意識を取り戻して最初に感じたのは、温かな手の感触だった。僅かに動いた私の指先、それを優しく受け止める大きな掌。目を開ける前からそれが誰のものか、不思議と感じ取ることが出来る。

「・・・

暮らし慣れた先生の家。私の自室、私の布団。そして、すぐ傍で手を握り私の名前を呼んでくれる、大切なひと。ああ、まだ夢の中かな、なんて錯覚しそうになるくらい優しい時間。でも、布団を囲むように他の気配もあることに私はすぐ気付かされる。黒目がちの丸い瞳が、私の顔を覗き込んできた。

、わかる?声、出せる?」
「・・・付知」
「声も意識も問題無し。シオさん、起こせるかな。出来れば水を飲ませたいんだけど」
「わかった。、ゆっくりで構わないから起き上がろう」

先生の腕が背中に差し込まれて、優しい介助を受けながら上半身を起こす。推しにこんな迷惑かけるべきじゃないと頭では思うのに、意識が戻ったばかりでぼんやりとしてしまう。付知が手渡してくれた湯呑に注がれた水は程よく冷たくて、口の中がさっぱりした。

「・・・美味しい」
「うん。大丈夫そうだね」
「そうか・・・良かった」

付知が私の首や瞼に手早く触れて、大きく頷く。私の背を支えたままの先生との距離が近くて、心底安堵してくれている鼓動が直接伝わる様だった。何て恵まれた状況だろう。先生と付知、そして一歩退いた位置で見守ってくれるもう一人の存在に気付き、私はゆるゆると口の端を上げた。

「先生、付知・・・衛善さんも、ありがとうございます」
「皆、先ほどまで代わるがわる此処に詰めかけていた。礼ならば、元気になってから皆に言ってやると良い」

普段以上に優しい衛善さんの声が告げる、思いもしなかった事実に私は目が丸くなる。

「典坐も、つい今しがたまでいたよ。時間が時間なので自室へ戻したが、のことをとても心配していた」
「・・・典坐。皆も・・・」

先生が付け加えてくれた情報で、胸の内に温かな灯が点る。私が意識を取り戻すまでの間、皆がここへ順々に現れ心配してくれていただなんて。本当に心苦しいのだけれど、例えようも無く嬉しい。そうして幸福な溜息を吐き切って漸く、私は意識を失う直前の大失態を思い出した。

「っ私、さっき道場で吐いた・・・!ご、ごめんなさい、汚したりして・・・!」
「そんなことは構わないが・・・気にするだけ気力が戻ってきた証拠か」
「そうだね、思考も正常。ひとまず安心かな」

いきなり吐いて倒れるだなんて、どんなに皆を困惑させたことだろう。道場の掃除は誰がしたのか、誰が意識の無い私をここまで運んでくれたのか、付知が私に付きっ切りでいたのなら製薬で滞ったことも多々ある筈だ。あらゆる工程で迷惑をかけた全てのひとに謝りたい。

「心音や身体の状態も診たけど、特別目立つ外傷も病巣も無し。何も無くて突然嘔吐する原因としては・・・極度の緊張、動揺。心的負荷とかが考えられると思うんだけど」

黒髪を靡かせた、綺麗な笑顔を思い返す。心臓が、重苦しい嫌な音を立てた。
血の気が引いていく。駄目だ、付知や衛善さんの前でこんなあからさまな不安を見せちゃいけない。当然この葛藤は筒抜けだろう、私の背中から肩を支える先生の手に僅かに力が入る。ほんの少しだけ、勇気を貰えたような気がした。

「・・・お饅頭」
「え」
「今朝、道場に来てから・・・棚に一個だけ残ってた古そうなお饅頭・・・食べちゃった」

咄嗟とはいえ、我ながらお粗末過ぎる嘘だ。桐馬の顔を見ただけで精神的に追い詰められて吐いた、この事実を隠し通せるのなら、こじつけの食あたりでも何でも良い。

「・・・そんなの道場にあった?」
「期聖に聞いてみて。多分、私がこっそり食べた現場・・・見てたと思う」

きっと期聖なら後からでも話を合わせてくれる筈だ。この際どんなに請求されようと構わない。お金次第で味方に出来る存在を、私は最大限に利用する。

「く、食い意地が張っててごめん・・・しょうもないことで沢山心配かけて、迷惑もかけて、重ね重ねごめん・・・!」

ただ、相手は医学に精通した付知だ。期聖という外側の味方を得ても、安いはりぼての様な嘘に納得してくれるものだろうか。祈るような思いで謝罪の言葉を繰り返し、空になった湯呑の底を見つめることしか出来ない私に向けて、予想外の場所から救いの手が差し伸べられた。

「本人がそう言うのであれば、それが真実なのだろう」

衛善さんは怒るでもなく呆れるでもなく、風格に満ちたその声で、私の嘘を事実として肯定してくれた。

「これに懲りたら、危ういものには手を出さないことだな」
「はい、すみませんでした・・・!」
「わかれば良い。大事に至らず何よりだった」

衛善さんがそう判断したのなら、付知もそれ以上は追及できなくなる。どう考えても不審な私の言い分を、何も聞かずに認めてくれる衛善さんの懐の深さに、私は心の底から感謝した。

「後は士遠に任せる。付知、戻るぞ」
「・・・、良くない物食べちゃったなら、とにかく水分沢山摂って。あと、暫くは胃に優しいものを心掛けること」
「そうする・・・ありがとう、付知。衛善さんも、ありがとうございました・・・!」

二人が退室して、足音が遠ざかっていく。閉ざされた部屋の中で先生とふたり、変わらず上半身を丸ごと支えられたままの密着状態。とてもじゃないけれど、ドキドキする余裕なんて無かった。私の顔色は刻刻と青ざめ、呼吸は浅くなっていく。この途方もない不安を吐露出来る唯一の相手を前に、私はひたすらにその時を待った。

「・・・行ったよ」

二人が十分に離れたことを保証され、押さえ込んでいた全ての負の濁流が溢れ出す。堪らず湯呑を取り零した私の震える手を、先生はしっかりと握ってくれた。

「・・・すまない。出来ることなら、今日の一件も聞かずに済ませたいところだが」

先生の大き過ぎる優しさに、今私は生かされている。受け答えすらまともに出来ず震えるばかりの私を、先生はそっと包み込み、そして。

「・・・彼が、君の恐れていた未来の先触れかい」

言葉に出来なかったその核心を、的確に見抜いてくれた。思わず涙ぐんでしまう情けなさに歯を食い縛りながら、私は何とか頷き返す。

「やはりそうか。ならば、対策を立てる必要があるな」
「・・・っせん、せ・・・私・・・」
「焦らなくて良い。の頭の中が整理出来るまで、いつまででもこうして待つよ」

片手をしっかりと握られたまま、背中から丸ごと支えてくれる腕で、逆側の肩をそっと擦られる。ボロボロになった私に力の限り寄り添ってくれる温かさに、胸の奥から熱いものが込み上げ、そして私は声を押し殺しながら泣いた。こつんと合わさった頭の感触すら、ただひたすらに優しくて。どんなにみっともない部分を曝け出しても、今なら全てを赦される様な気がした。



* * *



涙と呼吸を落ち着かせ、ごちゃごちゃになった頭の中を整理しながらの辿々しい説明に、どれだけ時間がかかったのか、正確にはわからない。

「死罪人を伴い、神仙郷にて不死の仙薬探し、か」

それでも先生は抜群の理解力で話を要約し、私の拙さをカバーしてくれる。胸の内が伝わったことの安堵、現実として危機がすぐそこまで近付いて来る不安。大波に足を取られて感情は相変わらず迷子のままだけれど、先生に辛抱強く手を握り続けて貰ったお陰で、まともに話が出来るだけの余力は取り戻せた。

「絶対に、普通の島じゃないです。死んでも良い人間しか、送り込まれません」

仙人の住まうとされる極楽浄土の如き伝説の島、神仙郷にて不死の仙薬探し。字面がどんなに神秘的であろうとも、実際は化物の巣窟であることを私は知っている。

「・・・こちら側にも、死傷者が出ます」
「君が改変を望む未来が、遂に来たということだな」

山田家が未来で直面する厄事を、回避させたい。訳の分からない理由で弟子入り志願した私を受け入れ、先生は素人を代行就任にまで導いてくれた。その答え合わせの時が遂に迫り、私は受けた恩に報いて存分に腕を振るわなきゃいけないのに。

「覚悟、出来てた筈なのに。桐馬の顔を見て、残された時間を突き付けられた途端、頭の中がぐちゃぐちゃになって・・・」

桐馬。死罪人となった兄を救う為山田家に弟子入りし、この先僅かひと月で代行免許まで上り詰める武の天才。敬愛する兄の為なら全てを欺き、全てを偽るあの笑顔は、確固たる信念で塗り固められている。それを目の当たりにした瞬間、私は怖くて堪らなくなってしまった。
極端な例えではあるけれど、桐馬はきっと、獄中の兄に命じられれば一晩で山田家を皆殺しにしようとするだろう。殊現とは違った意味で覚悟が決まり切っている笑みに水面下で刀を突き付けられながら、島で対峙する天仙達の攻略法を探らなくてはいけない。残された猶予は、たったひと月。

「いっそ、山田家としてこの御役目を受けない方向に出来たら・・・」
「上意は絶対だ。どんな御役目であろうとも、侍として拒む訳にはいかない」

先生の言葉は一言一句正しかった。立場が最優先されるこの時代で、危険だからと命令を拒否出来る筈も無い。桐馬の狂気とも呼べる覚悟に気圧され、一瞬でも逃げを選択しようとした私はやはり愚かな凡人でしかないのだろう。
逃げる。一体何処へ?万が一何かの手違いで山田家以外にこの御役目が回ったとして、天仙は近い内に本土中の人間を花にする計画を企てているというのに。私が自分自身の浅はかさに自嘲の笑みを零した、その時だった。

「それに・・・一時逃げたところで解決はしない。我々を待ち受けるのは、そうした類の障壁なのだろう」

心の奥を読まれたのかと錯覚し、思わず目を見開いてしまう。先生は変わることなく、穏やかな表情で私を見守ってくれていた。

「・・・どうして」
「これでも三年、君の師を称してきたんだ。“見”逃さないさ」

先生の冗談に反応が返せない。だって、先生はこれまで一度も必要以上の情報を受け付けようとしなかった。今だって、本土中を巻き込もうとする天仙の企ては私の頭の中にしか無いのに。逃げることでは解決出来ない、絶望の根本を泥の底からそっと掬い上げ、私の自嘲も不安も何もかも包み込んでしまう。

「苦労とは無縁だっただろう綺麗な手を、ここまで逞しくして・・・それ程に、の憂う未来とやらは厳しいものだと、私は解釈していたよ。逃がれることの叶わぬ厄災だからこそ、君は私に弟子入りを懇願した。いや・・・山田家を救おうと、共に立ち向かう道を選んでくれた。そうだろう」

どう足掻いても逃げることは出来ない。だから私はあの日、何の役にも立たない身でも少しでも何かを変えたくて、このひとに頭を下げたのだった。原点を思い起こさせ、不安と動揺に揺れる私を支え前を向かせてくれる。遂にその時が足音を立てて近付いてきたこの局面においても、先生の心強さは何も変わらない。私は今更になり、このひとの凄さを改めて思い知った様な心地で眉を下げ苦笑した。
不意に、私の手を握る先生の手に僅かな力が入る。

「・・・。ひとつだけ、包み隠さず答えて貰いたいことがある。大事なことだ」

瞬間、緊張が走った。きっと無理強いはされないと理解していながら、後ろめたい隠し事を容認されている身としては心臓に悪い。先生は真剣な表情をしていた。

「今こうして話している中で、不調は無いか。どんなに些細なことでも、変化があれば教えて欲しい」
「え・・・」

まるで考えもしないことだった。不調と言えばストレスで吐いたことだけれど、こうして先生に支えられて私は立ち直っている最中なのだから、むしろ心的状況は好転していると呼べるだろう。

「大丈夫です。特に、何も」
「・・・なら、良いが」
「先生・・・?」

注意深く、慎重で険しい表情は揺らがない。

「私は最初の約束を違えるつもりは無いよ。この先も、本当に必要な局面以外では君からの情報は受け付けない」

言葉の意味を理解するまでに、数秒の時間を要した。
最初の約束。先見の明は他言無用。必要最低限の情報以外は口にしないこと。その理由は、未来を開示することでのあらゆる危険性に備える為。この世の理を捻じ曲げることでの不確定な対価を、私に極力支払わせない為。先生はこれから先も、私からの情報開示を受け付けないつもりだと言った。
それでは、私がここに来た意味が無くなってしまう。体中を血が慌ただしく駆け巡った。

「何言ってるんですか・・・!本当にこの先は皆の命がかかる場面ばかりで・・・!」
「だからこそだ」

先生の言葉は冷静そのものなのに、内側から滾るひりつく何かを感じて私は押し黙ってしまう。

「本来あるべき未来を捻じ曲げる・・・定められた時の流れに理を越えた横槍を入れ、ひとの命運すら左右する。これは、そう易々と人間が手を出せる領域ではない筈だ。今は良くともこの先、更に核心へ踏み込んだ時・・・『先見の明』には、何かしらの反動、代償が伴うとしても不思議ではない」
「そんなこと、もう気にしている場合じゃ・・・」
「気にするに決まっているだろう・・・!」

決して乱暴な声の荒げ方では無かったけれど、これまで聞いたことの無い必死さに、私はそれ以上の反論を取り上げられてしまう。先生は真剣そのものだ。心の底から私を案じて、こんなにも厳しい声をあげてくれる。

「未来を強引に変えることの代償が君の不調、或いは君自身である可能性が拭えない以上、どんな局面であろうとも慎重に事を進めるべきだ」
「先生・・・」

このひとがどんなに優しくて、どんなに誠実か、私はよく知っている。でも、今こんな時まで発揮しなくても良い筈なのに。私が未来を口にする、理を捻じ曲げることで負うリスクは限りなく不透明なものだ。神の怒りか閻魔の不興か、何か起きるかもしれないけれど何も起こらないかもしれない。そんな曖昧な危険性から私を遠ざける為だけに、より安全な道を選ばないだなんて。
馬鹿げている程に、優しいひと。

「山田家を救いたい。そう願ってくれているのだろう」
「はい」
「ならば、君もまた山田家の一員であることを忘れてはいけないよ」

あくまで、私を含めた山田家全体の救済を先生は望む。先を知る私という便利なカードを持っていようとも、非常時以外には極力切らないと言う。
ああ、私は駄目な奴だ。こんな時でさえ、突っ撥ねることが出来ない。未来改変の代償が例えどんなものであっても、当然背負う覚悟は出来ているけれど。それはそれとして、先生の心をほんの少しでも傾けて貰えることを嬉しく受け止めてしまう。深い水底に沈めた思いが、うっかり顔を出さないように。私は時間をかけて目を閉じて、そして苦笑交じりに顔を上げた。

「・・・わかりました。でも、必要な時は必ず伝えます」
「ああ。そうだね・・・可能な限り、君から教わった氣の知識で解決したいものだが」
「考えましょう。あとひと月、時間はありますから」

大事なことは揺らがない。私には叶えたい未来がある。このひとに、典坐を喪わせない。ヌルガイと、典坐と、そして先生が笑って島を出られる未来の為なら何だって出来る。山田家の皆の為にも、様々な背景を持つ憎めない死罪人達の為にも、あの島を最大限に攻略すると決めた。
先生の方針で私の知る情報を全て開示することは難しくなったけれど、方法はどうあれ、出来ることはきっとある。先生と向かい合う内、もうひと月しかない、じゃなくて、残りひと月時間があると前を向けるようになった。それこそ、俯いている時間が惜しい。

「そもそも本音を言えば、それ程までに恐ろしい島であるなら、君を連れて行きたくはないんだよ」
「絶対嫌です・・・!」
「・・・そうだな。私個人としての思いはともかく、師としてはの腕があれば心強い」

まさかの同行拒否に抗議の声を上げると、思いもよらない方向からの衝撃に身体が固まる。
竹刀も握ったことの無い素人を三年で鍛えてくれた先生からの、全幅の信頼としか呼べない言葉。それは、まるで魔法の呪文のように私の時間を止めた。

「君は私の自慢の弟子だ。典坐と同じく、丁寧に鍛え上げた山田家の御様御用。代行の身で段位こそ未定だが、如何なる地であろうとも、戦力として申し分無いと判断するよ」

私の存在価値。それは先のことを知る、先見の明しか無いと思いこんでいた私に、先生は純粋な戦力としての評価をくれる。自慢の弟子だと、迷う事なくそう呼んでくれる。

「道のりは厳しいだろうが・・・共に来てくれるか、山田浅ェ門

他でもない先生が、私をひとりの浅ェ門として認めてくれる。こんなに嬉しいことが、あるだろうか。封じた思いとは別の熱さが込み上げ、私は目を細める。

このひととなら、どこまでも。例えそこが、地獄であろうとも。

「・・・先生となら、喜んで。地獄の果てでもご一緒します」
「結末は地獄か極楽か。まさしく、天下分け目の大戦だな」
「・・・分け目ッ!高等技術・・・!」
「よし、調子が戻ってきたな」

かなり無理のある変化球でも全力で拾うのが私だ。先生と頷き合い、そして一拍の間を置いて小さく笑いあう。激流を経て、普段通りの私が帰ってきた。
負けない。桐馬にも、珠現にも、天仙達にも。先生が認めてくれた浅ェ門として、絶対に負ける訳にはいかない。

「さて、実際に残された期間はあとひと月と言ったか・・・それまでに君が選抜される算段をつけなくては」
「・・・それなんですけど。ひとつ、考えがあります」

現実問題として、代行で女の私が御役目に同行する為の条件は極めて厳しい。でも、私はある可能性に賭けていた。今なら話せる。先生に、今聞いて貰いたい。

「相談に、乗って貰えますか」
「勿論だ」

心強い即答に、私はホッとした様に笑みを零す。

調子を取り戻したことで、いつまでも手を握り続ける尋常じゃない至近距離に気付き、私が真っ赤になって飛び上がるまで。あと、三秒―――。