たったひとつを受け取る日






「何で無いのよぉ!!うわあああん!!」

激情迸る妹の甲高い声が、狭い店内に響き渡る。妓夫太郎は参ったと言わんばかりに宙を仰ぎ、眉間に皺を寄せた。
二月十三日、夕刻。製菓コーナーの陳列棚は、見事にごっそりと穴が空いた様な有様だ。

「気持ちはわかるけどなぁ、あんまでけェ声出すなよなぁ」
「だって!だって!もう三軒目なのに!アタシこんなに一生懸命探してるのに!何で!こんなの酷い!今日が何日だと思ってるのよぉ!」
「・・・そうだなぁ、頑張ったなぁ」

チョコが無い。他の菓子は溢れ返る中、チョコレートだけが品切れを起こしている。

久方ぶりに下校と同時に達と別れ、梅に付き合いスーパーやコンビニを巡り始め、そして三軒目にして妹の怒りは頂点に達したという訳だ。
バレンタインの前日である。これだけ徹底したチョコの欠品は、世の中の女子達により狩り尽くされた残骸と感心すべきか、ここら一帯の店で起きた集団発注ミスを疑うべきか。

「お兄ちゃん店員捕まえて!アタシの使うチョコ出させてよ!」
「出来ればそうしてやりてぇんだがなぁ」

どちらにせよ、梅の癇癪は到底治まりそうにない。店内在庫無しのプラカードを横目に、妓夫太郎は頭を掻いた。
赤いハートの装飾が目立つこの時期柄、こんな時の解決方法を妓夫太郎は知らない。妹は前日の今日こうして材料を買い揃えに来た訳だが、果たしてそれが正しいのかもまるでわからない。完全にお手上げである。不意に脳裏へ浮かんだのは、先程正門前で別れたばかりの柔らかな笑顔だった。
なら、どうするだろうか。

「余分に持ってねぇか、に聞いてみるかぁ?」
「・・・イヤ」

こんな時必ず寄り添ってくれるであろう彼女を、この時に限り梅は否定した。しかし、嫌悪からの反発と考えあっての拒絶の違いが見抜けぬ妓夫太郎ではない。僅かな空白を置いて、妹はポツリポツリと口を開いた。

「お姉ちゃんは、お兄ちゃんの分しか用意しないんだもん。材料、余分になんか買ってないわよ、絶対。それでもアタシが泣きついたりしたら、きっと必要な分まで譲っちゃうんだわ」

に対し好き放題凭れ掛かり、思う存分甘やかされているこの妹は、時折驚くほど彼女をよく見ている。好ましい部分、少々困った部分ーーそこも含めて、やはり好きになってしまう部分。

年に一度のこの日に彼女の用意する『唯一』を貰い受ける権利が己にあると。それは堪らなく光栄で、如何に周りから羨まれようとも決して譲れぬものだと理解もしている。
しかしバレンタイン前夜にがどんな顔をして、どんな準備をしているか。わかっていないと指摘されたような、改めて胸の内が熱くなるような、不思議な心地がした。
確かに妹の言う通り、彼女は梅に泣きつかれれば必要なものすら渡してしまうだろう。それはの気持ちを擦り減らす愚行だと、己の浅慮さを痛感する。

「アタシ、お姉ちゃんのバレンタインは特別な日だって知ってるから・・・邪魔したくない。それに、お姉ちゃんから取ったチョコで作ったものをあげたって、先生はきっと・・・」

困った様なほろ苦さを笑顔で繕う、の双子の兄を思い浮かべたのだろう。梅の言葉はそこで切れた。妓夫太郎は俯く妹の髪を優しく撫でる。

「お前も色々考えてんだなぁ」
「でもアタシはアタシで今困ってるのぉ!!お兄ちゃん何とかしてよぉ!!」
「・・・そいつは難しい問題だなぁ」

それはそれとして、である。再び導火線に火が付いてしまった妹を前に天を仰ぐ妓夫太郎へ、密かに近づいて来る影がふたつ。

「あんまり大きな声出すと、お店に迷惑かかっちゃうよ、梅ちゃん」

か細い声だった。昼休みに顔を見たばかりの恋雪と狛治がそこにおり、梅は瞬間黙ったが、まっとうな指摘に対し再び激昂する。

「うるっさい!!アンタには関係無いでしょ?!」
「今騒がしいのは確実にお前の方だろう」
「おい・・・俺の妹に文句あんのかよ、なぁ」

恋雪が噛み付かれれば狛治が前に出る。しかし梅が睨まれるなら妓夫太郎も黙ってはいられない。そんな空気をいち早く察したのか、恋雪が慌てて手に持ったものを梅の買い物カゴへと滑り込ませる。

妹があれほど探し求めていたもの。至って平凡な板チョコだった。

「・・・え」
「最後のひとつ、梅ちゃんにあげる」

念願が叶い癇癪の炎は鎮火したが、これが今この時如何に貴重かは妓夫太郎も身をもって知っている。にこにこと微笑んでいる恋雪は、果たして後悔しないだろうか。

「・・・言っとくが、ここらの店は軒並み在庫全滅だからなぁ。後から文句言われても返してやれねぇぞ」
「知ってます。文句も言いません、お譲りするって二人で決めたので」

二人で。そこを強調した恋雪と狛治は顔を見合わせ、笑顔で頷き合っていた。

さんの邪魔したくないって言葉に、私も狛治さんも胸を打たれたから。大事に使ってね、梅ちゃん」

あれだけ騒げば話が筒抜けるのも道理だろう。相手はを慕う恋雪と、何だかんだと今尚クラスメイト歴を更新中の狛治だ。巡り合わせが良かったとしか言えないが、結果的に梅を悲しませずに済んだのだから良かったのだろう。
それにしても狛治は相変わらず涼しい顔をしている。恋雪からのチョコが流れようとも、バレンタインなど関係無いということだろうか。それを言うならこちらとてさえいれば、と無用な張り合いをしたくなる気恥ずかしさを抑え、妓夫太郎はふんと目線を逸らす。

「・・・詫びは言ってやらねぇからなぁ」
「必要無い。それが無くとも困らないからな」
「あぁ?」
「ふふ、たまには和菓子のバレンタインも良いかなって話してたところなんですよ」

成程、チョコに拘る必要は無いということか。思いがけない盲点に目を瞬く妓夫太郎の横で、漸く梅が一歩前へ踏み出す。

「・・・恋雪」
「何?」

を挟み、日頃は噛み付いてばかりの間柄だ。
しかし、大事な時は必要な言葉を言える。そういう妹なのだ。

「・・・ありがと」
「どういたしまして」

消え入りそうな音量で紡がれた感謝を受け止め、恋雪が嬉しそうに微笑んだ。



* * *



「そんなことがあったんだ・・・」

自分の弁当箱を片付けながら、が呆然と呟く。日付は変わり十四日の昼、今年も快く部室を貸してくれた蜜璃のお陰で、ふたりだけの穏やかな時間が流れる。

「梅ちゃんきっと不安でいっぱいだったよね・・・でも恋雪ちゃんと素山くんが通りがかってくれて良かったよ」

コの字に設置された机の片隅で、意識せずとも身を寄せ合って座る。昨日の妹の窮地を憂い救済に安堵する表情は、窓から射す陽に照らされて、妓夫太郎の目に一層眩しく映ったものだ。
良かった。そう繰り返し呟くの顔は優しい。特別な意図も無く自然と伸びた手で前髪をそっと撫ぜると、くすぐったそうに彼女は笑った。

「板チョコが売り切れるなんざ、考えたことも無かったけどなぁ」
「うーん、普段はね。でも確かに、バレンタイン前になると女の子が皆一斉に詰めかけるから、お店の規模によっては突然品薄になったりするかも。その分お店も沢山仕入れてる筈だから、三軒連続で欠品は本当に嫌なタイミングが重なっちゃったかなとは思うけど」

考えが及ばなかった事象が、の声に乗るだけですんなりと腑に落ちていく。わかりやすく丁寧で、柔らかく語りかける様な声だ。特段何事もないこんな時、改めて恍惚と聞き入ってしまう。我ながら重症だと妓夫太郎が密かに苦笑すると同時に、が眉を寄せ深い溜息を吐いた。

「はぁ。私ね、日持ちしない材料以外は、一週間前には買い物済ませちゃってたんだよね。ひとりでこっそり。でも今すごく反省してる。来年からは必ず、梅ちゃんにも声かけるね」

は今、梅に声を掛けなかった点について後悔している。しかしながら一週間も前から動き出していたとは、妓夫太郎にとって小さな衝撃に他ならない。

「材料集めにも、前もって準備やら計画が必要なんだなぁ・・・」
「妓夫太郎くん?」

十三日の夜に慌てぬ様、不足が無い様、考えていたよりも手間と時間をかけては今日この日に臨んだらしい。それを実感した途端、手元の贈り物がより貴重なものに思えて仕方が無くなる。

「去年も、今年も・・・の苦労の上に、こいつが成り立ってるんだよなぁ」
「え?あっ・・・いやいや、苦労なんて大層なことじゃ・・・」

しみじみと呟いた本音に狼狽えたは、両手を頼りなく顔の前で振った末、明確に頬を赤らめた。

「私はただ、妓夫太郎くんにチョコを渡せるのが嬉しくて・・・早めに動き出さないと、そわそわしちゃうから・・・それだけだよ」
「・・・」

なんて顔をして、なんて直球を撃ち込んで来るのだろう。
思わず妓夫太郎が言葉を見失う傍ら、流石に気恥ずかしかったのかは懸命に新たな話題へ舵を切った。

「あ、えっと・・・梅ちゃん、無事にチョコ作れたんだよね?今年はどんなのだった?もう食べた?」
「・・・どうだろうなぁ」
「え?」

足元がふわりと浮きそうな尊さを噛み殺し、気怠げに事実を口にする。妓夫太郎は、梅が今年何を用意したのかを知らない。

「言ったろ。手に入ったのは一枚きりだってなぁ」

材料が、即ち出来上がる物が最小限ならば、それを贈る相手は梅の中でひとりに限られている。
今朝、少々淋しげながらも清々しい笑顔を向けられたことは妓夫太郎の記憶に新しい。

「良い機会だから俺は今年から卒業、だってよ」

の黒い瞳が驚きに丸くなる光景を、間近で眺められる。それだけで溢れる多幸感はどうしようも無く、妓夫太郎は小さく口許を緩め最愛へと試す様に問いかけた。

「こんな大層な物を俺に贈ろうなんて物好きは、正真正銘お前ひとりになっちまったなぁ」

昨年、は言った。どんなに付き合いが悪いと思われようとも、この日だけは友人用や義理はひとつも用意するつもりが無い。双子の兄や梅に対しても同様で、思いを届ける日はただひとつ。妓夫太郎の為だけに準備をすると。
偶然の成り行きだが、受け取る側もまた以外の門を閉ざすことになった訳だ。梅の理解と整理された気持ちの上に成り立ったこの関係性は、胸の内がくすぐったくなる様な、それでいて穏やかな温かさに満ちている。紛れも無い『特別』だ。

「まぁこれから先、お前の気が乗らなくなりゃあ、それはそれで・・・」

妓夫太郎の言葉が不自然に途切れた。

頬に押し当てられた、柔らかな熱さ。次いでやって来る、横からぎゅうと首元にしがみ付く様な抱擁。彼女の匂い。

「そんな年、来ないよぉ」

感極まった様な、好きで堪らない声。
一拍の硬直が溶けた後全身を満たすのは、思わず小さな笑いが込み上げてしまう程の愛おしさだ。出来る限りそっと、妓夫太郎はの背を抱き留めた。

二月十四日に拘る必要も無ければ、強制する気など毛頭無い。しかしがそうしたいと言ってくれるなら、それは妓夫太郎にとっても特別な日だ。

「無理すんなよなぁ」
「来ない、絶対絶対来ないもん」

ひしと抱きついたまま否定する、意地になった様な声もまた、この上無い心地良さで耳許に溶けていく。妓夫太郎は幸福な溜息を吐いた。



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