窓の外の造花がそよ風に揺れる。その光景をベッドの上から暗い面持ちで眺め、は何度目かの溜息を零した。
こんなにも気分が塞ぐのは久方ぶりのことだ。それこそ“弟”がこの屋敷に来てからはほぼ縁の無かった沈み込みに、の胸中は複雑な荒波を立てる。
そう、可愛い弟のお陰での毎日は見違える程明るくなったというのに。今、その弟が自分のせいで父から叱責を受けている。サリウスは直情的ではない為折檻の心配は無いだろうが、実に厳格な父親―――ひとり娘の体調のこととなると、輪をかけて過敏になるひとであることをは知っていた。手は上げずとも、その分厳しく説いている筈だ。如何に、義姉の身体が脆く出来ているか、ということを。
考え込むだけで気の滅入る自らの脆弱さに、半ば泣きたいような思いで顔を伏せたその時。微かなノックの音を、の耳が拾う。眠っていれば決して気付かない。否、じっと物思いに耽っていたからこそ気付けたその音を通し、扉の向こう側に佇むのが誰であるかを察する。
「どうぞ」
そうであって欲しいと願った通りの来訪者が、おずおずとこちらを覗き込む。は、曇天に光が差す様な喜びをはっきりと感じ取った。
「シャディク。来てくれたのね」
「・・・姉さん」
入口で戸惑うその身を招き寄せる様に手を伸ばせば、少年は俯きがちに傍へと馳せ参じ、大人しく備え付けの椅子に腰を下ろす。のベッドのすぐ隣に誂えたこの椅子は、まさしくこの弟の為に用意されたものだった。
「起き上がって平気なんですか?」
「ええ、もう大丈夫よ。ありがとう」
の身を案じ、そっと伸ばされかけた手が宙で止まった。戸惑いの末に遠慮がちに引き下がろうとしたその手を、は自ら掴まえにいく。
父親の養子として初めて対面した当初、痩せこけた褐色の肌は健康状態が良好とは呼べない状態だったが、衣食住の影響が少しずつ現れ、手と手を握り合った際の感触は健全な子どものそれに劣らないものへと変わった。
だが、が最も惹かれてやまない紺碧の瞳は、先ほどまでとうって変わり暗く淀んでいる。責任を感じ、胸が痛んだ。
「ごめんなさい。私のせいで叱られてしまったわね」
「悪いのは僕です。姉さんのせいじゃない」
それは、普通の姉弟間であれば何てことの無い遊びの一幕だった。
使う機会も滅多に無いだろう、殆ど日の目を見ることの無い、の衣裳部屋。着て歩くには不向きとしか思えない様なボリュームのドレスに、中に小動物が数匹潜めそうな程ふかふかとした毛皮のショール。クローゼットに眠る社交用の装いはどれもにとって縁遠いものであった筈が、物珍しそうにシャディクが目を丸くするのならば話は別だった。
あれやこれやと引っ張り出し、小さな少年の肩にぴたりと当てたままくるりと回転させれば、足に纏わりつく慣れないくすぐったさでシャディクが屈託なく笑う。虚弱故に着る機会も殆ど無く陰鬱な象徴でしかなかったドレスが、今可愛い弟の笑顔を引き出している。小さな体には不釣り合いな程日頃気を張り続けているシャディクが、何にも縛られず自由な姿を今自分に見せてくれている。にとって、至福の時間だった。
心と共に身体まで軽くなったような思いに、普段より更に一歩、もう一歩と活動範囲を広げ。翻した大きなドレスの影に隠れたり、肌触りの良いサテン生地で弟の頬を悪戯に突いたり。遂には冬物のロングコートを掲げて、笑いながら駆け出すシャディクを追おうと走り出した数秒後。は、突如眩暈を起こしその場に崩れ落ちた。
異常のサインは、もっと前より出ていたのかもしれず。ただ、自らの身体が発する警告など無視出来てしまう程に、弟とのひとときはを夢中にさせた。
「シャディクと過ごす時間が楽し過ぎて、自分の身体の不出来さすら忘れてしまったの。何かあれば、叱られてしまうのは私ではなく貴方なのに」
「姉さん・・・」
か細く小柄なシャディクではどうにも出来はしない、ショックな光景だったに違いない。すぐさま人を呼びに部屋を飛び出した弟は、しかし駆け付けた使用人達と共には戻って来なかった。
ぼんやりと焦点の合わない意識の中、は己の短絡さを悔いた。どうかあの子を叱らないで。それすら満足に言葉にならない、己の脆弱さを呪った。
「少しならはしゃいでも大丈夫と思ったのだけれど、やっぱり駄目ね。私では貴方の遊び相手は務まらないわ。残念だけど、現実を受け入れるしかないわね」
こうして手と手を取り合い寄り添うことは出来ても、共に駆け回り遊ぶことは叶わない。が弱く生まれてしまった以上、普通の姉弟にはなり得ない。堪らなく心躍ったひとときは、大切な宝物として心に封をする。
は瞬間切なく苦笑を浮かべた末、要らぬ責任を感じているであろうシャディクを元気付けようと、努めて明るい声を上げた。
「そうだ。今度貴方に、ミオリネを紹介するわ」
「え・・・?」
「歳はシャディクよりひとつかふたつ下かしら。デリング様のご息女だけど、とても活発な良い子よ。ふふ、この敷地内にこっそり忍んでいたこともあったの」
すらすらと言葉を並べる裏側で、は己の心の違和感に密かに瞠目する。
年相応に笑えばあんなにも輝く笑顔を眠らせておくのは、あまりに勿体ない。自分にその役が務まらないのであれば、他に相応しい友人を持つべきだ。その思いと裏腹に、あの特別な笑顔を誰にも知られたくないとも願ってしまう。
一体何を考えているのか。シャディクは一人の人間だ。歪んだ独占欲で縛りつけて良い筈が無い。
―――本当に?他でもない自分が望めば、叶う願いなのでは?
恐ろしい悪魔の囁きに、は静かに蓋をした。
「あの子ならきっと、良い遊び友達になれると思うの。どうかしら」
善き姉として願うのは、弟の幸福だ。の暗い毎日を変えてくれた、愛らしい弟。ゼネリの家名を負った者として、この少年が他所からの風当たりも厳しい中で懸命に努力していることを知っている。
しかし楽しいことも存分に知りながら成長して欲しいと、切に願う。そう。それこそ、自分の分まで。がそうして諦めと羨望を沈めながら象った微笑みに対し、シャディクが浮かべた表情は硬いものだった。
「姉さんがそう望むなら、挨拶はします・・・でも僕が欲しいのは、一緒に走り回れる友達じゃない」
思いのほかはっきりとした拒絶の言葉を、好意的に受け止めそうになる己を叱咤する。は何度か瞬きを繰り返すことで心を落ち着け、弟に向けてそっと微笑みかけた。
「・・・お父様に何か言われたのね。でも、お友達を作ることさえ許して貰えないだなんて、あんまりだわ。安心して、私からお父様に話をするから」
「違います。確かに、姉さんの安全を何より優先するようにとは言われましたが・・・」
シャディクの言葉が、そこで一度途切れる。短い沈黙の末、真っ直ぐこちらを見据えた紺碧の瞳の美しさに、は暫し時間の感覚を失った。
「父さんからの命令は関係なく・・・僕が、姉さんを守りたいと、そう思っているんです」
決意を語るその瞳は正直で。必死に誠を述べようとするその声は切実で。はもう、呆然と見つめ返すこと以外に為す術を持たない。
「初めてお会いした時、僕なんかを騎士と呼んで貰えたことが嬉しくて・・・その期待に、応えたいんです。言葉だけじゃなくて、本当に姉さんを守れる存在になりたいんです」
彼は養子として懸命に役目を果たそうとしている。養父に命じられた、義姉を支えろという命に準じようとしていることもわかる。だが、こうして向き合った瞳に宿る輝きが、紛れも無い本心であることもまた、わかってしまう。
これまでの世界を変えた、革命たる相手に応えたい。出来る限りの心を重ね、尽くしたい。その気持ちは、にとって覚えのあり過ぎるものだった。
「何だって頑張れます。勉強も、運動も、姉さんを守る為に、強くなる為に必要なことなら、精一杯努力します」
心から慕ってくれる、心から思ってくれる。少年のひたむきな決意は、に受け止め切れない程の光を齎した。普通の姉弟のように遊ぶことも儘ならない、足枷になるばかりの脆弱さを、こんなにも熱く守りたいと語ってくれる。貴重な少年時代を縛り付けるにはあまりに惨いと手を引きかけた傍から、その手を掴み返してくれる。
「一緒に遊べる友達よりも、父さんからの命令よりも・・・ただ、姉さんとの優しい時間を一番に守りたい。その為の力が欲しい。それが僕の願いです」
「シャディク・・・」
誰にも渡したくない。己も戸惑う程の独占欲に、何の問題があろうかと。本人から許されたような思いに、抵抗する力が抜けていく。
恐らくは深く埋めておくべき執着の種。それが確かな形で芽吹いたことに、は気付かないふりをした。
「姉さんを守るどころか疲れさせて、今は頼りない役立たずだけど・・・でも、いつかきっと」
「まあ。私の騎士さまに向かって役立たずだなんて、そんな酷い言葉は見過ごせないわ」
自嘲か戒めか、俯きかけたシャディクの視線が上がる。わざとらしく声を高めたのはほんの一瞬のこと、は弟の手を更に近くへと引き寄せ、両手で大切に包みこんだ。
役立たずである筈が無い。これ程気高い宣誓を他には知らない。慈しむ様に、最大限の敬意と心を寄せて微笑みかける。
「私の大切な騎士さま。貴方が弟としてこの家に来てくれた日から、私の毎日がどんなに輝いているのか・・・貴方にそれが、もっと伝わればいいのに」
照明の薄い部屋で、間近の距離に見た紺碧の瞳が驚きに煌く。どうかそれが、重荷ではなく喜びでありますように。は切なる願いと共に、包み込んだ手の甲へ恭しく唇を寄せる。
感謝と、親愛と、尊敬と。そして、独占の意図を無意識の内に混ぜ込んで。
「姉さん」
「役立たずだなんてもう言わないで。貴方は私にとって特別なひとよ、シャディク」
自分の言葉で弟の表情が柔らかく綻ぶ。その光景に覚える多幸感が、家族に向けるには行き過ぎた感情であると。頭では理解出来ていても、は心の弛みを抑えきれない。
「・・・はい、姉さん」
シャディクの従順な答えが心の支えだ。
今は幼なくとも、この先きっと頼れる男性になる。ただひとりの弟であると、心を預けた騎士であると。いつまでその言い訳が通用するだろうかと頭の片隅で惑いながらも、は既に目の前の少年の虜になりつつあった。
ひとりきりで寂しかった自室すら、シャディクがいるだけで特別な場所に思える。それほど心許せる存在を身近に置くことは、果たして罪だろうか。これまでの孤独を埋める夢に束の間浸るくらいは、許される筈だ。
歪な依存が一方通行であることを免罪符に、は深みへと歩みを進めるのだった。