二百年前の栞




「失礼しました」

職員室の扉を閉めるにあたり、礼儀正しいふたつの声が重なる。は隣に並ぶ後輩に向かって、感謝の言葉とともに笑顔を向けた。

「運ぶの手伝ってくれてありがとう、竈門くん。助かったよ」
「いいえ!これくらい、いつでも言って下さい!」

細々とした偶然が重なり、本来二人で行う日直の仕事を一人で引き受けることとなった放課後。クラス分のノートを抱えて廊下に出た際行き会ったふたつ年下の後輩は、当然の様に半分以上の荷運びを引き受けてくれた。相変わらず善性の塊の様な少年に、は目を細めて笑い返す。

開け放たれた廊下の窓から、ふわりと侵入してきた春の気配。心地よい風に足を止めるのはふたり同時のことで、どちらともなく同じ窓から校庭の景色を眺めてしまう。

「桜、もうすぐ咲きそうですね」
「そうだね」

もうじき、新しい季節が巡る。

「新シーズンに向けて、順調ですか?」

にこやかな問いかけを受け、の目が嬉しさに輝いた。

「うん!引っ越しももうすぐ完了だよ!」
「・・・引っ越し、ですか?」
「・・・え?」
「え?」

ぱち、ぱちと互いに瞬きばかりを繰り返すこと数秒。噛み合わない違和感の正体に気付くタイミングが見事に重なり、と炭治郎は同時に一歩退きあった。

「あっ・・・新シーズンって、そっか。天神杯のことを聞いてくれたんだよね。やだな私ってば、恥ずかしい・・・」
「いえいえこちらこそすみません!引っ越しって妓夫太郎たちのことですよね!俺の方こそ紛らわしい言い方をしてしまって・・・!」

春に迫る二冠目をかけた大会のことを、炭治郎は応援する気持ちで問いかけてくれたのだ。同じ春の一大事とはいえ、的外れな答えを返してしまったことには顔を赤らめてしまう。
言葉足らずを詫びるに対し、炭治郎も両手を振って恐縮を示したものだったが、その表情は程なく優しく解けた。

「そうですよね。さんにとっては二人と再スタート出来る、特別な春ですもんね」

卒業式が間近に迫る。残り一月足らずでの制服は高等部のブレザーへと切り替わり、そしてこれまでは傍にいられなかった存在がふたり、身近な輪に加わるのだ。

「妓夫太郎も梅も、合格できて本当に良かった。二人がさんとまた一緒にいられることになって、俺も嬉しいです」
「・・・ありがとう、竈門くん」

しみじみと喜びを表現してくれる少年が、前世では命がけで鬼と戦っていたことをは知っている。妓夫太郎と梅がかつて鬼であったことも、まさに激闘を繰り広げた因縁を持つ相手であることも、すべてを承知の上で炭治郎はに起きた奇跡を自分事の様に喜んでくれている。己の立場を鬼殺の剣士に置き換えて考えることは、はあまりに妓夫太郎寄りである故に難しいけれど、それでも感謝の念は絶えない。ありがとうと小さく繰り返し、は炭治郎に向かいもう一度頭を下げた。

「私は鬼と鬼殺隊のこと、やっぱり理解が足りてないことの方が多いけど・・・竈門くんに二人を認めて貰えると、ほっとする」
「そんな、さん頭を上げてください。俺の考えは、最初に説明した時と変わっていませんから」

ぐいとの肩を掴んで視線を合わせる緋色の瞳は、力強いとともにやはり優しい。
鬼によって大切な家族を奪われ、鬼となった妹を元に戻す為刀を振るったというこの少年は、どんな罪であれ償ったからこそ今転生出来ているのだと、全てを開示した日に告げてくれた。

「秋までのさんからも、消える間際の妓夫太郎からも、同じ匂いがしました。逢いたいって、心の底から真っ直ぐに願う匂いです。俺、ずっと忘れられなくて・・・だから、さんの探しびとが妓夫太郎だってわかった時、ああ、腑に落ちるってこういう事なんだって、身をもって理解出来た気がしたんです」

鼻が良いのだと炭治郎は言う。ひとの思いには、それぞれ匂いがあるのだと。
例え自身はそれを感知することが出来ずとも、炭治郎の口からふたりの思いは同じであったと語られることでの安堵感は、これまでの道のりを讃える様に温かく包んでくれる。

さん達の事情を知るまで、記憶を持ってるのはどうして俺だけなんだろうって・・・実は少し、淋しく思ってました。でも、さんの強い思いと努力が結んだ未来を傍で見守れるなら・・・きっとこの為だったんだって、今ならそう思えます」

切なさすら柔らかい気持ちに変えて微笑む炭治郎を前にして、は願わずにはいられない。
こんなにも善良な少年に、これから先抱えきれないほどの幸福が降り注ぎますように。炭治郎が喜んでくれた分と同じだけ、彼の憂いない未来を願い続けたい。

さん。本当に、良かったですね」
「・・・竈門くんは、優しいね」

優しさと感謝で気持ちが熱く満たされ、ふわりと新たな風が舞い込んだ、その時だった。

「随分と、派手なスケールの話じゃねぇか」

気配はまるで感じられなかった。
しかし、いつの間にかふたりのすぐ後ろに大きな影が聳え立っている。と炭治郎が呆然と振り返り見上げた先に、フードを被った端正な顔立ちが待ち構えていた。

校庭の喧騒が、不自然な程遠く聞こえる。今の会話を聞いての反応だとすれば、前世の記憶という一見すれば非現実的な内容に対し、あまりに理解が及び過ぎた台詞ではないだろうか。

「俺も混ぜろよ」

学園一の色男を自称する整った顔が、少年の如き悪戯な笑みを携えこちらを見下ろす。

「・・・宇髄・・・さん?」
「よぉ」

隣に立つ炭治郎の感情の波が水位を上げて、彼という器に収まりきらず次々に溢れ出していく。驚きと同じだけ切なさが流れ込んで来るようで、の胸を締め付けた。




* * *




宇髄天元という男が鬼殺隊の一員であり、更には柱と呼ばれる実力者であったことは、妓夫太郎や炭治郎から話を聞いて理解していた。現代を美術教師として生きる彼もまた、前世の記憶を持つ側の人間だったとは予想もしなかったことだけれど。

「お待たせしました、さん・・・」

美術部に併設された小さな準備室から、掠れ声の炭治郎が出てきた。赤く泣き腫らした目が彼の胸中を物語り、外で待っていたは心臓をぐっと掴まれたような心地で心配顔を浮かべた。

「竈門くん・・・」
「すみません、恥ずかしいところをお見せして・・・平気です」

炭治郎が無理に笑う、その拍子に新たな涙が滲んだ。命をかけて戦った、同志との“再会”なのだ。動揺も、安堵も、喜びも、きっとには計り知れないほど大きなものだろう。

「中へどうぞ。俺は少し頭を整理してから帰ります」

は炭治郎を案じながらも、最後は小さく頷きその後ろ姿を見送った。

カラカラと音を立てて入室後の扉を閉める。
椅子の背もたれを前面に座って待つ、美術教師がそこにいた。

「もっと竈門くんとお話しなくて、良かったんですか?」
「おぉ。いくら時間をかけたところで、俺とあいつは話が尽きねぇよ」

不思議な心地だった。中学の入学時から世話になった、何事も派手で人気の美術教師。自由な風貌でガムを膨らますその姿はよく知っている筈が、今目の前にいる宇髄は初めて会う様な異質さも備えてを見据えている。

「元鬼殺隊音柱、宇髄天元だーーーなぁんて、まさか今になって名乗る日が来るとはなぁ。人生わかんねぇもんだな」

名を名乗る、ほんのそれだけの数秒間。言葉では表現の追いつかない重厚さも、そこから茶化す様に笑う親近感も、相反するどちらもが宇髄そのひとなのだ。

「前の人生の記憶なんざ、他には誰も持ってねぇだろうと思ってたんだけどなぁ。無視できねぇ会話が聞こえちまってよ、つい声かけちまった。驚かせて悪ィな」
「いいえ、そんな・・・私なんかよりも・・・」

炭治郎のことを口にしかけ、は口を噤んだ。刀を手に命を懸けて戦う、その重圧や苦しみをは知らない。宇髄が今日まで秘めていた理由も、炭治郎が流した涙も、推し量ろうとするには役不足に違いない。出過ぎたことを恥じ、が目を伏せた。

「すみません。余計なことでした」
「ガキが色々気を回し過ぎんなよ。ま、そこ座れや」

指示された通り、は正面の椅子に掛ける。宇髄は長い足で椅子ごとずいと一歩漕ぎ、互いに触れ合える位置まで距離を詰め、その瞳をすっと細めた。

「お前とあいつらに関係する大筋は、竈門から聞いた」
「・・・はい」
「俺は今、率直に感じたことを言うぜ。お前って奴は・・・」

思わず息を飲む緊張は、ほんの一瞬。

「・・・見事だよ!!」

カッと目を見開くなり豪快に破顔する宇髄を前に、は驚いた様に固まるしか為す術を持たない。

「逢いてぇ奴がいるとは聞いてたが、まさか生まれる前からの縁続きとは恐れ入った!とんでもねぇ確率を、自力で引いたその根性にも痺れた!この宇髄様にここまで言わせる相手はそういねぇぞ!」

こんなにも近距離にいながらまるで遠慮の無い大声で捲し立て、普段そうする様に巨大な腕を張り上げ、ばちんと肩なり背中なりを叩かれる、かと思いきや。宇髄の手は直前で勢いを落とし、の頭へ柔らかく着地した。

「頑張った、なんて次元の話じゃねぇだろうが・・・お前は凄ぇよ。本当にな」

何故だろう。昔からお前は凄いと讃えてくれた幼馴染の声が被り、は心の芯から何かが弛んだ様に浅く息を吐き出した。ごしごしと頭を撫でる大きな手が、優しいこと。事情を知られて尚、宇髄が変わらずにいてくれること。覚えかけた気持ちは安堵に違いないが、は更に先を確認せずにはいられない。

「あの・・・宇髄先生は、妓夫太郎くんと梅ちゃんのこと・・・」
「おぉ。危うく殺されかけたっけなぁ」

命懸けで戦った相手を、果たして受け入れてくれるのかと。半ば祈り縋る様な問いかけは、思いのほか直接的な言葉で返ってきた。
の心臓がキリと収縮する。

「・・・外の世界をまるで知らねぇ、ガキみてぇな奴らだった。狭い場所で必死こいて、お互いを守り合うしか道が無かったんだろうなぁ」

しかし、過去に思いを馳せる宇髄の目は憎悪の色とは程遠い。命を獲られかけた敵の背景を察する言葉からは、情すら感じられる。
の中で閊えていた不安の塊が、緩く崩れ始めた。身体中に、温かな血が巡る音が聞こえてくる気さえした。

「鬼になった過程の話も聞いた。あと一歩で広い世界に出られた可能性を、お前を含めて目の前で理不尽に奪われたとなりゃあ・・・あいつらの辿った道も、肯定も出来ねぇが全部を否定も出来ねぇ。何かひとつでも違えば、誰の立場がどうなってもおかしくなかった時代だしな。お互い譲れねぇもんがあって、俺たちは全力で戦った。それだけだ」
「・・・竈門くんも、同じようなことを言ってくれました」

怖かった。炭治郎が特別優しい少年であることを理解しているからこそ、同じく直接戦った宇髄も今のふたりを受け入れてくれるか、不安だった。の力ではどうにもならない遺恨で、ふたりの笑顔に影を落としたくはなかった。
しかし、宇髄は今こうして最大限の理解を示してくれる。急激な展開が齎した恐れが杞憂と消え、は膝の上で握っていた拳をそっと解いた。

「ざっと見積もって約二百年越しってところか」
「え?」
「お前らはその頃叶わなかった続きを、漸く始めた訳だろ」

宇髄の瞳はこちらを見透かす様で、同時に優しい。

「・・・はい」
「なら良かったじゃねぇか。しみったれた顔してる暇なんか無ぇぞ。ひよっこにはまだわからねぇだろうが、人生は山あり谷あり、この先色んな景色がお前らを待ってるんだぜ」

どうにもならない不安も、安堵も、全て見通しているかのような顔をしてにっと口端を上げるこの教員を。中学入学当初のあの日、力強く背を押してくれた頃から、変わることなくは頼もしく思うのだ。

やはり、今世は周りのひと達に恵まれた。何度目かもわからない温かな思いに、自然と背筋が伸びる。

「今度は思う存分、あいつらと一緒に楽しめよ」
「・・・ありがとう、ございます」

一緒に、楽しめと。事情を知る存在から後押しされることで込み上げる嬉しさも、尽きることの無い感謝の念も、簡単には整理しきれない思いだけれど。ただ、今は春への明るい希望で、憂いなく心が躍る。

ふと、そこでは目を瞬いた。
大事か些末か、判断に困る話題ではあるが、宇髄に元の記憶があると知れた以上は共有すべき事柄がある。
有難いことに宇髄がまっさらな心持ちでいてくれようとも、あの兄妹はこの美術教師に対し、出会う前から悪印象の種を芽吹かせつつあるのだ。
何もかもを塗り替えた文化祭、その表彰式の映像を―――正しく言うなら“を米俵の様に担ぎ上げたまま表彰台に上がった宇髄”を目にした兄妹の凄まじい憤りを、忘れることは難しい。

「・・・あ、あの、宇髄先生。実は二人は文化祭の配信を見てて、その・・・表彰台の映像、も、」
「あぁ?あー・・・成程な、皆まで言うな」

宇髄の理解は実に早かった。僅かに宙を仰いで思案するなり、次の瞬間にはどこか楽し気な表情を伴いの額を指でぐりぐりと押す。

「面白ぇ。お前、俺の記憶どうこうはひとまず知らねぇ振りしてろ」
「えぇ?!でも・・・」
「良いからどんと信じて任せな。宇髄大先生を舐めんなよ」

案ずる気持ちは、余裕綽綽の大人な笑みによって封殺される。何より、妓夫太郎たちとは異なるベクトルでの信頼関係が、それ以上の反論を意味の無いものとしてかき消した。
宇髄が大丈夫と言うのなら、きっとそうなのだろう。そうして小さな苦笑を浮かべるを見遣り、宇髄の表情が変わる。

「それよりお前、大事なことを俺はまだ聞けてねぇんだが」
「はい?」

にんまりとした笑みを象り、学園一の色男は更にへと詰め寄る。好奇心に満ちたその瞳は、教師でありながらまるで学生のそれだった。




* * *




想定通り、桜は綺麗に花開いた。

「つー訳で、あん時ゃ斬った斬られたと色々あったが、面倒臭ぇから省略する。とにかくこっちじゃ俺様の方がこいつとの付き合いは先輩だからな、まー何でも聞いてくれや。暇な時なら構ってやるからよ」
「・・・」

何故こうなってしまったのか。

入学式と始業式を終えて早々、あまりに雑な挨拶と挑発の如き煽り文句に、は眩暈を覚える一歩手前だ。今のところ校舎裏に他人の影は無いが、幸太郎が所用で不在の今、早くも怒りに震え始めたふたりをひとりで抑え込むことは不可能に等しい。

「う、宇髄先生、あの・・・」
「立花妹も高校生か。ついこの前中学に入ってきたと思ったが、早ェもんだなぁ」

遡る美術準備室では、あんなにも理解を示してくれたというのに、何故。呆然と固まるあまりうまく言葉を紡げないの頭を、駄目押しの様に宇髄の大きな手が何往復も無遠慮に撫で回す。隣に立つ妓夫太郎の血管が妙な音を立てた気がした。

「おい・・・お前ぇ・・・」
「声ちっさ。地味に聞こえねぇよ」

怒りのあまり掠れ震える声は、刻一刻と荒ぶる呼吸音と共に決壊した。

「っ・・・に馴れ馴れしく触んじゃねぇよなぁ!忌々しい柱がよぉ!」
「ふざけんじゃないわよ!アタシ達のお姉ちゃんなんだから!」
「なんだよ腹から声出せんのな。しっかしお前らはアレだ、まずは状況を正しく理解しろ。教師は神、生徒は下々。わかったか?」
「わかるわけないでしょバカじゃないの!!」
「お前を教師とは認めねぇからなぁ!!」

秋の再会以来、例え炭治郎を相手にしようともの手前気力で耐えていたふたりの限界値を、宇髄はあっけなく突き抜けた。容赦無く切れてしまった兄妹に両脇を挟まれ、目が点になるのことを密かに見遣り、宇髄が大きく三歩後退する。にたりと笑うその表情は、明確な妓夫太郎への挑戦だった。

「弱ぇ犬ほどキャンキャン吠えやがる。欠伸が出るぜ」
「っ良い度胸してんじゃねぇかよ、なぁ!」

宇髄が下がった分、妓夫太郎が前に出る。が我に返った時には、破裂する様な音を立てて両者の拳がぶつかり合っていた。尤も、宇髄の掌は開かれ、妓夫太郎の拳を正面から受け止める形に収まっている。空気がひりつく中、不敵に笑う宇髄からは余裕の色が一切抜けない。

「へぇ。なかなか良い拳してんじゃねぇか。ま、俺には遠く及ばねぇけど」
「んだと・・・!」
「やっちゃえお兄ちゃん!」

右が駄目なら左を繰り出そうとも、同じく空いた手で塞がれ両者の均衡は崩れない。大きな動揺に戦慄くこと数拍の末、が妓夫太郎の背を追って飛び出す。

知らない筈の激闘が、見えてしまう気がした。

「っ・・・だめ!妓夫太郎くんだめ!」

両手を塞がれた上、背後から抱き付かれては足の踏ん張りも効かない。妓夫太郎が狼狽えるのを直に感じたが、はぐっと目を瞑ったまま離れはしなかった。

っ・・・おい、危ねぇだろうが・・・!」
「妓夫太郎くんも危ないことはしちゃだめ・・・!」

が押し通せば妓夫太郎の身体から力が抜ける。自然と離れた両手を宇髄は白旗の様にかざし、途端におろおろと困り果てる妓夫太郎を、そして必死に抱き付いたままのを見下ろし、小さく笑った。

「悪ィな。ついつい火ぃ付け過ぎちまった」

立ち尽くすしか無い妓夫太郎の横をするりと抜け、の肩をぽんと叩く流れで小さく身を屈め、宇髄は彼女にだけ聞こえるよう囁いた。

「元気そうで安心したわ」

はっとが目を見開いた時には、宇髄は既に長い足で三人から遠ざかろうとしていた。後ろ手をひらりと振り、何事も無かったかのように首を鳴らす後姿はこちらを振り返らない。

「ま、俺みてぇな派手な人生とはいかねぇだろうが、せいぜい励みな。授業サボんなよー」
「っざけんなさっさと失せやがれ!」
「二度と来んなウザ柱!!」

妓夫太郎も梅も身体を震わせて憤っているものの、記憶の有無による戸惑いや気まずさを強引に吹き飛ばされたようなものであるし、これでは表彰式の配信を見て気に入らないと喚いていた時分と何ら変わりない。
己だけに届けられた優しい言葉を、は改めて噛み締める。

「あ、あのね、二人共、宇髄先生は・・・」

本当は、ふたりのことを。
本当は、ふたりのこれからを。

「お姉ちゃんやだぁ!あんな奴の話しないでよぉ!」
「梅ちゃん・・・」
「やだやだ!聞きたくない!アタシあいつ嫌い!」

擁護の言葉は悔しさを訴える梅によって遮られてしまう。次いで拘束を抜けた妓夫太郎から逆に両肩を掴まれ、乱れた髪から触れられた箇所隅々まで確認が入る。

「っくそ・・・変なことされてねぇだろうなぁ・・・?!」
「そうよぉ!女の子の髪をこんなくしゃくしゃに撫で回すなんて最っ低!近付いちゃダメなんだからね!」

妓夫太郎と梅から向けられるものであるなら、焦りも、心配も、束縛すら今はただただ嬉しい。憎まれ役を担ってくれた宇髄に対する申し訳無さはあれど、は己の気持ちに正直に頬を綻ばせた。

「・・・大丈夫だよ、ありがとう」

喜ばしい春が来た。これから先宇髄の言う様に、沢山の景色を共有していきたい。二百年前に挟んだままの栞から、頁の続きを捲っていきたい。手と手を重ねて、いつまでも、いつまでも。

「でも、拳はダメ」
「・・・」
「妓夫太郎くん」
「・・・しょうがねぇなぁ」

真剣な顔はほんの一瞬。
桜舞う穏やかな空気の中、は堪え切れなくなったように目を細めて笑い、ふたりに力いっぱい抱き付いた。




* * *




時は、桜の蕾が綻ぶ前の美術準備室へと遡る。

『・・・えっと』
『そんな変な質問じゃねぇだろ。幼馴染っつっても色々あるだろうしよ』

大事なこととは、ふたりの馴れ初め話だった様だ。根掘り葉掘り聞きたいのだと隠しもしない美術教師を前に、は困った様な苦笑を返した。

『ずばり、どっちから?俺が一番気になるのはそこだな』
『その・・・ちょっと恥ずかしいですし、私からは何とも・・・』
『何だよ。じゃあ始まりは?気付きゃ一緖にいた仲か?それとも、ド派手に運命的な出会いがあったとか?なぁ、聞かせろよ。お前のことだから、忘れたってことは無ぇんだろ?』

は思わず言い淀む。察しの通り、妓夫太郎とのことで忘れてしまったことなどひとつもありはしない。

『はじまり、は・・・』

毒草に手を伸ばした彼を引き止めた日。
懐かしくも大切なあの日は確かにふたりのはじまりに違いない。

ただ、思い出を本に例えるのであればーーーそこより手前に、僅かな数頁が存在する。
しかしは、開きかけた本の表紙を閉じる様に口を噤んだ。

『・・・秘密、です』
『なんだよツレねぇな』
『あのっ、宇髄先生だから、とかじゃなくて・・・!』

小さく両手を振った弁解は、やがて穏やかな微笑みに溶けての中へと戻っていく。

『・・・これは私だけの、大切な思い出なので』
『あっそ。ま、そういうことにしておいてやろうかね』

特別な心覚を背表紙に見立て、そっと撫でる。教え子の多幸感溢れる表情に、宇髄が緩く笑い返した。




それは、誰も知らない。妓夫太郎にすら打ち明けたことの無い、だけの優しい記憶。

ーーー暗くなり始めた空に輝く、宵の明星。


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