One Dance





形ばかりのノックに対する返答は待てなかった。身だしなみを確認することも、普段なら敢えて焦らしさえする間の取り方も、何もかもを投げ捨てて目的の部屋へ押し入る。

「シャディク?えっ・・・一体どうしたの」

予告無しの訪問に驚き目を丸くするからは、ひとまずのところ嘆きや落胆の気配が感じられない。その一点に細やかな安堵を覚えながらも、シャディクは勢いを落とすことなくこの部屋の主に詰め寄るなり、華奢な身を正面から抱きすくめた。困惑に身を硬くするの、上質なドレスの裾だけが足元で微かに揺れる。薔薇の香りを肺から吸い込む様にして、深い呼吸をひとつ。
もしも、この虚弱な姉が人知れず涙に暮れていたら。もしも、暗い顔で思い悩んでいたら。もしも、こんな思いをするくらいならと―――想像することも苦痛ではあるが、がこの関係の終わりを望んだなら。想定し得る限りの最悪を回避したことに、シャディクは深い溜息を吐きだした。

「傍で守れなくてごめんよ、姉さん。酷いことを言われて、傷付いたね」
「酷いこと・・・?」

唖然とその単語を繰り返す内、彼女はシャディクの言わんとすることに辿り着いた様で。その口元から、後悔とももどかしさとも呼べる吐息が零れた。

「・・・メイジーね。もう。貴方には言わないで頂戴って、あんなにお願いしたのに」
「それは無理な相談だよ。彼女たちは皆、この部屋で起きた全てを俺に報告する義務があるからね」

曇りの種は、ほんの数時間前にこの部屋へ蒔かれた。

多忙な―――にも養父にも明かせぬ、きな臭い暗躍を背負い始めたことでの忙殺とも呼べる―――シャディクに代わり、グラスレーで信の置ける彼女達を交代制での世話役につけて暫く経つ。三者三様、五人は異なる性分の持ち主だったが、はそれぞれと上手く付き合っていた。特にレネの様な遠慮の無い振る舞いに対しても、育ちの良さから眉を顰めることもせず、寛容と柔軟さを持って渡り合っていたものだから、シャディクは安堵していた。否、油断していたのだ。

メイジー・メイは放っておけばひとりで際限なく喋り続けるタイプの人間だった。そこに相手の理解は求めない。ただ、陽気に自分の好きなことを好きなように話す。あまり口数が多くはないにとって、沈黙と無縁のメイジーは、眺めているだけで飽きない存在であっただろう。そこまではシャディクも察せていたのだ。
しかし、果たしてメイジーがの心境に正しく誠実に寄り添えるかどうかまでは、読み切れなかった。そうであって欲しいと願っていた、という表現が正しいだろうか。結論として、メイジーはシャディクの切なる願いを呆気なく、そして悪気無く、裏切った。

グラスレー寮で起きた何の変哲も無い出来事。それをメイジーがいつもの調子で羅列した際、自然の流れで飛び出した寮長たるシャディクの名前に、が零した溜息は無意識のものだっただろう。直接顔を合わせることも、通信で連絡を入れることも儘ならず十日以上が過ぎていた。シャディクとしても、最も大事なことを怠っていると自覚しながらも時間が足りないと頭を抱えていたところだったのだ。そこへ今日に限って、メイジーがの寂寥を拾い上げた。



様。そんなにシャディクと会えなくて淋しいなら、仕事と私どっちが大事なの?って聞いてみれば良いのに。ふふっ。ほら、映画みたいでしょ』
『何を言っているの、メイジー』

恐らくは、貴女たちがいるから淋しくはない、と。物分かりの良い顔で否定しようとしたの言葉を遮り、メイジーは畳みかけた。

『まぁシャディクにとっては、様のケア全般は仕事みたいなものかも。お姉さんだけど、一番大事なお得意さまだもんね』

仕事か、私か、大事なのはどちらか聞いてみれば良い。そう嘯きながら、ほんの一瞬で病弱な義姉の世話は仕事のようなものと切り捨てる。思わず沈黙したの胸中は計り知れない。
公には出来ない、姉弟の間柄を踏み抜いた関係は確かに彼女たちにはっきりと告げたことは無かったけれど、それを真っ向から愛ではなく養子の義務であると仕分けられたなら。は、どんなに虚しく悲痛な思いを味わっただろうか。

『やだぁ、冗談ですよー。様はぜーんぶ本気にしちゃうんだもん、そこが可愛いところだけど』



明るく朗らかで、しかし無神経な笑い声に対して、がどんな強張った笑みを返したのか。彼女の内面が、どれほど傷付いたのか。正確には把握出来ないながらも、シャディクは居ても立っても居られず今この場に駆け付けた。片道約一時間半のフロント間飛行。こんなにもシャトルの遅さを呪ったことは無い。
腕の中で大人しく抱かれるが、控えめに身を捩った。

「淋しかったのは、本当だけど・・・傷付いてなんか、いないわ」

華奢な姉のか細い声を聞き逃すまいと、解放はしないながらも抱きすくめる腕の力を弱めた。隙間を縫う様に這い出たの白い指先が、首筋に触れる。胸に迫る甘美な思いに、シャディクは僅か目を細めた。

「忙しくても、心は通じてる。ちゃんと、わかっているもの」
「・・・姉さん」
「今もこうして、わざわざ時間を作って会いに来てくれたわ。今私がどれくらい幸せな気持ちでいるか、きっと貴方でも正確にはわからないでしょうけど」

会えて嬉しい。本当に幸せ。囁くように何度もそう繰り返すの健気さが、あらゆる臓器に突き刺さるようだった。
淋しい思いをさせている。ただの姉弟の顔を装っていた頃ならともかく、許されないことは承知の上で最後の一線を越えて以降は、互いだけが秘密の共有相手であり、互いだけが縋る先だと、シャディクもよく理解している筈なのに。
多忙を言い訳に、彼女に孤独を強いている。誰を近くに置いたところで解決には至らない、致命的な孤独を。

「お願いだから、あの娘を叱らないであげてね」

あくまでメイジーを庇う姉の優しさが沁みた。仕事だと。得意先であると。メイジーが口にしたことは、正直なところ孤児から養子に迎えられたシャディクにとって否定しきれない側面を秘めていた。サリウスに切られてしまえば生きていけない。彼の実子たるを守ることは、シャディク・ゼネリとして生きる上で欠かせない最優先事項だ。

だが、それでも心は否と叫ぶ。引き取られた当初より抱いた行き過ぎた思慕は、今や誰にも明かせない特別な絆へと姿を変えた。遂にこの手に閉じ込めた、愛する女性。この思いも、この熱さも、ビジネスなどではないと言い切れる。
シャディク自身が欲した唯一のひと。離れたくないと星に願ったひと。漸く、自分のものに出来たのだ。養子の責務とは別問題として、何より大切に守りたい。身内に冷や汗をかかされている様では駄目だ。もっと、管理を徹底しなければ。

「淋しい思いをさせてごめん。俺も本当はずっと傍にいたいんだ」
「それが難しいから、あの娘たちを私の傍に置いてくれているんでしょう。大丈夫よ。私、信じているから」

ぴたりと抱き合ったまま見つめ合い、近過ぎる距離で言葉を交わす。の瞳が確かな熱量をもってこちらを見上げている。それを痛感するだけで、シャディクは堪らない思いがした。

「ただのお仕事なら、きっと・・・そんな目で私を見たりしない。そうよね」

の瞳には、今の自分はどう映っているのだろう。狂おしい執着か、支配の叶った優越感か。
己の瞳がどれ程雄弁にひたむきな愛に蕩けているかを知る由も無く、シャディクは腕の中のたったひとりに向けてそっと微笑みかけた。

「そうだよ。俺にこんな情けない顔をさせるのはこの宇宙でただひとり、姉さんだけだ」
「ふふっ・・・情けないだなんて一言も言ってないのに」

柔くほどけた笑みが愛おしい。軽やかに唄うような線の細い声が愛おしい。特別な薔薇の香りが愛おしい。本心はどうあれ、秘密裏に育む愛を信じようとする健気さが、途方もなく愛おしい。シャディクは再度、の華奢な身を強く抱きすくめた。
こんなにも弱く脆い存在だというのに、寄り添った分だけ生きる気力を吹き返すのを強く感じる。傍にいなくては生きていけないのは、果たしてどちらなのか。自嘲の笑みが薄く込み上げた。

「情けないよ。一番大切な女性を不安にさせたんじゃないかって、焦るあまり身一つで飛び出して来たんだ。久しぶりに会うのに、贈り物のひとつも無しにね」
「何を言っているの。貴方がいればそれだけで完璧だわ」



『姉さんさえ居てくれれば、それだけで完璧だ』



不意に、脳裏を過ぎる記憶。同じくこの部屋で迎えた月夜。互いに手を取り合い抱き合いながら、未だ気持ちは通じていなかったふたりきりのワルツ。は、あの夜を覚えているだろうか。思いがけず互いの距離が近付いたあの拙いダンスを、心に留めてくれているだろうか。

「・・・懐かしいわ。似た台詞を、此処で貴方から貰ったわね」

考えていた矢先の以心伝心に、シャディクは小さく笑った。

「気が合うね。俺も今そのことを考えていたんだよ」

小さな手を恭しく引き上げると、まるで心得ているかの様にが控えめな半回転をして。シャディクは後ろから最愛の姉を抱き締めた。思いが通じる以前も、後戻りの出来ない絡まり方をした今も、寸分たがわず変わらない。守るべきひと。愛すべきひと。そして、無くてはならないひと。
その時だった。胸の前で交差したシャディクの腕に、の華奢な手がそっと触れる。

「私の世界は、貴方と私のふたりだけ。誰に何を言われても私は大丈夫よ、シャディク」

互いに顔を見ないまま、シャディクの影の一部にすっぽりと収まったまま。思いの丈を紡ぐの声は、若干震えていた。

「傷ついたりしない。貴方の重荷にもならない。何の心配もいらないの」
「姉さん」
「だから・・・」

だから。そこで一度言葉を切ったの、細く息を吸う音が鮮明に響く。

「・・・こうして、時々で良いから抱き締めて。私と貴方の影が、ひとつになるくらいに。それだけで、私は生きていけるから」

愛するひとに、愛されている。それはふたりが同じゼネリの姓を持つが故に、普通の恋人同士とは違う、痛みや物悲しさを秘めたものではあったけれど。それでもシャディクが欲したことであり、同時にも望んでくれたことだ。健全とは言えない。しかし、もう互いに姉弟の仮面を被っていた頃には戻れない。
ほんの僅かでもの切なさを取り払えるように、溶け合えるように。シャディクはその背を強く抱き寄せたまま、右へ左へとゆっくり重心を揺らす。音楽も無い、正式なホールドも無い。ただ、互いだけしかいない、仮初のダンス。この宇宙でふたりだけ、誰にも理解されることの無い、束の間の逢瀬。

「・・・愛してるよ、姉さん」

懇願の様な囁きに、が感嘆の息を零す。残された限りある時間をどう使えば、この感傷を塗り替えられるだろうか。答えの出ない苦悩に眉を潜めながら、シャディクは最大限の熱意をもって彼女の美しい髪に口付けを落とす。
きっと今正面から向かい合えば、歯止めが効かなくなる。それを互いに十分理解しているからこそ、緩い足踏みだけのダンスは湿度を保ったまま続いた。