この計画は隠密が絶対条件だった。誰が通り掛かるかわからない道場は論外の為、決行場所は先生の家に限られる。典坐が確実に戻って来ない日中、私は自室に目的の人物を呼び寄せることに成功した。
本当は稽古にも問題無く復帰出来るけれど、自然に呼び出しに応じて貰える様に、私はここ数日道場へは顔を出していなかった。未だ青い顔で伏せっている想定でいたのだろう、布団も完全に上げて正座で待ち受ける私の姿を目にするなり、目的の客人―――期聖は、瞬間意外そうに眉を上げた末に、見慣れた冷笑を浮かべた。
「で?もう体調は良いわけ?腐った饅頭に手ぇ出した食い意地張りのさん」
「お陰様でね」
期待を裏切らない期聖の証言のお陰で、私が突如吐いて気絶した理由は間抜けな食あたりという路線で落ち着いた。典坐と佐切が涙目になりながらお説教に飛んで来て、最終的には無事で良かったと布団に縋り付かれた時には流石に心が痛んだけれど、これで桐馬への一方的な確執を誤魔化せたのなら安いものだ。そう、この複雑な現状をお金で解決出来るのなら、何だって安い。
「事前に何も聞かずに話合わせてやった俺の演技力、見せてやりたかったなぁ。迫真、迫真」
ごめんね、期聖。今日ばかりは、その独特な煽りに乗ってあげられない。
「あれはいくらの値が付くかねぇ」
「言い値で買うよ」
突如として開いた襖と、先生の声。当然私と一対一と思い込んでいただろう期聖は、予想外の人物の登場を受け見事に硬直した。無理も無い。私単独なら余裕綽々でお代を吸い上げられる場面も、先生が同席するなら状況は大きく変わる。
「・・・何すか、この状況」
「弟子が世話になっているのだから、師としては“見”過ごせない」
「・・・」
この分かり易い冗談にも反応しないとは、期聖は相当に余裕を無くしているのか、それとも先生の言葉に若干の棘を感じて怯んでいるのか。どちらにせよ、期聖は私に対して露骨に嫌な顔をした。
「何。金むしり取られてるってセンセーに泣きついたのかよ。俺、それなりにさんのこと助けてたつもりだけど」
「先生に来て貰ったのはそういう意味じゃないよ」
誤解は正しておく必要があった。期聖と私の協力関係にお金は欠かせないし、先生を盾に踏み倒そうなんて不義理は微塵も考えてはいない。ただ、この会話を誰にも聞かれない用心を重ねる為にも、ひとの気配を敏感に察知出来る先生の“目”が必要だった。そして、先生の同席により一層ここから先の“本題”を真剣に聞いて貰う為だ。
私は傍に準備しておいた包みを、期聖の前へと押し出した。この時代で言う良家の給金半年分に相当する中身に、歳下の兄弟子はぎょっとした様に目を見開いている。先生は全額負担すると言ってくれたけれど、丁重に断った。この三年で搾られたり先生に少し助けて貰いつつ、こつこつと貯めた期聖基金と、私がここへ来た当時の身の回りを細かく切り売りした奥の手の蓄えだ。
「期聖にはこれまで沢山助けられたし、本当に感謝してる。だからもう一度だけ、私を助けて欲しい。これは今回話を合わせてくれた分と、次の先払い」
「足りないなら追加で支払うよ。先程話した通り、期聖の言い値で構わない」
「・・・こんなえげつない額積んで、しかも士遠センセーまで駆り出してさ。俺、もしかしてお偉いさんの闇討ちとか依頼されようとしてる?」
これまで期聖の要求してきた報酬は、一回あたり小遣い程度からどんなに高くても呑み代相当だ。いきなりこんな大金を積まれて怯む戸惑いもよくわかる。でも、私はこれ以上に良い手が思いつかない。静かに、深く、三つ指を揃え頭を下げた。
「・・・勘弁しろよ」
「期聖、聞いて。一生のお願いだから」
心底うんざりした様な声に縋る。土下座でも何でも、この協力を取り付ける為なら私は何だってする。
「これから山田家は、命懸けの御役目に就くことになる。期聖には、それを直前で降りて欲しい」
耳鳴りがしそうな静寂、心臓が口から出そうな緊張。どうか、上手く事を運びたい。私は額を床から剥がすなり、懐に隠していた小瓶を期聖の前に置いた。一瞬、手が震えそうになるのを寸前で堪え切る。見るからに、嫌な色をした物体だ。期聖は眉を寄せてそれを手繰り寄せ、深い溜息を吐いた。
「こんな物騒なもん、どこで調達したんだよ」
「・・・言えない」
正しくは、腑分けの手伝いと引き換えに付知から製薬の基礎を学び、練習の名目で煎じた、下剤擬きの人工毒だ。付知からの信頼を裏切り、期聖の尊厳も軽視した、我ながら酷い奇行に走っている自覚があった。それでも目の前の男は、言えないという一言で多くを察し、そして小さな舌打ちと共に胡座を組み直す。
「・・・成程ね。混み入った説明が出来ない依頼なら、俺を選ぶわな。ひとまず、聞くよ」
お金さえしっかり払えば、後腐れ無く助けてくれる。知る筈の無いことを知る私の不自然さに、報酬と引き換えではあるけれど全面的に目を瞑ってくれる。三年続いた健全とは呼べない協力関係に、今日ほど感謝したことは無いだろう。
隣に正座する先生に一瞬目配せをする。戻ってきたのは頼れる頷きで、私は支えて貰っている心持ちで期聖に向き直った。
ここからが本番だ。
「御役目を正式に言い渡された二日後から出立前日まで、毎日決まった少量、服用して欲しい。主にお腹を下すと思うけど、水分は極力摂らないで貰えると有難い」
「・・・一応聞くけど、殺す気じゃないよな?」
「勿論。ただ、仮病じゃ必ず看破されるから、本当に具合悪くなって貰う。服用を止めて水分摂取を再開すれば、日はかかっても快方には向かうよ。一度拝命した御役目を、演技じゃなく本物の体調不良で断念して欲しい。降りてさえくれれば、私が代理の志願をするから」
仙薬探しに動員される浅ェ門と死罪人の数は限られている。私が乗り込む為には浅ェ門の誰かから椅子を譲って貰う必要があり、その交渉相手として一番適任なのが期聖だった。
報酬を積めば話が通じる。誇りよりも、恐らく命を優先する。そして何より、島に行かないという選択で確実に死の運命から救える。
花化して自我を失い、虚ろな笑みを浮かべたまま胴から引き裂かれる―――本来彼が辿る悲惨な末路を脳裏から追い出し、私は祈る様な思いで再度頭を下げた。
期聖なら。否、期聖でなければこの策は通じない。でも、それはあくまで私の都合に沿った希望的観測だ。
「・・・その御役目ってのは危険な分、完遂すりゃあ見返りも相当大きいんだろ。のし上がる機会としては、ある意味千載一遇かもなぁ」
彼は頭の回転が恐ろしく早い。余計なことは金で黙らせることが出来ても、損益の比率計算で本人が島行きを望む可能性は、決して零では無かった。私の提示した金額、言い値の上乗せを許した先生からの報酬。それを足したものより、任務完遂の将来的安泰を期聖が選ばないという保証は、どこにも無い。私は頭を下げたまま下唇を強く噛み締めた。
「で、その着任日を目前にして俺がぶっ倒れて、さんが急遽代理で潜り込むと。俺は正当な理由で降りる訳だから罪には問われない代わりに、侍として致命的な不名誉を負うばかりか、昇格の機会も永続的に失うって筋書きか。しかも、こんな怪しい薬でわざわざ苦しい思いして、ねぇ」
懐疑的な声色で紡がれた状況は、聞けば聞くほど期聖にとって旨みの無いものとして色濃くなっていく。どんなに危険性を説いたところで、先見の明について直接触れられない―――このままでは死ぬのだという未来を告げられない以上、利益優先で動く期聖がどちらを選ぶのか。望みは極めて薄くなった。
それでも、ここで頓挫する訳にはいかない。考えろ。考えろ。考えろ。土下座のままであらゆる脳細胞を総動員し、説得の糸口を探るその刹那。
「―――気に入ったよ」
その答えは、話の流れからしてあまりに唐突だった。恐る恐る顔を上げた先にあった表情は、してやったりといった意地悪く、私のよく知る期聖らしい笑顔で。駆け引きで踊らされたのだと理解した途端、私は底無しの安堵で崩れ落ちそうになった。
「命あっての何とやらだ。俺は侍としての矜持なんかより、安全と金の方が余程信用出来るんでね。何だか知らねぇけど、命に関わる危険な御役目なんてまっぴら御免だよ」
「期聖・・・」
あれだけ、自分にとって不利益を主張したのに。あんなにも、意地の悪い迷惑そうな声色で私を突き放そうとしたのに。散々焦らした末にあっさりと応えてくれるだなんて、期聖という男は本当に、本当に・・・。
「・・・だから気に入った、て言い直してくれる?」
「は?」
「こら。ふざけている場合ではないだろう」
「ごめんなさい」
思わずオタクの性で注文を付けてしまったところ、先生からソフトなお叱りを受けて私は素直に謝罪した。
あまりに実感が薄くて、明確な達成感にはまだ少し遠い。でも、心底欲していた協力を、遂に私は取り付けた。
「ありがとう、期聖。本当に、本当にありがとう・・・」
まずはひとり、確実に救うことが叶う。浅ェ門の枠がひとつ空く。私の願う、未来への大きな一歩だ。
「期聖。色々と世話をかけるが、このことは内密に・・・」
「先払いで十分貰ってるんだ。これはちゃんと飲むし、余計なことは何も聞きませんよ。他言もしないんでご心配なく」
念押ししようとする先生に対して、期聖は既に肩の力が抜けていた。適当な様でいて、この徹底した利益主義が味方になると心強いことは、私がよく知っている。ちらりと目が合うと、肩を竦めて小さく笑われた。
「さんから聞いてると思いますけど、報酬さえ貰えればそれなりに良い働きしますから。そこは信用して下さいよ」
「・・・そうだな、恩に着るよ」
本来、死すべき運命を架せられた仲間。先生にも明かせないどす黒いカードが裏返り、期聖の人生にまっさらな可能性が広がる。私にとってそれは、途方も無く嬉しいことに他ならない。
きっと、典坐も同じ様に塗り替えてみせる。典坐だけじゃない。衛善さんも、源嗣も、仙汰もそう。私が未来を変えるのだと、大きな喜びから強い使命感が芽生えた。
「の人選は正しかったな」
「ひとを“見る目”には自信があるので」
「ほう・・・一本取られたな」
キレの良い返しに先生が感心したように微笑んでくれる。今この瞬間、身体が軽く感じる程嬉しくて堪らなかった。
「けど、さん。俺がお膳立て出来んのは降りるところまでだから。後釜にわざわざ指名するなんて親切はしてやれねぇよ、変に怪しまれる」
「うん、わかってる。そこは自力で何とかするから大丈夫だよ、ありがとね」
期聖の言う事は尤もだ。異物を取り込んでまで体調を崩して貰うのは、あくまで御役目に穴を空ける為の前振りに過ぎない。私が無事そこに収まれるかは、また別の話。でも、この協力を得られたのだから必ず次に繋がなくてはと、私は今俄然燃えている。期聖が珍しく淀みある様子で口を開いたのは、そんな折だった。
「・・・命懸けってのはさぁ」
若干その声は掠れていた。私や先生を見ようとしない、俯いた視線が果たしてどんな色をしていたのか、正確には読み取れない。
「いや、何でもない」
話の切り上げは早かった。普段通りの期聖がそこにいる。胡座の上に片肘をついて、こちらを揶揄う様な態度でその口端がニタリと上がった。
「追加請求の金額は、全部終わってから決める。良いよな?」
「え・・・?」
「当然貰えるもんは貰うだろ。こっちもそれなりにしんどい思いする訳だし。俺がどんだけ毒薬で苦しんだか、恨みつらみ並べながらとことん搾り取ってやるから」
ほんの一瞬、その瞳から軽薄さが消える。期聖とこんなにも真っ直ぐ目が合うのは、初めてのことかもしれなかった。
「だから二人とも、覚悟して帰って来いよな」
心が揺れた。仲間として信頼されているからこその呼びかけは、間違いなく嬉しい筈なのに。気軽には交わせない未来の約束が、重い鎖の様に足元へ絡み付く。
頭の良い期聖のことだ、先行きの不穏さを察したからこその問い掛けかもしれない。『帰って来い』という遠回しな激励に、私は上手な返答を選べなかった。物語の結末を知らないままこの先の運命を捻じ曲げようとする私は、果たして帰りの船に乗れるのだろうか。だいすきな人たちを生きて島から逃がす。その時私は、どうしているのだろうか。
「どんだけ搾り取る気よ、怖い」
「二言は無いよ、金に糸“目”はつけない」
「っ・・・!ほら!ほら期聖!今!突っ込むなら今!」
「あー・・・典坐の気持ち、わかったかもなぁ」
ごめん、約束は出来ない。するりと逃げた私を、期聖はそれ以上追及しなかった。