「依頼主に届けるものは」
「ばっちり準備出来てます」
「宜しい」
寒さが若干和らぐ某日、道場の玄関にて私は先生と向かい合う。手にした風呂敷の中身は桐の箱がふたつ重なって、美しく磨き上げられた短刀が其々丁寧に収められていた。山田家の製薬に次ぐ副業、刀剣鑑定。今日はその納品のお遣いを仰せつかっているという訳だ。包みごと恭しく両手で掲げる私に対し、先生は腕を組みひとつ頷いた。
「昨夜渡した地図は」
「持ってます」
「財布の中身は足りているか、履物の鼻緒は傷んでいないか、手拭は忘れていないか」
「・・・」
おかしいな、私はどう考えても子どもじゃない筈だけど。素なのかツッコミ待ちなのか、時々先生はこんな感じで飛びぬけた世話焼きっぷりを発揮するから困ってしまう。いや、私ひとりなら全然問題無い。推しである先生に構って貰えるなら、どんな子ども扱いも大喜びで乗ってしまえる。ただ、今ここは道場で人目がある訳で。
「・・・推しにこんなこと、言いたくないですけど」
「ん?」
「その、先生が変に子ども扱いするから、あそこで執筆意欲を滾らせてる影がふたつも」
玄関口と廊下が繋がる曲がり角で、こちらの様子を伺っていた佐切と仙汰が飛びあがった。二人して右手に筆と左手に帳面、相変わらず随筆への熱意がひしひしと伝わって来る様子に、私は思わず苦笑を零す。
「わ、私たちのことはお気になさらず・・・!!」
「そうです、どうか自然なままで・・・!!」
この状況ではなかなか難しい注文だ。そうして私が頭を掻いたその時、不意に先生が何かを閃いたかの様に顔を上げた。
「そうだ。二人とも、これから時間はあるかい?」
「え?私は特に予定はありませんが・・・仙汰殿は?」
「僕も大丈夫です」
話の流れが変わったことを察し、顔を見合わせ近付いてきたふたりに対する先生の笑みは穏やかだ。
「私も典坐も今日はこれから予定があってね。に隣町まで遣いを頼むところなのだが・・・何分、馴染みの薄い行先だ。地図は持たせてあるが、ふたりが同行してくれると正直心強い」
私は静かに目を瞬いた。例え地図があろうとも、ここで生まれ育った訳ではない私にとって江戸の町は若干心細い。行ったことの無い隣町であれば尚のことだ。ただ、良い年をしてお遣いひとつ満足に出来ない様では代行の浅ェ門としてあまりに情けない。とうとう今日まで口に出せなかった本音は、先生に見抜かれていたのだろうか。
「それに・・・依頼先の近隣では、なかなか評判の良い茶店があると聞く」
「え」
「ふっ。佐切も仙汰も目の色が変わったな」
「ぶふっ!目・・・!!」
大きく噴き出した私に呼応する様に、佐切が口に手を当て肩を震わせる。仙汰も汗をかきつつ笑ってくれた為、先生は満足気だった。分かりやすい冗談だけれど、これはきっと二人にとっても嬉しい交換条件だろう。
「返礼として、美味しい団子はどうだろう。お代はに預ける」
「・・・では、お言葉に甘えてご一緒させていただきます」
「僕まで便乗してしまいすみません・・・必ず、道案内に力添えを・・・!」
「あはは、お世話になりまーす」
きっと予定無しに断りはしないだろう二人に対する、一層乗り易い口実。同時に、私の細やかな不安に対する大きな安心材料。どこまで気を遣ってくれるのだろう、それでも先生は至って普段通りの様子で私に小袋を差し出した。
「これを。三人分の茶代には足りる筈だ」
「ありがとうございます、先生」
「ここの所、根を詰め過ぎていただろう」
弟子を労う師の言葉。その裏側の意味は、私たちにしかわからない秘め事だ。
時は刻一刻と流れ続けている。島での仙薬探しの任は正式に下され、桐馬はつい先日史上最速の代行免許を手にした。私は表向き変わり者の騒がしい妹弟子の顔をしたまま、これから期聖が空けてくれるだろう穴埋めに志願すべく一層鍛錬に励み、代理要員に認められるであろうことは何ひとつ逃さず励んでいる。今日の遣いもその一環だけれど、私は未だ代行のままだ。先生の言う通り、根を詰め過ぎる程に―――焦っていたのかもしれない。
「時には休息も必要だ。ゆっくりして来ると良い」
「・・・はい」
私自身よりも、私を正しく理解してくれる。先生の偉大さには、一生かかっても恩を返し切れる気がしない。
「無論、頼んだ遣いはしっかりとな。美味しい団子は帰路の楽しみに取っておくこと」
「わ、わかってます・・・!ほらぁ、また佐切が帳面開こうとしてる・・・!」
「っ・・・気のせいでは?」
再開された子ども扱いは流石に狙ってのことか、佐切が帳面を後ろ手に隠すやら仙汰が筆を取り落とすやらでその場は和やかな笑いで満たされた。
外からの、重々しい風穴が空くまでは。見るからに具合の悪そうな期聖がそこにいた。
「・・・悪ぃ、ちょっと退いて貰える?」
「あ・・・うん、ごめん」
期聖は私たちが開けた道を覚束ない足取りで進み、やがて曲がり角へと消えた。
「期聖殿、ここのところお顔の色が優れませんね」
「風邪でしょうか・・・心配ですね」
約束を守り、期聖は毒を飲み続けてくれている。あの様子を見るに、並大抵の苦しみではないだろう。私はそれに、応えなくてはいけない。
「・・・そうだね」
乾いた空気に、私は小さな返事を混ぜ込んだ。
* * *
お遣い自体は難無く終わった。地図は分かりやすく、納品先の御屋敷も考えていたより遥かに立派な佇まいで、迷わず辿り着けるかと密かに不安だったことが嘘の様に、すんなりと納品出来た。
しかし、私は今噂のお茶屋さんの軒先で頭を抱えている。
「・・・失敗した」
失敗した。お遣いは成功したけれど、島行きを密かに志す者としては大失敗だ。
御屋敷の奥の間で実物を確認して貰い、その見事な仕上がりと迅速な納期を褒めて貰うところまでは順調だった。『そうでしょうそうでしょう、うちの衛善さんは凄いんですよ』という本音を堪え、恐れ入りますと謙虚に頭を下げ、ご当主自らの見送りを受けながら先方の門を潜ったその時、事件は起きた。
一生懸命に門周りの掃き掃除をする、奉公人の女の子がいた。歳はどう見ても十やそこら、何とも可愛らしい子だった。私たちに気付くなり丁寧に頭を下げてくれるものだから、こちらも思わず深めの礼を返したその直後―――私は自分の目を疑った。通りがかった二人組の少年が、にやにやと笑いながら女の子に向かって石を投げたのだ。
それから少しの間のことは、正直細かくは覚えていない。ただ、どんな理由があるにせよ許せないと、全身の血液が沸騰したような、それでいて頭の中は酷く冷え切ったような、不思議な感覚だった。私は少年少女の間に素早く割り込み、腰元から抜いた竹光で初撃以降の全弾を払い除けた。憤慨し飛びかかって来た雑な拳をいなし、暴言が飛んでくる度その口許すれすれの空を鋭く切りつけ、気付いた時には腰を抜かした少年達の鼻先に模造刀の切っ先を突き付けていたのだ。
女の癖に剣の真似事を、女の分際で生意気な、と。聞くに堪えない言い訳をキャンキャンと並べる憎たらしい頭に一発撃ち込みたい衝動を抑えきった自分を褒めてやりたい。
『女の分際で剣に励んだ私は斬首執行の代行だし、何なら私の後ろにいる彼女は免許皆伝の実力を持ってるよ。相手に石を投げつけることが士道にあるまじき行為だってこともわからないの?ご立派な男の生まれでいらっしゃるのに?』
不届き者たちは女である私からの煽りと敗北に顔を真っ赤にしていたけれど、斬首という単語に恐れをなしたのかすごすごと逃げ去った。私はその時になり漸く、屋敷前が野次馬でごった返していたこと、明らかに注目を集め過ぎていたことに気付いたのだった。
「失敗した失敗した失敗した失敗した私は失敗した」
「そんなことは無いですよ。むしろさんがいたことによって事態が好転したと言いますか」
「仙汰殿の言う通りです。堂々と胸を張ってください」
「で、でもさぁ・・・あんな騒ぎにすべきじゃなかったよなぁって」
感心したような歓声の数々から、彼らがここらで有名な悪ガキであることはすぐ察せた。奉公人の女の子を守れたことで群衆も雇い主も私の行いに好意的だったし、何より本人から直接お礼を言って貰えたことが最大の救いだった・・・のだけれど、隣町とはいえこのタイミングで大人しく出来なかったことは非常に痛い。
代行だとしても免許皆伝に限りなく近く、神仙郷の任務に就くには申し分無し。この評価を盤石にする為に鍛錬から小間使いまで全力で応えて来たというのに、自ら騒ぎを大きくしてしまうとは何とも間抜けというか、脇が甘いというべきか。
そんな折だった。頭を抱える私の隣で、佐切が僅かに口を引き結ぶ。
「騒ぎになったことはともかくとして、あの女の子を助けたこと・・・後悔、していますか」
「いや、それは絶対無い」
即答を返した。騒ぎにしてしまったことは私の力不足だけれど、あの場で見て見ぬふりは絶対に出来ないし、そんなことしちゃあいけないと確信がある。佐切の表情が安堵でふわりと綻んだ。
あの子と佐切を重ねていなかったと言えば嘘になる。出来ることなら、辛い思いをしていた昔の貴女のことも今日の様に守ってあげたかったよ。口には出せない思いを胸に閉じ込め、私は微かに笑顔を返した。
「であれば、何も問題はありません。むしろ、私も胸がすっとしたと言いますか・・・」
「報告の際は僕たちからも口添えをしますし、抜いたのも真剣ではなく竹光です。そもそもさんの行いは正当な人助けですから、今回のことで山田家が誹りを受ける謂れは無いですよ。必要であれば、納品先の方々も証言して下さるでしょうし」
「ううっ・・・佐切も仙汰も、ありがとうねぇ」
聞くところによると、石を投げられた女の子は、本人の希望と雇い主の厚意で一年ほど前から剣術道場に通う身なのだそうで。なかなか筋が良いという彼女に対し、奴らは同じ道場でぱっとしない同期生らしい。成程、女の癖に剣の真似事をという暴言は私と彼女の二重にかけられたものだった。見苦しい幼稚な嫉妬だが、今日は私の力で撃退出来ても、これから先立ち向かっていけるかは彼女次第というのが実情だ。悔しくもこの時代剣の道は女には厳しい。
負けません。今後を心配する私に対して、はっきりとそう言ってくれた熱い視線を、今は信じることしか出来ないけれど。
「・・・状況、変わると良いなぁ」
「変わりますよ、きっと。目指すべき目標が出来て、今日はあの子にとって変革の日になったでしょうから」
はて、目標とは。変革の日とは。 きょとんと目を丸くする私の横で、佐切が宙を見上げながら微笑んだ。
「さんの言葉をお借りするなら。推し、誕生の瞬間・・・でしょうか」
「はは、流石佐切さん」
黒い点が列をなす空白が、たっぷりと五秒ほど。推しとは、誰が、誰の?私ははっと我に返るなり、大きく首を横に振った。
「いやいや何言ってんのふたりとも、私は誰かの推しになれるような人間じゃないって」
「何故ですか。誰でも誰かの推しになり得ると教えて下さったのはさんですよ」
「うっ、それはそうだけど・・・」
自分の言葉は引っ込められない。遡ること一年以上前、佐切の苦悩から派生した寂しさを何とか埋めようと、推しを探してみてはどうかと提案したのは確かに私だ。無機物でも自然でも、何だって誰かの推しになる可能性がある。その言葉に嘘は無いけれど、そこに自分を当て嵌めたことは勿論無く、言いようの無い困惑に眉を下げるしかない私の顔を隣から見据え、佐切が姿勢を正した。
「さんは影響力のある素敵な女性です。今日は誰かの推しが生まれるという特別な瞬間に立ち会うことが出来て、本当に良かったと思っています」
私があの可憐な女の子の推しだなんて。私なんかそんな器じゃない、という言葉が喉元まで出掛かり、そして静かに消滅する。こんなにも真っ直ぐ慕って貰えることは心底気恥ずかしくもあるけれど、間違いなく光栄なことでもある。
必要以上に己を卑下することはやめようと、あのひとと約束をした。私は山田家の一員という誇らしい立場を大切に抱えて、前を向くと決めた。だからこれ以上、佐切からの褒め言葉を否定はしない・・・しない、けれど。
「そんな真っ直ぐな目で褒め殺しにせんでも・・・!せ、仙汰助けて、尊さと照れ臭さで爆散しそう・・・!」
「爆散は困りますが・・・僕も概ね同意なので、意見は控えさせていただきます」
「何てこった・・・!」
せめてもの照れ隠しに大袈裟に天を仰げば、ふたりが可笑しそうに肩を揺らす。私はこの世界の登場人物として生きると腹を括ったのだ。ええい、この際誰かの推しも随筆の観察対象もまとめて引き受けようじゃあないの。そうして私の中から陰鬱な影が立ち退いたのを見計らい、ふたりが顔を見合わせた。おや。心なしか、ワクワクとした雰囲気を感じる。
「さんが無事立ち直られたところで・・・仙汰殿」
「心得ています。さん、団子が来るまでの間、少し失礼しますね」
「んん?」
二人は揃って懐から帳面を取り出したかと思えば、頭を突き合わせるようにして相談を始めた。鼻の下が伸びるような間抜けな顔で私が覗き込んでも、佐切も仙汰も堂々としていて隠す素振りも無い。
「私は、今日の出来事を新章の冒頭にと構想していますが・・・いかがでしょうか」
「成程。では挿絵は見せ場に一枚・・・こんな感じですかね」
「・・・!!さ、流石は仙汰殿・・・!!早業ですね・・・!!」
「いやいやお恥ずかしい、ただの落書きです」
まさかのまさかだ。隣で始まったのは、作家同士の所謂プロット作りの場である。佐切からは既に構想が揺るぎなく固まっているような情熱を感じるし、仙汰がさらさらと描いた線画は最早下書きの域ではない。これがふたりの独自の創作ならもっと前のめりに見せて見せてと強請れるものを、この随筆の主人公が誰であるかを知っている以上はどうしてもブレーキがかかる。非常に歯がゆい。
「・・・打ち合わせってそういう感じで進めるんだね」
「ご本人を前にすみません・・・これはざっくりと、最初期のすり合わせですが」
「お互いに清書を進めながら、一場面毎に相談して方向性を決めているのですよ。記憶が鮮明なうちが勝負なので、ご容赦ください」
「いやいや気にしないで。共同制作ってめちゃくちゃ密な連携が必要なんだね・・・はぁー・・・」
佐切がこの随筆計画を始めると言い出した頃には、今日まで続いていることも、ましてや仙汰が挿絵に加わるだなんて考えもしなかった。そもそも、身近な誰かが創作活動を始めること自体が大きな驚きだ。お茶屋さんの長椅子に横並び、三人中二人が作家さんだなんてオタクとしては興味深々だけれど、観察対象が自分だという照れ臭さも消えてはくれない。
「仙汰の言う落書きが現時点で凄過ぎて、何か落ち着かない・・・大丈夫かな、私絶対に主人公顔じゃないと思うけど」
「ははは、主人公の顔とは・・・」
「仙汰殿の絵は素晴らしいんです」
仙汰を褒め称える佐切の声は、とても丁寧な敬意に満ちていた。
「仙汰殿の描かれるさんは、いつも生き生きとしています。お好きな本を真似る時の力強い声や、士遠殿や典坐殿と並んだ時の楽しそうな笑い声が、絵の中から聞こえてきそうな程に」
「それを言うなら、佐切さんの文章も同じです。情景描写や心情表現、とても丁寧で読み易いです。佐切さんの文字でしっかりと土台を作っていただけているからこそ、僕も安心して絵を載せられると言いますか」
「ふたりとも、凄いんだよ」
私は思わず言葉を挟んだ。リスペクトの応酬は眩しくて心地良いものだけれど、私からすれば二人とも素晴らしい才能の持ち主だ。
私がまだ、ただの地獄楽の読者だった頃には見出せなかった、光輝く才能。内側からこうして触れられたことが、とても嬉しい。
「すべての創作は・・・って、まぁこの本は題材が私だから若干照れくさくはあるけど、そこは置いておくとして。『創る』からには、そこには必ず作者の熱意が込められてる。労力と時間を費やして熱量を形にする―――創造って凄いことだよ。だから私は、すべての創作には敬意を払うべきだと思ってる。それが随筆でも、詩集でも、画集でも、何でも同じ。佐切と仙汰は共同作家で、お互いへの尊敬を忘れず、相手の長所を引き立て合ってる。表現者同士だと熱意があるからこその喧嘩だって十分在り得るのに、これは本当に凄いことだと思うよ」
私は生憎読む専門のオタクだからこそ、思いの丈はとめどなく。はっと気付けば、思いのほかしっかりと耳を傾けてくれている二人の視線が熱い。
「つ、つまり、私はふたりを尊敬してるし、そんなふたりの作品の中心に据えて貰えて・・・その、光栄に思ってるってこと」
「・・・作品、ですか」
「え?いや、ふたりが作ってるんだから作品でしょ」
「いえ、改めてそう言われると感慨深いと言いますか・・・」
本人たちは意外にも、作品としての意識が薄いのだろうか。ふたりは顔を見合わせ、互いの帳面を大切に見交わし、そして優しく微笑む。
「進捗や方向性を確認し合いながらの作業は、ひとり無心に描き続けることとは違った発見に満ちています。この製本工程について思いを巡らす時間は過ぎるのがとても早くて・・・思い切って挿絵に名乗りを上げて、良かったと思っています」
「私もです。そもそも自分自身を見つめ直すために始めたことですが、この本作りは有意義なことばかりで・・・悩みごとを一時忘れ去ってしまえるほど、とても楽しいんです」
思わず、瞠目した。
仙汰の絵が上手いことは周知の事実でも、自ら絵を描くことの楽しさを曝け出したのは、正史であれば島で調査を進める間のことだ。佐切も本来なら今頃女と武士の狭間で悩み、その翳りを忘れてしまえる程夢中になれる趣味は、少なくとも本には描かれていなかった。皆はこの世界に生きているのだから、私の知らない過去や側面があってもまるで不思議ではないけれど。それでも、佐切と仙汰の“変化”は、私という異物が混じったからこその化学反応のように思えて仕方がなく。良いのかな、大丈夫かな。小さな不安はあれど、ふたりの表情があまりに穏やかで幸福に満ちたものだから、私は嬉しく感じてしまう。佐切も仙汰も、自分のしたいことと現実との乖離に悩んで暗い顔をしていたことを知っている。だったら、少しでも明るい変化なら良い兆候なのではないかと。知らず知らずのうちに口角が上がっていく、その刹那。
「こうして、これからも本の続きを書きたい。この思いを糧に、御役目を全うして帰って来ようと思っています」
「・・・そうですね。まるで未知数な御役目ではありますが、この本が半端なままでは終われない。僕もそれは強く感じています」
逃れられない現実が、優しく喉元に突き付けられた。
仙薬探しの御役目は正式に下され、佐切と仙汰は予定通り罪人の監視役として名を連ねている。誰一人、私の知る正史からずれた人選は無い。私は今のところ留守番組のまま、その日はひたひたと足音も無く、すぐそばまで確実に近付いて来ている。日常に横たわる些細で嬉しい変化など、知ったことかと。余所見をしている暇があるのかと、私を嘲笑う。
「大丈夫です、きっと士遠さんも典坐君も、皆戻ってきますよ」
「無事を信じて待っていてください。そしてどうかこれから先も、観察させてください。さんの人生を表現できることが、私の喜びですから」
私はどんな顔をしていたのだろう。気遣ってくれる佐切と仙汰の声は温かくて、急激に冷え切った私の芯をそっと包んでくれる。こんな私でも何かを変えられると信じたい。観察対象として選んでくれたふたりが、本を書き続けたいという熱意を糧に、無事に帰りたいと願ってくれる。こんな平凡な私の人生でも、表現出来ることを喜びと呼んでくれる。こんなに嬉しい関わり方を教えてくれたふたりを守りたいと願うことは、間違いなんかじゃない筈だ。そうして己を鼓舞する度、仙汰の壮絶な行く末が脳裏に爪を立てる。留守番組の妹弟子の顔をどうにか保ったまま、私は曖昧な笑みを二人に返した。
注文していた団子と緑茶が届いたのは丁度そんな折だ。この緊迫感を二人には悟られたくない。助かった。そんな思いで私は両手を合わせた。
「来た来た。食べよっか」
「はい」
「いただきます」
もちもちとした大きめな団子だった。あむ、と同時に齧り付いた私たちは、目を丸くするタイミングもほぼ一致した。
「美味っし・・・!」
「本当に・・・!」
「と、隣町で良かったですね!これは近くにあったら通い詰めてうっかり散財してしまいそうです・・・!」
「っははは、確かに!これは通いたくなる味!」
興奮のあまり早口になる仙汰が可笑しくて、私は笑いながら何度も首を縦に振ってしまう。空気は完全に入れ替わった。この茶店を教えてくれた先生に感謝しなくては。文字通り頬が蕩けそうな美味しさに次の一口を堪能しようと開けた大口を、私はふと閉ざす。
「・・・二人分、包んで貰おうかな」
「さん、そこは三人分にしましょう」
佐切の察しは実に的確だった。
「士遠殿たちへのお土産にするのでしょう?二人で食べて貰うより、三人で食べながら今日の出来事を語らう方が楽しい筈です」
「足りない分は僕も払います。きっとお二人とも喜んで下さるかと」
「佐切、仙汰・・・ありがとう」
私は本当に優しい縁に恵まれた。こうして二人が私を題材にした随筆で結束を深めるという些細な変化、秘密裏に毒を飲み不調を深めてくれる期聖、そして、全てを明かせないながらも事情を理解しようとしてくれる先生の存在。物語は、私を飲み込む前後で確かに少しずつ変わってきている。これだけじゃ、終わらせない。必ず皆の命を救う。その為にも、期聖の代理として島へ向かう権利を勝ち取って見せる。
私の内に秘めた決意など、知る由もなく。佐切の表情が、不意に真剣な熱意あるものへと切り替わった。
「流石にご自宅までは押しかけられないので、お土産を受け取ったお二人がどんな様子だったかは後日お教えいただくということで」
「・・・」
「さ、佐切さん・・・!そこは強引に文章に起こされても絵は入れられませんよ・・・!僕は見られないので・・・!」
「確かに・・・さぞ良い場面でしょうに、文字だけでは悔やまれますね」
大真面目な顔で何を言いだすかと思えば。私は込み上げる軽やかな気持ちをそのままに、大きな声で笑った。
「っふ、は、はははは!!!」
私を取り巻く日常はこんなにも愛おしく、守りたいものだ。残された日々は少ない。その日はすぐそばまで迫っていた。