今は優しい白の世界






「先生はやく!来て!」

梅の声は興奮ともどかしさ、そして甘えが絶妙な匙加減で混ざり合ったものだった。昨晩から降り始めた雪は昼頃には止んだが、下校ルートは未だ見事に白で染められており、滅多に無い景色の高揚感で梅の機嫌は上がり通しだ。

「う、梅殿、滑りますから・・・」
「ヘーキ!はやく!」

梅は駆け出した犬の様に雪の上へ足跡をばら撒き、時には薄氷の張った箇所を意図的に踏みに行くものだから、おっかなびっくり慎重に足を運びたい幸太郎は気が気では無いのだろう。
しかし、強引に腕を引かれよたよたと着いて行く後ろ姿から滲むものが、紛れも無く慈しみであることは誰の目にも明白だ。幸太郎は、誠実な男である。大事な妹の隣を任せるには少々頼りないが、信頼はしているーーー面と向かって、言葉には出さないけれど。妓夫太郎は眉間の皺を解かないまま目を細めた。楽しげな梅の笑い声が、耳に心地良い。

「・・・」

命を左右される様な寒さに、凍えていたことがあった。

今でこそ雪は普段の生活から縁遠く物珍しい冬空の贈り物だが、かつてはこの白い結晶が極寒地獄の先触れであったことも忘れてはいない。
まともな建付とは呼べない住まいで、とにかく少しでも妹に暖を取らせようと苦心を重ねたことも。
幼馴染が悍ましい輩に行手を阻まれた現場に、血が沸き立つ程の怒りを感じたことも。
全てを取り立てられた夜、正気を失い始めた折に追い討ちの如く視界を白く染められたことも。
雪の舞う景色を恨めしく思う気持ちは、別の命を得て尚胸の奥底に燻り続けている。

にも関わらず、今こうして比較的穏やかな気持ちで妹を見守れる理由はなんだろうか。妓夫太郎はぼんやりと白い息を吐いた。

「梅ちゃん、楽しそうだね」

隣から紡がれる声は、柔らかく温かい。
はしゃぐ梅と振り回される幸太郎。彼らを眺める穏やかな横顔を見下ろしていると、影響を受けた様に胸の内が丸くなる様な気がして。妓夫太郎は返事の代わりに肩を竦め、口端を小さく上げた。
そうだ。こうして隣にがいる。何を脅かされる不安の無い日々を、望んだ場所で生きていられる。雪への恨めしさなど、忘れはせずとも多少は薄められる程に、今の暮らしは満ち足りている。

それは、兎も角として。


「なぁに?」
「いい加減それ捨てろよなぁ」

の首元を覆う草臥れた物を横目に、妓夫太郎は溜息を吐いた。己が巻いている物が温かくしっかりとした造りのーーー更に言うなら彼女からの贈り物であるからこそ、余計に目に付いてしまうのは致し方あるまい。

「いくら妓夫太郎くんのお願いでも、それは聞けないなぁ」

は以前、一時凌ぎにと与えられた妓夫太郎の中古品を未だに愛用している。中古どころの話ではない、毛玉にほつれに薄さと欠点を挙げれば際限の無い、マフラーと呼べるのかも際どい代物だ。クリスマスに面と向かって贈るには気恥ずかしかった、ネックレスのカモフラージュ。ただそれだけの役割さえ果たせば、とうに用済みだったそれを。

「妓夫太郎くんがずっと使ってたマフラー。今度は私が大切に使いたいって思っちゃダメ?」

どう考えても、彼女には不釣り合いなそれを。は、喜んで傍に置きたがるのだ。みっともない、そう口に出すことにすらきっと彼女は抗議するだろう。愛おしく大切に毛玉だらけのそれを頬擦る仕草が、気遣いや無理ではなく本心そのものであると。妓夫太郎には長きに渡る縁からそれがわかる故、参ってしまう。

何度命を繰り返そうと、の本質は変わらない。褪せない尊さが時にもどかしく、時に愛おしく、時にくすぐったくて困る。

「・・・お前って奴はよぉ」
「ふふ。お許しありがとう」
「納得はしてねぇんだよなぁ」

の笑顔に弱い自覚はある。しかし、大事なことは妓夫太郎とて譲れない。眉間の皺を努めて深く刻み凄んだが、当の本人はにこにこと嬉しそうに笑って見上げて来る。羞恥から生まれた悪態は声になることなく、熱い胸の内に溶かされていった。

「・・・そもそもが防寒具だってことは忘れんな。それ以上ボロくなったら巻いてる意味無ぇから捨てろよなぁ」
「その時は一番良い使い道を考えるよ」

朽ちれば捨てるという確約すら巧くはぐらかされてしまった。これ以上の問答は無駄だろうが、せめてもの反撃に軽く小突いた反動で触れ合った手が、酷く冷たい。
半ば反射に近い速度で握った妓夫太郎の手も決して温かくは無かったが、それだけでが蕩ける様な幸福を笑顔の形で表現するものだから、妓夫太郎は困った様に眉を下げて苦笑するしか無くなる。

かつては呪わしかった白い景色すら、こんなにも温かな気持ちで塗り替えてしまう。冷たい指先同士が触れ合う、それだけで世界が優しく色付く。どうしたって、には敵わない。

「っ先生・・!!」

微睡みの中優しく揺れる様なひとときは、梅の悲鳴に近い声で現実へと引き戻された。

まさしく絵に描いたような軌道だった。足を滑らせた幸太郎が通学バッグと共に宙を舞い、そして雪溜まりに尻から着地する様は誰の目にもスローモーションに映り、そして時は動き出した。

「ちょっと先生?!大丈夫?!」
「す、すみません、尻餅を・・・」
「見りゃあわかるんだよなぁ、ったく・・・」
「ありがとうございます、妓夫太郎殿」

コートから靴まで見事な雪まみれの幸太郎を、妓夫太郎が腕を掴み軽々と引き上げる。酷い有様であるが、着地点が硬くは無かった為に傷めてはいないのだろう。雪を払う苦笑は普段通り穏やかなものだった。

「お兄ちゃん平気?はい、バッグ」
もすみません。大丈夫です」
「ふふ。はしゃぎ過ぎちゃったね」
「ええ、まったくです。面目無い」

放られた荷物を回収して駆け付けたもまた、双子の兄が無事であることに安堵の息をついている。
しかし、幸太郎がはしゃいで転んだというシナリオがこの兄妹の優しさであることを見抜けぬ妓夫太郎ではなく。それは一歩離れて俯く梅にも、当然同じことが言えた。
足元が滑ると、最初から注意を受けていた。それを聞かずに巻き込みはしゃいでいたのは、果たしてどちらか。

「・・・先生、ごめんなさい」

妓夫太郎は兄としてこの状況を静観する。基本的に梅は我が強い性格であるし誰にでも非を認める訳ではないだろうが、こうした時素直に謝れる様になったのはいつの頃からか。ふと見遣ればもじっと成り行きを見守る中、幸太郎が一歩前へ進み出た。

「梅殿が謝ることではないですよ、私の不注意ですから。怪我も無いですし」
「・・・でも」

梅の沈んだ顔など、この中の誰一人として見たくはないだろう。命が一巡する以前より、三人にとって梅は特別だ。しかし、こうした時正しく導けるのは彼女の『先生』たる幸太郎であると。どことなく淋しくとも、妓夫太郎にはそれがわかる。

「・・・そうですね。もし転んでいたのが私ではなく梅殿で、怪我をしていたらと考えると怖いです」

諭す様な声と、決して穏やか一色ではない眼差しを受け止め、妹が何を思うのか。

「とは言え、この景色で昂る気持ちは十分にわかります。お互い、気をつけましょう」
「・・・うん」

過ちを受け止め、どう気持ちを上向けるのか。

「梅殿」
「・・・何」

歯痒さを胸に耐える妓夫太郎の真横に、が寄り添う気配がする。大丈夫だと、無言の中で励まされた様な心地がしたと同時に、渦中の二人を纏う空気がふわりと和らいだ。

「・・・実は私、少々空腹を感じ始めているのですよ」

と雰囲気のよく似た笑顔が、しかしとは違った綻び方で梅の張り詰めた心を解きほぐす。一見して頼りない声が、妹の奥底から明るさを引き上げる。一連の流れを目の当たりにし、妓夫太郎は思わず苦笑を浮かべてしまった。

「どうでしょう。そろそろ夕飯の買い出しに向かいませんか?」
「・・・うん!」

心配など無用だった。いつまでも可愛い妹は、しかしいつまでも子どもでは無い。兄が手を出さずともひとりで立ち上がれる。正しく導ける存在が、すぐ傍にいる。
安堵と感慨深さ、そして僅かな切なさを妓夫太郎がひた隠すと同時に、明るい輝きを取り戻した梅の瞳がへと向く。

「お姉ちゃん!今日のご飯はなぁに?」
「まだ決めてないから、梅ちゃんのリクエストにお応えするよ」
「本当?!やった!」

ばふ、と音を立てて梅がの腕に抱き着きじゃれる。慈しむ様に彼女から頭を撫でられ、当然の様にその特別な温かさを享受し、そして。
くるりと大きな瞳に映ったのが己であると気付いた瞬間、妓夫太郎はおやと目を瞬いた。

「お兄ちゃんは何が食べたい?」





『おにいちゃんだいすきー!』





依然としての腕に絡みついたまま、しかしこちらを見上げて嬉しそうに笑うその瞳が、遠い昔の幼い姿と重なる。成長を喜ばしく思うと共に感じた、僅かな淋しさをかき消す程に。兄が好きだと体現した様な笑顔が、果てない記憶のまますぐ傍にある。

朗らかな幸太郎の笑みも、全てを察しているであろうの温かな眼差しも。そして、可愛い妹からの変わることの無い愛情も。
今の己を包む世界の優しさは、何度でも実感する度に眩しくて堪らない気持ちになる。

「・・・お前の好きな物を頼めよなぁ」

求めていたのは、まさしく“今”だ。
妓夫太郎がそっと頭を撫でると、鈴を転がす様な妹の笑い声が柔らかく響いた。




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