約束の夜



泣かせたくはない。
こんな時になって喧嘩などしたくもなかった。
いつだって笑っていて欲しい、可愛い妹。

首だけになった大切な存在が大粒の涙を流しながら塵となる瞬間、最期に口にした単語は慣れ親しんだ”お兄ちゃん“だったが、同じく形にはならず消え入った。

梅。
もう取り返しのつかない妹の名を口にしたその瞬間、妓夫太郎は全ての終わりを悟る。
最初もひとり、最期もひとり。大切なものは、砂粒ひとつ残らず指の隙間から零れ落ちていった。
大切な妹を、遂に亡くしてしまった。家族と何ら変わりなく梅を慈しんでくれた彼女に、何と詫びれば良いのか。自らが崩れ行く感覚の中、妓夫太郎は心の奥底に戒めた枷を解く。

ただひとり暗闇を彷徨った地獄の日々から、そっと掬い上げてくれた陽だまりの様な幼馴染。外の世界を望む彼女と共に、大事な妹を連れて暗く濁った夜の街から出て行く。あと一歩で届いた筈の夢は彼女の命ごと儚く踏み躙られ、妓夫太郎は黒焦げになった妹と共に怨嗟の鬼と化した。

人間だった頃の疎な記憶を手放して尚、不可解な白昼夢を通して繋がっていた彼女は転生という形で再度目の前に現れた。盲目の芸者は危機と隣り合わせばかり、夜な夜な屋根の上で眠りを見守ることが常となった。たかが人間一匹を必要以上に気にかけてしまう理由、そして失うことを異常なまでに恐怖する理由は、彼女を一度亡くしている為だと気付いた時には手遅れだった。

再び去り逝く身体を抱き寄せ、何度でも見つけると誓った。
何度でも生まれて来いと、涙を堪えて最愛を見送ったのだ。

こんな筈では無かった。
首を落とされては約束を果たせない。
次に生まれ変わる彼女を迎えに行けない。
逢いたい。
もう一度、逢いたい。

『・・・罪を償ったら、きっとまた生まれておいで』

自身の運命を呪う中頭上から降り注いだのは、信じ難いほど慈しみに満ちた声だった。首だけの状態で目玉を上向かせれば、仇の少年が遣り切れない表情でこちらを見降ろしている。
首を切り落とした張本人が何を言っているのか。しかし妓夫太郎は、それ以上の罵声を口にすることが叶わない。

恨みの種を撒いて消える最中に考え続けるには、胸の中に根付いた幼馴染の存在は優し過ぎた。
自然と涙が溢れ出る。大切な妹は守れず、約束も違えてしまう始末だ。彼女は怒るだろうか、見限られるだろうか。しかし、脳裏に浮かぶ微笑みはいつだって途方も無くあたたかい。


とうとう声にはならなかったその名を、妓夫太郎は最期の一息にのせた。




* * *




温かなパンの香りが満ちる空間が、ひとときの緊張に引き締まる。
周りから固唾を飲む様にして見守られる中、白髪の美少女はすました顔をして焼き立てのクロワッサンに齧り付いた。
兄と同じく美しい青の瞳が大きく瞬き、想定を遥かに超えた味に戸惑い揺れて。注目を集めている自覚がある為に何でもない顔を装いながらも、その口元が抗えぬ感覚に綻んだ。

「・・・美味しい」
「そうか、良かった!」

安堵の笑みを浮かべているのは、作り手である炭治郎だ。日もとうに沈んだ今、店で表のシャッターを下ろした後にこうして特別な時間外対応をすることは、以前と交わした大切な約束なのだと彼は優しく笑った。

四人掛けのテーブルにはと幸太郎が並び、その正面に妓夫太郎と梅が若干居心地悪そうに縮こまっていたものだが、梅が正面から陥落したことは空気を変える大きな材料となった。一口では食べきれない看板メニューの美味しさに堪らず続けて齧り付く妹の姿には、妓夫太郎の警戒心も自然と緩んでしまう。ぺろりと最初のひとつを平らげた梅は瞬間大きな感激に目を輝かせたものだったが、傍に立つ炭治郎のにこやかな微笑みにはっとした様に顔を背けて見せた。

「でも、アタシはもっと甘いのが好き」
「そうか、好みを教えてくれてありがとう!甘いのも沢山あるから、どれでも好きなものを選んでくれ!俺のおすすめはあんパンだけど、アップルパイやチョコロールも人気があるな」

心からのサービス精神に濁りは無く、些細な抵抗など無意味に思えて仕方が無い。梅は数秒怯んだ末に、好奇心に押し流される様にしてメニューや店内のバスケットを熱心に眺め始めた。そんな梅の様子を正面から見守っていた兄妹は揃って顔を見合わせ、互いに目を細めて安堵の笑みを交わし合った。

激動の文化祭を終えて一週間後の土曜、炭治郎からの申し出を受け約束の日がやって来た。
が逢いたいと願った二人に、好きなだけパンを振舞う。あの日に贈った言葉の通り、美味しさで笑顔にする。例えそれが、前世で死闘を繰り広げた相手であっても。炭治郎の気持ちに揺らぎは無かった。

今とは違う人生の記憶を持った者同士という特殊な間柄に戸惑いつつも、彼らはお互いの歩んできた道のりを正直に開示しあった。
どうしようもない劣悪な状況下、揃って鬼となることで命を繋いだ兄妹。本当なら外の世界で二人と共に生きる筈だった存在。そして彼らを襲った惨事から百年以上の時を経て、鬼となった妹を元に戻す為に鬼殺の剣士となった少年。
誰もが何かしらの後悔と切ない経験を抱えながらも、奇跡としか表現しようの無いことながら、記憶を持ったままここに集っている。当時それぞれに掲げた生き様があり、思いもある。すれ違いも当然生じる。

しかし、今彼らはこうして平和な時代を共に生きている。

「梅殿、良ければ私の分もどうぞ」
「あっ・・・じゃあ私のも・・・!」
「幸太郎さんもさんも、大丈夫ですよ。今日はいくらでも新しいものをお持ちしますから」

それぞれ最初に選んだ甘いパンを梅に差し出そうとする兄妹を優しく制し、炭治郎が微笑む。
遡ること数か月前、同じ場所で感じた切なさが昇華されていく思いに、はテーブルの下で小さく拳を握り締めた。

「・・・ありがとう、竈門くん」
「いいえ、約束が果たせて俺も嬉しいんです」

穏やかな瞳は柔らかく細められた末、頑なに無言を貫いていた存在へと向けられる。

「妓夫太郎も、気になったもの、何でも言ってくれ!」
「・・・」

まるで引っ掛かりのない、曇りなき笑み。
隣の席の梅はメニュー選びに余念が無く、正面にかけると幸太郎もやや緊張の面持ちで反発しないことを望んでいる。
参った。妓夫太郎は眉間に皺を寄せて頭を掻いた。




* * *




秋の夜空に浮かぶ月を、妓夫太郎はひとり見上げる。
裏口を通し店の中からはあれもこれもと持ち帰るパンを選ぶ梅とたちの楽しそうな声が漏れ出し、何とも言えない柔らかな思いに人知れず口元が緩んだ。
一体どれだけくるくると働きまわるのかと感心してしまうほど、炭治郎はてきぱきと動きすべての要望に応えた。促されるまま焼き立てのパンを頬張り、あまりの味の良さに目を丸くした瞬間のの笑みが忘れられない。
閉店後のあたたかな店内で自分たちの為だけの美味しい食事を満喫し、隣には喜びに目を輝かせる妹、正面には誰より大事な存在と特別な友。ほんの一週間前に取り戻したばかりの記憶が鍵となり、この手に得た奇跡は未だ現実味が追いついてこない。そうしてぼんやりとしてしまう妓夫太郎の背後、裏口の扉が開く音がした。

「寒くはないか?」

刀を手に、どんなに痛め付けようとも決して折れぬ闘志で立ち向かってきた厳しい瞳を思い出す。今は似付かぬ優しげな笑みを真正面から向けられることで、苦い記憶と複雑な思いが交差した。

「中で待っていた方が良くないか?さんたち、選ぶのにもう少し時間がかかりそうだ」
「うるせぇぞ。てめぇの指図は受けねぇからなぁ」

棘のある返答は間違いなく届いた筈が、それでも穏やかな表情は曇らない。

「・・・本当に、良かった」

そっと噛み締める様な言葉に、妓夫太郎は僅か瞠目する以外に成す術を持たなかった。

「消えてしまう間際の、途方もない後悔と誰かを思う匂い。ずっと、気になっていたんだ」

竈門炭治郎。
この首を斬り落とした鬼殺の剣士。そして、塵と消える間際にいつかの転生を願い、先日は妓夫太郎を文化祭後の学園へと導いた存在でもある。

「まさか、二人が人間だった頃からさんや幸太郎さんと強い縁があっただなんて、思ってもみなかったけど・・・話を聞いたら納得したよ。さんが必死に頑張ってた理由、会いたいひとがいるって教えて貰えた時の匂い、全部繋がった」

炭治郎がの事情を詳細までは至らずとも知っていたことがひとつの引き金となり、文化祭の夜は完成した。何の因果か、すべてを終わらせた少年によって今回は助けられた形となり、妓夫太郎は眉を顰めて目を逸らす。

「嬉しいんだ。さんの願いが叶ったことも・・・妓夫太郎と梅が、もう一度兄妹として生まれてこれたことも。本当に、良かった」

仮にも命の獲り合いをした相手だ。それでも心の底からの喜びを隠さない炭治郎を前に、妓夫太郎は浅い溜息を吐き出した。

「・・・他人のお前が嬉しがる要素がどこにも無ぇんだよなぁ」
「嬉しく思う理由はちゃんとあるよ」

即答の否は、やはり優しい。
基本は穏やかに柔らかく、相手の見た目に関わらず真っ直ぐ接し、譲れないことは譲らない。
調子の狂う感覚は、正面からは認め難くも覚えのあるものだ。

「禰豆子もまた俺の妹に生まれてきてくれたんだ。元の記憶は無いけど、平和な時代で、俺はただ妹の元気な姿を傍で見守れることが嬉しい。妓夫太郎も、それは同じ筈だろう?」

禰豆子と呼ばれた鬼の妹を、炭治郎が人間の身ながら箱に入れて庇っていた姿がちらつき、今世もまた兄妹の関係を引き継いだという事実に覚えた気持ち。それは紛れも無く穏やかなもので、妓夫太郎は緩んだ内心を隠すべく強引に眉間の皺を深めた。
妹の健やかな成長を見守れることは嬉しいに決まっている。何に脅かされることもなく、大切な笑顔と共に在れることは間違いなく幸福だ。色々と思うところはあれど、同じ兄としてその点だけは頷ける。

「・・・そりゃ、そうだけどなぁ」
「それに俺はさんのファンだから、さんが幸せだと俺も嬉しいよ」
「・・・あぁ?」

その場の空気が明確に温度を下げる。
炭治郎にとってのファンであることは常であり当然下心の無い単語であったが、妓夫太郎はそう受け止められはしない様だった。これには流石の炭治郎も目を丸くして両手を上げてしまう。

「えっ、今の怒る所か?さんは有名人だし、優しくて格好良いし、俺みたいなファンは沢山いると思うぞ」
「そういう問題じゃねぇんだよなぁ・・・!」
「ちょっと落ち着いてくれ。立花家の皆さんはもう何年も店のお得意様だし、確かに仲良くはさせて貰っているけど、妓夫太郎が心配する様なことは何も無いから」
「さっきから気安く呼び捨てにすんなよなぁ・・・!!」

一気に火がついてしまった様で会話が一向に成立しない。文字通りお手上げの状況に炭治郎が困り果てたその時だった。
炭治郎の横を素早くすり抜け、両者の間に己を捻じ込んだ影がある。細い手がひしと妓夫太郎の上着の裾を掴み、その目が強く静止を訴えた。

「・・・?」
「だっ・・・だめ、喧嘩は、だめ・・・!!」

非難の色は薄い。しかし懸命に我が身を盾にするは真剣そのもので、妓夫太郎の怒気はあっさりと引き抜かれてしまった。

「そ、そりゃあ私は二人が戦ってた時代に生きてないし、鬼と鬼殺隊のことも理解足りてないし、偉そうなこと言えないのもわかってるけど、でも今は折角普通の時代に生まれて来れたんだし、竈門くんには本当にお世話になってるし、前に色々あったとしても私は喧嘩してほしくなくて、あの、だから・・・!!」
「おい、わかったから落ち着けよなぁ。上着も着ねぇでお前は・・・ったく」

早口に捲し立てるを制し、妓夫太郎は深く溜息を吐いた。
まだ秋とはいえ夜はそれなりに冷える。身一つで飛び出してきたを咎める様に眉を顰めつつ、素早く脱いだ上着を華奢な両肩にかけることも忘れない。
そんな二人の様子を唖然とした様に眺め数拍、僅かな声が炭治郎の口元から漏れた。夜風に乗った忍び笑いが、妓夫太郎との視線を奪う。

「か、竈門くん・・・?」
「っはは・・・すみませんさん、大丈夫ですよ。喧嘩、してないです」
「おい。何を笑ってやがる・・・」

必要以上に怒るのは、の為。困り顔をしつつ優しさを発揮するのも、の為。
鬼であった頃の残忍な一面は、妓夫太郎がどう強がろうとも今はどこにも見当たらない。ほんの短時間で理解できた喜ばしい現実に、炭治郎は穏やかに微笑んだ。

「本当に、二人がまた巡り会えて良かったと思って」

優しい声だった。
心の底から祝福を奏でる、柔らかな言葉。
思わず目を瞬くに対して、炭治郎は尚もあたたかく笑いかけた。

さん、持ち帰り分決まりましたか?」
「あっ・・・うん、お待たせしてごめんね」
「大丈夫です。すぐ包みますね」
「ありがとう、お願いします」

踵を返した炭治郎が店内へ戻り、遅いと憤慨する梅とそれを宥める幸太郎の声が遠くに聞こえる。随分と静けさを増した裏口で、互いを見つめたのは同時のことだ。目であらゆることを訴えられる感覚に、妓夫太郎が眉を寄せて頭を掻く。

「・・・喧嘩はしてねぇからなぁ」
「そっか・・・良かった」
「俺はお前に、そんな顔させたり、心配かけたい訳でもねぇ」

何が正解か、何が最良か。言葉を選ぶ妓夫太郎を、は黙ったまま見上げて待つ。
不意に吹き抜けた夜風に、彼女が凍えることが無い様に。上着の前を正面から一層閉ざす手は、疑う余地も無い程に優しさに満ちていた。

の言いてぇことはわかってる。出来るだけ努力もする。ただ・・・相手が相手だからなぁ。流石に時間はかかるってことは、わかれよなぁ」
「・・・うん。ありがとう」

鬼と鬼殺隊の関係を、は自覚の通り完全に理解できてはいない。ただ、互いにどうしようもなかった状況下、哀しくも残酷な現実の果てに刃を交えた者同士であると。少なくとも鬼であった頃の妓夫太郎と梅に守って貰った過去を持つは、どちらも否定することなくひとつの歴史として飲み込んだ。命を奪い合った仲とは、そう簡単に割り切れるものではないのだろう。そんな中でも歩み寄る努力を宣言してくれる妓夫太郎はこんなにも優しい。そして、今夜約束を果たしてくれた炭治郎もまた、底抜けに優しい少年であることをは知っている。加えて兄からは、文化祭の夜は炭治郎の助けがあり事が進んだとも聞き及んでいる。時間はかかるだろうが、いつか訪れる雪解けを信じたい。そんな思いと共に、は一歩妓夫太郎に近寄った。

「妓夫太郎くん、ここにいるんだね」
「・・・?」

大きな手にそっと触れる。
当然の様に握り返して貰える。

「喧嘩を止めておいて変に思われるかもしれないけど・・・色んな心配が出来るのも、こうして話せるのも、妓夫太郎くんがここにいるからなんだよね」

願い続けた奇跡が、ここにある。
文化祭の夜から一週間、互いに距離のある学校に通う為平日を毎夜電話で繋ぎ合い、漸くの週末に直接会えたのだ。
夢か現か。わかっていながら曖昧な感覚になってしまうことは、二人に共通する思いだ。

「夢じゃないよね」

目が潤むのを強引に堪え、が精一杯に笑う。それを痛いほどに理解している為か、妓夫太郎もまた僅かに口元を緩め華奢な身体を小突いた。

「こんなに腹いっぱいな思いして、夢な筈が無ぇんだよなぁ」

大丈夫、現実だ。
二人は一拍の間を置いて笑い合う。涙を引っ込め、が明るく声を上げた。

「美味しかったよね?私もお兄ちゃんも、ここのパンが大好物なんだよ。竈門くんが焼いてくれるパンはどれも最高だから!」
「・・・誰が焼いても同じだろ」
「そんなこと無いよ、竈門くんの腕前は本物なんだから」

何度でも、は妓夫太郎と炭治郎の間に立つことが出来る。
何度でも、何度でも。

「これからも、また一緒に来よう。一回じゃ良さが伝わらないなら、沢山買い物して、妓夫太郎くんのお気に入りを見つけよう。ね!」
「・・・しょうがねぇなぁ」

先の約束を交わせることは、こんなにも幸福に満ち溢れている。

「一緒に戻ろう」
「・・・おぉ」

に手を引かれ、妓夫太郎は再度店内へと足を踏み込んだ。

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