魂と器




丸テーブルを囲み梅と幸太郎が向かい合う。梅は問題集を、幸太郎は彼女が解き終わったばかりの答案採点を。両者共に真剣そのものな様子を、扉についた細い硝子窓越しに三つの影が覗き込んでいた。

「・・・俺は君たちが心配だよ」
「あぁ?」
「若者が四人も集まって、本当に一日中勉強しかしてないじゃないか」

形の良い眉をハの字に、相変わらず演技がかった口調で男は溜息を吐く。圧倒的な不信感と困り切った動揺。まるで対極の表情を浮かべる妓夫太郎とを前に、碓氷は真紅と黒のロングコートを翻し玄関へと歩き始めた。実に派手な配色だが見事に着熟す家主の後を当然付いて歩くに従い、妓夫太郎もまた渋々後へと続く。

「外をご覧よ、出掛けるにも丁度良い塩梅で粉雪が舞って素敵な夜なんだし、息抜きや気分転換も大事だと思うけどなぁ。君たちクリスマスも何もしなかったって言うじゃないか。俺はもっと色々楽しいことをプレゼントしてあげたかったのに」
「・・・念の為聞くが、そいつはテメェが送り付けようとした無駄にでけぇだけの塵のことじゃねぇだろうな」

四人宛の贈り物を手配したので楽しみにしているようにという一方的な連絡を受けたのは、師走に入りすぐのことだった。

「ゴミだなんて酷いなぁ、ありふれたクリスマスツリーだよ」
「どう考えてもデカさが普通じゃねぇんだよなぁ・・・!あんなもん置かれたら邪魔で仕方ねぇだろうが!」
「そうかい?設置から撤去まで全部業者がやってくれるし、ちょっとくらい派手な方が気分も盛り上がると思ったんだけどなぁ」

巨大過ぎるツリーなどは場所的にも勉強にも邪魔でしかなく、もし納品されたなら撤去されるまでこの部屋へは立ち入らないと妓夫太郎が猛反発した為に渋々キャンセルした件を、碓氷は未だ残念がっている様な素振りで頬を膨らます。何事も執着など無さそうな黒い瞳の見え透いた演技は、やはりどんなに時を経ても胡散臭い。妓夫太郎は爆発寸前の苛立ちをの手前懸命に堪え、大きな舌打ちと共に顔を背けた。

「とにかく梅の邪魔すんじゃねぇ。用が済んだらさっさと出てけよなぁ」
「ははは、俺の物件だよぉ。まぁすぐ出なきゃいけないのも本当だけど」
「す、すみません、勝手にお邪魔してばっかりで・・・」

ここに来て、漸くが声を上げる。今まさに家主が出て行こうという部屋に残ることへの焦り、申し訳無さの滲む声は碓氷の気を引いた。

「ああ、ごめんよお嬢さん。そんなつもりで言ったんじゃあないんだ。俺は持ち主だけどこの通りろくに戻って来れないから、お嬢さん達が沢山来て使ってくれると嬉しいんだよ。坊やとお嬢ちゃんだけじゃ、ここは少し広過ぎるだろうし」
「その呼び方は止めろって言った筈だがなぁ」
「あのっ、ご心配も、ありがとうございます」

ビキビキと青筋を立てる恋人の前を塞ぐ様にして、が碓氷へと頭を下げる。これには玄関口の空気が変わり、妓夫太郎もまた棘を潜めて目を丸くした。

「春に一緒の学校に行きたいって梅ちゃんが言ってくれたこと、本当に嬉しくて・・・出来ることは悔いなく全部協力しようって、決めてるんです。勿論、碓氷さんのお許しやご協力あってのことだって、私も兄も忘れていません」

の言葉に嘘は無い。週末の勉強の拠点として場所を借りること、兄妹の保護者たる碓氷が二人の進路変更を快諾してくれたこと。全てに改めて感謝を述べる声に、碓氷の黒い瞳が細められる。その笑みは、先程までと違い少々自然な色をしていた。

「本番の日までもう少しだけ、どうか見守ってください」
「勿論さ。皆の努力が実ることを、俺も祈っているよ」
「ありがとうございます・・・!」

今の人生を面白可笑しく謳歌する碓氷にとって、からかい甲斐のある兄妹の機嫌を意図的に逆撫ですることも楽しみの一環であるが、昔から変わることなく律儀なを前にほっこりと心を緩めることもまた喜びのひとつだ。真っ直ぐが過ぎる様な眼差しが、あまりに自分とは縁遠いからだろうか。そんなことを頭の片隅に思い描きながら、男の黒い瞳がキラリと輝いた。

「でも、俺としてはさよならの前にもうひとつだけ世話を焼きたいんだけど、どうかな」
「え・・・?」

久方振りに立ち寄り、保護者の顔をして若者たちを案じる楽しさを漸く味わえたところなのだ。このまま帰ってしまうのは、あまりに惜しい。
疑問符を浮かべるへと必要以上に距離を詰めようとした端正な顔立ちは、あえて横からの拳を受けることで愉快そうな笑い声を上げたのだった。




* * *



「あの野郎いつか潰すからなぁ・・・」
「まぁまぁ、そんなに怒らないで」

妓夫太郎の声が苛立ちに染まっていることはよくわかる。その眉間にきつく皺がよっていることも、食い縛った歯の奥で舌打ちの回数が増えていることも実によくわかる。
しかしながら今日ばかりは、は頬の緩みを抑え切れない。明るいキッチンで構えたスマホの画面と実物を交互に目で追うことに忙しくしつつ、目の前の光景の尊さで胸がいっぱいだ。

好きな相手のエプロン姿にときめかない女子がいるだろうか。まして、前髪もこちらの言いなりにピンで上げてくれるという状況はまさに至れり尽くせりである。今日は緊急だった為に幸太郎が日頃バッグに忍ばせているものを拝借し、半分に折ったものを腰に巻いているのだが、これが実に良く似合う。諸々落ち着いた暁には兄妹お揃いのものをプレゼントしようと、は内心で決意を固める。
最近はとにかく一に勉強二に勉強。参考書を介さない日常のひとコマというだけで、目の前の恋人の姿はに堪らなく明るく新鮮な気分を齎した。

「碓氷さん、私たちを心配して下さってるんだよ。たまの息抜きが必要っていうのは、確かに仰る通りなんだし」
「だからってなぁ・・・」
「あ。ちょっとずれちゃいそう」
「っ・・・!!」

妓夫太郎は息を呑みつつも軌道を外さず、素早くケーキの土台から身を引く。クリームの入った絞り袋を手に険しい困り顔で天を仰ぐその様子も余さず、はにこやかにスマホで撮影を続けた。

この兄妹の保護者たる黒髪の男は、容赦の無い右ストレートを楽し気に受け止めながら手早く彼らの夕飯を手配した。たまに会った時くらい食事の世話を焼かせておくれよ、と微笑む碓氷に深々と頭を下げて本人を見送り約四十分後。届いたセットの中で簡素なケーキ台とトッピングの違和感あるセパレートが、あえての未完成品であることに気付いた瞬間、嫌な予感に眉を顰める妓夫太郎とは真逆にの目が輝いたのだった。

「仕上げは自分たちで。素敵なアイディアだと思うよ。クリスマスは過ぎちゃったけど、梅ちゃんも大好きな妓夫太郎くんが飾りつけしてくれたケーキなら大喜びだと思うなぁ」
「・・・」

規格外としか言い様の無いクリスマスツリーを心苦しくも断り、世間がどんなにクリスマスムードに染まろうとも脇目もふらず、そして彼らは今年最後の日へと近付いていく。否、大晦日も正月も関係無く、ただただ二月中旬の受験日をゴールに据えて旅路は続くのだ。
何事も無い週末の夜、不意打ちに兄が仕上げたケーキを出された梅はどんな顔をしてくれるだろう。この撮影は自分の為ではないと言い切れる程恋心も下心も薄くなかったが、今この瞬間も努力している可愛い梅の為であることにも違いなく、後で見せてあげようとが柔く目を細める。
妓夫太郎が面白くなさそうな顔で絞り袋をずいと差し出す、その時までは。

「え?」
「え、じゃねぇ。お前もやれよなぁ」

瞬間目を丸くした後、は苦笑を浮かべてしまう。
嬉しい。確かに嬉しい、けれど。

「んん・・・でも、私は余計な手出ししない方が・・・」
「お前なぁ」

遠慮一色で一歩引こうとした分、彼は変わらず協力を迫り追ってくる。言葉を濁す苦笑に対し、眉を顰めつつも迷いの無い青い瞳は一切引く気配が無かった。

「梅が拘ってる“四人”の中には、当然お前も入ってんだからなぁ」

妓夫太郎が仕上げたと知ればきっと梅が喜ぶ。その為にも、余計な手出しをしない方が良い。その線引きをしたのはだったが、あっさりと線の内側へと引き込む妓夫太郎の顔は若干険しいながらもやはり優しい。
幾年も強く願いながら、叶えられた現実は未だ実感が薄く。しかし、正面から他でも無い妓夫太郎に告げられたことでじんわりと染み込んでいく。それは、紛れもない喜びだった。

「・・・そっか。四人か」
「今更かよ」
「ありがとう。妓夫太郎くんに改めてそう言って貰えると、すごく嬉しい」

夢に描いた続きを、今誰一人欠けることなく共に歩んでいる。この尊さが日常に溶けこむまではやはり時間がかかりそうではあるものの、慣れていく過程すら楽しみで仕方が無い。
不意に昔を想起し、が双子の兄となった幸太郎を思い小さく笑った。妓夫太郎は確かに、四人と言ったのだ。

「ふふ。お兄ちゃんが聞いたら泣いて喜びそう」
「うるせ。梅がそう言うんだから仕方ねぇだろうが。わかったらさっさと支度しろよなぁ。あといい加減カメラ止めろ」
「はぁい」

ぽこんという電子音と共に、は録画を切った。




* * *



時間は有限だ。時計の針がひとつひとつ刻まれる音は静寂の中では無視の出来ないものであり、程よい緊張感を生む。これでもかと言わんばかりに頭を働かせ、がむしゃらにペンを動かし、参考書のページを荒く捲った梅の肩からふと力が抜けた。どうやら区切りの良い箇所まで来た様だ。大きな脱力感と共に、美少女は白い髪を靡かせ丸テーブルに突っ伏す。

「・・・んーっ、三章まで終わり!」
「お疲れ様です。こちらは85点でしたよ」

幸太郎が告げた採点結果は、秋までの梅であれば何かの間違いであろう高得点に違いなかったが、編入試験の狭き門を目前にした今となれば話は別である。テーブルに伏せていた顔が上がると、美しい眉はきゅっと顰められ、兄譲りの青い瞳は苦々しさに彩られていた。中二理科の中で最も苦手とし、得点を下げている元凶を、梅自身が一番良く理解している為だ。

「化学変化ね・・・」
「・・・お察しの通りです」
「ううーっ・・・!」

何故。こんなにも努力をしていて何故結果が付いて来ないのか。がしがしと乱暴に頭を掻きむしり、今にも癇癪のメーターが天を衝くのではないかといった雰囲気に満ちた、その刹那。

「・・・頑張る」

一見我慢強さからは程遠いと思われている少女は、込み上げた烈火の如き怒りを自力で抑え込んだ。彼女と同じM中学に通う生徒が見れば誰もが目を疑う光景だろう。しかし、幸太郎は梅の成長具合を知っている。彼女が如何に努力をしているか、真摯さがどれほど研ぎ澄まされたものか。知っているからこそ、幸太郎は眩しく瞳を細めて梅へと微笑みかけた。

「その意気です。私ももっと分かり易く落とし込める様、努めます」
「・・・ありがと」

幸太郎は梅を必要以上に甘やかさない。同時に、決して突き放しもしない。出来ないものは誤魔化さず、目線を同じくして次なる対策を立ててくれる。そんな講師役に対し感謝の気持ちは溢れる程に持ち合わせていようとも、実際には淡泊な礼の言葉しか口に出来ないのは何故か。妙にどきまぎとする胸中を強引に無視し、梅は窓の外へと目を向ける。

「雪、降ってたのね」
「本当ですね。気が付きませんでした」

静けさと共に、細かい雪が舞っている。参考書と縁の無い時分であれば単純にはしゃげた景色もまた、今となれば違った側面が見えてしまうのだから不思議な話だ。ノートの片隅にサラサラと書いたとあるものを、梅は幸太郎へと差し出す。

「・・・先生」
「はい?」

問題を出された訳ではなく、自発的に書いたものは雪の天気記号だ。間違っていない自信はあるものの、判定を待つこの空白に心臓が高鳴ることは致し方無い。そうして固唾を飲む梅の目の前で、幸太郎の穏やかな笑顔が綻んだ。

「お見事、花丸です」
「やった!」
「本当によく頑張られていますね。素晴らしいです」

双子は双子でも、二卵性なのでそれほどそっくりさんではないのですよ、と教えられたのは再会してすぐのことだったが、今目の前にある柔らかな笑みはと実に良く似ている。

「梅殿は着実に前進しています。焦らず、この調子で行きましょう」
「・・・うん」

褒められると堪らなく嬉しい。努力を正面から認めて貰えることは、こんなにも喜ばしいことだっただろうか。引っ込めたノートの天気記号を二重になぞり、梅は不意に目を丸くした。

「水がめぐって、雲が雨とか雪になって、水蒸気がまた雲になって・・・」
「梅殿?」
「教科書には書いてないけど、アタシたちも一緒よね」

水の円環を学んだ際、どこかで見聞きした様な錯覚を覚えたものだったが、今この瞬間に漸く一致する。

「一生を終えたら星になって、また生まれてくる」

それを輪廻転生と呼ぶのだと、かつての彼は教えてくれた。

「・・・覚えていて、下さったのですね」

どこか呆然とした響きに、はっとした様に梅の目が丸くなる。ドクンと大きな音を立てる心臓に、声を荒げるなと身体中へ厳命を下し、ひそかに唾を飲み込んだ。

「そっ・・・そりゃあ、アタシ自身が今こんな特別な経験してるんだから、印象に残って当然でしょ」
「ふふっ、確かに。ですが、それでも嬉しいです」
「ニマニマしないでよ、もう。別に大したことじゃないのに」
「すみません、こういう顔なもので・・・」

誰しもいつか星になり、地上を見守り、そしてまた新たな命として生まれ変わる。どんなに些細な可能性でも良い。いつかまた、四人揃って集えたなら。漠然とした願いが見事叶えられた今は、果たしてどれほど高く積みあがった奇跡の上に成り立っているのか。途方も無い確率の怖さは、しかしこの穏やかな笑みの前ではまるで意味を無くしてしまう。見ているこちらも力が抜けてしまう様な、心が内側から解きほぐされる様な、柔らかな笑顔。いつまでも眺めていたい。その本音を覆い隠し、梅は再度ノートへと視線を落とした。

「でも、命はめぐっても、記憶がついてくるとは限らないのよね。アタシとお兄ちゃんが、文化祭まで何も思い出せなかったみたいに」
「・・・そう、ですね」

三重になぞった天気記号は随分と存在感を増した。記憶を取り戻さなければ、今この瞬間もまるで違う人生となっていたのだ。それは確かな恐怖であると同時に、小さな疑問を生む。梅の頭の中で、苦手としている化学元素たちがふわりと舞った。

「命の中でも魂と器は別々で、上手くくっつかないこともあるってことなのかしら・・・不思議」

命の円環は水素や酸素と違うと理解していつつも、すっかり置き換わった空間へ梅は思いを馳せる。記憶を有した魂、生まれ変わった器。結合しそうでしない、もどかしさのひしめき合う中で、昔の通りの関係性に繋がり合った自分達は逆に異端かもしれないが、それでも構わない。そうして知らず知らずのうちに頬を緩めた、その時だった。

「―――魂と、器、ですか」

静まり返った部屋で、幸太郎の呟きがやけに響く。
それは決してマイナスな声色では無かったが、梅の内心を酷く騒がせ焦らせた。

「えっ?アタシ変なこと言った?」
「いいえ、とんでもない」
「じゃあ・・・何?」

何か誤ったことを言ったなら正したい。少しでも、彼にとって“良い生徒”でいたい。懸命に真意を求める梅の目の前で、幸太郎の眦が優しく下がった。

「勉強の飲み込みも早いですし、言葉の選び方もとても色鮮やかで。梅殿と話していると、無限に広がる可能性を、目の前に感じてしまって・・・」
「・・・先生」
「今共に学べて、あの頃は叶わなかったことが出来ていると思うと・・・何だか、胸がいっぱいになってしまいました」

不安とは真逆に、褒められている。それだけでなく、今贈られた言葉が心の底から嬉しいものだということも、今の梅にはわかってしまう。
あの頃の続きが叶い、満たされた思いを感じているのは、間違いなくこちらの筈なのに。それでも幸太郎は、堪らなく優しく笑いかけてくるのだ。

「ありがとうございます、梅殿」
「なっ・・・何よ、変な先生」
「ふふ。すみません」

先に礼を言われてしまっては、成す術が無いではないか。頬が緩みそうになる温かさと、素直になれない己への悔しさが交互に折り重なる。
半分以上照れ隠しのつもりで再度向き直った参考書の次なる章は、生物の分類進化だった。命の起源について綴られた導入文章に今強く惹かれてしまうことは、抗い様が無い。

「・・・いのちの、はじまり」
「そうですね。諸説ありますが、生命の起源は海ではないかと言われています」

思わず声に出した単語に、優しく寄り添う様に補足された言葉が梅の心の底へと根付く。それは、強い願望へと形を変えた。

「先生、アタシ、海に行ってみたい」
「梅殿?」

行きたい。魂と器が引き合った、特別な間柄だからこそ。命のはじまりの場所へ、共に行きたい。

「全部終わったら・・・四人で、春の海に、」

誰にも邪魔されることの無い特別を、更に強く結びつけたい。

控え目なノックの音によって我に返ると同時に、梅は必要以上に前のめりになっていた姿勢を慌てて引き戻した。幸太郎の返答を受け、ドアがそっと開く。

「・・・あ。ごめんね、お話中だったかな?」

目が合ったことで何かを察したのか、がやんわりとした苦笑を浮かべる。やはりその表情ひとつ取っても二人は似ているのだが、後ろに立つ仏頂面の兄との並びが嬉しい気持ちが勝り、梅は胸の内のくすぐったさに目を細めて笑う。話は宙に浮いたが、不思議なことに何一つ腹立たしさは感じなかった。

「お姉ちゃん、お兄ちゃんも。平気よ、何?」
「二人とも、そろそろお腹すいてないかなぁって」

言われてみれば、確かに良い頃合いだ。食べると即答しようとした梅に対し、笑顔を輝かせたの補足が一歩先に出た。

「碓氷さんがね、美味しそうな夕飯頼んで下さったんだよ。食べるだけならそんなに時間も取らないし、勉強の邪魔にもならないだろうからって。準備出来てるから、少し休憩でご飯の時間にしよう?」

の背後で妓夫太郎が顔を顰める。実際に口にはしないが余計な情報だと物語る表情は、兄妹間で伝染するかの如く梅へと写し取られた。

「・・・出所がアイツってことは知りたくなかった」

何の用があったのか、少し前に家主たる胡散臭い男が来ていたことは知っていた。梅の邪魔をするなと立ちはだかった妓夫太郎に続きも出て行き、それきりだったのだ。

「まぁまぁ梅殿、そう言わず・・・」
「けど、食べる。おなかすいた」

出所は気に入らないが、空腹には違いない。宥めようとする幸太郎を制し、梅は立ち上がりその場で伸びをした。それだけで部屋の空気がほっと解ける。昔から四人揃えば、誰を中心に物事が回るかは決まり切ったことだった。

「ふふ、いいものもあるんだよ。すっごいの。楽しみにしててね」
「ハードル上げ過ぎなんだよなぁ」
「え。何?気になるんだけど」

と妓夫太郎の距離感の近いやり取りは興味深く、二人に続き部屋を出ようとした梅の背に、遠慮がちな声がかかった。それはほんの僅か、聞き漏らしても不思議ではない音量だったが、梅の耳はしっかりと拾い上げる。
振り返ればすぐそこに、優しい微笑みを携えた幸太郎が佇んでいた。

「海の予定、確かに承りました」

中途半端に千切れた言葉を、拾ってくれる。
形になり損ねた願いを、願いのまま受け止めてくれる。

「残り少しです、一緒に頑張りましょう」
「・・・うん!」

梅は上機嫌に瞳を輝かせ、幸太郎の背後に回り込みその背をぐいぐいと押しながら部屋を出る。
彼はいつまでも“自分だけの先生“だ。春の海へきっと導いてくれる。
確固たる自信が、梅の足取りをまたひとつ軽くした。


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