部屋を出た途端に甲高い鳴き声が響いて、私は瞬間上空に気を引かれた。空は高く澄み渡り、鳥の影は認められない。広大過ぎる青空の中に在っては、些細な存在なのだろう。誰の目に留まらずとも、一羽一羽、懸命に今を生きている。

さーん!準備、出来たっすかー?」
「ごめん、すぐ行くー!」

玄関口から私を呼ぶ明るい声がする。典坐と、その隣に佇む先生の姿は、きっと普段通り素敵に違いない。私の『推し』は、今日も生きているだけで尊い存在だ。等しく大切で、欠かせない。私はいそいそと自室の襖を閉めて、二人の元へと急ぐ。

「来た来た!待ってたっすよー!早く行きましょー!」
「こら。今日の主役はお前ではないだろう」

わくわくと輝く典坐の笑顔が、横から先生に小突かれることで縮こまる。少年らしさはすっかり薄れて、元の世界で熟読したままの好青年へと成長した姿。私がこの江戸に降り立ってから、早三年が経過した。

「う・・・すんません、嬉しくてつい・・・」
「典坐主導で良いんですよ、先生。喜んで貰えると私も嬉しいですし」
「そうはいかない」

おや。珍しく頑なな返しに目を丸くする私に対して、先生は腕を組み至って真面目な調子でこう返す。

「君が何と言おうと、今日の主役はだ。出立の頃合いも、記念の品も、今晩の献立も、全ての決定権は君にある。如何にが典坐に甘くとも、今日だけは私も見逃すつもりは無いよ」

真剣なお説教口調も、今晩の献立なんてまあるい単語を象ればそれだけで面白いのに、お得意の冗談で畳み掛けられたらもう耐えられない。

「っぶ、見逃し・・・あははは!!っかは!!」
「ちょ、さん大丈夫っすか?!笑うか咳き込むかどっちかにしましょうよ・・・!!」

噴き出した私は勢いよく咽せてしまったけれど、心得ている様に私の背を撫でるのは、心配の声を上げてくれた典坐の手じゃあない。適切な圧で優しく宥めてくれる温かな手に、特別以上の意識を向けるまいと俯いたまま深呼吸をひとつ。私は『推しに介抱されて幸せなオタク』の表情で、顔を上げる。

「大丈夫かい」
「えへへ、すみません。先生の真面目加減と冗談の塩梅が絶妙過ぎて、つい」
「その反応は素直に嬉しいが、今日の趣旨は伝わっただろうか」

今日三人で出掛ける目的は、有難いことに私の祝いの品を選んで貰う為だ。先生が主役として私を立ててくれることも、典坐が自分のことの様に喜んでくれることも、例え様も無く嬉しい。心が一輪の花なら、私は今水と陽光をいっぱいに浴びて満開になっていることだろう。

「ありがとうございます。今日はお言葉に甘えて・・・じゃあ、行きましょうか」
「ああ、そうしよう」
「了解っす!荷物は全部俺が持ちますから!さんは何でも好きな物、選んでくださいね!」
「へへ。ありがと、典坐」

さて、何の祝いかと云うと―――私は先日、念願の代行免許を得た。目録許しの刑場はまだ決まってはいないけれど、ひと足早く特別な屋号を名乗ることを許されている。

山田浅ェ門
私は遂に、この名を手に入れた。



* * *



三年。特別な才能も無く、運動とほぼ無縁だったインドア人間が、鍛錬の積み重ねだけで斬首執行の代行免許まで登り詰めるには、決して十分とは言えない月日だったと思う。ここまで最速で導いてくれた先生には、本当に感謝しか無い。
そして、山田家の皆がほぼ私の知る状態へと重なるには十分過ぎる期間だった。典坐は十位という段位を正式に受け、他の皆も順々に正史通りの序列を得ている。
私は御役目にさえ同行出来れば段位は不要と考えてはいるけれど、さて実際のところはどうすべきか。まだまだ考えることは山積みながら、ひとまず代行免許を手に日々剣術と氣の鍛練に努めている。筋力や氣の練度は目に見えないから、己の変化は把握し辛いけれど、気付けば腰近くまで伸びた髪の長さが年月の経過を正しく伝えてくれる実績の様に思えた。ポニーテールは佐切と被ってしまうから最初は避けていたものの、これが実に簡単で長さも邪魔にならない。最近は私もすっかりこの髪型が定着した。

そうそう、佐切と云えばすっかり美少女から美女へ羽化して日々目の保養になっているのだけれど、彼女の随筆計画は未だ続いている。『花泉風月と鳥』は只今第三集を絶賛執筆中らしく、第二集からは仙汰が挿絵に名乗りを上げたものだから二人は共同製作者になっている。完成したら見せて貰う約束にはなっているものの、恥ずかしさを全部追いやってまともに読めるのかどうかは正直わからない。

先生に氣の理解を深めて貰う、という計画は順調そのものだ。氣に限った話なら、私の知る要素は今や全て先生の知識になっているし、何なら先生の方が応用で先を往くかもしれない。圧倒的な聡明さが心強い。流石は先生だ。典坐が代行就任して以降、浅ェ門の名を背負う以上は更に鍛練が必要だからと、私と先生の『対話』の時間は毎夜から隔夜に変わったけれど、その分先生は一層丁寧に師として向き合ってくれた。時間が半分になっても得られる濃さは変わらない。より細かく、より深く氣について語らう時間は充実そのものだった。
最初の約束通り、先見の明に関しては一切口外せず、先生の方からは必要以上の情報を受け付けないまま。私の隠し事にも、蓋をしたまま。不出来な弟子を三年も辛抱強く鍛えあげ、いよいよ浅ェ門の屋号を得るまで引き上げてくれた。

あの幸せな夢を忘れたことは一度だって無いけれど、あの夜を区切りに恋心を封じたことを悔いたことも無い。あの決断があったからこそ今の私が在ると、私自身が一番良く理解しているのだから。

「・・・、まだ起きているか」

遠慮がちな声に、我へと帰る。
私の自室、そのすぐ外側からかけられた声の主はどう考えても先生の筈が、様子が少しおかしい。小首を傾げつつ開けた襖の向こうには、典坐を引き摺る様な形で肩に負う先生がいた。

「こんな時間にすまない。少し手を貸して貰えないだろうか」
「勿論ですよ・・・!!典坐、大丈夫?!」

私は慌てて逆側から兄弟子の腕を肩に回し、そのぐたりと力を無くした顔を覗き込む。伏せた瞼、乱れた金髪、そしてその口元は軽く開いたまま、規則的な呼吸を繰り返していた。

「・・・って、寝てるんかい」

漫画ならずこーっと効果音が欲しいくらいに、気持ちの良さそうな寝息を立てる典坐がそこにいる。私の代行就任を祝う為、日中は買い物に、夜は祝宴に、沢山活躍してくれた。これで三人揃って浅ェ門だと、あまり強くない筈のお酒を煽りながら何度も繰り返すその表情が、私の前進を心から喜んでくれていると伝わってきて、胸が熱くなったものだ。渾身の力を使い切り夜半に廊下で寝落ちてしまったのなら、部屋に送るくらい喜んで協力したい。姿形が成長しようとも、典坐は変わることなく愛すべき歳下の兄弟子だ。

「まったく。自分の力量も考えず飛ばすなとあれ程・・・に言っても仕方が無いが」
「ふふ。今夜限りは主賓の私が全て許します」
「・・・なら、仕方が無いな。大目に見よう」
「っあはは!大目ー!良かったねぇ典坐」

先生と分担して両脇から担ぐ様に部屋へと送れば、布団に転がるなりむにゃむにゃと笑顔を見せる。私の名前と祝いの言葉が途切れ途切れに浮かんで、典坐は寝言ですら私を喜ばせてくれた。

「沢山お祝いしてくれて、ありがとう。おやすみ、典坐」

そっと頭をひと撫で、先生と私は彼の部屋を後にする。夜遅くのひと仕事は予定に無かったけれど、気分は実に爽快だ。私はひとり分の距離を開けたまま、夜空を見上げる先生に笑いかける。典坐も勿論そうだけど、このひとも心から私の代行就任を喜んでくれた。本当に、幸せな夜だった。

「今日はありがとうございました。推し二人にお祝いして貰えて、最高に贅沢な一日でした!」
「君に喜んで貰えたなら何よりだが」

顎に手を当てる、先生の考える素振り。何とも言えない表情が私に向けられる。おや、これはまさか。

「・・・本当にあれだけで良かったのかい」
「先生まだ言ってる・・・!私にとってあれ以上に素晴らしい贈り物は無いんですってば・・・!」
「いや、しかしだな・・・」

嫌な予感は的中した。先生が気にしているのは、代行就任にあたっての記念品についてだ。典坐には彼の希望で額当てを贈ったのだと、同列に考えて貰えるだけで幸せなのに、先生は私にも記念の品を選ばせてくれた。色々悩んで、考えて。でも、これしか無いと閃いた私の希望が、どうも先生にはすっきりしない代物だったらしい。

「同じ布ならば、せめて着物としてきちんと仕立てたり、洒落た巾着や小物入れとしても使い様があっただろうし、もっと実用的で良い方法もあるのではないかと・・・」

私が選んだもの、それは反物屋で購入して貰った布地だった。そしてその用途は、一般的に女性がお洒落に活かす使い道とは異なる。

「羽織の裏地では、あまりに日の目を見ないのではないかと」
「くっ・・・日の目と来ましたか・・・!」

浅ェ門の白装束、共に揃えられた黒の羽織。その裏地を、私は希望した。既に誂えた羽織でも裏地を容易く付け替えられるほどの裁縫上手が、同門にいるのだ。反物屋からすぐさま道場に引き返し頭を下げると、序列七位の家庭的な大男―――努々は嫌な顔ひとつせず願いを聞き入れてくれて、今現在も私の羽織は彼の手元に預けてある。

羽織の裏地。確かに先生の言う通り、目立たずわかりにくく、日の目を見ない使い道だろう。私はそれが良いと、心から思ったのだ。

「でもね、良いんです。誰に見られなくても、私は脱ぎ着する度に元気を貰えます。浅ェ門の装束に特別な裏地、これが私にとって一番のお祝いなんです」

誰にも伝わらなくて構わない。私だけが意識出来る特別な裏地。それは封じ込めた思いに似ていると、口には出せない心の綻びに私は目を伏せて、次の瞬間には普段通りの締まりの無い笑みで師を見上げる。
無機物も微弱な氣を有しているらしく、先生は盲目であっても布地の色まで感じ取れるとのこと。反物屋で色とりどりの山の中から、私に合う実物を選んで貰う、今日はそんな贅沢まで体験させて貰ったのだ。先生が私に選んでくれた色は、自分ではこれまで考えたことの無かったもので。新鮮な驚きと共に、自分自身の意外な側面を見つけられた様な不思議な納得を覚えたことは記憶に新しい。

「推しに、鮮やかな山吹色を選んで貰えたんですから・・・へへ。素敵な色に負けない様に、これからも更に元気溌剌で頑張らなきゃですね!」
「・・・だけの色だよ」

ほんの少し落としたトーンで、先生が柔らかく告げる。この一瞬を切り取りたいような衝動と、浸ってはいけないという葛藤で、私の内側は大いに荒れた。

「出会った当初から変わらない。私の中ではずっと、綺麗な山吹色の波を纏っているんだ。この目は見えなくとも、はっきりとわかる。だけの、力強く温かい色だ」

優しい声で、丁寧に紡がれた私と山吹色の繋がり。先生だけの世界で、私はそんな風に見えているんだと思うと、途方もない嬉しさで満たされた。ああ、御役目も未来も関係無く、本当にこの一瞬だけを切り取れたなら、どんなに良かったかな。

「・・・もう、先生ってば。そんな勿体ない褒め言葉、また鼻血が出ちゃいます」
「おや、それは一大事だな」
「ほんとですよ、寝れなくなる前に部屋に戻りますね」
「ああ。典坐の件で世話をかけてすまなかったね」
「いえいえ、お安いご用です」

もう決めたことだ。私は自分から戯けた顔で話を切り上げ、自室へと懸命に足を前進させて、途中で歩みを止めた。
そっと後ろを振り返る。先生の背中や、もう誰もいない廊下だったなら良かったのに。先生は優しい表情のまま、こちらを見送り続けている。
心臓が、きゅうと縮こまった。

「おやすみなさい、先生」
「ああ、おやすみ」

私はもう振り返らない。これ以上、不必要な喜びで舞い上がってはいけないと、己を必死に律した。



* * *



朝が来た。普段通り鍛練に励んでから三人で朝餉を囲み、道場へ向かう。私は浅ェ門の名を得ても特段変わらず、皆にとって少し騒がしくて変わり者の、歳上の妹弟子だ。典坐と先生を推しと公言して、鍛練は巨漢の源嗣を相手にしても前のめり。手帳と筆を抱えて近付いてくる佐切には滅法弱くて、期聖の意地悪や付知の突っ込みを今日もキレ良く捌く。
誰とでも仲が良い訳じゃない。でも、誰一人言葉を交わしたことの無いひとはいない。

三年経ったけれど変わらない。私がすべきことも、私が在るべき姿も、何ひとつ変わらない。大丈夫、私はこの物語の登場人物として、日々前進しながら今を生きているのだから。

「皆、集まっているか」

衛善さんが号令をかける、普段と変わらない朝。

「今日から入門する者を紹介する。わからぬことも多いだろう、皆で色々教えてやってくれ」

私は、避けようの無い『変化』を目の当たりにし、その場に凍り付いた。

衛善さんに招かれ道場に踏み込んで来る、男性にしてはすらりとした細身。女性の様に美しくなびく黒髪、整った面立ち。

「桐馬といいます。皆さん、どうぞよろしくお願いします」

欠片も警戒されない様、緻密な計算で象られた笑顔は、今の私にとって絶望でしか無い。だって、彼が来たということは。『その日』まで、残された時間はあとひと月ということだ。

たったの、ひと月。たったのひと月で、山田家は死んでも構わない浪人と見做され、化け物の巣窟へと導かれる。

視界がぐにゃりと曲がり、音が反響してぐわんぐわんと耳から脳を揺らす。私はその場で胃の中のものを吐き出し、盛大に横転した。