あの日の咎人




二月も残すところ僅かとなったが、突き刺す様な寒さは未だ季節を春へ動かす兆しが無い。

学校の最寄り駅に降り立った途端、唐突なふらつきに見舞われ藤堂は目を見開いた。朝の登校ラッシュの中、咄嗟のことで踏ん張りが効かず、長い三つ編みを焦りに揺らしたその直後。

「・・・おっと」

背後から肩を抱き留められる形で、藤堂は難を逃れた。学校指定のコートは厚く、直接触れられた感覚自体は薄いものの、気恥ずかしいことには変わりない。

「大丈夫?疲れてるね」

にも関わらず、助けた側の光谷はまるでそういった意識の薄い心配顔だ。藤堂は慌てて自立するなり顔を背けた。

「っ・・・平気よ。全然、問題無いわ」
「無理も無いよ。昨日の大会も相当エネルギー使っただろうし」
「話を聞きなさいよ・・・!平気だって言ってるでしょ・・・!」

前世よりの縁続きであるものの記憶を持たない同級生は、夏を境に藤堂にとって初めての競技応援者となった。確かな喜びを認め難い為か自己防衛か、当初はほんの気まぐれに決まっていると予防線を張っていたものだが、光谷は半年に渡り大会の予定と結果を調べては律儀に声をかけ続けてくる。
咳込むことのみ無くなった穏やかさは相も変わらず、藤堂は呆れ半分胸の奥のむず痒さ半分で目の前の笑顔から目を逸らした。

「藤堂さん、改めて一位おめでとう」
「・・・別に。大したことないわ」
「十分大したことあると思うけど。今年度の総合一位だよ」

昨日の大会を以って年間記録試合が全て終了し、藤堂は個人の部で総合成績一位を記録した。これは彼女の競技人生に於いて紛れも無く最大と呼べる栄光だった。
にも関わらず、どうにも気持ちが靄がかったまま晴れそうも無い。己すら持て余す不満に眉を顰める藤堂の胸中を知ってか知らずか、光谷がそっとスマホの画面を差し出した。

「来月の演舞祭は、特別に熱いんじゃないかな」

表示されていたのは書道協会の公式ウェブサイトだった。年間成績上位者のみが集う、桜舞う季節の祭典。そこに連なる出場者名の羅列から、藤堂の目がひとつの名を拾い上げたことは偶然か。或いは、彼女がそれを望んでいた為か。

「・・・これ、いつ出たの」
「ついさっき」

光谷の端末を両手で握り締め、藤堂は食い入る様に画面を見つめた。

立花
個人の部で上から三番目に刻まれた出場者の名は、決して見間違いではない。

成績がどうあれ、演舞祭は出場の最終決定が本人の判断に委ねられる祭典だ。公式得点の出ない場の為、新年度に向けて調子を鑑み出ないという選択も認められており、当然藤堂も昨日本部から確認を受けて出場の返答をしたのだ。
ここに名前があるということは、本人の意思確認のもと正式に出場を決めたということ。秋以降突如舞台から姿を消した立花が、戻って来るということ。
藤堂が心臓の高鳴りを感じると同時に、光谷が柔らかく微笑んだ。

「やっぱり、今の藤堂さんに一番必要なのは彼女みたいだね」
「・・・何よ、それ」
「だって藤堂さん、立花さんの名前を見つけた瞬間、すごく目が輝いてた」

にこやかな笑みが告げる。の復帰を、喜ばしく受け止めたという現実を。
しかしそれは正面から飲み下すにはあまりに気恥ずかしく、藤堂は目を吊り上げてスマホを押し返すなり光谷の背を叩く。ぼふ、と手袋と厚手のコートの背が触れ合った。

「っ・・・!勝手に私のこと決めつけないで!」
「はは、ごめんごめん。それじゃあ先に行くから気を付けて、ふらつかない様に」
「余計なお世話よ・・・!」

ホームにはもう疎らにしか人影が残っていなかった。手を振り苦笑しながら遠ざかる光谷の背を見送り、藤堂は白い息を吐き出す。

が、戻って来る。思いの外強烈な衝撃を伴った現実に、心臓が熱くて仕方が無い。
その時だった。

「残念だったねぇ。折角邪魔者がいなくなって調子が出て来たところだったのに」

まるで気配も無く、その声は極めて耳の近くから唐突に囁かれた。

「彼女も酷いことをするよねぇ。君が必死の追い上げで一位になった途端、戻って来るだなんて」
「・・・」
「すっかり消えたと思わせておいて、これも作戦の内だったりして。秋からずっと不在だったのにそれでも三位なんだねぇ。何でも持ってて恵まれてる人間は、やっぱり普通の君とは違うのかなぁ」

藤堂が一位に追い上げられたのは、が秋から不在だった為だ。加えて、約半期不在にしたところで三位につけてしまうの功績の眩しさには到底追い付けはしない。魘夢の口にした言葉は事実そのものだった。

しかし、何故だろう。
これまでなら暗く底の見えない不快感に墜ちていただろう感覚が、今もまだここにある。藤堂は目を見張った。

「やっとの思いで掴んだ王座はほんのひと時だって思い知らされて、今どんな気持ち?」

王座は、ひととき。
が戻る以上、確かにそれはそうなのだろう。
しかしながら年間一位が確定した昨日よりも、遥かに今気分が良い。

「・・・光谷の目も、案外悪くないのかもね」
「え?」
「だって私今、どんなに煽られても心を折られる気がまったくしないもの」

藤堂はそこで初めて斜め後ろに立つ魘夢を振り返る。
思えば間合いを取られ傷口を抉られてばかりだったこの男と、まともに正面から向かい合えた試しなど数えるほどしか無かった。
意表を突かれ唖然とした目を見据え、藤堂は背筋を伸ばす。天神杯まで僅か。久方ぶりに同じ舞台へ立つ彼女に、遅れを取る訳には行かない。

「望むところよ。首位を取られたなら、奪い返して見せるわ」
「・・・」
「悪いけどもう行くわ。やらなきゃいけないことが山積みだから」

踵を返したその瞳は友人に称された通り、確かな輝きに満ちていた。




* * *




魘夢民尾は暫くの間、凍える風の吹き抜けるホームに立ったまま微動だにしなかった。
電車が一本到着しては生徒たちの波が押し寄せ、石化した様に道を塞ぐ異様さに奇妙な視線を向けられると共に避けて歩かれ、また一人取り残され。それを何回か繰り返した末、漸く彼は静かな足取りでホーム端のベンチへと身を沈める。
縮こめた上半身、そして頭を膝の上についた両肘で支え、そして。

「・・・はああ?」

随分と長い空白を経て、魘夢の血管がぶちぶちと音を立てて切れた。
引き金は当然、このホームで先ほど見送る羽目となった藤堂のことだ。

「何だよあの目は・・・何前向きになってるんだよ、何を期待してるんだよ、今も昔もあんな顔したこと無かったじゃないか・・・!」

魘夢は激しい憤りのまま頭を掻きむしった。
大変に弱点の分かり易い彼女はこれまでもこれからも、ひとの嫌がることを好む魘夢にとって恰好の獲物であった筈だった。
疲弊しきったタイミングで音も無く忍び寄り、実に的確な一撃を囁きかけた時の顔。悔しさ、虚しさ、哀しさ、そして怒り。負の表情のすばらしさにおいて藤堂の右に出る者はそうそういないだろう。本人にとってはたまったものでは無かったが、魘夢はその点で彼女を酷く気に入っていたのだった。

それが、どうだろう。敵わぬ邪魔者、憎悪の対象ですらあった筈の立花を、良き好敵手としてしまった藤堂の瞳の輝き。魘夢の言葉などまるで気にもしない強気な態度。気に入らないなんて言葉では表現が追いつかない。

どこか嫉妬にも似た激情は苦痛を伴い、魘夢は益々強く頭を抱え込む。こんなにも悔しさに我を忘れることなど滅多に無いどころか今世では初めてかもしれず、それがまた腹立たしい。
新たな電車がホームへ滑り込み、たくさんの学生を吐き出す。ぶつぶつと独り言を続けることで彼らからは余計に気味悪がられたが、そうした嫌忌の視線でやっと己を保てる程に今の魘夢は擦り減っていた。

「やっぱり、あの時もっと徹底的に都合の良いことを吹き込めば良かったのか・・・?もっと孤独を煽って、恥ずかしい勘違いさせて、それであいつにぶつければ勝手に壊して貰えたのか・・・?」

何が分岐点だったのか。何がいけなかったのか。
考えた末に弾き出された先にいたのは、嘗ての魘夢にとって越えられなかった邪魔者の片割れで。一層深まる屈辱に、魘夢は伏せたままの顔を歪めた。

何の因果か前世の記憶を持ったまま転生した魘夢にとって、不幸の限りを味あわせてやりたい対象が二通りいる。憎き鬼狩だった人間。そして、上弦の鬼だった者だ。
上弦の陸。ここさえ超えれば、ここさえ入れ替わることが叶えば何もかも違っただろう一線は果てしなく遠く、結局魘夢は下弦の壱止まりで鬼としての生を終えた。無念だった。悪夢だった。
仇とも呼べる兄妹を身近に見つけた時の高揚感、どうしてやろうかという嗜虐の念は、しかし嘗ての恐れが邪魔をしてなかなか実行には至らなかった。
そこへ舞い込んだ、彼が意外にも書道パフォーマンスを、更に言うならば藤堂の壁となっている立花の映像を追っているという情報は、煽り方によって最高に楽しい地獄絵図を描ける材料になると確信を得た筈だったのに。

「・・・使えない。何が上弦の陸だよ。すっかり丸くなって全然恐ろしくないし全く不幸そうじゃない・・・!!むしろ対極じゃないか・・・!!」

結論として藤堂は光谷を味方に得たことで想定外の前向きさを手にした。
そしてこの世の全てを呪うかの如く悍ましい顔をしていた元上弦の陸は、目論見通り藤堂の心を折ることもしなければ、秋の日を境に明確な変化を遂げた。

「何であの時阻止し切れなかったんだ・・・あんなに急いでたから苦労して電車止めてやったのに。自力で目的地まで走るだなんて、馬鹿じゃないのか」

直接手を出すにはリスクがあり、しかし何か不幸の糸口は無いものかと虎視眈々と狙っていた機会。それはあの秋の日、脇目も振らず駅のホームに走り込んで来た彼の姿を見つけたことで漸く訪れた。
あれほどまでに急いでいる中電車が止まったならどれだけ困るだろう、どれだけ焦るだろう。魘夢は素晴らしい閃きに嬉々として車両トラブルを装い電車を止めたが、彼の執念とも呼べる行動力の前には全て無駄骨に終わった。

あの日以来だ。喧嘩も買わなければ問題を起こすことも無く、彼は妹を連れまともな登下校を繰り返し、週末には決まって早朝から出かけていく。
恐ろしい外見自体は変わらずとも、その胸中が明るい方向に満たされていることくらいは、雰囲気でわかる。元より意識していた分、腹立たしくもわかってしまう。

不意に、魘夢の頭の中でひとつの回答が転がり出た。
藤堂の気に入らない前向きさ、そして酷く丸くなった彼が熱心に画面越しに見つめている相手。

共通項は、明らかではないか。天啓に導かれるが如く、魘夢は顔を覆う両手を退けた。

「・・・例の彼女に手を出せば、手っ取り早く皆気分最悪に出来るんじゃ、」
「成程なぁ」

悔しさに没頭するあまり、気付きもしなかった。
ベンチの正面からこちらを見下ろす、刃物の様な視線。
思わず悲鳴にも似た呻き声が零れ出ると同時に、妓夫太郎の口端がにたりと歪んだ。

「てめェ、下弦の壱だなぁ?」
「・・・っな、何の話か、」
「とぼけてんじゃねぇ。今のでけぇ独り言、全部聞かせて貰ったからなぁ」

心臓がいくら警鐘を打ち鳴らそうとも、足がぴくりとも動かない。否、動いたところで目の前に立ち塞がるこの男はこちらを逃がす気がまるで無い。
魘夢は焦りと動揺に息を飲んだ。今険しい顔で見下ろして来るのは、そしてこの殺気にも似た圧は、間違いなく元上弦の陸だ。重ねて運の悪いことに、互いに記憶を残したまま二人は向かい合ってしまった。

「入れ替わりを狙ってだろうが、客に紛れて店の近くをうろついてたよなぁ?何度も何度も妹の近くを嗅ぎ回りやがって、お陰でこっちはてめェの面しっかり覚えてるからなぁ。まさか記憶を持ってる側とは思いもしなかったが」

それはこちらの台詞だと強気に言えればどんなに良かったか。更には何かひとつでも弱みを掴めはしないかと周囲を探っていたことも看破されていた現実に、魘夢の視界が徐々に明るさを無くしていく。

「電車を止めやがったのもお前だったんだなぁ。あん時ゃ、そりゃあ大変な思いをしたよなぁ。あんな辺鄙な所で電車を止められてよぉ、充電は切れるわ、バスは来ねぇわ、あの数時間で散々な目に遭わされた訳だが・・・」

ああ、駄目だ。悪夢が始まる。奥歯の一本で済めば良しとするか、それとも力の限り喚き騒ぎに発展させる方が懸命か。
恐怖と諦めのせめぎ合いで光を無くした魘夢の眼前、立ったまま重い圧をかけ続ける妓夫太郎の剣幕が、ふとした瞬間に薄れた。

「まぁ、結果的に悪くねぇタイミングで辿り着けた。礼を言うぜ」

これには魘夢も唖然と目を見開く以外に術が無い。
余計なことを知られてしまった以上、制裁は免れないと覚悟したところへ想定外の光が差した。
―――やはり彼もまた鬼ではなくなり、愚かしくも丸くなったのだ。

「・・・そ、それは、」
「けどなぁ」

小さな愉悦が燻り始めたその刹那、力強く胸倉を掴まれ魘夢の呼吸が止まる。

「ここから先、あいつに余計なことしようってんなら話は別だ」

その声は重く冷たく、実際に掴み上げられた胸倉の奥、心臓を直接握り潰されるのではないかと錯覚する程の恐怖を伴った。
ほんの僅かな距離まで顔を近付け射殺さんとする青い瞳には、両者同様に数字は刻まれていない。しかしながら、この威圧感が決して脅しではないとわからない魘夢では無い。

「あいつや妹、俺たちの周りでひとつでも悪さを働いてみろ。てめェが何処まで逃げようが引きずり出して心底後悔させてやるからなぁ」

立花に手を出せば、間違いなく陰惨な地獄を味わうことになる。それが本能的にわかる。

「まぁ、“丸くなった”俺の取り立てなんざ、何とも思わねぇなら好きにすりゃあ良い話だが。どうする?」

己の目がどうかしていたとしか言い様が無い。残忍な眼光も容赦の無い締め上げも、まともに渡り合える筈の無い類のものだ。

魘夢が全面降伏を心に誓った次の瞬間、妓夫太郎のポケットの中から端末の振動が伝わってきた。
左手は強く獲物の胸倉を戒めたまま、右手で画面を確認した青い瞳が急速に穏やかさを取り戻す瞬間を、魘夢は間近で目にすることとなった。三コールも鳴らさず、妓夫太郎は端末を耳へと当てがう。

「・・・どうしたぁ?」
『ごっ・・・ごめんね・・・!!間違って通話タップしちゃって・・・!!朝から本当にごめんなさい・・・!!』

静まり返ったホームと物理的に締め上げられている至近距離の影響で、相手の声が丸聞こえだ。
立花。確認せずともわかってしまう程に、その声ひとつが妓夫太郎の怒気を見事鎮めている。

「・・・別に、良い。謝んな」
『一時間目始まってたりしない?大丈夫?私の方は今日、卒業式の練習で午前中は授業無くて、登校もいつもよりゆっくりだから・・・』
「おぉ。まだ駅だ。梅の学年が試験休みでなぁ。ひとりにすんなら昼飯まで作って置いてけって朝からうるせーのなんの」
『そっか・・・ふふ。妓夫太郎くんは優しくて良いお兄ちゃんだもんね』
「うるせ」

この状況で何故電話に応じたのか、折り返しにもしないのか。左手の禍々しさと世間話に興じる声帯を、それぞれ身体から切り離しているのではないか。
魘夢は俄かには信じ難い思いで、呆然と瞬きを繰り返した。

『私のミスだけど、平日の朝から声聞けてすごく嬉しい。四月が待ち遠しいなぁ』
「・・・そうかよ」

それはまるで、凍える寒さの中に確かな春を感じた様な。抗えない、抗う気も起きない。そんな穏やかさで満ちた優し気な苦笑を前に、魘夢は束の間目を見開いた。



ただし張本人が時を忘れて気を抜くにも限度があり、次の瞬間には鋭い眼光が再び戻ってくる。

良からぬことをするなと念を押す様に目を細められ、慌てて何度も頷くことで漸く首元は解放された。

ここまで圧をかけられて尚件の彼女に悪事など働ける筈も無い。ベンチの上で膝を抱え縮み上がる魘夢を厳しく見下ろし数秒後、妓夫太郎は通話を切ることなく、ひと睨みを残し改札口へと歩き始めた。


「・・・で。改めて確認だが、お前来月のやつで復帰すんだなぁ?・・・いや、そりゃあ行くけどなぁ。その前に・・・あー、渡すもんがなぁ・・・」

元上弦の陸は丸くなどなっておらず、依然として恐ろしい。しかし遠去かる背中から滲み出る柔らかな雰囲気もまた本物であることを知ってしまった。
妓夫太郎の後ろ姿が改札を抜け、角を曲がり完全に見えなくなると同時に、次の電車が到着する。

「・・・何だよ」

気に入らない。
ひとの不幸や嘆きこそ至高な筈が、迂闊にも先程の苦笑に驚きと温かなむず痒さを覚えてしまった自分自身が、何より気に入らない。

「何だよ、もう。何で俺がこんなに調子を狂わされてるんだ、おかしいだろ。もっと皆不幸になれば良いのに・・・そもそも何でアイツ記憶持ってるんだよ、卑怯じゃないか・・・」

叶わぬ悲願と己の意外な側面に葛藤する独り言は加速が止まらず、やはり降りて来た学生たちを大いに困惑させたのだった。


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