忘れ得ぬ夜





連れとはぐれない様難儀してしまう様な喧騒も、陽が落ちて尚鎮まらない暑さも、まるで気にならない。どこからともなく響く軽快な笛と太鼓の音、闇夜を彩る提灯の数々。活気に満ちた声が飛び交う、淡い光の一本道。

「やだ、なかなか良い感じじゃない!大したことないお祭りだと思ってたのに!」
「う、梅殿、声が大きいですよ・・・」
「なんでそんな顔するのよ、アタシ褒めてるんだけど」

そして、派手な柄の浴衣を着こなす梅が歓喜の声を上げている。周りの目を気にして狼狽える幸太郎をよそに、期待以上の光景に目を輝かせる梅の様子はどうしたって可愛らしく、は小さなうちわを片手に頬を綻ばせた。
四人で一緒に来れて良かった。昨年までは考えもしなかった嬉しい現実に、心がうきうきと弾む。不意に目が合うなり、大きな青い目をキラリと輝かせた梅がの腕に絡み付いてきた。

「お姉ちゃんこっち来て。先生、写真撮って」
「私で良いの?」
「お姉ちゃんが良いの!」

甘えに全振りした上目遣いや強引な振る舞いは、家族とほぼ同等に心を許してくれている証だ。は嬉しさに目を細めたまま梅の言う通りの位置に立ち、双子の兄が構える携帯に笑みを向けた。自然と、その隣に立ち腕を組んでこちらを見遣る存在が目に入る。何かを察したのか、幸太郎もまたそちらへと顔を向けた。

「私が撮りますから。妓夫太郎殿も入ってはいかがですか?」

と梅の並びを黙って見つめる視線は、穏やかなものだった。それが幸太郎からの提案を受け、途端に困惑と疲労感を滲ませる。

「写真は暫く勘弁しろよなぁ・・・お前らと合流する前にどんだけ無駄に連写されたと思ってんだ」
「もう!無駄とか言わないのお兄ちゃん!今はお姉ちゃんとふたりで全身が良いの!ほら!先生早く撮って!」

は思わずクスクスと肩を揺らして笑った。腕を組みながら近距離自撮りカメラで何枚も撮影を重ねる梅の姿も、それに対して険しい顔で耐える妓夫太郎の姿も、想像することは容易い。可笑しくて、微笑ましくて、そして愛おしい。背伸びをして顔を近付けてくる梅に応えるように、も込み上げる笑みをそのままに首を傾けた。こつんと頭が触れ合う、それだけのことでも心が弾む。
言われずとも何枚か、いくつかの角度で長めの撮影を終えた幸太郎が近付いてきた。差し出された画面には大変良い出来が並んでいる。流石のサポートスキルだ。と梅は同時に小さく歓声を上げた。

「キャー!ばっちり!お姉ちゃんの浴衣もとっても素敵!あとで画像送るわ!」
「梅ちゃんには全然敵わないけど・・・うん、良い写真だね。お兄ちゃんも、撮ってくれてありがと」
「いえいえ、役に立てて良かったです」

例え絶世の美女などと呼ばれていようとも、写真の中で無邪気に喜びを表現する梅は、にしてみれば昔から変わらない幼子のままだ。良い記念写真が、祭に踏み込もうという高揚感を更に高く押し上げてくれる。わくわくと弾む鼓動でが顔を上げた、次の瞬間。

「じゃあ二人とも、あとでね」
「え?」

まさかの展開だった。呆気なく、梅が四人を二人ずつに分断したのである。言うまでもなく、と妓夫太郎、梅と幸太郎の組み合わせだ。梅の隣で苦笑しながら頭を掻く幸太郎は異を唱える素振りが無い。寝耳に水と言わんばかりに目を丸くするしかないを前に、梅が眉を寄せて腕を組んだ。

「ちょっと。当然そこは頷いてバイバイでしょ」
「でも、四人で回れるって思ってたし・・・お兄ちゃんだって、そんなこと一言も」
「・・・すみません、
「内緒にしてって言ったのはアタシよ」
「それはそうですが、私も同意見だったので」

は落ち着かない顔のまま、会話に入ろうとしない妓夫太郎を振り返る。若干の眉間の皺は彼にとっても初耳であることを物語ったが、溜息交じりの半目は既に事態を諦めているようにも見えた。

「いつも大体四人なんだから、今日はお兄ちゃんとデート。わかった?」
「折角のお祭りですから、ね」
「二人で楽しんできてよ。アタシも先生と一緒に、目一杯お祭り満喫するから」

気を遣われたのだ。別段、四人で行動することに何の不満も無く、自然のように楽しむ気満々であったところから、突如として真正面から道を分けられ、そして背を押される。梅は強引に妓夫太郎の手を引っ張ってくると、しっかりとの手を握らせ、仕上げに渾身の力で二人分の重なった手をプレスした。

「離さないでね、お兄ちゃん。絶対よ」
「・・・わかってる」

低く掠れた一言は、からそれ以上の反論や戸惑いを根こそぎ抜き去るような威力を伴った。梅の力ではなく妓夫太郎の意思で確かに握られた手の感触が、の頬に仄かな朱を走らせる。漸く、梅が満足そうに笑った。

「わかれば良いの。ほら先生!あっち!お面買って!早く!」
「あああ梅殿、走ると他の方にぶつかりますから・・・!」

二人の姿が慌ただしく雑踏に消えていくのを、暫し無言で見送った。手と手を繋がれたまま、は妓夫太郎の顔を見上げる。思いもしなかった展開だけれど、緩い苦笑を浮かべてしまうのは二人同時のことだった。

「あいつは言い出したら聞かねぇからなぁ」
「ふふ・・・そうだね」

梅がそう決めたのなら、異論などありはしない。四人で祭を巡ることを楽しみにしていたことも事実だけれど、こうして二人で取り残されたところで不安や残念な気持ちはまるで生まれない。
ずっと変わることの無い、心の奥底に住まうただひとりだ。ふたりの時間は、堪らなく嬉しいに決まっている。

「行かねぇのか」

そっと手を引かれて歩き出す。は頬の熱さを笑って頷くことで誤魔化した。


* * *



賑やかで、楽し気で。そして、地域の祭であるからこそ、普段から生活を共にする縁で溢れた祭だった。合わせる顔は大抵知り合い、友人、学校関係、ご近所さん。繋がれた手に囃し立てられることもあったが、各々祭を楽しむ中での空気感で手を振り合ってすれ違い、時には射的の屋台で並び立ち、そして大人たちの大盤振る舞いを受け、ふたりはこれでもかと言わんばかりに祭を満喫していた。

メインの大通りから少し外れたベンチ周辺には人影も無く、しかし四人は座れるであろう隙間は二人しかいないにも関わらず物でいっぱいになっていた。

「あー・・・全然減らないね」
「両手塞がってんのが見えねぇのかって話だ、ったく・・・」


『立花少女!持って行くと良い!父と母が出している出店のたこ焼きだ!ふたりで食べなさい!俺も今食しているところだ!美味い!美味い!美味い!』

『きゃああ!!!ちゃん!妓夫太郎くん!カップルには絶対これよ!メロンサイダー!恋の味!是非奢らせて!ストローは二本挿しておくわね!』

『はー・・・お前ら祭の真髄をわかってねぇな、りんご飴は基本中の基本だろうが。当然ド派手に、特大な!!』


これは巡り会った内のほんの一部抜粋に過ぎない。とにかく好意、厚意、そして少々の揶揄いもありながら、数々の親切心によって妓夫太郎とは瞬く間に手一杯になってしまい今に至る。どんなに重量が増えようとも、徹底して離れない左手の熱さに心が緩みっぱなしであったことはの甘やかな思い出だ。
すれ違った狛治と恋雪は同じくはぐれない様中心で手が繋がれていて、自分たちもああいう風に見えているのだろうかとぼんやり考えながら、恋雪とお互い照れた顔で手を振り合ったことも。
集団の波に飲まれない様、妓夫太郎が身を挺してを庇う現場を鱗滝に見られ、感心感心と素直に褒められた彼が何ともむず痒い顔で俯いていたことも。
偶然行き合ったしのぶから下駄の鼻緒で足を痛めない素晴らしい対策を授かり、返礼として(妓夫太郎は相当に抵抗しながらも)真正面からのツーショットを撮られたことも。
鮮やか過ぎる色合いの一ページが急速に刻まれて、気持ちとしてはほくほくどころではない。まるでのぼせた様な心持で、は今も賑わう大通りの灯を見遣った。優しく、温かな光だ。なんて良い夜だろう。心の底から、そう感じる。
不意に隣から差し出された綿飴に、は目を瞬く。串焼きを頬張りながら、妓夫太郎がこちらを見ていた。

「余裕あんなら手伝えよなぁ」
「うん、ありがと」

食べても食べても底の見えない戦利品の数々も。宵闇を照らす陽気な灯も。何もかも、大好きなひとと分け合うからこそ特別な意味を持つ。口いっぱいに広がる柔らかな甘さも、替え難く貴重なものに思えた。

「美味しいね」

妓夫太郎は答えない。その代わりに無造作に前髪を撫でられ、無言であってもこちらに向けられる青い瞳が優しいことは十分に伝わって。は大き過ぎる幸せに包まれたような心地で、もうひとくち綿飴を頬張った。
楽しい。嬉しい。今なら何でも出来そうな気さえする。

「どの屋台も美味しい物売ってるよね。私、大判焼きのお店にまたあとで寄りたいんだ。さっき甘露寺先輩が抱えてた大きなかき氷も興味あるけど・・・流石にお腹壊しちゃうかなぁ、妓夫太郎くんまだ食べられそう?二人で半分ずつなら、大丈夫かなぁとか」

思いのまま、心のまま。願った順に言葉を紡ぎ続ける最中、は不意に口を噤んだ。妓夫太郎が先程と変わらず穏やかな顔でこちらを見ている。ただ、それはの感じる高揚感とは違っているだろうことも、はっきりとわかる。舞い上がり過ぎた己を、は素早く恥じた。

「・・・ごめん、私ばっかり盛り上がっちゃってるね」
「いや、そうじゃねぇ」
「でも妓夫太郎くん、人混みで疲れちゃったよね?」
「まぁ、いちいち声かけられたり、真っ直ぐ歩けねぇような混雑は確かに鬱陶しいけどなぁ」

混雑を好んで突き進み知り合い中に声をかけようなどと、彼がそうした性分とは真逆なことなどわかりきった話だ。この状況では疲れているに決まっている。いくら楽しくとも、それが相手も同じとは限らないものを。反省の色を濃くしてが苦笑する、その刹那。

細く長い指先が、ゆっくりと前髪の流れをなぞる。つられるように、目と目が合った。米神をたどり、頬骨の上を滑る。まるで慈しむかの様に丁寧に、優しく。その掌でそっと片側の頬を包まれた時になり、元から穏やかに見えた青が更にほどけたような気さえして。

「お前がそうやって機嫌良く笑ってんなら、何だって良い」

もう何度目かもわからない、特別な音をの鼓動が刻んだ。
周りの目がある時の気怠げな雰囲気も好きだ。警戒心を隠さず周囲を牽制する少々尖ったところも好きだ。
でも、ふたりきりの時に見せてくれるこの特別な甘さが、堪らなく好きで、好きで、どうしようもなくて。

「・・・お祭り、一緒に来れて嬉しいの」

の方から、頬を包む大きな掌にそっと触れ返した。心の内をどんなに曝け出しても受け止めて貰えるような、 絶対的な安堵を感じる。

「灯火祭、覚えてる?」
「忘れる訳が無ぇんだよなぁ」

即答に穏やかな笑みと、懐かしさが込み上げた。
にとっては二周も前の命だ。 それでも、昨日のことのように思い起こせる。特別で、途方も無く輝いた一日だ。

「一晩限りでも、妓夫太郎くんと梅ちゃんと外のお祭りを楽しめて・・・三人一緒にいることを、誰にも嫌な顔されなくて・・・ああ、やっぱり私、外の世界に出るなら二人と一緒じゃなきゃ意味無いんだって、自分の夢を再確認して。それから・・・沢山、沢山、両手いっぱいの幸せを噛み締めたよ」

現状のままでは届かない、遠過ぎる願い。身に付けた学問を極め、身ひとつで外へ出るだけでも保証の無い未来は、大事なひとが傍にいなければ色褪せてしまうものだと痛感した。
誰にも白い目で見られることなく、自分の好いたひとと澄んだ空気の町で生きたい。濁り切った生まれ故郷からはそう容易くは抜け出せない。それを承知の上で、それでもは妓夫太郎に傍にいて欲しいのだと願った。

「だから、思い切って本当の気持ちを話した時。妓夫太郎くんが・・・約束は出来ないけど、精一杯足掻くって答えてくれて。夢みたいに、嬉しかった」
「・・・
「私の、大切な思い出。特別な日。私にとって、人生がまたひとつ輝いた、忘れられないお祭り」

妓夫太郎がいなくては意味が無い。梅を見守れないなら意味が無い。きっとどんなに温かな世界も、ふたりと共に在れないならば凍えてしまう。三人揃って初めて踏み込んだ外の祭によって、はそれを心の芯まで思い知らされた。
だからこそ、身勝手でしかなかった一方的な思いを、妓夫太郎に撥ね付けられなかったことが嬉しくて。途方も無く困難なことをわかっていながら、可能な限りの寄り添いを見せてくれたことが、例えようも無く幸福に思えて。
既に友人の枠には収まりきらずにいた思いが、明確に溢れ出したような日だったようにも思える。温かさなど望めない暗い街で出会えた、稀有な優しさをもって生まれて来たひと。変わり者と疎まれていたを初めて賞賛してくれた、奇跡のような喜びを与えてくれたひと。
ずっと一緒にいたい。叶うのなら、一番近くに。魂がそう望んだ、唯一のひと。

「だから今、こうして一緒にまたお祭りを楽しめてることが嬉しくて。もう何も心配いらないんだって思うと、本当に」

ほんの一瞬の出来事だった。
の言葉を遮るようにして、視界からぼんやりとした祭の灯が消え去る。その代わり、包まれ包み返しているのとは逆側の頬に、柔い熱を感じ。目を瞬いた次の瞬間には、間近の距離で最愛と見つめ合っていた。暗がりにありながら、少し遠い灯に照らされた青い瞳の、何とも言えない色合いが美しくて。ああ、綺麗。は幾度となく覚えて来た思いに、恍惚と溶かされていく。

「・・・梅を背負うので精一杯で、度胸も覚悟も無かったあの日の俺に、教えてやりてぇよなぁ」

眉を下げて困ったように笑う、優しい瞳が。密かな音量で囁かれる、掠れた声が。

「お前はいつか、夢じゃなく本物の幸せってやつを手に出来る。今は途方も無ぇ遠い道のりでも、隣にいる大事な手を離さずに済む未来が必ず来るってな」

彼を象る何もかもが、確かに自分ひとりに向けられて、こんなにもはっきりとした愛を示してくれる。それは、もうこれ以上ないほどの尊い幸せで。は無意識に、包まれたままの掌に頬を摺り寄せた。微かに笑うような吐息が響いたと思えば、次の瞬間には額や瞼にも短い温かさが降ってくる。くすぐったい様な、それでいて癖になる様な多幸感に、も笑った。小さく音を立てて鼻先に降ったそれを最後に、再度至近距離で見つめ合う。

「・・・ま、伝えたところで信じやしねぇか。卑屈なのは性分だが、あの頃は輪をかけててめぇに自信が無かったからなぁ」
「どんな妓夫太郎くんも、私は好きだよ」
「・・・お前が物好きなのも変わらねぇなぁ」

幸せだ。信じられないほどに、幸せなのに。もうひとつ、欲しくなってしまう。
強欲な奴だと笑われても良い。はそっと瞳を閉じた。それほど時を置かず、願った場所に齎された熱源を、大切に受け止める。今度は一瞬ではなく、数秒の間妓夫太郎は動かなかった。そんな優しさが、嬉しくて。すべて理解して貰える今が、心の底から尊くて。ふたり同時に目を開ける。気恥ずかしさと愛おしさが混ざり合って、笑いあった拍子にもう一度唇が触れ合った。
不意に、妓夫太郎が時計を確認する素振りを見せる。

「片付かなかった分は向こうに持ってくしかねぇなぁ・・・ほら、さっさと行かねぇと始まっちまうぞ」
「え・・・何が?」

到底無くなりきらない荷をかき集め、妓夫太郎が唐突に立ち上がる。じんわりと熱に浮かされたような戯れから頭の切り替えが上手くいかず、は不思議そうな顔でそれを見上げるばかりだったが、彼の表情は若干のもどかしさを醸し出していて。

「・・・河原。これ以上は言わせんなよなぁ」

差し伸べられた手を、そしてこちらを見下ろす瞳を見つめ返す。思い出に残る大事な局面まで、彼が再現しようとしてくれている。それに漸く気付いたその時、の心臓がまたひとつ軽やかな音を立てた。

妓夫太郎が好きだ。昔も今も何ひとつ変わらない思いに、は何度だって喜びと幸福を覚える。

「・・・うん!」

もうじき河川敷で大輪の花が咲く。は満面の笑みでその手を取った。