眠りが浅くなったのは、いつの頃からだろうか。
大罪人として捕えられた時か。望みを叶える為には人命の犠牲すら厭わないと決めた時か。サリウス・ゼネリの養子として別の名を与えられた時か。それとも、戦火に怯え蹲るしか無かった幼い時か。これまでの人生が歪な斑模様に流れゆく不可解な夢を経て、シャディクの意識は現実へと浮上した。
木製の天井は質素ながら安心感があり、冷え切った独房とはまるで違う。終身刑と思い労働に従事することだ―――養父は厳しい顔でそう口にしたが、この環境には感謝しか無い。
旧ベネリットグループの開発区域から遥か遠く、農業に特化した小さなフロント。所持を禁じられているシャディクに限らず、誰もが携帯端末すら必要としない長閑な田園暮らし。犯した罪を思えば、奇跡のような采配だ。それもひとりではなく、唯一望んだひとと共に朝を迎えられるのだから。
薄い上掛けを引き寄せながら寝返りを打つその先に、空になった隣のベッドを見つけ、シャディクは目を見開いた。小さな寝室には、シングルのベッドが二台並んでいる。其処へほんの数時間前、確かに彼女はおやすみなさいと囁いて横たわった筈なのに、空のベッドは既に持ち主の温かさを失いつつある。時間は零時を回ったところだ。
シャディクは表現しようのない胸騒ぎと共に部屋を飛び出した。小さな一軒家は対象を探す場所も限られて、瞬く間に焦りが表情に色濃く滲み出る、その時。ポーチから繋がる、ほんのささやかなウッドデッキ。窓越しの其処に探し人の姿を見つけ、シャディクの緊迫感は急速に緩んだ。
「・・・姉さん?」
外へ続く扉をそっと押し開き、呼びかける。ぼんやりとしていたのか、微かな間を挟んだ末にこちらを向いたの瞳は丸く見開かれていた。
美しい絹の様に腰近くまで流れ落ちていた髪は、今肩より上で切り揃えられ、彼女の輪郭を緩い曲線で包み込んでいる。長年の印象から大きく変わった為か、二人暮らしを始めて少し経つというのに、こうして時折落ち着かない気持ちになってしまう。
そんなシャディクの動揺には気付く素振りも無く、が数秒の空白を置き、ひとつの可能性を憂う様に口許へ手を当てた。
「まあ。もしかして、起こしてしまったかしら」
「違うよ。ただこんな時間に何処に行ったかと・・・」
言葉が不自然に途切れる。シャディクは握った拳を後ろ手に、首を小さく横に振った。
「・・・ごめん、忘れて」
何も告げず、夜中にベッドから抜け出た。だから何だと言うのだろう。いつどこで何をしようと、は自由なのだ。彼女の全てを縛る権利など、何ひとつありはしない。悪習の名残に自嘲と戒めが織り交ざり、ちくりと腹の奥に痛みを齎した。
「身体、冷やさないようにね」
「シャディク」
可能な限り平常の微笑みを努め、一秒でも早くこの場を立ち去ろうとしたシャディクを、は短い一言で呼び止めた。置いて行かれる不安でも、繋ぎ止めようという焦りでも無い。ただ、穏やかに義弟の名を唇に乗せる彼女の表情は、柔らかかった。
「私一人で満喫するには勿体ないくらい、良い夜なの。良ければ一緒に、一杯いかが?」
ふたつ並んだデッキチェアのうち、空いたひとつにはシャディクを招く。改めて確認すると端の小さなテーブルにはティーセットが置かれ、彼女の夜を程よく温めていた様だった。
「・・・良いの?邪魔にならないかな」
「大歓迎に決まっているじゃない。さあ、座って」
思いがけない誘いに瞬間戸惑った末に、シャディクはひとつ頷いて見せた。手際良く二つ目のカップを温めるの表情に、翳りや無理をしている様子は無い。それを横目に確認しながら、外用の椅子に掛ける。
ベッドに負けず劣らず軋む木の音を身体全体で感じたが、不快さは一切無い。思えば、椅子は揃いの物でありながら、こうして二人並んで腰かけたことは無かったような気がする。静かに注がれたカップからカモミールがふわりと香ると同時に、が可笑しそうな笑みを浮かべた。
「こんな遅くにティータイムなんて変だと思うでしょう。でも、この時間の空がお気に入りなの」
「空?」
の一挙一動、その心境に注意を向けていた為だろうか。言われるまで意識の外にあった光景を、シャディクは今更の様に仰ぐ。
「・・・そうか。このフロントの上空部は管理されていないんだったね」
「そうよ。だから素敵なの」
ここは辺境のフロントだ。有力グループの私有地や文化的発展を見込まれた開発区とは程遠く、天を覆う“空”も人間の生活に合わせて整備されない。太陽との巡り合わせで光を得、そして別たれたその時夜を迎える。調和の取れた人工的な美しさは無いけれど、シャディクの生まれた惑星と似ている。当たり前のことを今更思い知ったような心地で小さく息を吐くと、横からそっと温かなカップが差し出された。
「熱いから気を付けてね」
「ありがとう、姉さん」
「どういたしまして。秘密の夜会へようこそ、貴方の初参加に乾杯」
「お招きに預かった誉れと、広大な星空に乾杯」
ブランデーも混ざらない、グラスですらない子供じみた乾杯にも関わらず、不思議と心が踊った。ハーブティーが喉元を優しく癒していく。夜間に適した熱さを感じながら、シャディクは改めて背もたれに身体を預け、が素敵だと称した夜空を見上げた。
大きな月が白く浮かび、そこを丸く避けるように間を取りながら星々が輝いている。良くも悪くも自然であるが故に、ぎらぎらと主張の強い星もあれば燃え滓同然の弱弱しい星もある。図鑑に載る様な代表星座は読み解けない。ただ、途方も無い迫力を感じる。
「・・・凄いな」
「私も上手くは言えないの。でも、こうしてまっさらな夜空を見上げながら寛いでいると・・・何だか、圧倒されるわよね」
恐らくは間に置くべきだろう小さなテーブルを隅に移し、手を伸ばせばすぐ触れ合える距離でふたつのデッキチェアが並ぶ。シャディクは暫し言葉も無く、だが沈黙を共に噛み締める様に、とふたりでありのままの空を見上げた。流れ星は儚くも煌いた細い線などではなく、文字通り力強く燃えて消えゆく。月の大きさも規格外で、荘厳な存在感を放ち続けている。宇宙という広く大きな世界を目の当たりにして思うこと、それは。
「・・・俺たちは、小さいね」
人間とは何と小さく、弱い生き物だろうか、と。人類史に根深く残る宇宙進出による武力格差を、どうにか平らにならそうと必死に藻掻いていた己を、滑稽に感じてしまう程に。無力さが鈍い痛みを伴い、じんわりと胸元に染みを作っていくようだった。
「そうね。広大な宇宙に浮かぶ小さな農業フロントで、真夜中にお茶を飲んでいるだけの、とても些細なふたりだと思うわ」
の声は静かで凪いでいたが、不意に視線を感じた気がして。シャディクが隣へ頭を傾けると同時に、愛情深い瞳と目が合った。
「でも、小さいからこそ星の数ほど命があって。ひしめき合うその中で、大切なひとに巡り会えただなんて。これは奇跡とは呼べないかしら」
「・・・姉さん」
「そんな天文学的な数字の幸運を噛み締めながら、温かいお茶を飲むこの時間が好きなの」
美しく長かった髪は短く切り揃えられた。困難を極める程脆弱だった身体も、今は外部からの働きかけによってごく普通の健康状態を保っている。儚く生命力の薄かった彼女はもういない。だが、の特別な笑みだけは、変わることなく此処にある。シャディクはすぐ傍にある尊い光景に、瞬間涙腺を刺激されそうになりながらも穏やかな笑みで塗り潰した。
どんなに己を無力に感じようとも、すべての言う通りだ。星の数ほど命が輝くこの宇宙で巡り合えたことは、幸運としか呼べない。数多い紛争孤児の中から養子として選ばれ、この特別な女性に弟と呼ばれる栄誉を授かったことは、シャディクの人生に於いて一番の幸いだ。
「ねえ、明日はどんな一日にしたい?」
その瞳が、希望に満ちていることを感じる。生き生きと明日を待ち望むは美しい。いつまでもこの時間が続けば良いと、切に願ってしまう程に。
「姉さんの好きな様にすれば良いよ」
「貴方の希望が聞きたいのよ。毎日お仕事、明日は貴重なお休みなんだから」
「姉さんだってそれは同じ筈じゃないか」
「それはそうだけど。でも、貴方の口から聞きたいわ」
どんな風にかわそうとも、結局のところこの微笑みには抗えない。降伏に代えて小さく両手を上げると、彼女が可笑しそうに肩を揺らして笑う。つられる様にシャディクも笑う。ああ、確かに今宵は良い夜だ。消えない不安を片手に携えながらも、心の底からそう思う。
「俺は・・・姉さんの傍にいられるなら、それで良い。いや、それが良い、かな」
望みを口にするだなんて、本来なら永劫許される筈の無いことをした。にも関わらず養父に護られ、数々の同胞から庇われ、流刑地なんて言い方は到底似合わない穏やかな地で生きている。分不相応な程、満ち足りた今がある。それでも願いを口にして欲しいと、彼女が望むのであれば。許される限りの傍にいたい。それ以外は望まない。それ以上のことなど、望める筈が無い。
「姉さんと他愛ないことを話して笑い合える。今の俺には、恵まれ過ぎな程幸せなことだと思う。この奇跡の様な毎日が、出来る限り続くように祈ってる。俺の心からの願いだよ」
打算も企みも無い、劣等感と野心を削ぎ落した末に残った、ただひたすらに心が欲する願い。それを受け止めたの瞳が、少しの時間をかけて柔らかく綻んだ。
「光栄だわ。私も、同じ気持ち。貴方よりほんの少しだけ、アクティブな希望もあるけど」
「良いね。是非聞かせて欲しいな」
「お昼ごろ、お世話をしている仔の様子を見に行きたいの。それからお買い物。厩舎のオーナーが手作りしているジャムを買いますってお約束したから。一緒に来てくれるかしら」
彼女が組み立てる午後の予定を、シャディクはひとつひとつ丁寧に想像する。大きめのストローハットの下から覗くの笑顔が、厩舎の牛達に向けられて。作業服姿の逞しい雇用主や、その家族達と世間話に興じている。絵に描いた様な長閑な情景。環境が変わればひとは変わる。なのに、未だのイメージとは結び付かない。困ったものだと、シャディクは肩を竦めた。
「勿論喜んで付き添うけど。姉さんが牛の世話に、仕事付き合いか。まだ少し実感が湧かないな」
「ふふ。まだまだ教わることばかりだけど、皆さん良いひとで、楽しい職場よ。私よりずっと若くて、でも頼れる先輩が何人もいるわ。しっかりと自分の力で生計を立てている姿は本当に素敵なの」
会社勤めどころか学校すらまともに通った経験の無いが、厩舎で働いていると初めて聞いた時は耳を疑ったものだ。このフロントにシャディクより少し早く根を下ろした義理の姉は、職場を自力で見つけ直談判によって居場所を得たらしい。当然上手くはいかないことの方が今は多い様であったが、学ぶことが多いと帰宅後も振り返る様子は充実して見えた。
今のはシャディクの支配下には無い。ただ、雁字搦めに絡み付いていた頃よりも、彼女の表情は格段に明るい。それを素晴らしいことだと、シャディクは強がりでも偽りでもなく信じられる。
「今は少し目立つ存在かもしれないけど、私もいずれ馴染んでいけると信じたいのよ・・・貴方の新しい髪型みたいにね」
の細い手、その指先が少し宙を彷徨った末に、隣から遠慮がちにシャディクの方へと伸ばされた。そっと額に触れ、撫でるように滑り、そして髪を梳く。何とも言えない幸福なくすぐったさで、シャディクは目を細めた。
実のところ、髪の重みから解放されたのはだけではなかった。随分と短くなったその感覚は本人にとっても、またそれに触れるにとっても、未だ慣れないことの様で。上品な微笑みに、僅か気恥ずかしそうな色が浮かんだ。
「白状すると私はまだ目が慣れそうもなくて、ドキっとすることも度々あるの。実は、ついさっきもね。家から出て来るのはシャディクしかいないのに、何処の殿方かしら、なんて頭が白くなったわ」
「それは俺の台詞だよ。確かに、お互い慣れないよね。でも、姉さんはショートヘアもよく似合ってる」
「ありがとう。貴方もね」
髪を落とすことなど罪滅ぼしには遠く至らない。それでも、心機一転新たな地で踏み出そうという時に、互いに示し合せた訳でも無く、随分と短くなった装いを認め合った瞬間の温かな心地を、シャディクはいつまでも忘れないだろう。囁くように互いを褒め合い、そして同時に小さく笑ってもう一度空を見上げる。椅子の間で、手と手が自然に結ばれた。
「姉さん」
「何?」
“ありがとう”は恐らく生涯伝え続けても足りない。
“ごめん”も当然必要な言葉の筈が、は耳を塞いでしまう。
“愛してる”は―――果たして今の自分に口にする資格があるのか、躊躇いが残る。
何のしがらみも無く、一番欲したひとと揃いのデッキチェアで星々を眺める、穏やかな時間。何をどう伝えれば良いのかすら、迷子の様に戸惑ってしまう己がいる。シャディクはほんの僅か、手を握る力を強めた。
「・・・何でもない」
「ふふ。そうなの?」
は追及してこなかった。柔らかな微笑みを携えたまま、繋いだ手を解くこと無く夜空を見上げている。
互いを縛る物が無くなった今、こうして手と手を重ねれば繋ぎ止めることも出来る。逆にこの手を放せば自由を得られる。それはきっと、自立した人間同士ならごく普通のことの筈で。そして、複雑に絡み合った植物の如く成長してきた姉弟の片割れとしては、ほんの少々の寂しさを伴った。
わかっている。健全な距離感に怯えてしまうのは、己の弱さ故だ。何をしても失いたくない、どんなことをしてでも手に入れたかった相手だからこそ、手段を間違えてしまった。今、隣に在れる奇跡を自分の手でかき消してしまわない様に。強く真っ当に“普通”を覚えていかなくてはいけない。シャディクが内心で細く息を吐きだした、その刹那。
「ねえ、シャディク」
「何?姉さん」
数秒の沈黙が生まれた。てっきり、何でもないと仕返しを受けるのかと思い至った次の瞬間。
「私の願いごと。貴方と同じと言ったけれど、少しだけ訂正するわ」
こちらを見つめるの瞳の優しさに、シャディクは瞬きを返すことしか出来なくなってしまった。隣り合う距離に在りながら、両腕を広げて包み込まれた心地さえする。
「世界は途方も無く広くて、生きることに命を燃やしているのは私と貴方だけじゃない。優しいひとも、優れたひとも、それぞれ苦難を抱えながら前進している。当たり前のことだけど・・・此処に来てから、それをよく実感するの。私たちは、まだまだ未熟ね」
それは、言葉の表面上愚かな過去を知らしめるようで。しかし、からは一切のマイナスな感情を読み取れない。
「でも、未熟だからこそ・・・自分の両足で立って、歩いて、走って、沢山のことを学んでいきたいの。出来るなら、こうしていつまでも、貴方と一緒に」
シャディクは瞠目するしか術を持たなかった。の声がそっと、まるで子守唄のように耳に溶ける。今は至らないことを認めながらも、前向きな夢を語るがすぐ隣で微笑んでいる。それは願った以上の幸福だと、繋がれたままの指先に熱が灯されたような心地がした。
「私も、貴方も、遣り方を間違えてしまったけれど。一緒にやり直せる機会を得たわ。それが何より嬉しいの。わかるかしら。此処で生きたいと決めたのは、私自身なのよ」
罪の意識からずっと燻り続けた不安を、彼女は見抜いている。シャディクが幼い頃から積んだ努力を、誰より理解し肯定してくれた、救いを体現した様な温かな眼差し。それと同じ煌めきが、大丈夫だと囁きかけて来る。
許される限り。いつか本当の裁きの時が来て、引き離される日まで。今が満ち足りているからこそ感じていた漠然とした恐れを、の愛情深い声が綺麗に払ってくれたような気さえした。
「私、此処にいるわ。これからもずっと、貴方の隣で、貴方に必要として貰える私でありたい。騎士様に守って貰うのではなく、愛するひとと手を取り合って、自分たちで大切なことを選びながら生きたい。それが、今の私の心からの願いよ」
愛するひと。その響きは穏やかで、何より多幸感に満ちていた。
愛するひと。そう口にするの表情は、堪らなく甘やかな喜びで象られていた。
間違いは正せる。過ちはやり直せる。未熟な部分は学んで補える。そしてその時、共に在りたいのだと、他の誰でもないがそう願ってくれる。支配でも依存でもなく、自らの意思で隣を歩き続けることを選んでくれる。罪悪感と戸惑いで不安を抱えていたシャディクにとって、それは途方も無い赦しだった。
何か言葉を返さなくては。上手な返答を、綺麗な形で伝えなくては。相手の意図を汲み取り、求められている答えを、最も適切な形で。好かれるように。気に入って貰える様に。これまでの人生で幾度となく活用してきた処世術が、不意に離散する。
言葉が喉元で詰まった。熱いものが込み上げて、目の奥で唸りを上げる。
シャディクは咄嗟に上を見上げた。満点の星空は間もなく滲み始め、見る影も無くなってしまう。
「ふふ。熱弁を振るってしまったわ。素敵な夜空に貴方と乾杯出来たから、気持ちが熱くなったのかしら。聞いてくれてありがとう、シャディク」
きっと彼女はこの醜態にも気付いているだろう。それでもは暴こうともしなければ、こんなにも大きな決意表明に何の言葉も返せない無礼を責め立てることもしない。
土壇場で気の利いた台詞ひとつ返せずとも、もう何も恐れる必要は無いのだと。そう諭されたような錯覚と共に、ますます視界を覆う水の膜が厚みを増した。
「本当に、素敵な空。貴方と一緒に見上げることが出来て、とても幸せ」
うっとりと魅入る声は、最愛のひとの優しさでしかない。米神を伝うものが熱い。喜びと安堵の混ざり合った激情に翻弄されながらも、シャディクは繋いだ手だけは放すまいと力を込める。
一際強く燃える星が、流れて消えた。