厨の一角で、つい先程慎重に火から下ろした鍋が鎮座している。
この時代、檸檬を栽培している数少ない農家さんに頭を下げて、何とか分けて貰えた貴重な代物。私の元の世界なら簡単に調達出来る筈が、材料も器具も限られているからこそ時間のかかった、さつま芋の檸檬煮。たかがおかずの一品だけど、甘さと酸っぱさを絶妙な塩梅に調整して、絶対に焦がして匂いを損ねない様注意深く火を見て、一生懸命に仕上げた自信作。
全ては、大好きなひとに喜んで貰う為。どんな手間も時間も、あの優しい声を驚きと喜びで弾ませられるなら安いものだ。
そんな私の思いが充満した調理場に忍び込んだ挙句、ご丁寧に布巾を挟んだ手でその蓋を掴み開けようとは、不届き極まりない。
「おいおいおいおい」
私は厳しい形相で侵入者の背後に立った。途端に湯気の漏れた蓋から手を放し、頬を引き攣らせるのは近所に住まう悪戯坊主だ。日中、我が家には数人の子どもたちが集う。先生が護身術を指南している、その生徒のひとりである。
教室は庭先で開かれる。無償だし、やってくる子どもたちに食事の世話まではしない。家には上げない。当然、厨に勝手に忍び込んで良い筈が無い。相手はほんの十歳にも満たないちびっこだけれど、私はそう甘くは無い。背景にゴゴゴゴゴと重い効果音を携えながら、焦りに固まる子どもの頭を掴んだ。不要な力は入れない。しかし、未遂とはいえ悪事を働こうとした代償として圧はかけさせて貰う。
「まさかとは思うけど、摘まみ食いするつもりじぁあないよなぁ?私が手間ひまかけた傑作を。まさか。ここに通う身でそんな礼儀知らずなこと、しないよなぁ?」
傷めつけるつもりも、泣かすつもりも無い。でも、きっちり反省はして貰う。そうして眉間に皺を寄せる私の肩を、そっと掴む手があった。
「放してやりなさい」
「あっ・・・!」
隙を逃すことなく、悪ガキはするりと私の拘束を抜け出て厨から飛び出す。悔しいような、憤りが若干収まらないような、もやもやとした気持ち。私はぐっと両の拳を握り締め、すぐ隣に立った先生をもどかしい顔で見上げた。
「だ、だって!私の傑作、うっかり摘まみ食いされそうになったから・・・!」
「子どもの悪戯だよ。大方、美味しそうな匂いに釣られて入り込んだのだろう。大目に見てやろうじゃないか」
「ぶっ、大目に見る・・・!あ、いやいや、駄目です、今日は駄目・・・!」
「ほう。理由を聞こうか」
ちびっこ相手にここまで怒りを示すわけは、色々あるけれど。
ひとつ、この時代では果物として希少であることを知って、檸檬煮を振舞ったのは今日が初めてではないから。
ふたつ、食べ易い調整をされていない生の檸檬を用いた試作第一号は、お世辞にも良い出来とは呼べなかったから。
みっつ、それでも文句のひとつも言わなかった先生に今度こそ良い味を届けたくて、私はここ数日味の研究をしていたから。
でも、お祝いでも何でも無い普通の日、たかが煮物ひとつ、子どもの摘まみ食いに目を吊り上げて憤る私はさぞ滑稽だろう。私は先生の困る顔を見たくなくて、足元に視線を落とした。稽古はもう終わった様で、庭先に残り遊んでいる幼い声がいくつか聞こえた。
「一番に食べて貰いたかったのは、あの子じゃないから」
「・・・」
「・・・大人げないって、呆れて良いですけど」
自分でもみっともないと思う。良い歳して、不貞腐れるようなことじゃないとも思う。
でも、先生はそんな私の自己嫌悪も放置はしなかった。鍋の蓋を開けて、良い感じに味の染みた気配と匂いに微笑んで。私の気持ちを立て直す為に、一番効く言葉をくれた。
「では、今一口頂くよ」
現金なほどぱっと明るくなった胸中で、私はいそいそと小皿と菜箸を準備する。
先生は腕を組んで穏やかに口端を上げたまま、動かない。ああ、そういう感じか。私は一瞬緊張で構えながらも、一口大に切り揃えたさつま芋をひとつ、箸に乗せて先生の口許へと運ぶ。どんなに私の手が慣れないことで危なっかしくとも、口から溢す様な粗相を先生がする筈も無く、ぱくりと綺麗に収まった。
「ど、どうですか・・・?」
「驚いた。前回より格段に美味しいよ。成程、これがさつま芋の檸檬煮か。甘味と酸味の相性が絶妙だな」
「良かった・・・!」
先生が喜んでくれた。今度こそ納得の行く出来で、先生の笑顔を引き出せた。たかがおかずの一品、されど私の生活の大事な一部。先生と暮らす毎日は、どんな欠片だって大切な宝物だ。喜びの小躍りが止まらない私の頭に、ふわりと先生の手が乗る。とびきり優しい表情が、私を見下ろしていた。
「ありがとう。私の為に一生懸命頑張ってくれたことが、何より嬉しいよ」
先生の声が、心底柔らかくて。私の頭をゆっくりと撫でるその手が、ただの師弟関係以上のそれを物語る。先生の目は盲目だけど、これ以上無いくらい穏やかで愛情深く見つめられていると、はっきり感じる。
優しくて、包容力があって、安心感の塊のような、素敵なひと。
未だに信じられない。私が、このひとにとってただひとりの“特別”になれただなんて。
地に足が着かないようなふわふわとした思いに耽る、その刹那。私は確かな視線を感じ、出入口に目を向けた。小さな頭が三つほど、暖簾を貫通してこちらを見ている。ニヤニヤとした、意味ありげな笑みと共に。カッと憤りが火の手を上げた。
「こんの・・・ガキんちょ共!家の中に勝手に入るなっつーの!今度こそぶっ飛ばすよ!」
「こら、言葉が汚いぞ」
素早く蹴散らされるように子ども達が逃げるのと、私の肩が丁寧に捕まえられるのは同時のことで。
「悪い口は仕置きが必要かな」
先生の人差し指が私の下唇に触れる。お仕置きなんて発言が本気じゃないとわかっていながら、恥ずかしさで電気が走った様に固まる私を、先生は可笑しそうに見下ろして。少し顔を近付けたかと思えば微かな声量で、めっ、と囁いた。
* * *
大きな鳥は烏より大きく、鷲と呼ぶには小さかった。鳥類とは思えない程夜目が利き、静かに目的の我が家に降り立ったと思えば、足元に括り付けられた手紙を私が解くまで大人しく待機し、用件を済ませた後に真っ直ぐ山へ帰っていく。初めて紹介された際、こんな賢い鳥は見たことが無いと褒め称えたところ、山の友達なのだとヌルガイは笑った。
彼か彼女かは不明ながら、実に優秀な山の郵便屋さんを見送ってすぐ、私は手元の文を開く。恐らくふたりで頭を突き合わせながら書いたのだろう、真っ直ぐとは呼べない文面が可笑しくて、愛おしくて、私は思わず小さく笑った。
「典坐とヌルガイか」
「はい。近い内、町に降りてくるそうですよ」
夕飯も湯浴みも済ませ、夜が深まり始めた頃合いだった。私は先生のすぐ隣に腰を降ろし、カサリと音を立てて届きたての文を広げる。先生は目が見えずとも、氣を介して大抵のことは見通せる。右へ左へ乱れる文字の揺らぎは読み取れた様で、私たちは顔を見合わせたまま緩く笑い合った。
「色々用事もあるみたいですけど、是非会いたいって書いてあります。うちに呼んでも良いですか?久しぶりに四人でご飯食べたいなぁ、なんて」
「勿論だ。私も嬉しいよ」
「やった!美味しい献立、考えます!」
神仙郷での途方も無い死闘の日々は幕を降ろし、悲願達成に燃え尽きながらも私たちの人生は続いている。
典坐が正式にヌルガイの婿殿として山の民になって、少し経つ。彼らの住まう山村からほど近い小さな町に私たちも家を構えて、庭の畑を耕したり藁を編んだりしながら、ご近所さんたちと助け合う暮らしを始めた。先生に自然と集まる人望のお陰か、仕事は途切れず紹介して貰えるし、比較的早い段階で町にも溶け込めた。
それほど余裕も無いけど、ふたりで慎ましく暮らすには困らない日々が此処にはある。典坐とヌルガイはこうしてすぐ連絡が取れる距離にいるし、何より私は大好きで堪らないひとの隣で生きている。温かさとくすぐったさが綯交ぜになって、じんわりと胸に灯る様で、私は手紙の文字を指でなぞりながらそっと呟いた。
「・・・私、こんなに幸せで良いんですかね」
「誰が咎めると言うんだい?」
私の右手に、先生の大きな左手が重なる。目を丸くした時には、その手はすっかり先生の元へと引き寄せられていて。
私の、手首。血管が薄く浮いたそこに、先生が迷いなく唇を寄せた。
「の幸せは、私の幸せだよ」
今言われたことも、今されたことも、恋仲なら普通のことだろうけれど、私にとってはどうしたってハードルが高い。時間差で顔が発火するかと思うような熱さがやって来る。自分が酷く不細工な顔に思えて仕方がなく、私は空いた方の手で必死に目元を覆い隠した。
「・・・っううう」
「はは。相変わらず君は慣れないな」
「だって・・・!オタクにとってこれがどんだけ奇跡的なことか、って話ですよ!正直明日事故に遭っても全然おかしくない程度には人生の大事なもの消費してますからね・・・!」
私は、考えが足りない。片手を捕らわれているのに、もう片方の手を眼前に翳したりして。先生も片手が空いているんだから、両手を拘束されたら今度こそ逃げ場が無くなるのに。
自分で思い至った恥ずかしい思いに身を硬くする、その刹那。先生は私の思惑なんか、とっくにお見通しの様で。その片手は私のガードを解く為なんかじゃなく、もっと深いところまでするりと入り込んできた。
お風呂上がりの薄い浴衣は、急速に上がった体温を覆うには薄過ぎる。背中に回った腕に抱き寄せられると、先生と石鹸の混ざり合った匂いを強く覚えて目眩がした。
「事故は困るな。に何かあっては、私も正気ではいられないよ」
「せんっ・・・」
もう、だめ。切実な声を耳元で囁かれて、咄嗟に出かけた悲鳴にも似たギブアップを、私は寸前で飲み込んだ―――つもりだったけれど、遅かった。
先生の熱を孕んだ気配が、明確に落ち着くのを肌で感じる。ああ、がっかりされてしまったかもしれない。でも、先生の腕は依然として私を解放しようとしない。
「さて。君は最近私のことを極力呼ばない様心掛けている様だが」
ぎくりと硬直した。バレている。私のしょうもない葛藤も、幼稚な緊張感も、先生には何ひとつ隠せない。
先生。
心の中では何度繰り返そうとも、私はここのところ彼本人にそう呼び掛けることを避けていた。
よいしょ。囁きにも満たないそんな掛け声と共に、一体どんな筋力か、理解の及ばない力のバランスか、とにかく私の身体はあっさりと持ち上げられ、先生の胡座の上で横抱きになるというとんでもない位置に着地した。今度こそ至近距離で囚われ、逃げ場が無い。でも、先生は怒るでもなくがっかりするでもなく、穏やかに微笑んだまま、それ以上私に押し入ろうとはしてこない。
「それは、新たな呼び方を意識した上での緊張か、それとも苦手意識から避けているのか。後者だったとして、私はの順応をいつまででも待つつもりではいるが・・・さあ、正解はどちらだろうね」
私の不慣れ加減も、嬉しいのになかなか先に進めない戸惑いも。先生は全部察して、その上で対話の機会をくれる。荒れ狂って飛び出しそうな心臓の鼓動が、ほんの少しの息継ぎを得た様な心地がして、私は苦笑を零した。どんな不恰好も隠せない。でも、きっと先生はどんな私も受け止めてくれる。そんな気がして。
「前者に決まってるじゃないですか・・・士遠さん」
消え入りそうな声がその名を紡ぐ。
私たちはもう、ただの師弟関係じゃない。でも、定着した先生呼びを変えることは簡単じゃなくて。変に意識もするし、噛まないか心配にもなる。なかなか積極的には、この名を呼べずにいた。尤も、この葛藤も蓋を開ければ本人に筒抜けだった訳だけれど。
「流石、は私の期待を裏切らないね」
「先生の弟子ですから・・・あっ」
ふわりと微笑んだ先生につられて、注意していた側から呼び方が戻ってしまう。自分で自分の凡ミスに目を見開く私をよそに、先生が小さく肩を揺らして笑った。もしかしなくても、これは謀られたのだろうか。
「すまない、恐らく引っかかるだろうとわかっていた」
「あ、遊ばないで下さい・・・!私だって、何とか切り替えようって必死なのに・・・!」
「はは。わかっているよ。遊んでいる訳ではないんだが・・・」
抵抗したところで、胡座に乗り上げた横抱き状態ではまともに動けない。悔しさと不甲斐なさでますます顔を赤くする私を見下ろす、先生の表情が柔らかく綻んだ。
「君があまりに可愛くて、つい」
ずるい。この距離で、この状況で、その台詞は、ずる過ぎる。
なのに先生は一層大事そうに私を丸く抱き、まるで子どもをあやす様にぽんぽんと背を撫でた。
「咄嗟に先生と呼ばれたとて、腹を立てたりはしないさ。長年の呼び名だからね、慣れている。だが私も人並みには、特別な相手から名前で呼ばれたいと願う欲もある。そこを心に留めておいて貰えれば、今はそれで十分さ。焦らず行こう、に無理を強いたいとは思っていないよ」
先生からの愛情は、私には勿体無いくらい思いやりに満ちている。なのに、どうしてだろう。私から先生への気持ちが、何だか伝わり切っていない気がする。
そもそも、私が先生を推しだと公言し始めたことが全ての発端なのに。とっくに形を変えたこの思いが、控えめにしか伝わっていないなら、それは由々しき事態な気がして。
「・・・私にとって、先生は先生だから。そこは多分、一生揺らがない大前提だから」
「うん。そうだね」
「でも、今は」
もう、推しの括りは通じない。異性として誰にも隣を譲りたくない、唯一のひとだから。
「私の先生、だけじゃなくて・・・私の士遠さん、って。贅沢な現実に、ひとりでニヤニヤしたりもするんです・・・つ、伝わりますかね。呼びたいけど、幸せ過ぎて上手に呼べないっていうか」
そう簡単には、まだ呼べないけれど。癖が抜けなくて、先生と呼んでしまうこともあるけれど。特別な関係に蕩けそうに舞い上がってるのは、多分私の方。語彙力が無いせいで伝わり辛いのは、もどかし過ぎる。
丸く抱かれながら俯く最中、ちらりと先生の顔を覗き見る。盲目の瞳と目が合ったような気がして、ドキリとした。
「もう一度」
「え」
「今の言葉を、もう一度聞かせてくれないだろうか」
思いの外、真剣なトーン。ふたりきりで密着して、薄い布地じゃ誤魔化せない肌の火照りを感じる。先生の言う今の言葉が何を指すのか。誤魔化すことも、惚けることも、多分得策じゃない。
「・・・わ・・・わたしの、しおん、さん」
目を逸らすことも、逃げ出すことも叶わない。喉がカラカラに渇く様な緊張と共に繰り返した、気恥ずかしい呼び方に対して、先生の首が時間をかけてがくりと項垂れた。
「参ったな・・・思いのほか、強烈だ」
「な、何が」
「言わせたいのかい?はなかなか策士だな」
「えええ?いや、あの、そういう訳じゃ・・・」
先生は情緒の波が比較的凪いでいるから、こういう時は私ばかりが慌てふためいてしまう。足をばたつかせながら拘束を抜け出ようとした私の頬に、温かな掌が触れるまでは。
「良いだろう。その策に、喜んでかかるよ」
吐息を唇に感じるくらいに、詰められた距離。視界いっぱいに広がる、大好きなひとの影。
「“私の”があまりに嬉しいことを言ってくれるから、どうにかなってしまいそうだ、という意味さ」
夢みたいに甘くて温かな、私に降り注ぐ言葉の雨。
私の、なんて言い方をされたら、自分の名前がとびきり上質でキラキラした何かに思えてくる。単なる言葉の応酬じゃ片付けられない、とんでもないカウンターだ。
「・・・わ、私の息の根を止めたいんですか」
「ひと聞きが悪いな。そんな筈無いだろう」
鼻先が触れ合う程まで顔は近いのに、私を緩く拘束するこのひとからは誠実さが一片も薄れない。柔らかな微笑みを浮かべたまま、そっと私の頬を撫でる手も。低くて穏やかな声も。何もかも、私を大切に慈しんでくれている。自意識過剰だと誰に笑われたとしても、私は今この瞬間、心の底からそれを信じられる。
「これから先も、末永く隣にいて貰わなくては。私はまだまだ、師として君を導き、男としては君を甘やかす。そうして生きると、決めているのだから」
―――生きていて、良かった。
ただのオタクだった頃から、推しに対して幾度も覚えたその言葉を、今改めて本当の意味で痛感する。
私の足並みは、普通の恋仲としては遅過ぎる。実年齢の差以上に、人生の成熟度合いも違い過ぎる。それでもこのひとは私を選んでくれて、こんなにも両手一杯の愛を与えてくれる。
私はありったけの勇気を振り絞り、思い切った勢いで逞しい首元にしがみ付いた。暑い。熱い。あつい。でも、離さない。離れない。
「・・・今更、返品不可なんですから。士遠さんからお願いされたって、離れてあげませんよ」
「君は本当に、私を喜ばせるのが上手いな」
お互いに鼻から抜ける笑みが、幸福と希望に満ちているのを感じる。抱きしめられる腕の力が僅かに強まったことも、思わず目を閉じて噛み締めてしまうようなときめきも、何もかもが尊い。悪戯にゆらゆらと抱擁ごと揺らされて、私は声を上げて笑った。
私の夢みたいな人生の第二幕は、まだ、始まったばかり。