※ご注意ください。ファンブック読み切りにのみ登場する浅ェ門ががっつり喋り絡みます。少ない情報から私の解釈で性格・言動など起こしていますので、何卒ご容赦願います。




道場の広間には、段位持ちの浅ェ門が勢揃いしていた。末席には桐馬の姿もある。錚々たる面々が壁沿いに内向いて座する中、私はひとり中央に正座で頭を下げ続けていた。張り詰めた空気は否応なしに緊張感を煽るけれど、この期に及んで怯む訳にはいかない。一番の上座から私を見下ろす衛善さんの視線は隙無く冷静だった。

「期聖の代理に、志願したそうだな」

ひとつ訂正すると、今この場に揃った浅ェ門達の中に期聖の姿だけが無い。日々悪化する不調により遂に起き上がることも儘ならず、島へは行けないと判断が下ったのは今朝のことだ。幕府の意向に背いた辞退ではなく、医師の正式な診断で余儀なくされた離脱。これで期聖は罪には問われず、単純に浅ェ門の椅子がひとつ空いたことになる。私が望んだ状況、千載一遇の好機。

「過酷な御役目だぞ」
「承知の上です。どうかお願いします、必ずお家に誇れる働きをします・・・!」

当主から今回の人選に関する全権を任されているのは衛善さんだ。山田家不動の序列一位であり、私たちのことを正しく見てくれるひと。先発組には段位を持たない桐馬も含まれ、追加組には裏許しの威鈴と清丸も名を連ねている。衛善さんなら段位よりも実力重視で選ぶ筈だと信じて、今日この日をひたすらに待った。何も聞かずに協力してくれた期聖の為にも、ここまで支え続けてくれた先生の為にも、決して失敗は出来ない。
衛善さんが慎重に考えを巡らせる、重い沈黙で空気を薄く感じるその刹那。部屋の隅の方から、大きく息を吸い込む音が聞こえた。

「あの!さんが来てくれたら、俺はすげー心強いっす・・・!」

私は弾かれた様に顔を上げ、後方を振り返る。誰もが言葉に惑い状況を静観する中、臆せず声を上げるその姿が眩しくて、目が離せない。

さんは俺にとって妹弟子ですけど姉さんみたいなひとで、強くて明るくて熱くて、そういう人が傍にいると俺ももっと頑張んねぇとって気合いが入るっつーか・・・!」
「落ち着け、典坐。お前の主観に寄り過ぎだ」
「・・・すんません」

先生にそっと諫められ肩を竦めながらも、典坐は私と目が合うなり力強い笑顔で親指を立ててくれる。ほんの少しでも気を抜いたら涙が零れてしまいそうな尊さを、私は紙一重で耐え切った。
ありがとう、典坐。いつだって前向きな勇気をくれる、私の大切な推し。こんな真面目な場でなければ泣いて喜ぶような誉め言葉で、私の背を押してくれた。空気が少し揺らいだのをきっかけに、また別の方向からも声が上がる。

「私は典坐殿の意見に賛同します。さんの剣技はきっと未知の島でも活きる筈です」
「僕も賛成です。さんの腕が確かなことは、ここにいる皆さんご存じの筈です」

先生から典坐への指摘を受けてか、佐切と仙汰の援護射撃は極めて冷静な声色だった。佐切は厳しく口を引き結び、仙汰は眉を下げがちな薄い笑みを浮かべたまま、二人とも私と目を合わせるなりはっきりとした頷きをくれる。胸が熱くなった。
その時だ。殊現が真っ直ぐに手を上げる。

「・・・士遠殿は、どうお考えか」

序列二位からの問い掛けに、再び広間は静寂で満たされた。典坐たちと先生では、私に対する評価の重みが違う。先生が普段どんなに優しい性分であったとしても、山田家の責務を忘れず規律を重んじるひとであると、ここにいる誰もが信頼を寄せるからこその問いだった。注目を集めても先生はまるで怯むことなく、普段より若干固い声で口を開く。

「極めて厳しい任務だ。気持ちひとつで誰でも参加出来る程甘くはない」

その通りだ。あの島がどれ程恐ろしい実験場か、私は知識として心づもりがある。思いの強さだけで生き残れる島じゃない。だからこそ、私は備えてきたのだ。

「しかし、彼女の実力は師として私が保証出来る。戦力の面で、が加わることは期聖の穴埋めとして最適解だろう。無論、公平な“目”で見てのことだ」
「先生・・・」

こんな時まで冗談を捻じ込まなくても。空気感が噴き出すことを許さなくとも、思わず苦笑を浮かべた私の氣を感じ取り、先生が不意に優しく微笑んだ。
私の直接の師匠。そして、浅ェ門達から信頼を寄せられるひとが、条件は厳しいことを示しながらも、私の参加を肯定してくれた。これは最大限に力を持った後押しだ。そして、先生の答えを以て硬かった殊現の表情が僅かに緩む。

「士遠殿がそう判断するのなら、俺はさんの志願を受け入れたい」
「・・・殊現」
「道行きの険しい御役目だ。勿論心配もあるが・・・」

この暗い瞳は正義と上意の為ならどこまでも残酷に徹することを知っている。でも今この瞬間、殊現は私の思いを汲み、慈愛の精神をもって善き兄弟子として微笑みかけてくれている。

「士遠殿と典坐がいれば、さんはどこまでも規格外に力を発揮するのだろう。そんな貴女だからこそ難役も成し遂げられると、俺も信じたい」
「・・・ありがとう」

近い未来に考えの違いから決別するだろう私を信じたこと、殊現はいつか後悔するかもしれないけれど。それでも今は、心の底からありがとうと伝えたい。彼が良いひとだとわかっているからこその胸の痛みに封をして、私は今一度衛善さんに向き直った。
先生からの戦力評価、それを受けての殊現からの更なる後押し。判断材料としてはこれ以上無い程良い状態で揃ったけれど、最終決定権はこのひとにある。どんなに備えたところで衛善さんに却下されたならあらゆることが瓦解する。祈るような思いで再度深く頭を下げようとした、その時のこと。

「・・・士遠が何も言わぬのなら、反対する理由は無いだろう」

心臓が、一際大きく脈打った。思わず目を見開き、夢じゃないかと心の中で自問自答する。衛善さんが、認めてくれた。私は、あの島へ行ける。皆の未来を変える、その道が拓けた―――夢にまで見た大きな前進に、叫び出したい程の歓喜を強く噛み締めた、その時。

「異論有り」

興奮と喜びの絶頂から、悪意をもって私を引きずり降ろそうとする声が上がる。振り返った斜め後ろから、試一刀流六位の男―――山田浅ェ門羅芋が、私を激しく睨み付けていた。



* * *



羅芋は、地獄楽の読者である私も本当に誰かわからない状態から始まり、そしてここ数年で序列六位に就いた男だ。試一刀流の六位と七位は作中―――少なくとも私が知る七巻途中まで出てこない。単純な強さよりも次期当主としての適正を重視する山田家の掟を知る者として、島に赴くだけの強さには届かないながら、五位の仙汰・八位の源嗣の間と評される者がいるのだろうと、漠然とした想像を抱いていた私にとって、羅芋は強烈な個性を以て異彩を放ち―――いや、正直に言おう。私は入門当初からこの男に心底嫌われており、それ故私もこいつが苦手なのだ。

山田浅ェ門羅芋、十六歳。艶の良い黒髪を胸元まで伸ばした、整った顔立ちの男だ。太刀筋が美麗の一声に尽き、彼による処刑執行や試し切りの機会には刑場が剣士と町娘の両方でごった返すという混沌を生み出し、二つ名を『漆黒の死神』というらしい。思わず遠い目で厨二と呟いたら意味は通じない筈が睨まれた。とにかく剣技の美しさは超が付く程一流なのは間違いない。
しかしながらこの男、特技は因縁を付けること・趣味は無礼打ち・自身の美しさを誇ってか女性に対する風当たりが極端に厳しく、シンプルに性格が悪い。同じく原作不在の七位である努努は家事全般に園芸活花と多才ながら一切驕らず、穏やかで優しい大男であることが、余計に羅芋の我の強さを強調する。この三年、すれ違っただけで舌打ちは日常茶飯事。稽古後の汗だくの姿でかち合えば、どこから取り出したのか扇で口元を隠し眉を顰める露骨な嫌味。どんなに人を夢中にさせる美剣の持ち主であっても、中身が散々なら台無しだということを私はこいつを通して学んだのだ。

予感めいたものはあった。私を悉く嫌うこの男が、私の御役目参加を素通りで許すものだろうか、と。

「・・・羅芋」
「殊現様、どうか私の訴えをお聞き届け下さい」

出たな殊現教。本道場分道場問わず殊現を担ぎ上げる者たちの中でも羅芋はなかなかに煮詰まった人間だ。その敬愛する殊現からの苦言も遮るのだから、私の進路を妨害しようという熱量はマグマの如くだろう。キッと吊り上がった視線が私を容赦なく貫いた。

「身の程を弁えよ。段位も持たぬ分際で志願など言語道断だ」

良いだろう、そっちがその気ならこちらも全力で戦うまでだ。ふうと大きく息を吐きだし、私は敵へと向き直る。

「・・・桐馬も段位はまだの筈だけど」
「はっ、山田家始まって以来の天才と己を同列に語ろうとは・・・片腹痛い。そもそもお主は所詮代行、我々免許皆伝の浅ェ門とはまったくの別物ではないか」

まぁそこは当然突いてくるよね。私は表面には出さず内心のみで舌打ちをする。私は未だ代行だ。免許皆伝の為には幕府からの指名制で刑場の執行任務が絶対条件のところ、桐馬には即用意されたその機会が私には一向に回ってこない。佐切の時はどれ程待たされたか記憶が曖昧なほど、やはりこの局面に於いても男女で天と地ほどの差が付けられる。圧倒的不利は最初から理解していた。島での任までに私が免許皆伝を得られる可能性は、極めて低いと覚悟もしていたのだ。

「欠員が出たのなら、控えの浅ェ門から選出すべき。それが叶わぬなら、正式な免許皆伝の中から選ぶが定石。お主のようなどこの馬の骨とも・・・失礼。年季の浅い者が容易く就ける御役目ではないと理解せよ」
「・・・悪意だだ漏れ過ぎるって」
「何?」
「いいや何でも」

私の素性が異質なことは自分でもよくわかってる。何とでも言えば良い。ただし代行の身であっても、この男に人間性以外で確実に勝てるものがあることを私はよく知っている。
羅芋は剣技の美しさはあれど、それはあくまで処刑用の一刀のみ。正面からの打合い稽古は非常に弱いのだ。私に呆気なく負かされ歯を食いしばった苦い記憶はお忘れか。そうして私が優位なカードを大事に握りしめたその時、羅芋の表情がニタリと勝ち誇ったものへと色を変えた。

「それに、小僧の安い挑発に乗り市中で剣を抜くような粗暴者に、凶悪な死罪人を御し切れるとは、とてもとても」
「っ・・・」

瞬間、息を呑んだ。こういう奴ほど無意味に情報網が広いと理解していたけれど、これは流石としか言いようが無い。

「それは違います!さんが抜いたのは竹光ですし、挑発に乗ったのではなく理不尽な暴力から女の子を守る為に・・・!」
「そう、そこだ」

すかさず反論する佐切を遮る声は、冷ややかな嘲笑を含んだものだった。

「聞けば、その童女が剣術を始めたことでの諍いだそうではないか。分不相応に女が剣など握るから、下らぬ火種が生まれるのだ」

あまりに露骨な侮辱だった。流石に広間全体の空気が淀む。女を意図的に蔑み、嘲り、こちらを刺激しようとしている。相手を怒らせ不利な失言を誘うことは舌戦の常套手段だ。それこそ、安い挑発に乗る訳にはいかない。私は怒りの火の手が上がりかけるのを堪え、険しい表情で憤る佐切に向かって制止の手を小さく上げた。大丈夫、負けないよ。一度小さく頷き、私は未だ勝ち誇った顔を崩さない羅芋に向き直る。
馬鹿な奴め。当事者ではないからこそ、この話に続きがあることを知らないのも無理は無いことだけれど。

「・・・その子の奉公先が山田家のお得意様で、ご当主は男女の隔たり無く剣の道に理解があるお人で、今回のことを機に将来的にはうちの道場にその子を通わせようとしてるってことも、知ってて言ってるんだよね」
「・・・は?」
「当然話の裏は取ってるんだよね。ことの真相も知らずに因縁吹っ掛けるなんて浅はかなこと、しないよね。名高い漆黒の死神サマが、まさかね」

先方のご当主から新しい刀剣鑑定の依頼と共に、分厚い礼状が届けられたのはつい先日のことだ。助けたあの子は近い将来、山田家の門下生となる。私が竹光を抜き騒ぎになったことなど、今や得意先からの賞賛の影に消え失せたも同然だ。私に突き付けた切っ先が無力なものと知り、羅芋の表情にサッと屈辱の朱が満ちた。

「いやぁ、あの子なかなか筋が良いらしいし。私と違ってあの歳から鍛え続ければさぞかし将来有望だろうなぁ。佐切や威鈴に続いて優秀な女流御様御用が増える訳だから、山田家も安泰安泰。ははは、人の縁ってどこでどう繋がるかわからないもんだよねぇ」
「・・・流石、我らより歳を食っているだけあって口が達者だな」
「そりゃあ勿論。でも安心しなよ、あんたもあっという間に十代じゃなくなるから」

人間誰しも歳をとる。いい加減に若さを武器に討論するのを止めろと暗に言いたかっただけの筈が、思いのほかパンチの効いた煽りを決めてしまったらしい。

「っ・・・そもそも!お主の様な凡人が何を我が物顔で浅ェ門を名乗っている!ご当主の血筋でもない女が!何の後ろ盾も無い年増の女が後から入って来て偉そうに・・・!!」

おいおい、私を煽って爆発させる作戦じゃなかったのか。ともあれ曝け出された本音は、私自身にはどうしようも出来ないことばかりな訳で。こりゃあ駄目だ。私とこの男はどうしても分かり合えない星のもとに巡り合ったとしか言いようがない。

「ちょっと羅芋さん、それは・・・!!」
「典坐」

先生ではなく、私が止めるべきだと思った。中腰になりかけた典坐を振り返り、佐切の時よりもしっかりと待てをかける。羅芋が島行き最後の壁だというのなら、私は一対一でこの男からの理解を勝ち取らなくてはならない。

「これは私と羅芋の話だから」
「・・・さん」
「大丈夫だよ、ありがとね」

典坐は貧民街の出身でありながら先生に拾われて人生が変わった身だ。血筋も後ろ盾も、努力で切り開いた今があるなら無意味だと、それを誰より知っているであろう熱い兄弟子と目を交わし、私はまたひとつ勇気づけられた思いで目の前の男に立ち向かう。
そもそもこの世界からすれば異物の私は、立場も無ければ力も無い、宿無し文無し何も無し。その上曖昧な未来の警告しか話せない私を、先生は何の対価も無しに受け入れてくれた。何かひとつでも余分に“持って”いたら何かが変わって今の私がいないとしたら、知識以外何も持たずに先生と出会えた三年前の縁に感謝したいくらいだ。

「浅ェ門を名乗ることは、代行免許と同時に許されてる。血筋は確かに山田家と縁もゆかりもないけど、入門には性別も年齢も制限が設けられてない。別に偉そうにしたつもりはないけど、皆の優しさに甘えて年下相手にお姉さんぶったのは認めるよ。気に障ったなら、ごめん」

どんな時でも冷静でいることこそが最大の強みだと、先生は私に教えてくれた。例えどんなに酷い詰られ方をしても、相手がどれ程苦手な羅芋でも、同じことだ。私は言われたことをひとつひとつ、心を凪いだ状態で紐解いていく。

「凡人なのは百も承知。けど、凡人だからこそここまで一人で来れた訳じゃないから。受けた恩を返す為にも、例え代行でも浅ェ門として認められたからには全力を振るうよ。山田家の為になることをする。期聖の代わりに御役目に就いて、私のすべきことを必ず成し遂げる」

私が一声発する度に羅芋の表情が曇っていくのがわかる。怒りはひとに勢いも与えるけれど付け入る隙も与えてしまうものだ。墓穴を掘ってしまったことを哀れに思う気持ちもあるけれど、今だけはどうしても譲れない。私はこの参加を認めて貰う為だけに今日まで駆け抜けてきたのだから。

「私は確かに免許皆伝の浅ェ門じゃないし、羅芋みたいに人の心を打つような美しさの剣技は持ってないよ。でも、島での御役目は・・・拘束された死罪人の斬首じゃない。何が起きるかわからない状況なら、きっと羅芋より私の剣が役に立つと思う」

性格が悪い男だと思う。でも、老若男女問わず虜にしてしまう太刀筋の美しさは本物だし、兄弟子として尊敬している。実戦重視の私はどうしたってあの美しさにはたどり着けない。適材適所だ。どうかここは、気に入らない私であっても通して欲しい。私は改めて深く頭を下げた。

「それでも私の力量に疑いがあるなら、今この場での打ち合いで試して貰っても構わない」
「っ・・・」

プライドの高いこの男が、負けるとわかっている試合を受ける筈が無い。ごめん、羅芋。どうしても逃せない夢の実現を目前に、私は兄弟子の心にとどめを刺した。
視界の端で殊現が立ち上がり、深く俯く羅芋の傍まで赴き膝をつく。

「もう良いだろう、羅芋」

和を乱す言動を怒らず責めず、殊現はそっと宥める。私が島へ向かう最後の障壁を取り払う男が、島での最大の脅威になり得るかもしれないだなんて、皮肉なんてものじゃない。でも、今はこの説得に全てを賭けるしか無い。どうかお願い、頷いて。私をあの島へ向かわせて。

「・・・殊現様が、そう仰るのなら」

か細い声だった。屈辱と苦悶の末に捻り出された、妥協の言葉。それでも、私にとっては喉から手が出る程に欲した切符そのもの。張り詰めていた身体の芯から力が抜け、正座が崩れる。今になって突然、一筋の汗が零れ落ちた。広間の空気が和らぎ、皆が私を祝福してくれていることが伝わって来る。実感を求めて衛善さんを振り返れば、一度の頷きが。このじわじわとした感情の昂ぶりを持て余して先生を見れば、労わる様な穏やかな微笑みが返ってきて。ああ、本当に私、あの島へ行けるんだ。島で待つのは確実に恐ろしい地獄なのに、私は極楽行きを約束されたかの様に安らかな心地で深い息を吐きだした。

「・・・わかってくれて、ありがとう」
「お主からの礼など要らぬわ馬鹿者。とにかく、崇高な御役目に運良く滑り込んだ以上、山田家の品格を損ねることは許さんからな・・・!」
「わかってる。最善を尽くすよ」

大丈夫、緩むのは今だけだ。悲願の島行きを許された、未来を変える大局にまずは私自身を捻じ込めた。大きな前進を密かに喜ぶ為に、ほんの少し時間を頂戴。

「ふん、本当にわかっているのかお主は。まさかとは思うが、努努に繕わせたあの羽織を着ていく訳ではあるまいな」
「・・・は?」

念願を叶え張り詰めた状態から極限まで綻んだ、心と気力の糸。

「まったく美意識を疑う。あんな品の無い色の裏地など、同門として到底許容しかねる」
「・・・はあ?」

ここに至るまでどんなに煽られようが気力で耐え抜き、冷静さを保ってきた筈のそれは。

「今、何て言った・・・?」
「この程度一度で聞き分けろ。あのような品の無い裏地は許さんと言っ」
「ふざけんなよてめェェェ!」

呆気なくぶちぶちと音を立てて千切れ、光の速さで燃え上がった。

四つん這いで詰め寄れば広間の空気が温度を変えるのを肌で感じたが、とてもじゃないけれど自分で自分を律しきれる状況ではなかった。これまでの人生で誰かに対してここまで切れた経験は間違いなく無い筈が、目の前がチカチカする様な激情で粗暴な言葉が喉元で列をなす。

「今すぐ訂正して詫びろ自惚れ野郎が!!目ぇ腐ってんじゃあないのかァ?!誰が選んでくれた色だと思ってんだこらァ!!」

あの裏地は、先生が私の代行就任の祝いに選んでくれた色。先生の世界に映る、私だけの大切な山吹色。使命とも呼べる御役目参加を確約された反動で、私の心の奥底に封印した恋心は禍々しい勢いをもって暴走を始めた。周りはあまりの衝撃で固まる者が半数、私を止めようと慌てる者が半数、誰の制止も聞ける気がしないのが問題だ。そうこうしているうちに唖然としていた羅芋が我に返り、私に対して反撃の牙を剥く。

「なっ・・・訂正などするものか!汚い言葉で喚くな低俗な女め!醜き花は朽ちよ!やはりお主の志願など断固反対だ!」
「一旦認めたことを覆すんじゃねぇぇ!!」
「ええい黙れ黙れ!お主の様な女が付け上がりこの世は乱れていくのだ!女など黙って男を立てておれば良いのだ!美しき剣の道に相応しく無い!即刻消え失せよ!」
「っ・・・!」

例え売り言葉に買い言葉だとしても、行き過ぎた差別発言に吐き気がする。私が胸元に掴み掛ると同時に、羅芋は何を考えたのか腕を伸ばし私の一本に纏めた髪を引っ張った。物理的な痛みが米神を駆け抜けると同時に、私はひとつの閃きを得る。頭の中は依然として冷静からはほど遠く、ここまで拗れた状況からの和解はまず厳しいのだろうけれど。先程認めた答えすらひっくり返そうという、羅芋を黙らせるためのたったひとつの秘策。それは、今こそが好機。

「いちいちいちいち、男だ女だうるっせぇんだよクソがああ!!」

稽古着の腰元に差していた、ほとんど鋏代わりの小さな懐剣。羅芋に引かれピンと張った毛束の根本目掛けて、私はそれを振り上げた。

よせ!!」

騒めく音の中から、先生の声だけがやけにはっきりと届くと同時のこと。私の髪は結び目と共に解き放たれ、驚いた羅芋が手を放したことで重力に従い舞い落ちていった。

広間は瞬間、痛い程の静寂で満たされる。この時代、女が髪を切ることの意味を知らない私ではなかった。

「何、を・・・よくもそんな悍ましい真似を・・・お、女の証であり、命だろう、それは・・・」
「っは、その命とやらを遠慮なく引っ張っておいてよく言うよ。ああ、すっきりした」

髪は女の命。でも、その命を切り落とした私の心は今、頭と同じく軽くて仕方が無い。

「男だ女だと、下らないことでこれ以上阻まれるくらいなら・・・女の証なんぞ、喜んでここに捨ててくっての!」
「ひっ・・・」

三年間伸ばし続けた、長い黒髪の一束。それをずるりと拾い上げ、狼狽える羅芋に向かって投げつければ、当然不気味に宙を舞うだけのそれに対し情けない悲鳴が漏れ出す。へなへなと崩れ落ちるその様からは、完全な戦意喪失が窺えた。
漸くだ。漸く、私の進む道に反対する者はいなくなった。迸る激情が徐々に鎮火を始め、それでもふつふつと燻る怒りを消化すべく、私は心の内を声にする。

「ひとは皆それぞれに進みたい道があって当然なのに。たったふたつの性別で勝手に振り分けられて、片や相応しい、片や相応しくないって、何それ。ひとの人生勝手に決めつけんな。誰に何と言われようが私は剣を握って斬るべきものを斬る。それが出来ないなら、私が生きてる意味が無い」
「正気ではないぞ、お主・・・憑りつかれているのではないか」
「・・・案外そうかもね」

憑りつかれている。否定は出来ないと思った。御役目に就くことは最低条件。この先私を待ち受ける島の生物や天仙達、約束された殊現との決別、死の運命を回避させなくてはいけない仲間たち。あらゆる難題を解決するその為なら、何だって差し出せる。

「悪霊だろうが妖怪だろうが・・・私の願いを叶えてくれるなら、喜んで魂捧げるよ、ほんと」

呟いた本音は微かな音量だった。
ともあれ、島で対峙する強敵を思えば、羅芋なんて可愛いものだ。ここまで打ちのめすことも無かったかと今になり申し訳ない気持ちが込み上げるものの、仲直りの握手は確実に拒絶されるだろう。私はわざとらしく眉を吊り上げ、その鼻先に指先を突き付けた。

「あんたの剣の支持者さん達には、女の断髪如きで腰抜かしたことは黙っててあげる。その代わり私の島行きに異論を挟むんじゃあない。あと、今度裏地の色に文句付けたら次は絶対許さない、無限に地獄を見続けるスタンド攻撃をお見舞いしてやるから覚悟しろクソ野郎」

私たちはいがみ合う関係のままで良い。大事なことに釘を刺し、ネタを口に出せる程度には落ち着いて来た精神状態が、皆の視線が一か所に集まっていることを気付かせる。私のすぐ後ろだ。そっと肩に手を置かれ、私は機械的な鈍い動きで振り返った。

「・・・気は済んだか」

衛善さんが何とも言えない顔で私を見据えている。そしてその後ろに佇む先生の困り顔に、私は如何に行き過ぎた威嚇をしてしまったかを痛感した。顔面蒼白で捻り出したお詫びの言葉は、手を叩いて笑い転げる十禾さんの声にかき消されてしまったのだった。