物心ついた頃から、沢山の物語に囲まれて生きてきた。ドキドキの止まらない荒ぶる大海原の様に、緊張の走る極寒の最果ての様に、時にキラキラ輝く木漏れ日の様に、物語はいつも私を包み込み、それぞれ違う旅先へと連れて行ってくれる。

世界観を満喫している内、ふと目で追いがちな登場人物に気付く。どんな人だろう、どんなことが好きなんだろう、どんな風に笑うんだろう。そうやって考え始めたら、そのひとはもう『推し』になっていて。私の単調な毎日に、温かな灯がひとつ増える。推しがいる物語はそれだけで特別な枠組みへと昇華して、日々時間を作っては読み返し、彼らの日常に思いを巡らせ、ひとつでも多くの情報を収集する。それが私のオタクとしての在り方で、何かに秀でることも無く平凡な人生における、大切な潤いだった。

仕組みも理屈もまったくわからないながら、ある日強烈に心奪われた物語の中へ紛れ込んだ。広い江戸の町で私は推しのひとりと奇跡的に巡り会い、凄まじい理解力と出来過ぎた人格に甘える形で住み込みの弟子入りを許され、一年と半年以上が経過しようとしている。

染み付いたオタク気質は丸出し、冴えた特殊能力も無し、ただ先に起こる厄事を中途半端に知るだけの私を、守り導いてくれるひと。私の願う物語の書き換えに、絶対欠かせないひと。かつての弟子を斬るという壮絶な悲しみを経て尚、穏やかで優しく、私を私以上に肯定してくれるひと。根付いた自己否定を止められない私に、山田家の一員を名乗っても良いのだと説いてくれたひと。秘密は秘密のままで構わないと優しく手を重ね、一番欲しかった赦しをくれたひと。いつか誰かを妻に迎えて遠ざかる、その光景を思い描くだけで――心を深く抉られるほど、淋しくなってしまったひと。それを本人から優しく否定され、心配しなくて良いと間近の距離で微笑まれて漸く、私はこの気持ちの正体に気付かされた。

本来なら相容れない筈の世界線同士が交わって。もともと特別に思っていたひとと、同じ空気を吸って生きて、同じ時を刻んで。私の至らないところ全部、特大の優しさで包み込むように許されて。こんなにも素敵なひとの傍にいられる毎日が、信じられないくらいに幸せで。意識のきっかけは十禾さんとの問答だったとしても、私にとってあのひとは、もっと前から一番奥深い境界線を越えて、心に住まう唯一になっていたのかもしれない。それを私が『推し』の枠に必死に押し込んでいただけ。

だって、あくまで推しだから。そう言い聞かせないと―――



さん・・・!」
「っ・・・」

深く深くまで沈んだ意識が、佐切の呼びかけで急浮上した。私たちは今、中庭の片隅から、剣道場の扉が開くのを今か今かと待ち侘びている。

「結果、出た・・・?!」
「扉の向こうの気配からして、間もなくかと・・・!」

普段は広く開かれている剣道場に、今日入ることを許されているのは免許皆伝の浅ェ門と、今まさに代行免許の資格を試されている者だけだ。どんなに気を揉んだところで、今私に出来ることは、年下の兄弟子を信じて待つことのみ。頭ではそうわかっていながら、佐切と二人身を寄せ合ってそわそわと右往左往を繰り返す只中。

「っしゃああああ!!!!」

扉の向こう側から木霊した声は、間違いなく私の同居人のもので。雷に打たれた様にびくりと固まる私の身体を、風が静かに撫で抜けていく。私も佐切も何も発せない沈黙が、時間感覚を曖昧にしていく中。漸く待ち侘びた扉が内側から開き、そして。

「っ・・・てん、ざ」
さん!!やりましたよ!!」

転がる様に飛び出してきた典坐の手に、大切そうに抱えられたもの。それは、お役目に向かう浅ェ門にのみ許される白の装束。彼が今日、確かに認められた証。

「代行免許!今日から自分は、山田浅ェ門典坐っす!」

天まで届くような高らかな宣言に、私は思わず、鋭く息を吸い込んだ。
彼がどんなにこの日を待ち望んで、どれ程の時間鍛錬に励んでいたかを知っている。眩しい笑顔で力一杯に喜びと達成感を謳った報告に、同じだけの熱量で労い返そうとした私の言葉が、喉で詰まった。
私がここへ来てからの月日の分だけ、彼はぐんぐんと大人びていく。私が知る、あの真っ直ぐな青年へと、近付いていく。時は確実に、彼の足を死地へと進める。代行就任の喜びを心から分かち合いたい気持ちと、どうにもならない時の流れに恐れ戦く気持ちが激しくぶつかり合い、ほんの一瞬で私の許容量を越えて溢れ出した。

「っ・・・お、おめ、でとっ・・・」

視界が歪む。見苦しいものが零れ出る。馬鹿、今典坐が望んでいるのはそんな反応じゃあない。私は力任せに目元を擦り、道着の上から心臓部を強く握り締めた。しっかりしなくちゃ。目を丸くして呆然と佇む推しのひとりに向かって、私は精一杯笑顔を作る。私の胸の内なんてどうだって良い。感極まった体で誤魔化せるならそれでも良い。今はただ、努力が実った兄弟子の功績を称えたい。

「・・・さん」
「本当に、おめでとうっ・・・典坐っ・・・良かったねえっ・・・!」

鼻を啜って、激流みたいな涙でぐちゃぐちゃになった不細工な妹弟子に向けて典坐が浮かべたもの。それは、元気一色の笑顔とは少し違う。こちらを力強く励ますような、頼もしい表情だった。

「・・・ありがとうございます!次は、さんの番っすよ!」
「う、うんっ・・・そうだねっ・・・!」

入門時期も大幅に違う、圧倒的に遅れた私に対しても、典坐は同じ先生の弟子として対等な関係で手を伸ばしてくれる。同じ家で生活し、同じ食卓を囲み、共に鍛錬に励む同志。真っ直ぐ過ぎる励ましが、私の中の負の感情を一時的に押し流してくれる。私が向き合うべきは嘆きじゃなく、自分もそこに並び立とうという気概だと、その声が熱く伝えてくれる。やっぱり、典坐は私の太陽だ。
そうして頬が震えなくなってきた頃合いで、私たちの元へ近付いて来る二人分の足音があった。

「次って。どんだけ気が早ぇんだよ、さんはまだ真剣稽古にも手が届いてねぇっての」
「もう、わかってるってば・・・」

まだまだ差が大きいのは百も承知。典坐の励ましに横槍を入れないで欲しい。私は一際大きく鼻を啜って抗議すべく顔を上げ、そして驚きに目を丸くする。

「・・・期聖」
「どうせ俺らは、典坐に比べりゃ飾りだよ」

期聖、そして源嗣。ふたりの手にも、同じく浅ェ門の装束があった。相変わらず冷めた目をして私の泣き顔を鼻で笑った兄弟子も、今日という日ばかりは確かな昇進に心が騒めいている様子だ。

「けど。俺もゴリラも、晴れて就任って訳」
「その戯けた渾名はこれきりにしろ。拙者は今より山田浅ェ門源嗣だ」
「うっせ、お前だけじゃねぇし。まあ兎に角、これで一応兄弟子の面目は保てたっつーか」
「おめでとう・・・!!」

ひとり、またひとり、浅ェ門の屋号を得る。私の知る未来へと、近付いていく。それでも私は単純なオタクだから、推しから“次は君だ”なんて言われれば、どんなに遅れていようとも前を向かずにはいられない。そして今はただ、個性の差はあれど喜びを胸に宿す彼らの姿が、妹弟子として心から嬉しい。

「期聖も、源嗣も、良かった・・・本当に、おめでとう」
「・・・そういうの良いって。大げさなんだよ」

何でも斜に構えて、興味関心も薄そうで、小馬鹿にした態度ばかりの合理主義者。でも、照れ隠しの悪態はちょっと可愛かったりもする。肘で脇を小突こうとしたらひらりと交わされた。前言撤回、やっぱり期聖は可愛くない。

「典坐殿、期聖殿、源嗣殿。おめでとうございます」
「なんだよいるじゃん、正真正銘次の本命」

私に遠慮していたのか、ここに来てやっと佐切が一歩前へと出た。期聖の言うことは正しい。佐切こそ、現実的に次の浅ェ門としてかなり可能性が高い存在だ。

「そうっすね!佐切さんもあと一歩っすもんね!応援してます!」
「うん、うんっ・・・佐切も頑張れ!皆佐切の味方だよ!」
「・・・皆、ねぇ」
「変なとこで突っかからないの期聖」

自分で話題に出しながら自分で濁すんじゃあない、まったく。でも、腹の立つことにこれも事実と言えば事実で、佐切も微かな苦笑いを浮かべたまま何も言わない。
女性が刀を握ること。更に言うなら、山田家当主の娘である佐切が、武家の娘という立場を持ちながら侍を志すこと。そして遂に、浅ェ門の屋号を狙えるまでに着実に実力を伸ばしていること。そこに一体何の問題が?と片眉を上げるのは、残念ながら山田家の総意とは呼べないのが現実だ。佐切の努力は紛れも無く尊いものなのに、女性と刀の親和性が致命的に薄い時代柄が憎らしい。注目度の低い私ですら仲間内以外からはそこそこの冷遇を受けるのだから、佐切はどんなに苦しい思いをしているだろう。
それでも彼女が前を向くなら、私は全力で援護射撃をするまでである。

「佐切の喜びは、道場の皆の喜びだから!」

期聖の後ろで押し黙ったままの大男に強引に腕を絡ませ、私は涙も鼻水もそのままの顔で目一杯に凄む。私は知っている。女に剣は似合わないという凝り固まった信条はともかく、この兄弟子が他人の努力をきちんと認められるひとであることを。

「ね、源嗣!熱意と実力は、男も女も関係ないよね!」
「・・・うむ」

強硬ではあったけれど、反対派の男から言質をもぎ取ることに成功する。佐切は唖然と目を丸くした末に、芯から弛むような笑顔を浮かべてくれた。私はそれだけで心底ほっとする。

「・・・さんには、誰も敵いませんね」
「でしょ!うちのさんは最強っすから」

待て待て。今何か凄い単語が聞こえた。オタクの私は黙っていられない。

「っ・・・!!うちの、とか言ってくれるの典坐・・・!!ああああ・・・!!」
「えええそこで涙が深まるんすか?!ちょ、さん、もう泣かないで欲しいっすよ、自分こんな時どうしたら良いかわかんねぇっすから・・・!!」
「っ・・・わ、笑えば・・・っ良いと、思う・・・」
「・・・ん?今のまた何かの引用っすか?」

流石は典坐。居候仲間としての愛ある発言は輝いているし、涙に狼狽える誠実さも加点しか無い上、私のネタに対する反射レベルが徐々に上がってきている。そんな私たちを見て佐切が小さく噴き出し、遠慮がちに私の腕を振り切った源嗣も咳払いをしながらその場を離れようとはしない。
これで良い。考え方や信念に違いがあったとしても、皆お互いを認め合う良い仲間なのだから。年上で変わり者の立場を活かして出来ることがあるのなら、私はいつだって喜んで笑い者を引き受ける。私は、山田家の皆が好きだ。

「はあーあ、混沌極まってんなー。士遠センセー、収集つかないんで回収お願いしまーす」

ぴくりと、耳が跳ねた。

何時の間にか、身近な気配が私たちのすぐ傍にある。先生は一通り聞いていた様な素振りで腕を組んだ。これは、少しだけお説教の予感がする。

「全員浮かれるのが早過ぎる。まだ代行の身だろう、正式な目録許しは刑場で任に就いてからだ」
「は、はいっす!」

剣技と知識の厳しい評定で代行免許の合否が決まり、受かれば山田浅ェ門の屋号を得る。ただし、実際に免許皆伝と呼ばれ段位が生じるのは罪人の首を斬ってからのことだ、先生の冷静な指摘は何もかも正しい。ただ、気持ち眉を吊り上げながらも、口許が密かに緩んでいることに気付けない私ではなくて。来るぞ、と直感が走ると同時に、先生の空気が分かりやすく和らいだ。

「・・・だが、三人共よく頑張った。今日のところは大目に見よう」
「っ先生・・・今の間、すごく狙って・・・ふふっ」
「いい加減泣くか笑うかどっちかにしろよさん」

期聖の突っ込みに対抗すべく、私は強めに鼻を啜る。そっと差し出されたのは、清潔な手拭だった。勿論、目の前で優しく微笑んでいるのは先生だ。

「まずは、涙を拭こうか」
「・・・はい、ありがとうございます」

優しい声も、穏やかな微笑みも、柔らかな手拭の感触すら、私は嬉しく受け止める。

先生。私の特別なひと。でも、それじゃあ駄目だってことは、私が一番よくわかってる。

誰にも気付かれない様に、新しい涙のひと雫を拭い去った。



* * *



その夜は三人で盛大にお祝いをした。明るく抱負を語る典坐は、初々しくもしっかりと前を見据えていて、先生は愛弟子の成長に眩しく目を細めていた。洒落じゃなく本当に、典坐の浅ェ門就任を誰より喜んでいるのは先生だ。そして私は、そんな先生の姿に胸がホクホクと温まって、お祝いの間中普段以上にだらしの無い顔をしていた様に思う。二人が沢山笑っていて。先生も典坐も、心から嬉しそうで。誇張抜きに、最高の夜だった。

もうすっかり真夜中だけど、私はそっと自分の部屋を出る。寝返りばかり長いこと繰り返している内に上手く眠れなくなってしまった。あまりに良い夜だったものだから、目が冴えているのかもしれない。自己管理が出来ていないと、明日の朝はお叱りを受けてしまうだろうか。でも先生は優しいから、楽しかった夜を思えば苦笑混じりに理解してくれる気もして。そんな遣り取りを思い描く、それだけで際限なく心が緩む私を、すぐさま私自身が戒める。

大丈夫。だって先生は、『推し』だから。会話なら何だって嬉しく感じるのは、おかしくないでしょう。

言い訳のような囁きは言葉にならない。少し風に当たろうと辿り着いた小さな中庭は静かで、美しい月が池の水面に映り込んでいる。
柔らかな夜風を受けながら、深呼吸をひとつ。同時に私は目を見開いた。

「・・・先生?」

今まさに思い浮かべたひとと鉢合わせになるだなんて、私は神様に試されているんだろうか。

「驚いたな。どうしたんだい、こんな時間に」
「先生こそ」

縁側に腰掛けて、ひとり月でも見上げていたのだろうか。寝衣に羽織を引っ掛けただけの私と違って、先生は何故かこの真夜中に浅ェ門の装束を着ていた。不思議に思うのはほんの数秒のこと、胸許にキラリと光る鈴を見つけ、そして私は盛大に脱力する。

「・・・なぁんだ、夢か」
「夢?」
「そうですよ、私の都合の良い夢」

寝返りを繰り返している内にちゃんと眠れていたらしい。どんなに現実感が強くとも、目印がある以上これは夢に違いない。
思い悩んでいた傍からこんな真夜中に先生と二人きり、素敵な雰囲気の中庭で同じ月を眺めるだなんて。夢だとわかった途端、すべての出来すぎた偶然は私の願望だと腑に落ちる。
それでも尚こちらを無言で見つめる先生の胸許を指差す代わりに、私は自分の胸の真ん中に指で小さな丸を作り、チリンチリンと小さく唄う。弔い鈴を示していることは、少し時間をかけて先生に伝わった様だった。

「舞台が此処なのは初めてですけど。夢と現実の“見”分け方くらい、ちゃあんとわかってます」
「・・・」
「先生?」
「ああ・・・一本取られた、か」

歯切れが悪い様に思えたのはほんの一瞬で、先生はいつも通りに飄々とした様子で腕を組む。正装姿がとても凛々しいなあ、なんて。戒めを必要としなくなった解放感に、私はその場でうんと伸びをする。

「会えて良かったです。というか、私が気持ちを消化出来るように会いに来てくれたんですよね、きっと。夢の中でも先生は優しくて、すごいひとだから」

前にも、不在で何日か顔を合わせず寂しかった時、夢で会えたことがあった。先生はすごい。寝ても覚めても、私の傍にいてくれる。その時必要な形をとって、私を救ってくれる。

「お隣、良いですか」
「・・・勿論、おいで」

堪らなく優しいお招きだった。ふたりで縁側に腰掛けて、空と水面の月を静かに眺める。夜風が優しくて、お庭は綺麗で、隣には先生がいる。ああ、やっぱり今夜は良い夜だ。

「典坐、格好良かったですね」
「どうだろうな。まだまだ、この装束を抱える腕にばかり力が入っていた様だが」
「手厳しいですね。でも・・・先生、嬉しそうでした」

手塩にかけて育てた弟子の、新たな一歩だ。正式な目録許しや段位はまだ先の話だけれど、可能性を感じて引き取った少年が、自分と同じ浅ェ門に並び立ったこと、嬉しくない筈が無い。先生にとって、どうあっても今日は特別な日になった筈だ。

「・・・そうだね。誇らしかったよ」

この局面で強がりを言う性格のひとじゃない。正直な思いを口にする先生の横顔は優しい。道場でも、夕餉の場でも、今日という日に立ち会えて本当に良かったと思う。先生はこれから先も、典坐と共にいるべきだ。彼の可能性に満ちた成長を、末永く見守っていくべきだ。何度も立ち戻った原点を、更に何重にも硬く編み込めた様な、私にとっても大事な日になった。

私は月を見上げる素敵な横顔を惚れ惚れと眺め、そして池に浮かぶ月に目を向ける。夢でも良い、今夜逢えて本当に良かった。

「先生、私ね、沢山沢山物語を読んできたオタクなんです」
「ああ、その様だ」
「その中で、女の子が恋と使命を天秤にかけて、恋心の方を封印する。そんな展開をいくつかの話で読んだことがありまして」
「ほう。封印、か」

両手を絡め、ぎゅっと力を入れたまま膝に押し付ける。夜風に水面が揺れて、月の形が波打ってぶれる。お願い、もう少しだけ勇気を頂戴。

「大抵そういう子はめちゃくちゃ応援したい恋をしてる訳ですから。私は、何でだよお・・・!って。恋も使命も両方行っちゃえよ!って、いつも歯を食い縛って読んでました」
「君らしいな」

風がやんで、月が綺麗な形を取り戻す。準備は出来たと、背中を押して貰ったような気がした。

「でも、今・・・自分が同じ立場になって初めて、その気持ちがわかったんです」

先生は答えない。私も水面の月から目を逸らさないから、視線は交わらない。ただ、先生はもう空の月は見上げていないような、そんな気配がした。

単刀直入には、この胸の内を話せないから。私はこれまで出会った幾つもの物語の中から、気高い決断を下した彼女たちの力を借りることにした。

「身体はひとつしか無いから、本当に大事なことは二つ抱えられない。使命を果たすことで、巡り巡って好きなひとの為にもなる。だから彼女たちは、自分だけの恋心を封じ込めることにしたんだと思うんです・・・私も今日、典坐の晴れ姿を見て、自分の気持ちをはっきりと再確認しました。私は、どうしても山田家の皆を助けたい。私にしか出来ないやり方で、未来を書き換えたい」

私がここへ飛ばされた意味は、きっと推しに囲まれて楽しい思いをする為なんかじゃない。命を未来へ繋ぐ為だと、改めて実感できた。
山田浅ェ門を名乗る典坐は、本当に眩しくて。どんなことがあっても、あの島で散らせてはいけないと感じた。天仙を相手に島を攻略し、更には罪人の皆殺しを望む殊現とも対峙する、険しいにも程がある獣道だ。生半可な気持ちで届く筈が無い。これまでだってずっと真剣だったけれど、典坐の昇格は私に更なる覚悟を問うてくれたような気がする。

「私、駄目なんです。器用じゃないから。推しとして好き、それ以上の思いを受け入れたら、きっと私、弱くなる。今よりもっと強くなきゃ、私の願いは叶わない。だから・・・この気持ちは、封印するんです」

私は良くも悪くも、一点集中型のオタクだから。恋も、使命も、なんて。とても両立は出来ない。典坐を救えれば先生を悲しませずに済む。鉄心さんに続いて典坐まで喪って、自責の念で苦しむような未来を防ぐことが出来る。だったら、余計なことはもう水底に沈めようと決めた。

はっきりと鼓動が高鳴った、あの夜。新しい始まりを予感した、あの夜。心の芯から痺れるような思いに、例えようも無い人生の喜びを感じたことも事実だけれど。今の私には、きっといらないもの。だって、先生は元々私の推しなんだから。

「先生。私、先生が笑っていられる未来の為なら、どんなことでも頑張れます」
「・・・
「先生は、私の・・・大切な、推しです。推しの為に、推しの傍で頑張れる!私はオタクとして最高に幸せ者なんです!」

特別な一線を越えて、私の心を温めてくれたひと。私が何かを不安に思う度、一番優しい形で救ってくれたひと。だけどこれからは、もう一度『推し』の枠に戻って貰わなきゃいけない。大切に思うことも、一挙一動を尊く見てしまうことも、何も変わらない。ただ、この恋情だけは、これ以上表に出させる訳にはいかない。私が叶えたい未来は、一歩も寄り道が許されないほど厳しいものだから。確実に時は進んでいることを自覚した今、本当に叶えたいものはどちらか、私が選ぶ道は決まっているから。

今こうしていることは、完全に私の我儘なのだけれど。

「だから、この夢の中で、一回だけ。区切りにさせてください」

封印すると決めた思いの、瞬間知った甘やかさを忘れられない、私の弱さ。

「私を導いて下さって、ありがとうございます。私を認めてくれて、寄り添ってくれて・・・こんな幸せ者他にはいないって、本土で私が一番恵まれてるって、自信があります。先生は私にとって、月で花で風で泉で・・・大切な、道しるべです。先生がいなかったら今の私はいません。本当に・・・感謝も、尊敬も、私の心は、全部先生に繋がってて・・・先生が幸せでいてくれないなら、私の人生も意味が無くて・・・」

強い風で水面が大きく揺れて、もう月はまだらになってしまった。私は覚悟を決めて先生の顔を見上げる。突然要領を得ない話を始めた私を、隣で辛抱強く見守ってくれたひと。伏せた瞳でも、こちらを案ずるような優しさを香らせるひと。

「先生」

夢の中でまで困らせて、ごめんなさい。明日から先へ進む為に、この思いを消化させる機会をください。

「・・・大好きです」

もっと大人で風流な表現を選ぶゆとりは無かった。身体中が火山みたいに熱を持つ。良い歳をしてまともな恋愛をしてこなかった結果が、この拙過ぎる告白な訳だけれど。駄目だ。夢の中でもこんな有様じゃ、私は一生この手のことには無縁で生きていくしかない。とにかく、暑い。でも、言葉にしたら少しすっきり出来た。先生には、寝ても覚めても感謝しかない。

「へ、へへ。本気でひとを好きになると、こんなに色々熱くなるんですね。聞いてくれてありがとうございました。大丈夫、私、精神が肉体を凌駕するタイプのオタクですから!全部推進力に変えて、明日からもっともっと」

言葉が、途切れた。

弔い鈴がすぐ目の前で涼し気な音を立てたかと思えば、私は身動きが取れなくなって。隣合って座ったまま、強く抱きしめられていると自覚したその時、私の頭の中は完全に色を失った。

「・・・せん、せ」
「ありがとうは、私の台詞だよ」

先生の声。先生の匂い。先生の体温。
想像を絶するほど魅惑的な何もかもが、限界まで近くで私を包む。

の思いも、覚悟も、確かに受け取った。これから先、正しく君の師で在り続けることを誓うよ」

先生はいつだって、私にそっと触れるのに。
この抱擁は、思いのほか強めで、理解が追い付かない程熱い。

「だから私も、今だけだ」

低い声が錨の様に沈み込んで、私の奥底に刻み込まれる。一層強く背を抱かれて自動的に首が上向き、漸く私は呼吸を思いだした様に酸素を吸った。心臓の鼓動が爆音で煩すぎるとか、今絶対に汗が凄いとか、艶っぽい雰囲気とは真逆のことばかりが頭を駆け巡る中、何故か私は鼻から深く息を吸う余白を得た。
先生の匂いを胸いっぱいに吸い込んで、今しがた貰った言葉を頭の中で繰り返す。理屈じゃない、心がほどける。冷たい水底へ孤独に封印するつもりの私の恋心に、先生の声が寄り添って一緒に沈んでくれるような、そんな都合の良い妄想を許されたような気がした。

「こっ・・・今夜の夢色々とリミッター外れ過ぎ・・・でも・・・幸せ過ぎて、溶けちゃいそう」
「・・・そうか」
「死亡フラグだったら嫌だけど・・・もうちょっとだけ、夢から覚めたくないなぁ・・・」

余裕なんて欠片も無い。でも、いつ覚めるかわからない夢があまりに惜しくて、先生の背中に私からもそっと手を回す。燃えるように熱い身体。きつく閉じ込めるような抱擁。一層強く感じる先生の匂い。夢だとしても幸せだと感じれば感じる程、熱に浮かされるように私の意識は薄れていく。夢の中で眠りに落ちることが目覚めなら、まだ眠りたくない。

「・・・先生、まだ、私」
、大丈夫だ」

強く強く抱かれる最中、不意に弱まった僅かな隙間の分だけ背中を優しく撫でられることで、私の意識は呆気なく落ちていく。

「ずっと傍にいるし、君の力になるよ。それは明日からも決して変わらない」

先生の声が聞こえる。強い腕の力に反して、堪らなく優しい、大好きな声。

「安心して、おやすみ」

妄想の産物だとしても、一生の思い出を大切に閉じ込めて、私は遂に意識を手放した。



朝自分の布団で目を覚まし、やけにすっきりとした心地で起き上がることも。羽織がいつもと違う場所に畳まれ、小首を傾げることも。数時間後の私だけが知っている。

これは、私が恋心を封じると決めた夜に見た、幸せで満ち足りた夢のお話。