憧れより上へ




地域で一番大きな図書館は、たちの住まう最寄りから二つ隣の駅前にあった。
往復の定期圏内でそれぞれの家か碓氷のマンション、加えて図書館は勉強の拠点としてなかなか有効であり、四人の休日は今日も瞬く間に過ぎ去っていく。温かい飲み物を買ってくるとこの場を離れた幸太郎を三人で待ち、数分が経過した。
週末の陽が沈み、明日からはまた各々学校へ通わねばならない平日がやって来る。黒い日も赤い日も変わらない駅の雑踏の中、一日凝り固まった身体を伸ばす様に両腕を天へ広げた梅の頭へ、とびきり優しい手がふわりと置かれた。

「梅ちゃん、今日も一日頑張って偉かったね」

労わる様に頭を撫でる掌、眦を下げた温かな視線、どこをどう切り取っても愛しか無い態度で梅を包むが、肩掛けの荷物からひとつの袋を取り出した。

「疲れたでしょ。良かったらおうちで食べてね」

白とピンクの箱に収まった焼き菓子の詰め合わせは、どう見てもプレゼント用の包装だ。朝から遅くまで図書館へ缶詰めになっていた中、一体いつの間に用意したと言うのか。突然の褒美は勿論嬉しく受け止めるとして、贈り物を両手に梅が若干表情を硬くする。慈しみ以外の何物でもない黒い瞳は、小首を傾げながらもやはり溢れんばかりの愛をもってにこにこと細められている。美しい眉を若干顰め、兄譲りの青い瞳が半目でを見遣った。

「お姉ちゃん、ずっと言おうと思ってたんだけど・・・アタシのこと子ども扱いし過ぎじゃない?」
「えっ」

ひとつの瞬きでぴしりとの表情が固まった。
子ども扱い。この単語は無償の愛と呼ぶには紙一重の危うさを含んでおり、の瞳があわあわと宙を泳ぐ。何しろ年齢差が昔と今では少々違うのだ。以前は明確に小さかった梅は、今やと一学年分しか違わない。
毎週末勉強に全力を上げる姿を見ていると、ついつい頭を撫でたくなったり甘やかしたくなってしまうもの。この気持ちは最早身体に染み付いたものとも呼べるだろうが、なかなか今の状況とのすり合わせは難しい。梅は今中三時のキメツ学園編入を志す立派な学生であり、同時に僅か複雑そうに唇を尖らせる表情は天使の如く可愛らしい。いつまでも小さな子どもではないが、いつまで経ってもやはり梅は愛おしいのだ。は甘やかな思いを胸に、眉を下げて苦笑を浮かべた。

「確かに、そうかも。ごめんなさい」
「・・・梅ぇ、お前なぁ」
「別にイヤとは言ってないけど。今の歳をわかってくれてれば、それで良いの」

厚意を貰った側として苦言を呈する兄の言葉を遮り、梅はぼすんと音を立てる様にへ抱き着いた。わ、と小さく声を上げつつもしっかり抱き留めた黒い瞳は瞬間丸くなり、そして多幸感に柔らかく蕩けてしまう。

「お菓子も、勉強も、ありがと。お姉ちゃんと先生のお陰で、アタシ頑張れてる」

梅が春から転入したいと言い出したことから忙しい生活は始まった。平日はも幸太郎と共に学校帰りの書店巡りで良い参考書を探し、夜な夜なノートに落とし込む日が続いている。大会の予定は一度白紙に、毎週金曜夕方に剣道の時間を取る以外勉強漬けの毎日は確かに忙しい。しかし、この愛おしい少女の為ならば一切苦にはならない。こうして真っ向から感謝を述べて貰えるならば尚のこと、何だって協力したいという思いは強まるばかりだ。手触りの良い白い髪を優しく慈しみながら、は上機嫌に微笑んだ。自分たち兄妹への素直な言葉は大変嬉しいが、欠かせない登場人物の名前が抜けている。

「ふふ。とっても嬉しいけど、大事なひとが一人足りてないんじゃないかなぁ」
「・・・おい。余計なこと気にすんなよなぁ」
「お兄ちゃんは別だから良いの」

すぐさまの回答は、決して淡泊な温度ではない。

「お兄ちゃんがいなきゃ、何も始まらないわ」
「・・・」

そこにいなければ何も始まらない。当然の様に告げられた言葉には信頼の一括りでは表現しようの無い思いが込められており、と妓夫太郎は本人を挟んで暫し言葉を無くしたものだが、柔らかな気持ちで二人同時に口端を緩めた。やはり梅は特別に可愛い。それこそほんの幼い頃から兄を慕う彼女を知っているだけに、今も変わらない姿に込み上げる思いは格別だった。
無条件に差し出される抱擁を堪能した末、梅は自らの腕を抜け出し駅の大時計を見上げた。幸太郎を待ち始めてもう随分と経つ。

「アタシ、先生の様子見てくる!まったく、自販機探すだけでどこまで行っちゃったのよ、もう。しょうがない先生」
「あ。なら一緒に・・・」
「ダメに決まってるじゃない!」

自然と零れた言葉は、びしりと眉間に指を突き立てられることで遮られる。

「アタシだって二人のこと色々考えてるのよ。ちょっとは空気読んでよね、お姉ちゃん」

唖然と目を丸くしたは、数拍の間を置いて表情を綻ばせた。腰に手を当てて眉を吊り上げる梅の表情は可愛くて仕方が無いが、彼女なりの気遣いが嬉しい。

「・・・はい」
「ん。よろしい」
「何かあったらすぐ呼べよなぁ」
「わかってる、ここで待ってて!」

慌ただしく駆けていくすらりとした後ろ姿。眺めているだけで幸福をくれる存在が、今も近くにいてくれることの奇跡。春からは更に身近な距離にいたいのだと言って貰えた嬉しさを噛み締め、は隣を見遣る。思った通りいつまでも妹の背中を見守り続ける横顔がそこにあり、こうした二人の在り方そのものが好きなのだと、改めて実感すると共に温かな気持ちで満たされた。も再度正面へと目を向ける。小さな背中は雑踏に紛れていった。

「昔からずっとだけど、可愛いねぇ」
「・・・そうだなぁ」

しみじみとした呟きに静かな同意が返って来る。にとって妓夫太郎は唯一の存在であるが、梅もまた違った意味の特別であるし、彼にとっての妹は何にも代え難い宝物に違いない。そこにいなければ何も始まらない。その矢印は互いを向いたものだと、梅はわかっているだろうか。

「妓夫太郎くんも、梅ちゃんがいなきゃ何も始まらないよねぇ」
「・・・」

当然返ってくるであろうと思われた同意は、何とも歯切れの悪い沈黙で阻まれる。不思議そうに顔を上げたの目の前で、妓夫太郎が若干眉を顰めて頭を掻いた。宙を見上げて数秒、溜息交じりに見下ろして来る青い瞳は、思わずはっとしてしまう程に優しい。大きな手が、の頭へとそっと乗せられた。

「否定はしねぇが、足りてねぇんだよなぁ」

柔らかな手つき、慈しむかの様な指先。そして、苦笑交じりの声から伝わる思い。
そこにいなければ何も始まらない。光栄の極み、その中心へ梅と共に並び立てることの途方も無い喜び。

嬉しさのあまり言葉が上手に選べず瞬きばかりを繰り返すを見下ろし、妓夫太郎が息を吐き出す様に薄く笑い、そして撫でていた頭を軽く引き寄せる。互いに未だ傍にいられる日常には慣れていなかったが、探り探りに距離感を測り合い、それは完全な抱擁へは至らずともそっと寄り添う形に落ち着いた。
雑踏の中ぴたりと隣り合い、頭を優しく抱え込まれることで感じる温かさ。言葉などいらない程に堪らない幸せ。は恋人へ僅か頭を寄せる様な形で、満ち足りた溜息を零した。





「・・・」

まさか友人にその一部始終を見られているなどとは、考えもしないことだった。




* * *



何度も繰り返した映像の筈が、何故かその度違った感想を覚えてしまう。それは、彼女の息遣いが“生きている”証だろうか。
身体の大きさに見合わない巨大な筆を抱えたが駆け、飛び、踊り、そして書く。彼女のファンであれば必ず知っている鬼の仮面、それを纏った気迫、外してからの煌めく凛々しさ。現地で見る臨場感には及ばないものの、関係者席からの記録動画はの活躍を鮮明に残し幾度も感動を繰り返させてくれる代物だ。都度届けてくれる幸太郎に対し、恋雪は何度頭を下げても足りないほどの感謝を覚えていた。

恋雪の部屋はいかにもといった柔らかなインテリアの中央に、やや大き目なモニターを据えている。少々浮く存在感のそれは恋雪にとっての必需品であり、憧れのひとが天神杯を初めて制した決勝映像が、画面上で何度目かの終わりを告げた。

「・・・素敵」

恍惚の溜息が静寂に溶けた。の活躍は彼女と直接知り合う以前より、こうして感動と勇気を分けてくれる。しかしながら恋雪は隣で大人しくしている婚約者に向け、申し訳なさそうな苦笑を向けることも忘れない。

「すみません、狛治さん。最近何度も同じ回を見てしまって」
「いえ。俺も立花の演技は好きなので」

ローテーブルの前で座り込み鑑賞中一切の口を挟まなかった狛治であったが、そこで言葉を切るなり瞬間考えた末に次の句を告げる。

「勿論、勉強になるという意味ですが」
「ふふ。わかってます」

好きという表現に決して他意は無く、狛治にとっては友人であり、舞台の種類は違えど学ぶことの多い相手だ。念押しは不要だった様で、恋雪が可笑しそうに肩を揺らすものだから狛治も苦笑を浮かべてしまう。
普段通りの穏やかなひととき、不意の静けさは今日に限って僅かの切なさを伴った。

「・・・さん、このまま辞めてしまうかもしれないですね」

季節は十一月の下旬へと差し掛かり、が大会から姿を消して少し経つ。学校では変わりなく会えている憧れのひとが、秋の文化祭以降劇的に人生を変えたことを恋雪は知っていた。
前世から結婚を約束した恋人、そして生まれた頃より知っているという愛らしい妹。現実離れした奇跡の様な可能性を手繰り寄せ、遂にの願いは成就した。彼女が何の為に必死に駆け抜けて来たか、何の為に宛無き道を戦ってきたか。真相を知る数少ない者のひとりとして、恋雪はの全てを祝福する心積りがあった。例え、彼女が輝く舞台から降りる決断を下すとしても。

「大切なひとに見つけて貰える様に頑張られていたことですから。願いが叶った今は、もっと大事にする時間があっても不思議じゃないですし、それに・・・」

受験シーズンまで残り数ヶ月、悔い無く梅の勉強に協力する為に一度舞台を離れる。から直接報告を受け、昼休みも双子の兄妹が忙しくしていることも知っている。
しかし先程偶然目にした光景が、恋雪の脳裏にしっかりと焼き付き離れない。宝物の様に、眩い光を包む様に。これ以上無い程大切に頭を引き寄せられた、の表情。

「大好きで堪らないひとに、あんな風に優しくして貰えたら・・・きっと、それだけで生きていけるくらい、幸せな筈です」

あんなにも幸福に満ち溢れた笑顔を、見てしまったなら。憧れのひとが、心の底から喜びに浸る瞬間を目にしてしまったなら。恋雪にはそれ以上、一歩たりとも踏み込むことなど出来はしない。

「淋しいですか。立花が引退したら」
「・・・そう、ですね」

婚約者の静かな問いは真理を突いていた。もし、が引退を選んだなら。今日目にした光景も鑑みれば、決して可能性は低くない。
淋しい。その気持ちを否定は出来ないけれど、それより大きな思いを噛み締め、恋雪は眉を下げたまま緩く微笑を浮かべた。

「でも私は、もう競技者の立花さんだけじゃなく、さんご本人のファンなので。もしこのまま引退されても、さんが幸せならそれだけで・・・私も、嬉しいです」

は恋雪の憧れのひとだ。体調を崩してばかりの頃より、年が近いながら第一線で戦う姿に勇気を貰い続けてきた。そんな彼女があんなにも今幸福に包まれていることを知れた、それだけで堪らなく胸が温かい。
の願いが叶って良かった。努力が報われ、彼女が愛と幸福に包まれた今が心から喜ばしい。そうした思いで優しく眉を下げる婚約者を見据え、狛治が小さく口を開く。

「・・・少し、妬けます」

静かな声量を更に落とした呟きだったが、二人きりの小さな部屋はそれすらしっかりと拾ってしまう。見つめ合ったまま数秒の静止を挟み、急に火が付いたかの様に恋雪の肩が跳ねた。

「・・・えっ、え、ええ・・・?!」
「・・・冗談です」
「な、なんだ。もう・・・」

狛治の瞳は普段通りに凪いだままだったが、頬の熱さを扇いで鎮める恋雪を前にやや穏やかに細められた。距離を詰めることもなく、必要以上に冗談を強調することもなく、二人は互いに心地良い空気のまま話を続ける。

「俺は、立花は戻るんじゃないかと思ってます。単なる勘ですが」
「勘、ですか」

が目的達成を理由に舞台を降りるのではないか。漠然とした淋しさを隠し健気に微笑む恋雪に対し、狛治はやんわりと否定の意見を示す。

「付き合いが長くなって、最近漸く少しわかってきましたが・・・あいつ、意外と普段も武道家気質ですよ」
「え?」
「基本は穏やかですが、譲るべきでない時は絶対に譲りませんし、割と負けず嫌いな面もあって、何より何事も全力です。むしろ今出場を取りやめていることも、他に集中することがある以上中途半端なことはしないという意味で立花らしいと言うか・・・」

縁あって中学の三年間をと同じ教室で過ごした狛治の言葉は、真っ直ぐ過ぎる程に恋雪の中へ落とし込まれた。舞台上の凛々しい姿と普段の穏やかな姿の違いに未だドギマギとしてしまう恋雪に対し、狛治は普段のの中にも強さの片鱗を感じ始めていると言う。

「目的は達成したとしても、競い高め合う世界は立花に似合いの道だと思います。あいつに自覚があるかどうかは、際どいところですが」

長く共にいるからこそ、友として関わる時間が長いからこその切り口だ。加えて、引退への否定が遠回しな励ましであることに気付けない恋雪ではない。狛治の自然な優しさが嬉しい。嬉しい、のだけれど。

「・・・ずるいです」

綺麗な額の下で眉をきゅっと寄せて、恋雪の手が膝の上で丸くなる。思わず目を丸くする狛治に向けて、恋雪の瞳が仄かな望みを主張した。

「私も、狛治さんくらいさんのこと解かれたら良いのに」
「・・・そっちですか」
「え?」
「いいえ、何でも」

安堵とも脱力とも取れる苦笑を浮かべ、狛治は緩く首を横へ振って見せる。いかに婚約者がを慕っているか。わかっていたことを改めて痛感する表情は、友への羨望と感心が半々の色をしていた。

「あいつはクラスメイトの俺なんかより、恋雪さんの方をよほど好いてると思いますよ」
「えっ・・・?!ほ、本当ですか・・・?!」
「嘘は言いませんよ。恋雪さんと接している時の立花は、いつも嬉しそうです」

好かれているという直球表現に恋雪は前のめりになった。小さく口端を上げる狛治の目に嘘は無く、普段何かとにこやかに接して貰えると感じていたことが思い違いでなかった嬉しさは大きい。
恋雪ちゃん。そう呼んでくれる優しい声を反芻すると同時に、胸の奥が何故かツンとする。自らも持て余してしまう気持ちに恋雪が眉を下げて苦笑した、その時だった。

「あの二人が加われば、春から状況は少し変わるかもしれませんが。俺たちは変わらず、あいつの友人です」

狛治は真っ直ぐに恋雪を見つめていた。嘘や誤魔化しの無い励ましを受けた心地に、恋雪は目を見張る。

「大丈夫です。立花と恋雪さんの関係性は、何も変わりませんよ」

そうか、と思う。淋しく思っていたのはの引退ではなく、もっと根本的な変化だったのだ。自分など入れる隙がある筈も無い空間。との関係が変わってしまう。今日目にした光景があまりに眩しく、無意識の内に根付いた恐れ。それを正面から否定し取り払ってくれる婚約者の頼もしさが、どこまでも尊く有難い。
恋雪は暫しの空白の後、困った様に小首を傾げながらも安堵の表情を見せた。

「・・・狛治さんには何でもお見通しですね」
「まぁ・・・これくらいは、当然です」

ぴしりと伸びた背をそのままに、狛治が小さく咳払いをする。座ったままずいと一歩近寄ったかと思えば、その手が遠慮がちに恋雪の肩へ添えられた。

「あいつの言葉を借りるなら・・・俺にとっては、恋雪さんがいないと何も始まりませんから」

真っ直ぐな眼差し、その奥に宿る確かな熱意はやはり優しさに満ちていて、恋雪は急激な鼓動の高鳴りに思わず息を呑む。

「何でも、解かりたいと思っています。出来れば、一番に」

思い返すのは自身の言葉そのものだった。大好きで堪らないひとから優しくして貰えたなら、それだけで生きていける程に幸せだ。
こんなにも優しく温かな彼が傍にいてくれる。込み上げる甘やかな思いをそのままに、恋雪は肩に置かれた大きな手へそっと触れた。

「もうとっくに、狛治さんが一番ですよ」
「嬉しいですが・・・正直、立花の上を行くことは簡単では無さそうで」
「ふふっ。もう、狛治さんったら」

目には見えない絆が互いを結んでいる。
二人はそれに気付くことなく、ただ幸せそうに笑い合った。


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