなか面白い」
「お褒めに預かり光栄です」
悪いけれど、私の救いたいひとたちの中にお前はいない。
「さあ、張り切って参りましょうか」
いざ、魑魅魍魎の蠢く閉鎖空間へ。私たちは船から飛び降りるなり森の中へと駆け出した。
* * *
がらんの画眉丸。その凄まじい戦闘力と殺戮本能を、母船に乗りこむにあたっての“人数調整”の際、私は目の当たりにした。本で何度も読んでいた残虐な場面だ。手縄で両手の自由が利かない状態で尚、敵の喉笛を食い千切り内臓を抉りだす忍としての圧倒的な強さを、私は己の目に焼き付けた。
正確には、その氣を、である。当然この時点での画眉丸は氣を意識してはいないのだけれど、彼の幼少より教え込まれた殺人術は、無意識下に氣を消費するものだった。この期に及んで倫理感などは気にしていられない。噴き出す血飛沫よりも、飛び散る臓器よりも、私は画眉丸の体表に薄らと浮かぶ氣を凝視し記憶に刻み込んだ。
特定の相手を探すなら氣を覚えることが助けになる。先生の教えをここで活かし、先に上陸した画眉丸の氣の残滓を追う。微弱な氣の残りかすであっても、幾千の殺しの業を背負う彼の氣は独特で追い易い。一刻も早く慶雲を画眉丸にぶつける。無駄口を叩く暇など与えず慶雲が敗れれば、その分だけ猶予が生まれる。画眉丸の氣を追い、森の中を全速力で駆け抜ける道中は順調だったのだ。ほんの数分前までは。
「・・・」
一体何故こんなことになったのか。私の目の前で力無く大木に寄り掛かる慶雲、その巨体の至る箇所から花が咲き乱れていた。
一瞬、だった。私の視界の端を目立つ大きさの蝶が二匹ほど横切ったと思えば、数秒後には慶雲の腕から花が噴き出した。何が起きているのか理解が追い付かない中、この男の背中越しに飛び去っていく蝶たちに人の顔が付いていることに気付き戦慄した。慶雲は戸惑いながら最初の花を腕の表面ごと削り落としたが、時は既に遅し。鎧の隙間を通して腹から、足から、背中から。無尽蔵に湧いて咲き誇る花々に、私の担当罪人は徐々に埋もれていった。
花という花を刈り取ろうと、慶雲が己の肌に刃を突き立てる度に血の滴が飛び、半狂乱になってからは自制心も効かないのか凄まじい血飛沫となって私の装束を汚した。瞬く間に生きる力を吸い上げられていく男を前に、私の頭の中で警鐘が鳴り響く。辛うじて自らも同じ轍を踏まぬ様周囲を警戒しながらも、やはり納得は出来ない。おかしい。この男はこの後遭遇する画眉丸によって返り討ちにあい命を終える筈なのに。私の混乱など知る由もなく、やがて慶雲は自我を手放し花と化した。二匹、否、私が目視出来ていなかっただけでもっといたのかもしれない。人面蝶に刺されることがいかに致命的か、目の前の男の惨状がそれを物語った。
片側の眼球からも大振りな花を咲かせ、残された口元は半開きで幸せそうな弧を描く。いがみの慶雲の死因が本筋と大幅に異なるという現実に、私は必死で冷静さを繋ぎ止めた。しっかりしろ。死に方が変化したところでこの男が死ぬという結論は変わらない。私の担当罪人は死んだ。首を斬り落とせば私は表向きの任務が完了し、いよいよ自由に動き回れる。大丈夫、まだ充分に誤差の範囲内だ。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
「・・・っさん?!」
「佐切・・・」
本当にあと少しの距離まで迫っていたのだろう。花に侵された慶雲の断末魔に引き寄せられたのか、茂みの向こうから佐切が姿を現した。
「その者は・・・いがみの慶雲」
「・・・だった、花、かな」
「一体何が・・・さんも血だらけじゃないですか・・・!」
「これは殆ど返り血だから平気。心配ありがとね」
上陸からほんの数分で担当罪人が花を噴き出す屍となり、装束が返り血で酷い有り様だというのに、私は徐々に平静を取り戻しつつあった。佐切が私の分まで動揺してくれている為か、それとも結果的には目的のふたりと会えた為か。
「おヌシの狙いはワシか」
手縄を律儀に携えたまま佐切の隣に立つ画眉丸を見遣る。彼は私を注意深く見据えていた。
「画眉丸、あなた何を言って・・・」
「事実だ。森の中を一直線に、ワシを追って此処まで来た。この者かとも思ったが、ずっと尾行してきた気配はおヌシの物で間違いない」
今はまだ氣の概念を理解していなくとも、忍として追跡者を感知し、更にはそれが慶雲ではなく私だと即座に見抜く。流石としか言いようが無い。地獄楽の読者として、主人公と遂に対面を果たせたことは感動に近い思いを伴った。でもそれは、今表に出すべきではない感情であり、すぐさま弁解しなくては余計な時間を取られかねない。私は頭を切り替えた。両手を上げて一歩退き、敵意が無いことを示す。
「ごめん、今はそこについて掘り下げる時間が無いし、君に危害を加えるつもりは一切無いから勘弁して欲しい」
「そうです。さんがあなたを狙うだなんて、そんなこと・・・」
佐切の切実な弁明が効いたのか、それとも脳内で奥さんの優しい回想―――ひとにはそれぞれ話せない事情もあるものです、とか―――が働いたのか、画眉丸は数秒黙った末に溜息を吐き出した。
「・・・わかった」
「ありがとう。手短に用件だけ話すよ。佐切、こうなりたくなければ虫に注意して、特に人面の蝶」
「っはい・・・!」
私が画眉丸を追ったのはいち早く慶雲を始末して貰う狙いもあったけれど、別の形で叶ってしまった今、私はもうひとつの目的に照準を定める。
「それから、船で石隠れ衆の追加投入の話を聞いた」
「・・・何?」
正史なら期聖が告げる内容を、画眉丸に伝えること。石隠れの忍達がこの島へやって来る。この情報を得なければ、時間が無いことに焦った画眉丸が佐切に襲いかかるという出来事が発生しない。
可愛い姉弟子に対する罪悪感もある。しかし、これは二人が前へ進む為に、強さと弱さの共生を受け入れる第一歩として、必要不可欠な対決でもある筈なのだ。期聖の穴埋めで入れたのならこの役割は決して欠かせないと思っていた。慶雲の死、画眉丸への石隠れ衆追加投入の知らせ。必要なことをまずひとつ成したことで私は人知れず安堵の息を吐く。
「御公儀はそれだけ仙薬探しに本気ってこと。もたもたしてたら御免状だって無効になるかも」
画眉丸の気配が変わるのを密かに感じながらも、私は振り返りざまに刀を振り抜く。初めての処刑執行は呆気なく終わり、重量のある慶雲の首がごろりと転がり落ちた。尤も、花になって幸せな表情を浮かべた屍は果たして浅ェ門が斬首すべき対象と呼べるのか。この混沌渦巻く島の中で正しいことはわからない。わからなくて良い。私は大きめの風呂敷で慶雲の首を包み込み、二人に背を向けたまま立ち上がる。
「どう動くかは君たち次第。それじゃあ、私はもう行くから」
「さん・・・!」
佐切の顔は振り返れなかった。私を心配する、心優しい歳下の姉弟子。ごめんね、佐切。貴女がこの島で見舞われる数々の困難を知りながら私は何も言ってあげられない。ただ、それは佐切なら乗り越えられると信じているから。佐切なら大丈夫。私は、私の成すべきことをする。慶雲の首は重くて、私は舌打ちしながら走る速度を上げた。
* * *
計算外に慶雲を花化で死なせてしまったけれど、上陸からかなり急がせ森を駆けた甲斐あって、かなり時間を短縮出来た。無駄口を叩く暇も与えず、更に言うなら人面蝶に刺されたことの自滅故に画眉丸との戦闘時間すら消費せずに済み、彼らに必要な情報も渡せたのだから、結果的には私の思惑以上の成果と呼べるだろう。一秒でも早く、一ミリでも前へ。私は浜に向かって走る。
どこの組がどの浜を目指し母船を出たのかは知らされていない。しかし、衛善さんだけは別だった。陸郎太は並外れた巨体故に小舟を三隻使っての大移送だ。島の正面とされる最も開けた浜へ、最後に送り込まれるだろうことは簡単に察せた。氣を辿り進路を探る必要は無い。ただひたすら目的地へ向かいひた走る。大丈夫。時間は相当に削り落として今がある。きっと間に合う。きっと、きっと。
深く生い茂る森を抜け、視界が開けたその時。私の目に映ったのは、目的の浜辺で大木に繋がれた三隻の小舟だった。誰もおらず、ただ波に揺蕩うそれが、急速に私の不安を駆り立てた。
「・・・嘘」
切り替えろ。正史通りなら衛善さんの死体がこの木に叩き付けられている筈。それが無いということは衛善さんは無事で、時間はこんなにも前倒したのだから、まだそう遠くへは行っていない。
地を抉るような破壊音と、禍々しい氣のうねりを知覚したのはちょうどその時だった。私は弾かれたように駆け出す。浜の裏手、崖のように聳え立つ大岩の向こう側。大丈夫。間に合う。きっと間に合う。
不意に、私の頭の中に過ぎった現代のカオス理論。蝶の羽ばたきが、地球の裏側で竜巻を起こす。
先生は未来を知る私の言動が、理を捻じ曲げる代償として私自身に何か不調を起こすのではないかと心配してくれたけれど。警戒すべきは、それで合っていたんだろうか。
私が山田家に入った三年で、佐切と仙汰は正史より結束力を強めお互いの心根に素直になったし、源嗣は女が劣るという考えを薄め始めるという変化が起きた。この改変は嬉しいものだと思い込んでいたけれど、物語の揺らぎは果たして楽観視して良いものだったんだろうか。
本来なら御役目に参加する筈の期聖に降りて貰い、私が組み込まれることで更に物語の核が揺らいだとしたら。その結果が、慶雲の大幅に異なった死因だとしたら。他にもまだ、正史からかけ離れていく事象も、あるのではないかと。
浜の裏手に周り込んだ私の目に、衛善さんの姿が映る。疲弊しているけど生きてる。間に合った。心底安堵した次の瞬間、私の死角から伸びてきた巨大な腕が兄弟子の身体を鷲掴みにした。垂れ下がった手から、衛善さんの刀が抜け落ちる。うそ。目の前が暗くなりかけるのを、気力で耐え抜いた。
身体中の全細胞が、私に激しい警告を発している。頭で考えるより先に、私は足に集めた氣を使い全力で砂浜を蹴った。力で敵わないなんてことはわかってる。刀がまともに通らない身体だということも承知している。でも、このまま衛善さんを握り潰させる訳にはいかない。私は全身全霊の力で、腕に抱えた重いものを陸郎太の視界の端を通る軌道で放り投げた。
「これでも・・・っ食ってろ!!」
空腹の陸郎太にとって、見るからに細身の衛善さんか、重量感に満ちた慶雲の首か、どちらが食欲をそそるかは一種の賭けだったけれど。風呂敷が大量に吸った血の匂いが味方をしたようで、陸郎太の注意が宙を舞う慶雲の首へと逸れ、衛善さんを人形のように握る手が浜へと降りた。歓喜と安堵、そして早く首を拾いに向かえという期待。それは、思わぬ形で裏切られた。
確かに陸郎太は衛善さんを解放した。その際の、些細な弾み。慶雲の首という新しい食べ物を欲し駆け出そうという助走に、子どもが楽し気に気合いをいれたのと同じような、軽い腕振り。ぶん、と風を切ったその刹那。
「・・・っ衛善さん!!」
兄弟子の右腕が、いとも簡単に引き千切れて宙を舞った。