毒と薬は紙一重





不意の溜息が白い。妓夫太郎はひとつ瞬く間に、冬の深まりを実感した。

幼い頃は生活も極めて貧しく、食べる物も着る物もごく限られる中の寒さは命に関わる一大事であった筈が、いつの頃からか梅が雪遊びを楽しみ、火の傍にあたることで弛緩する喜びを味わえる様になっていた。
冬もそれ程悪くはない。特にこの冬―――梅の身請け及び新天地への出発、その日がもう間もなくに迫る今は、特別にそう感じる。軽くなる足取りに己自身も気付かないまま、妓夫太郎は寂れた町を往く。向かう先は、すっかり慣れ親しんだの作業場だった。
別段、何の約束を交わしている訳ではない。ただ、仕事の前後に顔を出す流れは自然に出来上がっていたもので、今日もまた小屋のすぐ近くで足を止める。扉の前には立たない。先客の気配を感じ取った為だった。

ちゃんの薬は本当によく効くねぇ、助かったよ」
「良かったです。お辛そうでしたもんね・・・」

の商売は相変わらず軌道に乗っていた。最初こそ帯や着物ではなく図鑑を好む変わり者と遠まきにされていたものの、今や彼女の煎じた薬目当てに遊郭の外から客がやってくる。店を移転する旨を告知して以降も客入りの続く現状そのものが、の評判と実績が確かなものである証だった。
仕事中のには声をかけない。町の外で用心棒をする時と同じく、一貫した信条で壁に寄りかかる。妓夫太郎は幼馴染が如何に出来た人間であるかを誇らしく感じ入りながら、白い息を吐き出した。

「もうすぐ一旦店仕舞いだろう?出来ればあと少し、買っておきたいんだけど」
「・・・痛みが引いたのであれば、止めておきませんか」

商売をしている以上は少しでも売れば儲けになる。その機会に自ら待ったをかけるの判断に、妓夫太郎は疑問と共に興味を惹かれる。

「薬も必要以上に摂取すると毒になりますから」

迷いや下心の無い声だった。顧客の為にならない。それを理由に己の利を優先しない。まったく、金と欲にまみれた町にはとことん不釣り合いでありながら、心底らしい言い分だ。妓夫太郎は思わず薄く笑みを浮かべてしまう。

「そうかい?まぁ、ちゃんがそう言うなら・・・」
「折角のお申し出なのにすみません。あの、ご希望の薬ではないんですけど、良ければどうぞ。喉に良い飴です」
「まあ、気の利いた包みまで。ありがとうねぇ」
「こちらこそ、ご贔屓にしていただいてありがとうございました」

恐らく最初から、馴染み客の挨拶用に準備していたのだろう。礼儀正しく、真摯で、豊富な知識を使いてきぱきと作業に当たる。仕事中のが醸し出す、幼馴染の側面とは少々違った顔もまた、妓夫太郎は嫌いではなかった。

「引っ越し先は茅川町だったよね?困った時は必ず行くよ」
「ありがとうございます・・・!お待ちしてます・・・!」

一世代は違うだろう女の客と共に、が表へ出て来る。妓夫太郎は咄嗟に壁沿いの死角へと身を潜ませた。

「お大事になさってください」

深々と一礼をする、色気とは方向性の違う丁寧な所作。頭を上げた末、客を最後まで見送った真っ直ぐな背中がこちらを振り返る。
仕事人から、幼馴染へ。の表情がはっきりと切り替わる瞬間を、妓夫太郎は酷く眩しい思いで受け止めることとなった。

「妓夫太郎くん・・・!」

どんなに妓夫太郎の自己肯定感が低かろうとも、どんなに二人の格差が明確であろうとも。これは、どう考えても心底喜んでいる顔だ。背景に花が飛ぶが如く疑いようの無い好意を一身に受け、妓夫太郎は苦笑を零すしか無い。挨拶代わりに上げた片腕をするりと取られ、は客が帰ったばかりの室内へ導こうとした。

「これからお仕事?少し寄る時間、ある?」
「・・・おぉ」
「良かった!すぐお茶淹れるから座って待っててね!」

ほぼ毎日顔を合わせていながら何がそんなに嬉しいのか、という思いは湧いた傍から泡と消える。妓夫太郎とて、この笑顔を向けられて嬉しくない筈が無い。ただ、正面から受け止めるには、の好意はあまりに直球で気恥ずかしい。それだけのことだ。

「お前も忙しいんだからよぉ。俺なんかに構う時間が勿体ねぇとは思わねぇのか」
「私が好きでこうしてるんだよ。妓夫太郎くんだってわかってるでしょ」
「・・・うるせ」

彼女は照れ隠し以上悪態未満の抵抗になどまるで動じない。表の扉を閉め、鼻唄混じりに手早く二人分の茶を用意し、にこにこと上機嫌な笑みを携え戻って来る。まるで、妓夫太郎の隣が心休まる特等席であるかのような、そんな顔をして。

「熱いお茶が美味しい季節になったよねぇ」
「・・・そうだなぁ」

妓夫太郎とは長年続く幼馴染であり、そして決定的な一線を目前に立ち止まる、極めて恋仲に近い関係のふたりである。醜いと疎まれ蔑まれ己の出自を呪った少年が、外の世界を夢見る幼馴染と関係を育み、紆余曲折ありながら漸く外での生計の見通しを立て、今に至った。
自身の将来に展望も無い、の隣にいられる自信も無い。そうして俯いていた筈が、今はこうして隣合い季節を感じることに穏やかな未来さえ思い描き始めている己がいる。妓夫太郎は熱い茶を啜り安堵の息を零し、横目でを覗き見た。
何とも安心しきった顔をして、長閑で幸せそうな溜息に目を細めている。この先も、ずっとこうしていられるだろうか。お互い歳を重ねて、皺や白髪が増えて、それでもきっと、いつまで経ってもは可愛いままなのだろう。無意識にでも、数年後、数十年後に思いを馳せられるようになったことは、紛れも無い前進で。そして不意に目が合ったことにより、妓夫太郎は熱い湯呑を危うく取り零しそうになるのだった。焦りを誤魔化すかのように、強引に目を逸らし話題を手探りに引き寄せる。

「・・・さっきの話」
「ん?」
「薬が、毒になるってのは」
「本当だよ。使い方と量を間違えれば、薬は毒になるの」

はわかり易い誤魔化しを追及せず、正面から疑問に答えた。片付き始めた殺風景な作業場の窓際から、小さな瓶に飾られた花を手に妓夫太郎の元へ戻る。

「芥子の花だよ。少量煎じれば、鎮痛剤や眠りを助ける薬になる、可愛くて万能な花」

赤く丸い、大きな花びらが印象的な花だった。それを掲げるの説明口調は丁寧で。そして同時に、若干の緊張感を孕んだものだった。

「でも、許容量を超えれば幻覚や幻聴で正気を失わせる・・・ひとを静かに壊せる毒になるの」

薬がひとを壊す毒になり得る。薬草を取り扱うからこその危機意識の高さに、妓夫太郎は目を瞬く。必要以上に脅かしてしまったと感じたのだろうか、が芥子の花を後ろ手に隠した。

「逆に、毒が薬になることもあるんだけどね。トリカブトって有毒で知られる花があるんだけど、実は使い方と量によっては身体を温めてくれる効能もあって・・・」

その饒舌さは己の得意分野を語る喜びに満ちながら、相手を置き去りにしない気遣いにも長けていて。感心のあまりじっと見据える妓夫太郎の視線を受けて、不意にが口籠る。

「・・・妓夫太郎くん?」
「生き生きと語れるその知識を、実際に仕事に活かすってのは・・・誰にでも出来ることじゃねぇ。学の無ぇ俺にだって、それくらいはわかるからなぁ」

この街を嫌い、いつか外の世界で生きる為に知識を武器にしたいと図鑑を掲げた幼き日の姿が、まるで昨日のことの様に思い出せる。まさしく有言実行の結果、こうして自立した幼馴染の存在が、妓夫太郎は心の底から誇らしい。

「お前は本当に、凄ぇなぁ」

数日後、約束通り共に外の世界へ行けるだなんて、まるで夢の様だ。そうして最愛を眩しく見つめる妓夫太郎の視線を受け、の表情が変わった。小さく照れてはにかんだ末、何かを大事に噛み締めるかの様に俯く。

「・・・本当に、毒が薬になったんだね」
「何だぁ?」
「私の、人生の話」

は出会った当初から、妓夫太郎を見た目で忌避しなかった。当然の様に友情をもって接し、それがいつの頃からか熱を帯びたものに変わり。そして今、最後の一押しを待つばかりの瞳は、到底抗えぬ引力をもって妓夫太郎を惹き付ける。

「あの日、妓夫太郎くんが食べようとしていた毒が・・・ひとりぼっちだった私の人生の薬になったの」
「・・・
「一時梅ちゃんの命を危険にさらしたことも嘘じゃないけど、やっぱりあの毒が私と妓夫太郎くんの仲を繋ぎ直してくれた」

あの日、飢えに耐えかね毒草に手を伸ばした妓夫太郎を、が引き止めた。目を離した隙に同じ毒を口にした赤子の梅を、当時一方的に遠ざけたにも関わらずが救った。与えられるばかりと俯きがちになる妓夫太郎の手を取り、はあの毒を人生の薬と呼ぶのだ。

「私、遊郭の淀んだ空気が嫌い。妓夫太郎くんを悪く言うひとたちは皆嫌い。でも・・・大嫌いなこの町に生まれたから、妓夫太郎くんと梅ちゃんに会えた」

嫌な思いも数知れずしただろうこの町で、負の記憶を恨むよりも、ここでなければ果たせなかった出会いを愛おしく語る。そんなの姿に、妓夫太郎はまたひとつ大事なことを教わったような心持で眦を下げた。
物心つくより前から蔑まれ、嘲られ、この醜悪な町に愛着など欠片も無い。惨めさに涙したことも、理不尽さを呪ったことも数えきれないほどある。それでも、この町に生まれなければと出会えなかった。この幼馴染に、それは毒だと止められたあの日から、妓夫太郎の人生に光が差した。例えどんなに劣悪な生まれであったとしても、と出会えたことを思えば否定など出来る筈が無い。

「毒も薬も、本当に紙一重だね」

毒が薬となったのは、こちらにとっても同じこと。面と向かっては言い辛い台詞に変えて、妓夫太郎は湯呑を置きの前髪を撫ぜる。くすぐったさと多幸感に跳ねる笑い声が、心地よく響いた。



* * *



冬空は見事に晴れ渡っていた。扉を開けて一歩踏み出した際の眩しさに、妓夫太郎は僅かに目を細める。わざわざ見送りなどいらないと毎度断るものの、来客が無い限りがこれに聞く耳を持ったことは無かった。並んで外へ出るなり、冬の北風に震えながらも天気の良さには良い笑顔を見せる。これから物騒な仕事に行くことを暫し忘れてしまえるような幼馴染の穏やかさに、妓夫太郎が苦笑を浮かべた、その時だった。

二人の耳が、同時に雑音を拾い上げる。醜い。怖い。そういった類の悪意でしかない陰口だった。当然それは妓夫太郎に向けられたものであるのだが、憤慨するのは本人ではなく隣に立つなのだ。下がりがちの眉を無理に吊り上げ、陰口が聞こえて来た方面に物申しに行きかねない顔をする。これには思わず妓夫太郎が待ったをかけた。

「おい・・・なんて顔してやがる」
「だって・・・!」
「今更誰にどう思われたところで、気になんねぇよ」

仮にも仕事場の前で不必要な揉め事を起こすことは無いだろう。それに、何も気にならないという言葉は本心でしかなかった。町中から忌み嫌われようとも一向に構わない。心から守りたい大事な存在が、ふたりもいる。それだけで強く生きていくには十分過ぎる理由だと、今なら喜ばしく思える。妓夫太郎はそうして薄く笑った。
しかしながら、やかんの様に憤りの湯気を小出しに上げ続けるはどうにも鎮まる気配が無い。妓夫太郎は少々遣り方を変えることにした。

「けど、お前の眉間の皺が戻らなくなっても困るからなぁ」
「え?やだ・・・!」

ぱっと額を押さえ後ずさるの表情から、目に見えて炎が鎮火した。妓夫太郎は込み上げる愛おしい可笑しさを懸命に耐えながら、半歩彼女の前へと進み出る。

「もう少しの辛抱だからなぁ。引っ越しが済めば、お前も機嫌よく過ごせるってもんだろ」

転居先の茅川町の住民は、不思議と妓夫太郎の外見に眉を顰めない者達の集まりだ。が無駄に憤ることも、この前髪の下に険しい筋が寄る機会も激減することだろう。今更周りにどう思われようと何とも思わないが、が笑ってくれるのならば、それだけで新天地への旅立ちが待ち遠しく思える。

「うん。でも・・・妓夫太郎くん、ひとつ大事なこと忘れてる」
「あぁ?」
「例えどこに引っ越したって、私、妓夫太郎くんがいなくちゃ笑顔になれないよ」

なかなかに威力のある反撃で、妓夫太郎は暫し言葉を失った。
少々の照れと、滲み出る好意が綯交ぜになった、何とも心に来るものを秘めた笑み。お互いに、気持ちが通じている。それをほぼ確信しながら最後の一歩を待ち侘びる、健気で真っ直ぐな熱い思い。例え一生かけても敵う気がしない、妓夫太郎が生きる理由、そのもの。思わずその頬へ伸ばしかけた手を、ぐっと堪えた。

「・・・言ってろ、ばぁか」
「ふふ」

あと数日だ。梅の身請けは店側に了承され、三人で暮らす転居先も殆ど整っている。あとは、梅に課された最後の座敷を勤めればそれで終わる。散々待たせたの気持ちに応えることも、もうじき叶う。

「行ってらっしゃい。気を付けてね」
「・・・おお。行って来る」

夢に見た明るい世界は、手を伸ばせば届きそうな程近い。覚悟と期待を胸に秘め、妓夫太郎は残り少ない荒仕事へと歩き出した。