眠りから覚めた瞬間、何とも言えない不快なざらつきを喉の奥に感じた。
「・・・最悪」
声に出すんじゃなかった。みっともない掠れた音で、ますます嫌な気分になる。喉のいがいが、酷い鼻詰まり、発熱時独特の頭痛。どう考えても風邪だ。でも、この時代には総合風邪薬を売ってくれるドラッグストアも無ければ、徒歩圏内に乱立する病院や薬局も無い。ついでに保険証も意味を成さない。
今日も早朝の筋トレから一日を始めるつもりが熱でふらつき、当然この家の主から即見破られた私は布団へ逆戻り。道場付きのお医者さんの往診を経て暫く安静を言い渡され、薬を飲んで気絶する様に眠り今に至る。
先のことを考えれば、こんな有様じゃ駄目なのに。風邪如きで寝込んでいるようじゃ、お話にならないのに。先生が私に与えてくれた一人部屋の木造天井を睨み上げ、持て余した気持ちを発散出来ずに掛け布団を乱雑に抱き締める。自分自身を罵倒する言葉ばかりが喉元に列を成した。
「私の馬鹿、軟弱者、根性無し」
「その言い方は感心しないな」
突然の横槍に思わずびくりと肩が跳ねる。普段なら必ずノックをしてくれる先生が、今日に限っては既に襖を開けてそこに佇んでいた。
私の先生、山田浅ェ門士遠。突然物語に入り込んでしまった異物である私を、無条件で匿ってくれたひと。山田家に良くない未来が迫るなんて怪しい言い分を信じて、私を弟子として受け入れてくれたひと。そして、本を読んでいた時から変わらない、私の中で燦然と輝く推しのひとり。
「っ・・・先生」
「そのままで。起き上がってはいけないよ」
穏やかな制止を受け、中途半端な状態で固まる無様な私の頭を、先生は苦笑しながら枕へ戻してくれる。その手が私の顔に触れるなり、優し気なその表情に影が差した。
「まだ熱が高いな。辛いだろう、飲み水は足りているかい」
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
先生の持ってきた桶から、ちゃぷと音がする。手際よく絞られた手拭が額に乗せられて、ひんやりとした涼に米神の痛みが和らぐような気がした。
先生は心底優しいひとだ。私はこのひとの誠意に応える為にも、寝ている訳にはいかない筈なのに。
「・・・先生。ごめんなさい」
「何故、君が謝るんだい」
「折角、間を取り持って下さったのに。入門からたったのひと月でこの有り様じゃ・・・」
先生に引き取られて約半月の後、私は山田家の門を潜った。先生は可能な限り根回しをして私を門弟に加えてくれた為に、御当主をはじめとする上層からの障害は皆無だった。それでもこの時代は、女が剣を握ることへの風当たりが厳しい。剣術未経験の女が突然何の冷やかしかと、なかなかに露骨な目が一定数向けられていることもわかっている。
だったら尚のこと、全て跳ね返すくらいの気力で乗り切り、遊びではないと結果で証明しなくてはいけなかったのに。入門から僅かひと月でダウンするだなんて、間抜けにも程がある。
「・・・これだから女は貧弱だって、叩きたい人たちには恰好の口実じゃないですか。私なんかを弟子に取ったせいで、先生まで色々言われてるんじゃないですか」
「君は何と言うか、想像力が豊かだな」
感心したように腕を組む様子は、私の重暗さと対比の様に飄々と前向きなそれで。先生にまで迷惑をかけていると負のループに陥りかけていた私を、呆気なく救い上げてくれる。
「まず、私の元に悪意の類は何も届いていないよ。真逆のものなら、つい先程受け取ったばかりだが」
「え?」
先生は私が横向きに頭を傾けるのを助けてくれた後、枕元に差し出した紙の包みを開いた。中に添えられたのは、可憐な花をつけた一本の枝だった。詰まった鼻でも、仄かに梅の香りを感じる。
「佐切からだ。君が早く良くなるように、と」
山田家当主の娘である佐切は、私が本で知る姿にはまだ遠く、少女の面影を強く残していて。同性の助けもあってか、入門初日から私をよく気にかけてくれた。今日も先生から私の様子を聞いて、わざわざこの枝を用意してくれたのだろうか。
「・・・嬉しい」
「後でこの部屋に飾れるよう器を用意するよ」
「ありがとうございます」
年下の姉弟子からの思いがけない見舞いの品が、心の棘を優しく溶かしていく。小さな花を眺めているだけで、思わず熱を持った頬が綻んだ。
「かわいい」
「君は自分を呪うより、そうして笑っていた方が良い」
ほんの一瞬、天然の口説き文句を浴びたのかと目を見開き、そしてそんな筈は無いと冷静に自分自身へ突っ込みをいれる。
先生はそういうひとじゃない。ただ、ひとの感情に敏感で。弟子が自己嫌悪に陥っているのを放ってはおけないくらい、心底優しいひとだから。
「鍛錬も剣術も慣れないことの連続だっただろうに、休むことなく励み続けた。君は十分頑張っているよ。むしろ、よくひと月も持ったと感心していた」
「・・・先生」
私の重荷を減らそうと、精一杯にフォローしてくれる。先生の優しさが嬉しくて、同時に私の至らなさが切なくなる。
そんな胸中がまるで筒抜けたように、先生が真面目な顔で前のめりに顔を近付けてきたものだから、私はぴしりと固まることになった。
「ここだけの話だよ」
しぃ、と人差し指で口を覆う。えっこの距離でそのポーズは反則では。
「源嗣と期聖は、入門から十日目に揃って風邪を引き寝込んだ」
「え」
「初日からお互い激しく張り合っていたからね。倒れる頃合いまで同じとは仲が良いのやら悪いのやら、懐かしい話だ」
どう考えても初耳な情報に、私のオタクな側面が顔を出し、ネガティブな思いが萎んでいく。
皆はここで生きているのだから、本で私が知っていることなんて彼らのほんの一部にしか過ぎない。稽古も炊事洗濯も自分の方が上だと競い合い、同時のタイミングで仲良くダウンする期聖と源嗣の姿は簡単に想像がつく。知らず知らずのうちに、私の口の両端がきゅっと上向いた。
「さて、いないとは思うが。もし今の君の現状を知り、ひと月で倒れる女は軟弱だと暴言を吐く者がいたとすれば・・・源嗣が黙っていないだろうな。期聖も面白くはあるまい。どちらも自分のことを棚上げに他者を悪く言える性格ではないからね」
現状、期聖はこちらを遠巻きに観察している様だし、源嗣は割とわかり易く”女が剣を握るとは理解に苦しむ”という顔を隠さない。私に対して距離感のあるふたりだけれど、しかし先生の言う通り、今回に限っては味方な様な気がした。
「環境が一変し張り詰めた状態は、誰しも長くは続かないものだよ。今の限界を知り一度休み、己の力量や在り方を学び、少しずつ馴染みながら強くなっていく。これは謂わば、避けては通れぬ最初の試練と言ったところか」
不思議だ。先生の声で語られると、どんなに複雑に絡まった焦りや自己嫌悪も、すんなり解けていく。先生がそう言うならと、頑なな私が負の拘りを簡単に手放せる。
入門ひと月で身体を壊したことは汚点だと唸っていた私は、もう最初の試練を越えようと前向きな私に姿を変えていた。
「大丈夫。このひと月積み重ねた努力は、決して君を裏切らないよ。静養こそ、今の君に最も必要なことなのだから」
「・・・はい、先生」
このひとが皆から先生と呼ばれ慕われる由縁を、十分過ぎる程体感出来た気がする。熱の怠さも喉と鼻の不調も変わらないけれど、心持ちは随分と軽い。
「気持ちが楽になったら、何だか元気が出てきました」
「それは良かった」
ずれた手拭いを私の額に乗せ直してくれる、先生の微笑みは堪らなく優しい。冷静に考えてこの状況はご褒美が過ぎる。
「だって、推しに看病して貰えるだなんてオタクとして贅沢体験過ぎます」
「・・・君の言う“推し”とは様々な良い意味を伴う単語の様だ」
「うっ・・・理解力の高過ぎるダイレクトアタック!私のライフはもうゼロよ・・・!」
調子が出てきたのか、私は息をする様に小ネタを挟む。当然、この世界においては誰一人伝わらないことは承知の上だ。大体相手が誰でも不思議な顔をされて終わる。
なのに、今日は不意に先生の肩が揺れた。口許を押さえ顔を背けるその様子から、どうやら何かツボに入ったことは察しが付く。今の小ネタの何が面白かったのかはわからないけれど、そんなことはどうだって良い。いつも落ち着いている推しの珍しい一面を前に、私は大人しくスルーなんて出来る筈が無い。
「・・・せ、先生?」
「いや・・・すまない。君の言うことを理解出来てはいないんだ。ただ・・・」
律儀に詫びる必要なんて一切無いのに。一度言葉を切り、細い吐息で笑いから切り替えきれなかった先生の緩んだ表情が私に向けられる。
「・・・と接していると、私も元気が出るよ。ありがとう」
その瞬間、覚えた心に名前を付けるのは難しい。顔が熱いのは風邪のせいだと自分に言い聞かせながら、暴れ狂う鼓動を抑え込む。
ありがとうは、私の台詞。そんな柔らかな笑顔を向けて貰える私こそ、先生からプラスの感情を山の様に受け取ってばかりいる。
「・・・私の方こそ、こんな変わり者を引き取ってくれてありがとうございます、ですよ」
「人助けは私の信条だからね。だが、君は初心者とは思えない程筋が良い。を弟子に取れたのは、我ながら見る目があったと言える」
「・・・!!見る、目、の二段構えですか?!」
「冗談への反応も実に迅速で宜しい」
盲目ジョークを絡めて笑い合う、このひとときすら私にとっては特別な宝物だ。大好きな本の世界に入り込んで、推しの未来を変える為に、推しの傍で研鑽を積むだなんて。幸せな夢みたいだけど、きっと夢じゃない。
「先生。今こうしていることも、入門してからのひと月も、先生と出会ってからの時間も。全部、夢じゃないですよね」
「ああ、現実だよ」
先生のお墨付きを貰って、私はまた内心の決意を固いものにする。今が幸せだからこそ、未来のこのひとを悲しませたくないと強く願う。
典坐を死なせないことで、先生の笑顔を守ることが出来るなら。今は弱い私でも、いつか強くなる為に何だって頑張れる。
「最初の試練、すぐ治して良くなりますから。また、稽古沢山つけてください」
「勿論だ。だから今は安心して、ゆっくり休みなさい」
「はい、先生」
そっと瞼を伏せるよう、視界を覆う掌も。優しい声も、安心する匂いも。先生を構成する大切な何もかもを、いずれ辿り着くあの島で守りたいと思う。
「おやすみ、」
未来の私に強くなる願いを託して、私は徐々に眠りへと落ちていった。