大丈夫。きっと私、何とかします。先生に導いて貰えたこと、無駄にしません。先のことを知っている身として、最善を尽くします。私の一挙一動に、皆の命がかかってる。この物語の未来は、どんなことをしてでも私が必ず変えてみせます。ただの一読者だった私を招き入れて、優しく包んでくれた世界だから。先生の幸せと笑顔を守る為なら、私何でもします。不出来な妹弟子ですが、どうか成功を祈ってください。

しっかりと手を合わせ、目の前の小さなお墓に眠るひとへ決意を語り掛ける。不安は勿論ある。でも、ここまで来たからには必ず大願を果たすという信念も燃えている。私はこの世界で唯一、全ての秘密を曝け出せる故人へと微笑みかけた。
鉄心さん。直接お会いしたことは無いから顔もわからない、でも先生を介して強い繋がりを感じる、特別な兄弟子。何をおいても先生の幸福を最優先したいという私の気持ちを、きっと理屈抜きに理解してくれるひと。

静かな足音が近付いてくるのを感じ、私は顔を上げる。隻眼の頼れる兄弟子が、仏花を手に佇んでいた。

「・・・先客か」
「すみません、退きますね」
「気遣いは無用だ、其処にいると良い」

出立前日の今日、島行きの面々は一日自由を許されていて、私は朝の鍛錬を終えた後道場ではなく此処を訪れた。正装でも稽古着でもない、先生に用意して貰った着物のひとつに羽織を合わせただけの軽装。衛善さんも着流しに上掛けという珍しい装いで、若干落ち着かない。そうだ。今この場に衛善さんがいるからこその、とっておきの話がある。

「鉄心さん聞いて下さい。この髪を整えて下さったの、実は衛善さんなんですよ」

私はお墓に向けて短い髪を指してから、隣に立つ凄いひとを褒め称えた。そう、羅芋とのひと悶着の末きっちりと絞られたその後で。とんでもなく独創的な髪型で帰る羽目になった私を引き止め整えてくれたのは、他ならぬ衛善さんなのだ。

佐切の三つの節句のお祝い時、見知らぬ男に髪を触られることを泣いて嫌がった可愛いあの子の為に、当時からお兄さんとして慕われていた衛善さんが髪梳きと髪結いの技を習得した・・・なんてファン垂涎の設定、ただの読者だった頃は考えもしなかったものだから、私は多大なる興奮で転がり回りたいのを懸命にじっと耐え、短く丁寧に整えられていく頭周りの命運を衛善さんに託したのだった。この件については正直もっともっと掘り下げたいのだけれど、この場では割愛しよう。

「後先考えずばっさり切り過ぎて、どう頑張っても修復不能だから傘被って島に行くか、いっそ坊主にするしかない!なんて腹を括ってたのに、お見事な仕上がりですよね。刀を誰より美しく磨ける手で、格好悪い後始末をさせてしまったのが心苦しくはあったんですけど」
「そのへんで止めておけ、鉄心も困るだろう」

放っておけばどこまでも止まらない私の話を、静かに断つ。馴染みの無い姿でも、その貫禄はまるで薄れない。私が飾った花の隣に自分の花束を手向けながら、衛善さんがこちらを見ないまま口を開いた。

「一人でも来ているのだな」
「はい。先生と一緒の時も勿論ありますけど」

初めて先生に連れられ紹介を受けたあの日から、約二年。私は度々此処を訪れ、鉄心さんに近況を伝えていた。先生との都合が合わなければ一人で来ることも儘ある。この地に眠る兄弟子と一対一で向き合う時間は、秘密多き私が何もかも偽らずに済む貴重なものだった。鉄心さんは私にとって、胸中をすべて明け渡せる聞き上手。尤も、一方的に訳のわからないことばかりを捲し立てる私なので、鉄心さんからは迷惑に思われている可能性も十分あり得るのだけれど。

「ここで一人で手を合わせて、鉄心さんに心の声を聞いて貰えると・・・気持ちが整うような、頭の中がすっきりするような、そんな気がするんです」
「では、邪魔をしてしまったな」
「いえいえ!結構時間も経ってたんですよ。明日の出発に向けて、沢山お話聞いて貰ったところでした」

本当は、先生と一緒に来ることも少し考えたのだけれど。先生こそ、出立前日の今日は鉄心さんと二人で積もる話もあるだろうと考え直した。結果的に私も鉄心さんに胸の内を預けて心を整えられたのだから、別々に来て正解だったと思える。

「乱暴者だが、存外話好きな奴でもあった。これからも顔を見せてやってくれ」

これからも。衛善さんが何気なく発したその言葉で、私は必要以上の戸惑いを強いられた。何でもない顔をして、ただ一声はいと返せれば良いのに。曖昧な笑顔で濁すことしか出来ない私を、衛善さんはそれ以上追及しなかった。

「私は随分と久方ぶりだ。すまないな、鉄心」

私の隣に屈み込み、大きな手を合わせる。真剣に悼む横顔からは、鉄心さんに心を寄せる誠実さが伺えた。

「二人の弟子と共に、士遠も島での任に就く。不測の事態も起こるだろう、未知数の危険が伴う過酷な御役目だ。どうか山田家の一員として成功を祈って欲しい」

衛善さんは、先生と鉄心さんの始まりから別離までを知るひとだ。もう随分前から試一刀流一位の座に就き、人々の移り変わりや首斬りの業を見て来たひと。山田家の一員と呼ぶということは、衛善さんにとってもまた、鉄心さんは袂を分かった今も弟弟子のままなのだろう。それが知れただけでも、ほんの少し心が安らいだような気がした。

「士遠と典坐を、そしてを見守ってくれ。頼んだぞ、鉄心」

後輩たちを思う、厳しさの中に慈愛を宿したその横顔を目の当たりにした刹那、脳裏を覆う赤黒い血痕が私の心拍数を上げた。足りない。私たちだけじゃ、足りない。

「・・・衛善さんもですよ」

余計なことを言う訳にはいかなかった。あらゆる危険性に備え、先見の明は他言無用という先生との約束は、いつだって私の胸の中にある。でも、今この瞬間、どうしても黙ってはいられなかった。私は咄嗟に誤魔化す為、衛善さんの視線から逃れるように頭を下げる。

「鉄心さん、私からもお願いします。先生と典坐は勿論ですけど、衛善さんも。佐切と仙汰、源嗣、付知、あと桐馬も。皆を見守ってください、何があっても立ち向かえるように、力を貸してください」

誰より冷静で、山田家にとって必要な存在。このひとが、成す術も無く半身を押し潰されて命を終えるだなんて。到底、受け入れられる筈もない。衛善さんだけじゃない。誰にも死んで欲しくない。皆の生存率を上げられるなら何にだって縋る。神にも仏にも、死した魂にも。

その時だった。ひんやりとした空気が私と衛善さんの間を吹き抜け、落ち葉が一斉に賑やかな音を立てたと思えば、すぐに静まり返った。現実味のない、夢の中のような出来事。ただ、私たちは顔を見合わせた後、恐怖ではなく穏やかな表情で頷き合える。

「・・・承った、と言っているのではないか」
「だったら、心強いです」

偶然かもしれない。でも、私の厚かましいお願いに対して、仕方なさそうに吐かれた鉄心さんの溜息だとも思えてしまう。可能な限り前向きなもしもを思い描き、私と衛善さんは同時に立ち上がった。

「少し時間はあるか」
「はい、大丈夫です」
「ならば一度戻り、刀を持って道場へ来ると良い」

衛善さんの言葉の意味を察し、私は大きな期待にはっと瞬く。

「賜ったばかりとは承知しているが、一度研ぎ直した方が扱い易い筈だ。預かろう」
「・・・!ありがとうございます、助かります・・・!」

幕府から賜った刀は無銘の刀だった。勿論それでも十分に有難い話だけど、当然まだ手に馴染まない、どの程度鍛えられた鋼かもわからない、名も知らぬ刀工が銘を刻まず生み出した一振り。直前での代理参入、更には代行免許しか持たない私には相応の物だろうけれど、衛善さんに磨いて貰えるならそれだけで縁起物だ。嬉しさで踵を返しかけた足を止め、私はもう一度墓前に屈み手を合わせる。

「それじゃあ失礼します、鉄心さん。あとで、先生が会いに来ますからね」

私は、また此処に戻って来れるのだろうか。事情を隠す必要の無い鉄心さんに対して、私は正直な言葉を選ぶことを決める。
ごめんなさい。また来ますとは言えません。でも、どうか私たちを見守って下さい。

「行って参ります」

丁寧に頭を下げ、私は立ち上がり歩き出す。穏やかな追い風で足取りは軽かった。

「ところで、
「はい?」
「先ほど、十禾の名前が抜けていたな」

空白がしっかりと三秒ほど。

「・・・あっ」

決してどうでも良いと思っていた訳ではないけれど、私の中で十禾さんは最初から追加組の様な位置付けだったものだから―――なんて、不自然な言い訳は出来る筈もなく、情けない声が零れ落ちる。衛善さんが珍しく肩を揺らして小さく笑った。



* * *



浅ェ門の装束と、衛善さんに磨き直して貰った刀。そして、先生に選んで貰った裏地で誂えた羽織。出立前最後の『対話の時間』を迎えるにあたり、気合いの入り過ぎた一式で待つ私は、先生に笑われてしまうだろうか。そうして若干の不安を抱えて待つことほんの僅か。

「・・・先生」
「おや、気が合うな」

現れた先生もまた、夜遅い時間にも関わらず正装を身に纏っていた。気崩すことのない胸元に、弔い鈴は見当たらない。現実だ。
幾度も本を通して眺めていたその姿は、この世界に来てから数え切れないほど直接目にしている筈なのに。今夜改めて目の当たりにすることで、私は惚れ惚れと頬を緩ませた。

「先生。やっぱりその恰好、とても素敵です」
「何だい、突然だな」
「オタクは推しの良さを何度だって噛み締める生き物なので。ご容赦ください」
「・・・も似合っているよ。髪が短くなったこと、結果的には正解だったかもしれないな」

これがもし意地悪な人だったら、チクリと刺された皮肉だと受け止めることも出来るのに。先生の場合、本当に悪意無く褒めてくれていることが伝わってくるものだから、私はそわそわと目を泳がせながら困ってしまう。
それでも今夜は、あまり時間を無駄に出来ない。私と向かい合うように正座した先生もまた、同じ認識でいてくれた様だった。

「さて。いよいよ、明日だな」
「はい」

この部屋で幾晩もこうして向き合い対話を繰り返してきたけれど、それも今夜で最後になる。三年の月日は濃密であると同時に、瞬く間に過ぎ行く時間だったとも思う。私は改めて背筋を伸ばした。

「上陸後は死罪人と執行人の二人組で行動し仙薬を探すこと、規則違反や不慮の事故で罪人が亡くなった場合はその首を持って浅ェ門のみ帰還を許される。ここまでは命令通りですが・・・」
「我々はその掟を順守しつつ、可能な限り早く合流する必要がある、か」

島の攻略に向けて、先生に氣についての理解を深めて貰うこと、それはまず叶ったと考えて良いだろう。知識だけしか持たない貧弱な私があの戦場で立ち回れるだけの力を付けること、それも先生のお陰で可能な水準に達したと信じたい。
でも、数々の危険が蠢くあの島で、離散したままではあらゆることが立ち行かなくなる。相談できない、協力し合えない、助けるべきを助けに行けない。それでは、意味が無い。私と先生はなるべく早い段階で行動を共にする必要があった。

「上陸する岸を示し合わせて選ぶことは出来ない。土地勘の無い島で落ち合うのは簡単ではないだろうが・・・」
「あの、先生」

難しいことは百も承知。でも、可能性があるなら何だって試したい。

「私たち、お互いの氣を頼りに探し合うことは出来ませんか・・・?」

未知の島で別々に上陸した相手を、連絡手段も無しに探し当てる方法。それは、私たちを覆う生命の力でどうにかならないものかと。突拍子もないと困らせてしまうことも覚悟の上で口にした、その策は。

「驚いたな。私も、同じことを考えていたよ」
「えっ・・・?!」

思ってもみなかった同意を引き当て、私の鼓動を高鳴らせた。こんな大事なことで先生と通じ合えるだなんて、奇跡じゃないだろうか。

「氣は五行に則り分類されるが、同属性であっても微妙な差異はある様だ。氣が一人に一つと仮定するならば、まったく同じ氣は二つ存在しないと考えて良いだろう」
「じゃあ、遠くにいても目的の氣を辿れば・・・!」
「物理的な距離が大き過ぎる内は流石に厳しいだろうが、ある程度近付くことさえ叶えば、恐らく」

一定の距離まで近付ければ、お互いの氣を辿って合流が出来る。凄い、凄い、凄い。こうだったら良いのにとぼんやり考えていた私なんかと違って、先生の説明はわかり易くてすんなりと腑に落ちる。流石は先生だ。希望が一気に湧き上がるような衝動で、私の内側は喜びで満ちた。

「平時に我々が纏う氣はごく微弱なものだ。感知出来た氣がどの者を示すか、馴染みの無い者であれば正確な判別は難しいだろうが・・・氣に関して共に学びを深めてきた私となら、分かり合える筈だ」

一人にひとつずつの生命力なら、どんなに微弱なものでもお互いを探し合える。ずっと知識を蓄え続けてきた先生と私だからこそ、お互いを見つけられる。こうして対話を重ね続けたことは、無駄じゃなかった。私が胸にじんと込み上げる熱い何かを飲み下すと同時に、先生が静かに立ち上がった。

「良い機会だ。今、出来る限り純度の高い状態の氣を、互いにしっかり覚えておこう」
「はい、先生」

座っていた時よりも数歩近くで向かい合い、両の足裏でしっかりと床を捉える。足の開きは腰幅に、丹田を中心に据えた流れを意識しながら呼吸を深く、目を閉じる。

「心を整えよう。動と静の狭間、怒りと平静の中間。身体中を巡る血流や細胞のひとつひとつまで、広く丁寧に意識するんだ」

先生の静謐な声に導かれ、心と意識を研ぎ澄ます。身体中を巡る何かに己を重ねながら、私はゆっくりと目を開けた。

「わかるか、私の氣が」
「はい、はっきりと」

先生の身体を包み流れる、水のようなもの。先生が波と呼ぶ理由も頷ける。淡く柔らかな霞色。一番整った状態の、先生の氣。決して初めて触れた訳ではない筈のそれが、今この瞬間何よりも新鮮な輝きに満ちている。私は瞬きも惜しむ心地で、食い入るように見入った。

「これまでぼんやりと感じてましたけど・・・今改めて、全部焼き付けます。何があっても忘れません。先生が島のどこにいたって、必ず探して飛んでいきます」
「それは頼もしい限りだな」

色、匂い、温度、雰囲気。しっかりと意識すれば、個性的で見分けのつくものだ。何ひとつ見落とすまい、明日から先何ひとつ見間違えまいと凝視するその刹那、私ははっと我に返る。
私がこうして余さず観察出来ているのは、先生が自分の氣を見易く整えてくれているから。今の私は、先生と同じ状態と呼べるだろうか。

「あの、先生。私の氣、今ちゃんと形になっていますか?はっきり感じられていますかね・・・?」
「ああ、問題無いよ。綺麗に形を保っている。それに」

一度言葉を切った末に、先生の笑みが一層柔らかさを増した。

「前にも話したが・・・の氣は特徴的な色をしているからね」

言われたことを咀嚼するのに、瞬きひとつ分の時間をかけて。私は込み上げる照れ臭さと小さな嬉しさで頬を掻いた。先生の氣はこんなにもはっきりと認識出来るのに、私自身が発する氣は湯気の様にどこか朧気だ。

「自分じゃよくわからないですけど・・・本当に、私を包んでいるのは山吹色の氣なんですね」
「ああ、そうだよ。君の羽織の裏地と同じ、綺麗な色だ」
「ふふ。ちなみに、先生の氣は霞色に見えます。淡くて優しい霞色」
「成程。確かに自分の色はわからないものだな」

自分のことがわからないのは先生も同じ。そっと齎された安心感に思わずはにかみながら、私は脳裏に浮かんだ漠然としたイメージに色を乗せていく。

広い神仙郷の中、何処にいるかもわからない先生を探す視界は普通の景色とは違っていて。何もかも色褪せた世界に、霞色の細い何かを見つける。はじめはゆらゆらと揺らめいて、今にも消え入りそうで心許なくて。でも、辿っていく度に確かなものになっていく。私を導く、一本の線。先生へ繋がる、大事なもの。私はそれを握って、決して離さない。

まるで、運命の赤い糸の様だと。この期に及んでそんなことを夢見てしまう、未熟な私。

「霞色の糸、必ず手繰り寄せます」

ほとんど無意識に零れ落ちた微かな囁き。先生はそれを、聞き流しはしなかった。

「ほう。氣を糸に例えるとは、なかなか洒落ているな」
「っ・・・そ、そうですかね・・・あはは」
「いや、神経をより細く、探索はより丁寧に。糸を手繰るようにとは、特定の氣を辿るには適した表現かもしれないな」

感心した様に頷く先生に、運命の赤い糸の説明は出来ない。大事な局面を前に、不必要な恋心を未だに捨て切れていないだなんて、情けないことは言えない。なのに、先生は私の妄言を真正面から受け止めてくれる。もしも私から山吹色の糸が伸びていたとして。それ以上のことなんて、望んで良い筈が無いのに。

「力強く、鮮やかな山吹色の糸。他には無い、だけの氣だ。大丈夫、必ず手繰り寄せて君を“見つける”よ」

先生は私が願った以上の、奇跡のような言葉をくれる。
不意を突かれた直撃に、私の時は完全に止まった。

「む。今のは外さなかったと思ったが・・・」
「あっ・・・すみません、見つける、ですよね!いやあ、わかりやすい冗談だったのに不覚でした」

違う。今は島でどうやって合流するかの話をしているのだから。先生は私の氣を頼りに来てくれる。糸は私の口から転がり出た下らない例え話なのに。
私だけの糸を手繰って、必ず見つけてくれるだなんて。それは、特別なひとから告げられるにはあまりに強過ぎる衝撃を伴った。
駄目だ。先生は私の推しなのだから。私は、推しから特大のサービスを貰ってはしゃいでいるだけ。それだけだ。それだけで、押し留めなきゃいけない。目に関する冗談をスルーしているようではオタク失格だ。しっかりしなくちゃ。

「・・・
「はい」
「先日は衛善さんもいた手前、口に出せなかったのだが」

しっかり、しなくちゃ。
なのに先生は、私への思いやりをまるで隠さない表情で、普段以上に優しく言葉を発する。

「羅芋に対しあんなにも苛烈な怒りを示したのは、その羽織の裏地、山吹色を貶められたからだろう」
「・・・はい」
「君の師として、過ぎた激情はいただけないと叱る必要があったが・・・私個人としては、嬉しく思ったよ」

あの日は先生だって、色々厳しくお説教していたのに。どうして、このタイミングで。どうして今夜、そんなにも優しい本音を、堪らなく柔らかな笑顔で口にするの。

「ありがとう、。私が示した、君を象る特別な色。その尊厳を守ってくれたのだね」

―――今の私に、こんなにも幸せな胸の高鳴りは、どう考えてもいらないものなのに。
私は理性の崖っぷちで、気力の限り踏ん張った。

「・・・反則です」
「反則?」
「明日から、命懸けの作戦を決行しなきゃいけなくて。今はその前夜で、これまでの中で一番冷静に色んなことを頭の中で整理しなきゃいけない夜なのに」

もう氣は正しく発せていないだろう。師匠に向けるには生意気過ぎる言動だってこともわかってる。でも、これは私に今出来る精一杯の抵抗なのだ。

「先生が優しいのはよくわかってます、でもっ・・・よりにもよって今夜そんなに優しく全肯定されたら、色々っ!キャパオーバーしちゃうじゃないですか・・・!!わ、私っ、今喜んでる暇なんて絶対無いくらい、明日に向けて気を張っていなくちゃいけないのに・・・!」

今夜だけはこれ以上甘やかされたくない。我ながら酷い拗らせ方をしていることは重々承知しているけれど、明日からの厳しい現実を考えれば必要な線引きの筈だ。

私には命を引き換えにしてでも遂げたい使命がある。典坐を生かして先生の心を守る。ヌルガイのことも殺させない。山田家皆の命も、あの化物の巣窟でひとりだって無駄に散らせない。余所見をしている余裕は欠片も無い。恋も試練も、ふたつは抱えられない。だからこの恋心は封印すると、あの夜の夢の中で確かに決めたのだから。

「きゃぱ・・・許容量超過といったところか」
「仰る通りですよ・・・!理解力が高過ぎるのも相変わらず有難いし凄過ぎますけど・・・!」

先生は顎に手を当てながら横文字を即翻訳し、ほんの数秒宙を眺めて思案したかと思えば、普段通りの朗らかな笑みを浮かべたまま私の顔を覗き込んだ。

「鼻血は出ていないかい」
「平気です・・・」
「私の氣の形状は記憶から飛んでいないかい」
「勿論です・・・」
「なら、問題無いな」

問題無いとはこれ如何に。明日からどんな過酷さが待っているとお思いか。私の更なる反論は、不意にぽんと頭に手を乗せられたことで泡の様にかき消えた。
あまりの穏やかさに触れて、私の目は丸くなる。

。私はね、御役目に関わらず大事な夜には正装に腕を通すんだ」
「え・・・?」
「すまない。先程は気が合うなどと言ってしまったが・・・私は己に圧をかける為にこれを着た訳ではないのだよ。これまでを振り返り、ここから先の道行がより良い旅路であることを祈願する。どちらかと言えば、己をより穏やかな状態に持っていく為の装いか」

先生がそんなことを思っていただなんて、考えもしなかった。優しく揺られるような説い聞かせを受け、先生の声が柔らかな分だけ、私の頑なな鎧にひびが入っていく。

「そんなことしなくたって、先生はいつも穏やかじゃないですか」
「それはどうかな・・・おっと。今は君の話だろう、

少しずつ、少しずつ、強がりを優しく取り上げられていく。気を張っていなくてはいけない、その理由をそっと目隠しの様に塞がれて、私の言い分が詰まった砂の器に穴が空く。
サラサラと零れ落ちる、私の虚勢。明日を目前にして芽を出すべきじゃない、不安の数々。私が失敗すれば、典坐が死んでしまう。絶対に悲しませたくないひとを、取り返しが付かないほど深く悲しませてしまう。声に出せない本音と、先生に縋り付いてしまいたい弱さが綯い交ぜになって私の中で荒れ狂う。

「精神統一も確かに大事だが、心が追い込まれていては明るい展望は描けない。違うかな」

先生の言うことは、理解できる。でも、怖い。努力が足りていなかったら。備えが足りていなかったら。私の三年が無駄だったらと思うと、怖くて堪らなくなる。

「私、本当に余所見してる暇が無くて。先生に無条件で肯定されて喜んでるようじゃ、駄目な筈で」
「何も駄目なんかじゃないさ。君はこれまでの三年間、本当によく頑張った」

降って来た即答に、今度こそ私は身を隠す鎧を砕かれて。同時に、あらゆる重さから解き放たれる。
先生は、慈しむような温かさで私を真っ直ぐ見下ろしてくれていた。

「君を一番近くで見守ってきた身として、今夜は出来る限りの肯定くらいはさせて欲しい」

優しい感触。優しい笑顔。優しい声。先生のすべてが私のこれまでを讃え、認めてくれる。明日を前に軋みを上げていた芯の閊えが、陽光に溶けていくような音がした。

「今夜の君に必要なのは、重圧を高めることよりも適正な評価で自信を付けることだと思う。の師として、これは戦術的判断だよ」

飄々とした調子でそう口にしながらも、私の頭を撫で続ける手は泣きたくなるほど優しい。
私はこれ以上強がることの無意味さを悟った。先生は私にとって、花であり泉であり、風であり月だ。この身一つで抗える筈がない。顔を背けて押し切れる筈がない。どんなに沈めようとしても、恋心が時々水面に顔を覗かせてしまうほどに素敵なひと。優しくて、温かくて、大好きなひと。

「・・・先生は、最高の先生です」

そして、私を私以上に正しく理解してくれる、最良の師だ。これまでの確かな積み重ねを経て、今夜得るべき学びは互いの氣の再確認の他には何も無い。必要以上の重圧や緊張感が抜けて、漸く自分が整ったことを、私ははっきりと感じ取った。歪な形に固まった決意とは裏腹に、自分が一番私自身を信じていなかったことに、気付かされた。

「私、先生の弟子になれて、本当に幸せです」
「・・・そう言って貰えると、私も嬉しいよ」

頭を撫でる手はそっと離れたかと思えば、今度は私に向かって掌が上向いた状態で差し出される。

。君が積み重ねてきた山のような努力を私は知っている。必ず、無駄にはさせないよ。成果が花開く様、私も全力で支えよう」

お手をどうぞ、なんて。それは誰しも一度は夢見る状況ではあるけれど、先生にとっては意味合いが異なる。言葉の通り、この手は私を支えようとしてくれる誠実な手だ。先生らしくて、それを惜しみなく差し出される弟子で在れる今が誇らしい。
ひとりじゃない。そう伝えて貰えた気がした。

「絶対、成し遂げます」
「ああ、ならきっと出来る」

ゆっくりと重ねた手は、頼もしく握り返された。先生に支えて貰えたからこそ今がある。先生に支えて貰える安心感があるからこそ、私は明日から戦える。

「皆で、無事に帰還しよう」

誰に対しても答えられなかった、未来の約束。先生に手を取って貰えた今なら、不思議と怖くない。

「・・・はい、先生」

このひとと出逢えて良かった。明日から何が私を待っていたとしても、先生が傍にいてくれるなら何だって出来る。

最善を尽くして皆を救えたとして、全てが終わった時私はその場にいないかもしれないと諦めを抱くのはやめよう。全てが終わってもこのひとの傍から離れたくないと、今は心の底から強く願う。恋心を沈めたことは戦いに集中する為であって、きっと不必要なものじゃなく、根幹的には私が生き残る為に必要なものだと。私は、私自身に対して少しだけ戒めを解こうと決めた。


『だから、君ももう少し、自分に優しく在ろう』


あの日先生から言われた言葉が、二年越しに私の中へと新たな意味を伴い染み込んでいく。私の先生は、やっぱり凄いひとだ。目の前の大切なひとへの思いが溢れて、視界がじんわりとぼやけてしまう。
すかさず差し出された手拭に、私はとびきり幸福度の高い笑みで応えた。