橙色の穏やかな光が、辺り一面に煌めていた。静かに打ち寄せる波の音と、一歩一歩踏み出す毎に砂浜の感触をサンダル越しに感じる。数時間前こそ刺す様に厳しかった日差しもすっかり落ち着き、肌を撫でていく夕風の程良い涼やかさが心地良い。もうじき日没を迎える広々とした浜辺には、誰もいない。隣に立つ、ただひとりを除いては。
「・・・綺麗だね。信じられないくらい、素敵な場所」
心からの安らぎに満ちた声だった。下ろした黒髪を風に靡かせる横顔は柔らかな笑みを象り、夕日の色に染まっている。妓夫太郎はそれを横目に見下ろし、ひっそりと口端を上げた。
確かに、綺麗だと感じる。眼前の景色よりも、何よりも。
「・・・そうかよ」
「妓夫太郎くんは?もっと陽の高い内の方が良かった?」
「別に。良いも悪いも無ぇ」
冷めたような返事に聞こえただろうか。妓夫太郎は緩く首を横に振り、改めて隣を見下ろした。こちらを見上げる黒い瞳が、正面から目が合っただけのことで嬉しそうに緩むのを間近に感じ、思わず苦笑が零れる。大きな波の音と共に吹いた風によって、彼女の長い黒髪が靡く。一部顔にかかったそれを避けてやると、触り心地の良い滑らかな頬に指先が触れた。口角の上がった、多幸感に満ちた笑顔。妓夫太郎が長年惹かれてやまない、大切に守るべきもの。
「・・・が気に入ったなら、それで良い」
その笑顔が、自分のたったひとことで一際嬉しそうに輝く。橙色に染まった優しい光景を、一層美しく愛おしく感じた。
数カ月前のこと。良い別荘を見つけたから、島ごと暫く借りたんだ、と保護者代わりの男―――大学も卒業し、もうとっくに自分達は子どもではないというのに。嫌だなぁ、俺は永久に君とお嬢ちゃんの保護者だよ、と言い続けている―――は軽い調子で口にした。一体どんな金回りの中を生きているのか、未だ謎多き胡散臭い男ではあるものの、少なくとも今人間として生きている彼からは悪意の類は感じられない。何より、反発はが良しとしなかった。全面的にお世話になり続けているひとだから。常々そう口にして感謝を忘れないの姿にますます気を良くした男によって、島ごと貸切という特別な状況は整えられているのだ。出処はこの際問わない。が目を輝かせて喜んでいる。それが何よりの大事だ。
「ね。少しだけ、波打ち際に立ってみて良い?」
「おぉ。手ぇ、離すなよなぁ」
「うん。ありがと」
ふたりしてサンダルを脱ぎ捨て、さくさくと音を立てながら良質な砂浜を進む。ひやりと固い感触を足裏に感じてから数秒後、さざ波が押し寄せ足首までを濡らした。しっかりと手と手を繋ぎ支えながらも、が小さな興奮に弾んでいるのを感じる。が笑っているだけで、自然と満ち足りた心地がする。幾度も覚え続けている温かな思いに、妓夫太郎も眉を下げた。
「っふふ、気持ちいいね。気温も水温も、今くらいが丁度良いのかも。夕方に来て正解だったね」
「今日は絶対日焼けすんなって、梅にも散々言われたからなぁ」
「梅ちゃんのアドバイスは正しいよ。肌が赤く熱持ったりしたら、明日大変なことになっちゃう」
明日。何気ない単語に、ふたりして暫し口を閉ざす。
波の音は絶え間なく、足元で穏やかな満ち引きを繰り返した。どちらともなく、目と目が合う。夕日色の景色の中で、先に硬直を解いたのはの方だった。ふわりと笑みが花開くと共に、またひとつ静かな波が押し寄せる。
「・・・次の太陽が昇ったら、謝花になれるんだね、私」
この日暮れは、大きな意味を伴った。別々の苗字で見送る、最後の日没。の言う通り、次の太陽が昇ったその時は新たな船出がふたりを待っている。
明日、この島で式を挙げる。ふたりで前泊することは、誰かに強制されるでもなく、互いに望んだことだった。
「・・・やっとだなぁ」
の笑顔を受け止めながら、妓夫太郎は小さく俯く。掠れた声が、しみじみとした響きで波音に紛れた。
『私と、夫婦になってください』
遠い遠い、あの日。時代も命も異なる冬の夜に、三つ指をついて丁寧に頭を下げたの声が、今も頭の中に残っている。
互いに気持ちが通じていると、如何に自己肯定感の低い妓夫太郎であってもわかっていた。それでも尚、外の世界に出ることを優先し、ひたすらに彼女を待たせ続けた。遊女見習いの梅を身請けし、外の住まいや仕事に目途がつき、漸く夢が叶うという前夜。健気な辛抱が瓦解し、溢れ出たの思いに二手も三手も先を取られたあの夜。
ただただ、幸せに満たされた夜だった。決して離れないと、これより先は生涯をかけて最愛を守るのだと、誓った筈だった。
わずか一日で、生きる理由のすべてを呆気なく取り立てられるだなんて、考えもしなかった。
ひとから鬼へ。そしてまたと巡り合い、喪い、再びひとへ。記憶を繋ぎ直せたことは奇跡に違いなかったが、あの夜からどれだけ時が流れたことか。やっとだ。やっと、あの夜の約束を果たせる。の思いに、応えることが出来る。
「散々遠回りしちまったけどなぁ、やっと・・・」
「私は、楽しかったよ」
妓夫太郎の感傷を補うかのように、の声は穏やかで優しかった。思わず、小さく目を見開く。繋いだままの手に、温かな力がこめられる。数限りなく救われてきた笑顔が、妓夫太郎を真っ直ぐに見ていた。
「妓夫太郎くんがいつも傍にいてくれたから。学生生活、特に高校に入ってからはずっと一緒にいられて、本当に毎日がキラキラ輝いてた。高校生から大人になるまでの時間も、一歩一歩、妓夫太郎くんの隣で歩けたから、遠回りだなんて全然感じなかった。いつだって、笑顔でいられた気がする」
これまでの長きにわたる別離と痛みを覚えているのは、決して妓夫太郎だけではない筈が。が口にするのは、どれも今の時代に再会してからの明るい記憶ばかりだった。
「・・・、お前」
「それに妓夫太郎くん、急いだり焦ったりしてないって言ったのは、私だよ」
「それは・・・」
の言葉に嘘は無い。高校三年時にクラスメイトの狛治が恋雪と入籍した時然り、高校卒業時に進学か就職か結婚かの議論をした時然り、はたまた日々の中で本屋に平置きの結婚雑誌が目に留まった際の雑談然り。この時代にはこの時代なりの生き方や価値観があるから急ぐ必要は無い、その時が来れば結婚したいと、は笑った。
実際は逆だ。現実は甘くはない。保護者からどんな多大な援助を約束されようと、自分の力でを守れる基盤が整うまでは承諾出来ないと。焦りと不安を抱えていたのは、妓夫太郎の方だというのに。は何も言わずとも察して待ってくれた。あの時と同じように、辛抱強く見守ってくれた。
不意をつくように、華奢な身が一歩妓夫太郎の方へ近付いたかと思えば、つま先で背伸び。頬に吸い付くような熱が灯り、次の瞬間には悪戯な笑みが至近距離でキラキラと瞳を輝かせていた。
「むしろ今日まで待ってくれたのは妓夫太郎くんの方だね、ありがとう」
「・・・」
「大好き。これまでもこれからも、ずっとずっと、よろしくね」
「・・・お前って奴は」
自信が持てない。不安が拭えない。そうして妓夫太郎が黙って眉を寄せる度、はいつだって理解の上で自然な素振りで立ち止まる。手放しの全肯定と隠さない好意を持って、実に良いタイミングで手を引き歩き出す。どれほどその有難さに救われてきたことか。今も尚差し出された好意そのものを、力いっぱいに抱きしめたい衝動に駆られる。
「」
「なぁに?」
「ひとつ、お前に謝っておきてぇことがある 」
しかし妓夫太郎は、その熱量を額への長い口付けひとつで堪えきり、半歩下がる。細い両肩を掴み、目と目の高さを合わせた。どうしても、今日の内にはっきりさせたいことがある。
「女にとって、明日がどんなに意味のある日かってのは・・・わかってるつもりだ」
「うん」
「けどなぁ」
緊張を解すように、深呼吸をひとつ。ざん、と波の音が存在感を増した。
「主役の席で、周りに愛想振りまくっつーのは・・・お前はともかく、俺には向かねぇと思うんだよなぁ」
心の底から真剣で、切実な告白だった。空白は丸々五秒、の黒い瞳は丸く見開かれた末に、力が抜けたように綻んだ。
「突然改まってどうしたのかと思った・・・大丈夫だよ。明日来てくれるのは、皆妓夫太郎くんのことよく知ってるひと達だから。無理しないで。いつも通りの妓夫太郎くんで良いんだよ」
「・・・折角の晴れの日に、渋い顔した奴が隣にいてもかぁ?」
「それが妓夫太郎くんだもん。どんな表情も素敵だし大好きだよ」
は恐らくそう言って許してくれるのだろうと、内心でわかっていた現実を目の当たりにしながらも、妓夫太郎は自己嫌悪が止まらない。
挙式が決まって以来、梅を始めとする様々な列席者に一般論を説かれ、心配されたのだ。花嫁にとっての一大イベントを、新郎が仏頂面で曇らせてはならない。返す言葉も無かった。の為に完璧な日にしてやりたい気持ちに嘘は無い。しかし何度悩んでも、スポットライトの下で良い顔を出来る自信など、湧いた傍から砕け散っていくばかりで。八方塞がりの状況を打破出来ないまま、前日の今日となってしまった。
に対し、心の底から悪いと思う。しかし、どう足掻いてもこればかりは難しい。そうして難しい顔で天を睨み上げるしか出来ない妓夫太郎に、小さな衝撃がやってきた。思わず目が丸くなる。が両腕でしっかりと抱き着いていた。
「真ん中に立つの、苦手なのに。私の為に挙式を受け入れてくれて、ありがとう。それだけで私は十分だよ。本当に、気負わなくて大丈夫だから。いつも通り、私の好きな妓夫太郎くんでいて。妓夫太郎くんが隣にいてくれるだけで、私は世界で一番幸せな花嫁なんだから、ね」
気遣い一色の声は、ただひたすらに妓夫太郎の憂いを解こうとしていた。これには参ったと、一層困った様に眉が下がる。
彼女には女手一つで育てられた母がおり、数奇な人生を共有してきた兄もいる。旅立つ姿を見せることで感謝を示したいという思いを、無碍になど出来る筈が無い。今世、書道の競技者として知名度の高いは、本来であればもっと広く縁者を呼ぶことも出来ただろうに、妓夫太郎の得手不得手を熟考した上で招待客を共通の友人たちに絞ったのだ。これ以上、一番大事な相手に気を遣わせてどうする。妓夫太郎はそっとを抱き締め返し、その頭に頬を寄せた。
「大事な前日に、しょうもねぇことで気を遣わせて悪い。けどなぁ・・・本題は、ここからだ」
太陽がいよいよ沈もうという、宵闇の気配が色濃く出始めた景色の中で、波は変わることなく静かな満ち引きを繰り返している。
の滑らかな黒髪を丁寧に撫でながら、妓夫太郎は覚悟を決めろと己を戒めた。
「・・・多分、明日は良い顔をしてやれねぇ。集まるのは気心知れた連中だが、余計に悪態もついちまう。お前に釣り合う花婿を名乗るには、明日の俺は圧倒的に役不足だ。それは俺が一番よくわかってる」
「そんなこと・・・」
「だからなぁ」
だから。その言葉の先を言えずに、の察しの良さに甘える己を、今日だけは許さない。
妓夫太郎は抱擁を解くと、至近距離を詰めたままでその両手を掴んだ。
「だから今、お前だけに誓う。神も証人もいらねぇ。、お前が聞いてくれるなら、それだけで良い」
他人の前で、良い花婿を演じられないのならば。せめてだけを前にした今、出来る限りの誠実を誓いたい。
の瞳が驚きに丸くなる。そこに映る己の真剣さに、笑ってやりたいような、よくここまで辿り着いたと感慨深いような、不思議な心地がした。
「必ず、お前を守る。を悲しませない為なら、俺はどんなことだってする。の笑顔の為なら、何だって出来る。今までも当然意識してたことだが、明日からは一層強く肝に銘じる」
「・・・妓夫太郎くん」
「格好つかねぇのは承知の上だが・・・三度目の正直って奴だ」
守れなかった。間に合わなかった。二度味わった絶望を、この先は決して繰り返すものかと強く刻む。祈る様に、妓夫太郎はの手の甲へと口付けた。たおやかなこの手に、何度導かれ、何度焦がれてきたことだろう。もう離さない。何もかも、全身全霊で守る。こんな形でしか、この決意を示すことは出来ないけれど。名残を惜しむように白い手の甲から顔を上げる。暗くなり始めた視界の中で、詰めた距離がの頬の熱を伝えてくれた。今尚彼女からの変わらない愛情を感じる、それが何より、この身を強く支えてくれる。
「を幸せにする。その為だけに俺は生きる。今度こそ、約束だ」
心は通じている。答えもわかっている。それでもやはり、この問いは緊張してしまう。
「こんな俺に、ついてきてくれるか・・・?」
の黒い瞳が、美しく煌めく。驚きと、感嘆と、大きな喜び。それらがゆっくりと時間をかけて推移していくさまに見惚れ、思わず息が止まった。
「・・・はい」
空気に飲まれたのか、畏まった返事だった。しかし、の表情は途方も無く柔らな笑みで満ちている。妓夫太郎は漸く、安堵と喜びに肩の力が抜けた。
きっと明日、列席者たちの前で決められた口上を述べるよりも、今しがたの方が余程緊張しただろう確信がある。そして、ふたりきりの今だからこそ、こうして緩み切った苦笑をさらけ出すことも出来る。どちらともなく、気の抜けた身を支え合う様に抱き締め合った。
「もう。妓夫太郎くん、反則だよ。私が妓夫太郎くんを幸せにするって。今度も私から言いたかったのに」
「甘ぇんだよなぁ。何年傍にいると思ってやがる、いつまでもやられっぱなしでいられるかよ」
言葉で戯れ、互いに薄く笑い合いながらゆらゆらと波間を足踏み、しかし抱擁は解かない。が隙間なくぴたりと寄り添い、見えなくとも最高に良い笑顔をしているであろうことがわかる。それだけで、妓夫太郎は満ち足りた。
が笑ってくれる。それはきっとこの先も一生、最優先事項であり続けるのだろう。温かな体温を大切に包み込みながら、妓夫太郎が大き過ぎる幸せに瞼を閉じて感じ入る、その時だった。囁きの様な心地の良い笑い声が止み、がより一層その身を預けてくる、重さの内にも入らないような気配を感じ取った。
「明日の結婚式は、きっと素敵な一日になると思う」
「・・・だと良いけどなぁ」
「でもね、私は今日のことを、明日と同じくらい特別な思い出に残すよ」
瞬間、何を言われたのか理解が遅れてしまう。背中に回った彼女の腕の強さが、ほんの僅かに増したこと。大きな感情を噛み締めるように、零れた吐息が熱いこと。から向けられる信頼も、愛情も、何もかもが最大限に純度を増したものだと。今この時、妓夫太郎ははっきりとそれを感じる。
「・・・普段着に裸足だぞ、何言ってやがる」
「うん。お互い、ドレスもタキシードも着てないけど。でも、妓夫太郎くんが誓ってくれたこと、陽が沈む海の景色、大好きでたまらない綺麗な瞳の色。今こうしていること、全部、忘れない」
本来ならば、妓夫太郎が明日、完璧な花婿を演じられれば済んだ話だ。それでもは、正装のひとつも纏わない今日の出来事を、本番と同列に特別なものと呼ぶ。
波間を足踏む余裕はいつの間にか消えていた。抱擁が僅かに解けて、爪先立ちになったの両手でそっと頬を包まれる。妓夫太郎はされるがまま、優しい熱を唇に受け止めた。あの夜と同じだと、呆然としながら思う。ああ、やはり敵わない。諦めにも似た、それでも強い幸福の香りがする。
そっと開いた僅かな隙間で、が目を細めて微笑む光景を、妓夫太郎は間近の距離で目に焼き付けた。
「ふたりだけの特別な思い出を、ありがとう。妓夫太郎くんに出逢えたことが、私の人生で一番の宝物だよ」
思わず、言葉を無くす。出逢えたことに感謝しているのはどちらなのか。すべてこちらの台詞を、いつだっては先取ってしまうのだから、困ってしまう。
「私、妓夫太郎くんに幸せを返せる良い奥さんになれるように、頑張るよ。数えきれないくらい、これまで沢山貰ってきたから、時間はかかるかもしれないけど・・・」
だが、やはり今日ばかりはやられっぱなしではいられない。全て、こちらの台詞だと。その反論に代えて、妓夫太郎はの言葉を強引な手段をもって塞いだ。出来る限りの加減と、息継ぎの余裕は残すべく努力する。ただ、頭の奥が痺れる様な幸せと、いよいよ門出が明日に迫る高揚感と、そして競うものではないとわかりつつも遅れを取りがちなもどかしさが、理性とギリギリのところで拮抗する。
の匂い、唇の柔らかさ、鼻から抜ける吐息の甘さ。全て余さず味わいながら、やはり最後に残るのは途方も無い愛おしさに他ならない。打ち寄せる波の音に冷静さを促されるようにして、そっと繋がりが解ける。
不意の反撃にふらつくを支え、何と言ってやるべきか。妓夫太郎は瞬間迷った末に、緩く苦笑を零す。
「・・・俺はとっくに幸せだ、ばぁか」
黒い瞳が丸くなった末に、満開の笑みに染まる。この光景に勝るものは無い。妓夫太郎は戯れのようにと額を合わせ、力が抜けたように笑い合った。
最後の陽光が、遂に地平線の向こうへ優しく消えた。