夕星の導き




ひとと違うことは、何故理解されないのだろう。

齢五つ。当然持ち合わせている筈の幼さを封じ、は暗い表情で川沿いを歩いていた。

物心がついた頃より、未知への欲求を押さえきれない性分だった様に思う。父は既におらず母は女将として日々忙しくしていた。低下層なりに悪くない生活水準の家は、親の放任と子の知識欲を掛け合わせた最良の環境と呼べた。母が気付いた時には既に、は遊郭において不要とされる学問の虜となっていた。

『女が子どもの内からそんなことを身につけて、一体何の得があるというの。誰に認めて貰えるというの』

文字の読み書きを独りで覚え、薬草について時間をかけて調べ、そして漸く実際に薬と呼べるものを調合した。子どもの小さな手には大き過ぎる程の輝かしい功績は、しかし最も身近な母からの理解を得るには到底至らなかった。

『お前という娘はどうしてこんな無駄なことばかり・・・どうして、余計なことばかり・・・!折角、この町で支配する側に生まれたってのに・・・!』

支配する側。母がそう表現するこの町の仕組みを、幼いながらには理解していた。美醜を絶対の価値基準とし、欲を金で売り買いし、商品として差し出された女はどんな扱いにも耐え忍ぶしかない、腐敗臭で濁り切った町だ。そんな場所で美ばかりを尊び、学問を不要と切り捨て、ゆくゆくは母と同じく客に女を売る側の人間になるだなんて。

『そんなこと、したくない』

その様なことは決して耐えられない。は偽りの無い本心を口にした。

『こんな町、だいきらい・・・!』

母の顔が怒りで激しく歪んだ。

元より親子仲は良好とは呼べなかった。希薄な関係はの独学をきっかけに不穏なものとなり、小言や溜息が増え、そして今日決壊した、それだけのことだ。例え折檻を受けたとしても、にとって学びを手放すことは耐え難い苦しみだ。わかって貰えるとは、考えていなかった。ただ、ほんの少し胸が痛い。

川原で手鞠遊びに興じる同年代の子どもが三人、楽しげな笑い声を上げていたが、が傍を通るなり明確に息を潜める。実に冷たい視線だった。悪いことをした訳ではなし、堂々としていれば良いと頭ではわかっていながら、しかし居心地の悪さからは自然と足早になってしまう。

変わり者。はぐれ者。密やかな嘲笑に含まれた悪意の言葉、その数々に母から投げつけられた無駄や余計という響きが被さり、は自身に傷付くなと必死に言い聞かせなければならなかった。

綺麗な帯よりも図鑑が好きだ。読めない文字があると落ち着かない。白粉よりも薬草を手に取って眺めていたい。誰に迷惑をかけるでもなく、ただ学びたいというこの気持ちは、こんなにも忌み嫌われるものなのか。悔しさ、もどかしさ、そして淋しさ。気付けば小走りではその場を後にしていた。

こんな場所にいたくない。わかりあえるひとは、この町にいる以上誰一人現れない。衣食住には困らぬ暮らしの中にありながら、は悲しくなるほど孤独だった。

足を懸命に前へと動かしている間に、は隣接区画の境界を越えた。幼い身には心許ないが、それでも今の心境を思えば顔馴染みのいる場所よりは余程良い。そもそも、親しいという意味での顔馴染みなどいた試しが無いではないか。は俯いたまま、足の速度を落とした。区画が変わったところでここが遊郭低下層の町であることには変わりない。大人達は夜の客引きへの備えにのみ注力し、幼い子どもが独りで出歩いていようが気に掛ける者などひとりもいなかった。

あてもなく歩き続けた末、草の匂いを嗅ぎ取り顔を上げる。まるで屏風の様に背の高い草花が生い茂る一帯へ、引き寄せられるかの様には近付いていった。手入れをされていない故に背丈を伸ばし続けた草木の群生は、幼いをすっぽりと覆い隠してくれる心強い城の様だ。誰とも話したくはないがどこか寂しい、相反する思いを受け止め叶えてくれるのはやはり人間ではなかった。

風にそよぐ草の葉音。微かな花の香り。踏み心地の丁度良い土。自然に囲まれることで、多少は息がし易くなった様な気さえする。は膝を抱え、疲労と傷付いた内面を癒すべく目を閉じた。




* * *




びくりと肩を揺らし顔を上げると、空が随分と暗くなり始めておりは目を見開いた。朧気だった意識がいつ眠りに落ちたのかは定かではないが、本格的な夜が訪れる前に帰らなくてはと立ち上がりかけた次の瞬間、の身は石の様に重くなり再度蹲る。

邪見にされるだけの家に、帰る必要など無いのではないか。

知識以上の野宿の心得など無く、は治安の悪いこの街で流離うことの危険を理解出来ない子どもでは無かったが、それでも尚傷付いた幼い心は帰宅を拒んだ。

そんな中、を守る自然の要塞が不意打ちの客を招き入れる。小さな野犬だった。
草をかき分け侵入してきたその犬はの顔を見上げ、吠えるでもなく呻るでもなく短く息を繰り返し尻尾を振る。思わず頬が綻んでしまうほどの愛らしさに、は目を輝かせた。
大きさからしてまだほんの仔犬なのだろう。全身汚れてはいるが表情が生き生きとして、抗い難い魅力でがっちりとの心を掴んでしまった。荒んだ胸中が一息に癒されていくような心地に、そっと手を差し出す。怖がらせないよう、優しく触れようとした刹那。

「・・・!」

仔犬はくるりと踵を返し、再び草を踏み分け出て行ってしまった。自ら籠城した場所にひとり取り残され、何とも言えぬ空虚な思いにが腰を上げかけた、その時。

「なんだ」
「っ・・・!」

突如、雷に打たれた様な緊張がの全身を駆け抜けた。
咄嗟にでも悲鳴を飲み込めたのは奇跡のようなものだ。まさか、こんな近くから人の声がするとは考えもしなかったのだ。声の出所はこの草木を掻き分け、ほんのすぐ傍だ。恐る恐る隙間から覗き見るの耳に、犬が喉を鳴らして甘えるような声が届く。は目を丸くした。

「お前、下がいたんだなぁ」

こちらに向けて発された言葉ではない。生い茂る草花に覆われ、の姿は依然として隠されたままだ。

そこにいたのはと同じ年頃の、痩せ細った少年だった。屈みこんだ彼の前に、仔犬が二匹じゃれついている。一匹はの元へ顔を出した犬に違いないだろう、もう一匹はひとまわり大きな体格をしていた。兄弟だろうか。仲睦まじい様子もまた一段と愛らしい。

「食っちまうつもりだったのになぁ」

蕩けたような表情から一変、少年から発された衝撃の一言には身を硬くした。
貧困層の町ではそれもまた厳しい現実と理解はしているが、既に仔犬たちはの世界の内側に入り込んでしまい、食糧と切り捨てることは難しい。はらはらと祈るような思いで成り行きを見守る中、少年の眼光から不意に鋭さが抜け落ちた。

「・・・はぁ。腹は減ってるけどなぁ。やめだ、やめ」

溜息を吐き、頭を掻いて眉を顰める。その表情は気怠く、迷惑そうな色をしていると同時に―――

「弟だか妹だか知らねぇけどなぁ・・・俺がお前を食っちまったら、そいつを守ってやる奴がいなくなるだろうが」

―――その声は、これまで聞いたことが無いほど温かな響きがした。

自らの意思とは別の反射で、は己の胸を強く押さえ込む。心臓が、どっと脈打った。

強い者が弱い者を守る。生きていく上で当然の摂理は、しかし濁り切ったこの町とはあまりに無縁のものだった。
弱い者は淘汰される。何も持たぬ者から金で売られ、欲の捌け口に堕とされる。そんな町を心から忌み嫌うにとって、目の前の少年は信じ難い程に稀有な優しさを持ち合わせた存在と呼べた。

「・・・んだよ。折角拾った命なんだからよぉ、俺の気が変わらねぇ内にどっか行けよなぁ」

それは恐らく、二匹の仔犬にもわかるのだろう。どこかへ行けと諭しながら乱暴を働かない少年の足元に、ぐいぐいとその身を押し付け離れようとはしない。

「おい、くっつくな・・・くそ。殺そうとしてた奴に気ぃ許すなよなぁ」

屈んだ状態でまとわり付かれては立ち上がれない。少年は諦めた様に座り込み、待ち構えていた仔犬たちに顔中を舐め回されていた。
草木に隠されながら覗き見る目の前の景色は、陽が落ちかけ暗くなり始めているにも関わらず眩しくて仕方がない。が飽きることなく瞬きだけを繰り返す最中、されるがまま大人しくしていた少年の腕が動いた。躊躇いがちにぎこちなく、そしてそっと仔犬の身体に触れる。少年の側から触れても拒絶されないことに、青い瞳が安堵の色を醸し出した。

「忘れんな。今日は運良く俺の気が変わっただけで、ここの奴らは皆・・・冷てぇからなぁ」

それは、形容しがたく淋しい言葉であると同時に、にとって覚えのある思いそのものでもあった。遂には両手で仔犬たちを抱き寄せた少年が、感じ入る様に目を伏せる。

「お前らの方が、よっぽどあったけぇんだよなぁ」

温かさを噛み締めるような声が、彼の孤独を告げる。誰もが持ち得ない優しさを宿しながら、この町に彼の居場所が無いことを物語る。
の胸を占めるのは、遊郭という町そのものへの憤り。そして、探しびとを見つけた様な不思議な高揚感だった。

どこからともなく、犬の遠吠えが響き渡る。はっとするの目の前で、少年の手が仔犬たちから離れた。

「探してんぞ」

間隔を空けず放たれる長い叫びは、確かに我が子を探す親の呼び声に似ている。尻尾を振り一方向へ向いた仔犬たちは、再度少年の顔を見上げた。

「帰って来いって呼んでくれる、良い家族じゃねぇか。ほら、さっさと行けよなぁ」

まるで言葉が通じたかの様に、二匹の仔犬は遠吠えの呼ぶ方角へ駆け出していった。

屈んだまま一部始終を見守るに背を向ける形で、少年が立ち上がる。思わず息を飲んでしまうような哀愁を漂わせ、彼の後ろ姿が天を仰いだ。

「・・・良いなぁ」

優しさと相まった、切なる羨望。帰りを待ち望まれない悲しみ。そして、どうにもならない無力感。
彼の背中から発されるどれもこれもが、の心臓を鷲掴んで離さない。
指先ひとつ動かさず草花に紛れ、息を潜め身を屈めた状態で見上げる少年の立ち姿。その背景に光るひときわ美しい星に気付き、は目を瞬いた。

日が暮れて間もない涼やかな宵闇。あんなにも美しく輝く一番星は、もうじき夜が深まれば数多い星のひとつとなり目立たなくなってしまう。ほんの一時、今この瞬間に顔を上げた者にしか真価が伝わらない。この邂逅が無ければ、俯いてばかりだったが気付く筈も無かった夕星。

心の底から嫌悪する生まれ故郷で見つけた、最も綺麗で優しい光。

は彼が立ち去るその瞬間まで尊い光景を目に焼き付け、ひとりきりになり漸く腰を上げた。
帰ろう。ここへ逃げ込んだ時とは違った心持ちで、は歩き出す。状況は何ら変わらない。母からも町の人間たちからも、のしたいことは理解されはしないだろう。
しかし、誰ひとり持ち得ないと思われた優しさを見つけた今ならば。孤独と町への嫌悪を抱える者は、自分だけではないと気付けた今ならば。出来ることを精一杯貫こうと、前向きな思いでは暗くなった夜空を見上げる。

星々に紛れ始めた夕星の輝きを、は決して見失わない。
また、逢いたい。
今度は一方的に覗き見るのではなく、友達になりたい。
心臓が新たに生まれ変わったような喜ばしい心地に、の瞳が輝いた。


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