物心ついた頃から、沢山の物語に囲まれて生きてきた。ドキドキの止まらない荒ぶる大海原の様に、緊張の走る極寒の最果ての様に、時にキラキラ輝く木漏れ日の様に、物語はいつも私を包み込み、それぞれ違う旅先へと連れて行ってくれる。
世界観を満喫している内、ふと目で追いがちな登場人物に気付く。どんな人だろう、どんなことが好きなんだろう、どんな風に笑うんだろう。そうやって考え始めたら、そのひとはもう『推し』になっていて。私の単調な毎日に、温かな灯がひとつ増える。推しがいる物語はそれだけで特別な枠組みへと昇華して、日々時間を作っては読み返し、彼らの日常に思いを巡らせ、ひとつでも多くの情報を収集する。それが私のオタクとしての在り方で、何かに秀でることも無く平凡な人生における、大切な潤いだった。
仕組みも理屈もまったくわからないながら、ある日強烈に心奪われた物語の中へ紛れ込んだ。広い江戸の町で私は推しのひとりと奇跡的に巡り会い、凄まじい理解力と出来過ぎた人格に甘える形で住み込みの弟子入りを許され、一年と半年以上が経過しようとしている。
染み付いたオタク気質は丸出し、冴えた特殊能力も無し、ただ先に起こる厄事を中途半端に知るだけの私を、守り導いてくれるひと。私の願う物語の書き換えに、絶対欠かせないひと。かつての弟子を斬るという壮絶な悲しみを経て尚、穏やかで優しく、私を私以上に肯定してくれるひと。根付いた自己否定を止められない私に、山田家の一員を名乗っても良いのだと説いてくれたひと。秘密は秘密のままで構わないと優しく手を重ね、一番欲しかった赦しをくれたひと。いつか誰かを妻に迎えて遠ざかる、その光景を思い描くだけで――心を深く抉られるほど、淋しくなってしまったひと。それを本人から優しく否定され、心配しなくて良いと間近の距離で微笑まれて漸く、私はこの気持ちの正体に気付かされた。
本来なら相容れない筈の世界線同士が交わって。もともと特別に思っていたひとと、同じ空気を吸って生きて、同じ時を刻んで。私の至らないところ全部、特大の優しさで包み込むように許されて。こんなにも素敵なひとの傍にいられる毎日が、信じられないくらいに幸せで。意識のきっかけは十禾さんとの問答だったとしても、私にとってあのひとは、もっと前から一番奥深い境界線を越えて、心に住まう唯一になっていたのかもしれない。それを私が『推し』の枠に必死に押し込んでいただけ。
だって、あくまで推しだから。そう言い聞かせないと―――
「さん・・・!」
「っ・・・」
深く深くまで沈んだ意識が、佐切の呼びかけで急浮上した。私たちは今、中庭の片隅から、剣道場の扉が開くのを今か今かと待ち侘びている。
「結果、出た・・・?!」
「扉の向こうの気配からして、間もなくかと・・・!」
普段は広く開かれている剣道場に、今日入ることを許されているのは免許皆伝の浅ェ門と、今まさに代行免許の資格を試されている者だけだ。どんなに気を揉んだところで、今私に出来ることは、年下の兄弟子を信じて待つことのみ。頭ではそうわかっていながら、佐切と二人身を寄せ合ってそわそわと右往左往を繰り返す只中。
「っしゃああああ!!!!」
扉の向こう側から木霊した声は、間違いなく私の同居人のもので。雷に打たれた様にびくりと固まる私の身体を、風が静かに撫で抜けていく。私も佐切も何も発せない沈黙が、時間感覚を曖昧にしていく中。漸く待ち侘びた扉が内側から開き、そして。
「っ・・・てん、ざ」
「さん!!やりましたよ!!」
転がる様に飛び出してきた典坐の手に、大切そうに抱えられたもの。それは、お役目に向かう浅ェ門にのみ許される白の装束。彼が今日、確かに認められた証。
「代行免許!今日から自分は、山田浅ェ門典坐っす!」
天まで届くような高らかな宣言に、私は思わず、鋭く息を吸い込んだ。
彼がどんなにこの日を待ち望んで、どれ程の時間鍛錬に励んでいたかを知っている。眩しい笑顔で力一杯に喜びと達成感を謳った報告に、同じだけの熱量で労い返そうとした私の言葉が、喉で詰まった。
私がここへ来てからの月日の分だけ、彼はぐんぐんと大人びていく。私が知る、あの真っ直ぐな青年へと、近付いていく。時は確実に、彼の足を死地へと進める。代行就任の喜びを心から分かち合いたい気持ちと、どうにもならない時の流れに恐れ戦く気持ちが激しくぶつかり合い、ほんの一瞬で私の許容量を越えて溢れ出した。
「っ・・・お、おめ、でとっ・・・」
視界が歪む。見苦しいものが零れ出る。馬鹿、今典坐が望んでいるのはそんな反応じゃあない。私は力任せに目元を擦り、道着の上から心臓部を強く握り締めた。しっかりしなくちゃ。目を丸くして呆然と佇む推しのひとりに向かって、私は精一杯笑顔を作る。私の胸の内なんてどうだって良い。感極まった体で誤魔化せるならそれでも良い。今はただ、努力が実った兄弟子の功績を称えたい。
「・・・さん」
「本当に、おめでとうっ・・・典坐っ・・・良かったねえっ・・・!」
鼻を啜って、激流みたいな涙でぐちゃぐちゃになった不細工な妹弟子に向けて典坐が浮かべたもの。それは、元気一色の笑顔とは少し違う。こちらを力強く励ますような、頼もしい表情だった。
「・・・ありがとうございます!次は、さんの番っすよ!」
「う、うんっ・・・そうだねっ・・・!」
入門時期も大幅に違う、圧倒的に遅れた私に対しても、典坐は同じ先生の弟子として対等な関係で手を伸ばしてくれる。同じ家で生活し、同じ食卓を囲み、共に鍛錬に励む同志。真っ直ぐ過ぎる励ましが、私の中の負の感情を一時的に押し流してくれる。私が向き合うべきは嘆きじゃなく、自分もそこに並び立とうという気概だと、その声が熱く伝えてくれる。やっぱり、典坐は私の太陽だ。
そうして頬が震えなくなってきた頃合いで、私たちの元へ近付いて来る二人分の足音があった。
「次って。どんだけ気が早ぇんだよ、さんはまだ真剣稽古にも手が届いてねぇっての」
「もう、わかってるってば・・・」
まだまだ差が大きいのは百も承知。典坐の励ましに横槍を入れないで欲しい。私は一際大きく鼻を啜って抗議すべく顔を上げ、そして驚きに目を丸くする。
「・・・期聖」
「どうせ俺らは、典坐に比べりゃ飾りだよ」
期聖、そして源嗣。ふたりの手にも、同じく浅ェ門の装束があった。相変わらず冷めた目をして私の泣き顔を鼻で笑った兄弟子も、今日という日ばかりは確かな昇進に心が騒めいている様子だ。
「けど。俺もゴリラも、晴れて就任って訳」
「その戯けた渾名はこれきりにしろ。拙者は今より山田浅ェ門源嗣だ」
「うっせ、お前だけじゃねぇし。まあ兎に角、これで一応兄弟子の面目は保てたっつーか」
「おめでとう・・・!!」
ひとり、またひとり、浅ェ門の屋号を得る。私の知る未来へと、近付いていく。それでも私は単純なオタクだから、推しから“次は君だ”なんて言われれば、どんなに遅れていようとも前を向かずにはいられない。そして今はただ、個性の差はあれど喜びを胸に宿す彼らの姿が、妹弟子として心から嬉しい。
「期聖も、源嗣も、良かった・・・本当に、おめでとう」
「・・・そういうの良いって。大げさなんだよ」
何でも斜に構えて、興味関心も薄そうで、小馬鹿にした態度ばかりの合理主義者。でも、照れ隠しの悪態はちょっと可愛かったりもする。肘で脇を小突こうとしたらひらりと交わされた。前言撤回、やっぱり期聖は可愛くない。
「典坐殿、期聖殿、源嗣殿。おめでとうございます」
「なんだよいるじゃん、正真正銘次の本命」
私に遠慮していたのか、ここに来てやっと佐切が一歩前へと出た。期聖の言うことは正しい。佐切こそ、現実的に次の浅ェ門としてかなり可能性が高い存在だ。
「そうっすね!佐切さんもあと一歩っすもんね!応援してます!」
「うん、うんっ・・・佐切も頑張れ!皆佐切の味方だよ!」
「・・・皆、ねぇ」
「変なとこで突っかからないの期聖」
自分で話題に出しながら自分で濁すんじゃあない、まったく。でも、腹の立つことにこれも事実と言えば事実で、佐切も微かな苦笑いを浮かべたまま何も言わない。
女性が刀を握ること。更に言うなら、山田家当主の娘である佐切が、武家の娘という立場を持ちながら侍を志すこと。そして遂に、浅ェ門の屋号を狙えるまでに着実に実力を伸ばしていること。そこに一体何の問題が?と片眉を上げるのは、残念ながら山田家の総意とは呼べないのが現実だ。佐切の努力は紛れも無く尊いものなのに、女性と刀の親和性が致命的に薄い時代柄が憎らしい。注目度の低い私ですら仲間内以外からはそこそこの冷遇を受けるのだから、佐切はどんなに苦しい思いをしているだろう。
それでも彼女が前を向くなら、私は全力で援護射撃をするまでである。
「佐切の喜びは、道場の皆の喜びだから!」
期聖の後ろで押し黙ったままの大男に強引に腕を絡ませ、私は涙も鼻水もそのままの顔で目一杯に凄む。私は知っている。女に剣は似合わないという凝り固まった信条はともかく、この兄弟子が他人の努力をきちんと認められるひとであることを。
「ね、源嗣!熱意と実力は、男も女も関係ないよね!」
「・・・うむ」
強硬ではあったけれど、反対派の男から言質をもぎ取ることに成功する。佐切は唖然と目を丸くした末に、芯から弛むような笑顔を浮かべてくれた。私はそれだけで心底ほっとする。
「・・・さんには、誰も敵いませんね」
「でしょ!うちのさんは最強っすから」
待て待て。今何か凄い単語が聞こえた。オタクの私は黙っていられない。
「っ・・・!!うちの、とか言ってくれるの典坐・・・!!ああああ・・・!!」
「えええそこで涙が深まるんすか?!ちょ、さん、もう泣かないで欲しいっすよ、自分こんな時どうしたら良いかわかんねぇっすから・・・!!」
「っ・・・わ、笑えば・・・っ良いと、思う・・・」
「・・・ん?今のまた何かの引用っすか?」
流石は典坐。居候仲間としての愛ある発言は輝いているし、涙に狼狽える誠実さも加点しか無い上、私のネタに対する反射レベルが徐々に上がってきている。そんな私たちを見て佐切が小さく噴き出し、遠慮がちに私の腕を振り切った源嗣も咳払いをしながらその場を離れようとはしない。
これで良い。考え方や信念に違いがあったとしても、皆お互いを認め合う良い仲間なのだから。年上で変わり者の立場を活かして出来ることがあるのなら、私はいつだって喜んで笑い者を引き受ける。私は、山田家の皆が好きだ。
「はあーあ、混沌極まってんなー。士遠センセー、収集つかないんで回収お願いしまーす」
ぴくりと、耳が跳ねた。
何時の間にか、身近な気配が私たちのすぐ傍にある。先生は一通り聞いていた様な素振りで腕を組んだ。これは、少しだけお説教の予感がする。
「全員浮かれるのが早過ぎる。まだ代行の身だろう、正式な目録許しは刑場で任に就いてからだ」
「は、はいっす!」
剣技と知識の厳しい評定で代行免許の合否が決まり、受かれば山田浅ェ門の屋号を得る。ただし、実際に免許皆伝と呼ばれ段位が生じるのは罪人の首を斬ってからのことだ、先生の冷静な指摘は何もかも正しい。ただ、気持ち眉を吊り上げながらも、口許が密かに緩んでいることに気付けない私ではなくて。来るぞ、と直感が走ると同時に、先生の空気が分かりやすく和らいだ。
「・・・だが、三人共よく頑張った。今日のところは大目に見よう」
「っ先生・・・今の間、すごく狙って・・・ふふっ」
「いい加減泣くか笑うかどっちかにしろよさん」
期聖の突っ込みに対抗すべく、私は強めに鼻を啜る。そっと差し出されたのは、清潔な手拭だった。勿論、目の前で優しく微笑んでいるのは先生だ。
「まずは、涙を拭こうか」
「・・・はい、ありがとうございます」
優しい声も、穏やかな微笑みも、柔らかな手拭の感触すら、私は嬉しく受け止める。
先生。私の特別なひと。でも、それじゃあ駄目だってことは、私が一番よくわかってる。
誰にも気付かれない様に、新しい涙のひと雫を拭い去った。