大事な君の行く先に




「ただ今戻りました!!」

自宅の戸を引き、意識せずとも大きな声で煉獄が帰宅を告げた。
明るい我が家と、台所から漂う食欲をそそられる匂いに、一日の疲労感が癒えていく。今夜の献立は何だろうかと口端を上げて靴を脱ごうとした際、視界の端に客人の靴を捉え煉獄は目を瞬いた。
記憶違いでないならば、行儀良く揃えられた小さなローファーの持ち主を知っている。定期的にこの家へ通う存在であることも、またこの時間までの滞在が珍しいことも知っている。

「お帰りなさい、兄上」
「お帰りなさい」

奥から聞こえてきた千寿郎の声に、母とは違うお帰りなさいの言葉が被ったのは聞き間違いではない筈だ。確信と共に普段以上に大股で渡った廊下、台所へ続く暖簾の向こう側。千寿郎と共に母の手伝いをする、制服の上からエプロンをかけた姿のと目が合う。

「こんばんは、ここで会うのは久しいな!」
「こんばんは。お邪魔してます・・・煉獄先生」

学校とは違った対面に、が少々気恥ずかしそうに笑う。彼女が千寿郎と並び仲良く副菜を盛り付ける光景はどこか懐かしく、煉獄は穏やかに微笑んだ。




* * *



季節が秋から冬へ移り変わり始める澄んだ空気に、星が煌めく夜だった。夕飯を共にしたを送り届けるべく、煉獄は彼女と隣り合い夜道を歩く。

「美味しかった・・・」

しみじみとしたその言葉は、ほとんど無意識の呟きだったのだろう。はっとした様に目が合うなり照れるを見下ろし、煉獄は朗らかに笑った。

「ははは!そうか、それは何よりだ!」
「すみません、私はもっと遠慮しなきゃいけなかったのに。瑠火先生の和食、すごく美味しくてつい・・・」
「何を言う。君の箸の進みが良かったことで、父も母も大層喜んでいたぞ。千寿郎も久方振りに君と食事が出来て嬉しそうだった」
「そう、でしょうか・・・。だったら、嬉しいです」

普段から有難くも品数が多めな食卓ではあるものの、更に豪華な食事は母が喜々として腕を振るった証。表面上は少々わかりにくくとも父が上機嫌であったことは、あれやこれやとに食を促す口数の多さから十分伝わった。何より、が何か話す度に熱心に頷き耳を傾ける千寿郎の笑顔が、食卓を一層暖かく彩る夜だったと言えよう。
とても良い夕食の席だった。の存在が加わることで家族の空気がより優しいものへと変わる。昔から何ら変わらず、この努力家の少女が発する影響力は大きい。それを改めて実感し、煉獄が目を細めて笑う。その手には両親がに持たせた風呂敷包みが握られていた。

「お兄ちゃんの分まで持たせていただけて、本当に感謝してます。きっと喜びます」
「うむ、夜食に是非食べて貰ってくれ。それにしても、遅くまで熱心なことだ」
「はい。参考書に特化した本屋さん、ここから少し遠いので・・・。今日はじっくり時間をかけて選びたいって言ってました」

が今日の夕食を煉獄家で過ごした理由はいくつかあった。彼女の母が遠方の催事でまとまった期間留守にしている。これはそう珍しいことでもないものの、普段であれば食事を共にする双子の兄が今夜不在であると聞かされたことがひとつの要因だった。
学校帰りから店の閉店まで参考書を選ぶのだという幸太郎の夜食分まで、母が計算して食事を準備したことは間違いない。しかし隣を歩くの表情は、恐縮という一言で片づけるには少々固いものだった。

「これから、本格的に忙しくなるのだな」
「はい・・・」

二月下旬に迫る編入試験に挑む友人の為、出来る限りの時間を充てて受験勉強の協力をしたい。それに伴い、これまで欠かさず続けてきた大会への出場及び、週に三度通っていた稽古を一時休みたい。からの申し出が、今夜の食卓が急遽企画された一番の理由の様だった。
直接指導に当たっていた両親も、随分と長いこと陰ながら活躍を応援し続けた千寿郎も。彼女の決断に異を唱える筈が無かったが、当の自身の表情が今になって少々頼りない。煉獄は改めて彼女の背を押すことを決めた。

「勉強は学生の本分だ。堂々と胸を張ると良い」
「・・・煉獄先生」
「人に何かを教える為にはまず己が理解度を深めなくては。指導塾に頼らない以上君たちの方針は正しいし、これから数ヶ月の努力は君自身の糧にもなる筈だ」

が幼い頃よりどれだけ真摯に努力を重ねて来たかを知っている。彼女の意志の強さを知っている。決して簡単ではない結果を出し続けることの凄さも知っている。
それ故に、がこれまで迷わず捨ててきた日常の尊さも、煉獄は知っているのだ。

「君が書道以外の何かに時間を費やせる様になったことを、俺は嬉しく思っている。父上も母上も、千寿郎もきっとそうに違いない」

命を燃やす様な一本道を、は自らの意志で一度外れると言った。これまでなら考えられなかった選択だが、それは外ならぬ彼女の前向きな願いが込められた申し出だった。
道を極める志は確かに美しいものだが、煉獄にとっては書道家であると同時に大切な妹の様な存在でもある。貴重な学生時代、何かひとつでも他のことに打ち込みたいと、が自発的にそう思ってくれたことが嬉しい。そうして微笑む煉獄を見上げ、の肩から僅かな強張りがゆるやかに抜けた。

「・・・ありがとうございます。なんだか、ホッとしました。瑠火先生も師範も、二月までお休みすることを快く受け入れて下さりましたけど・・・」

言葉は一度途切れた。口にすべきかどうか瞬間迷う様な空白を挟み、困り顔と苦笑が半々になった表情が煉獄に向けられる。

「突然休みたいだなんて言って・・・がっかりされたんじゃないかって、少し、心配で」

ボリュームの下がった声は、の本音そのものである証だ。落胆されることを恐れていたと告白する苦笑と目を合わせ数秒、煉獄は豪快に破顔した。

「はははは!それは無用な心配だったな!」
「そう言っていただけると嬉しいです。でも煉獄家の皆さんには昔から本当にお世話になってますし、千寿郎くんも、勿論煉獄先生も、皆さんを尊敬してます・・・出来れば、ずっと良い関係でいたいですから」

迷いなく笑い飛ばせる程に不要な憂い事だったが、にとっては大事だったのだろう。積み上げてきた信頼関係の揺らぎを恐れ、眉を下げて苦笑する小柄な彼女を思うと穏やかな切なさがこみ上げた。
煉獄が足を止めれば自然との歩みも途絶える。高く澄んだ夜空の下、大きな手が力強く細い肩へと乗せられた。

「ありがとう。我が家を代表して、その誉は俺が今確かに受け止めた」

がそれほどに自分や家族との関係を重んじてくれること。それは煉獄にとって代えがたい誉であり、大きな喜びだった。父にとっても母にとっても、勿論弟にとってもそれは同じことが言えるだろう。

「だが君は、例え誰にどう思われようとも今自分が何をすべきか、譲れぬ思いがあるのだろう」
「・・・はい」

黒い双眸は幼い頃より変わっていない。昔から目標に向かってひた走る姿を見てきた。今この瞬間もそれは変わらず、は叶えたい望みを見据えているのだろう。ただ、一時期の様な危ういまでの思い詰めた気配は薄れているとはっきりわかる。

に、良い変化が起きた。
それは全貌がわからずとも、嬉しいことに他ならない。

「立花少女」

特別な呼び方に、ぴしりと背を伸ばす姿が何とも言えず保護欲をくすぐる。煉獄は明るく笑ったまま、細い肩から柔らかな髪の上へと手を移動させた。

「大丈夫だ!俺の家族は皆、君の選ぶ道を尊重する。幼い頃からよく知る君の行く先が少しでも明るいのなら、それが俺たちの願いでもある」

頭を撫でられ、目を丸くしているはやはり可愛い妹の様な存在だ。落胆などする筈が無い。不安に思う必要も無い。彼女の背を押し見守れること、それが家族の幸せに繋がる。煉獄は優しく微笑んだまま、力強く頷いて見せた。

「君のしたいことを存分に励むと良い!二月に良い結果が出ることを、俺も祈っている!」
「はい・・・!ありがとうございます!」

ああ、やはり。の花咲く様な笑顔と向き合うことで、気持ちが満たされる。
煉獄は穏やかな充実感を胸に歩みを再開させた。ゆっくりと彼女を送り届ける、この貴重な時間も兄貴分としてどこか誇らしい。

「ときに、週に一度の剣道だけは続けると聞いているが」
「はい。身体を鈍らせない為と、少しでも定期的に身体を動かした方が気分転換になって良いだろうって、師範が・・・有難く、お願いすることにしました」

気難しい顔をしながら、内心では娘の様に思っているの返答に間違いなく喜んでいたであろう父のことを思い笑みが溢れる。やはりこの少女は、煉獄家の誰にとっても大事な存在だ。

「そうか!ではまた時間が合えば夕飯を食べて行くと良い。今度は立花少年も連れておいで」
「ええ?いえ、嬉しいですけどご迷惑になりますから・・・」
「む。さては気付いていないな?」

わざとらしく咳払いをし、幾分か背の低い彼女を手招き耳元に声を寄せる。極力潜めて漸くやや小声だったが、煉獄が至って真剣なトーンでこう告げた。

「君がいると、母上が張り切って下さる為か食卓の品数が格段に増える。冬は芋の美味い季節だからな、俺にとっても大変都合が良い」

一瞬唖然とした末に、が小さく噴き出して笑う。胸の内をくすぐられる様な充実感に、煉獄もまた朗らかな笑みを返したのだった。


Top