やがて溶け合い熱くなる





駅のホームに降り立った瞬間から、電車内の冷気が早くも恋しくなる様な猛暑日だった。
息苦しい程の熱気とは如何なものか、そろそろ夏にはご退場願いたい。そんなことをぼんやりと考えながら、は改札口を通過した。
約束の時間までは少し余裕がある。具体的な予定は未定だが、集合場所は彼らの住むマンションだ。またしても最高気温を更新しそうな今日、アイスでも手土産に向かったなら二人は喜んでくれるだろうか。
季節限定のフレーバーに目を輝かせる妹と、普段通りの気怠そうな顔で黙々とスプーンを口に運ぶ兄の姿を交互に思い浮かべ、等しく愛おしい光景に彼女は表情を緩めた。
息苦しい暑さも、厳しい寒さも、二人の傍にいるだけでたちまち季節が尊く思えてしまう。兄妹の存在はまるで魔法だ。改札を抜けるまでとは打って変わり、暑さに負けない軽快な足取りで、は駅前に賑わう人気のショップへと踏み込んだ。





* * *




目的の部屋の前に立ち、まさにインターホンを押そうとした瞬間だった。
内側から勢い良く飛び出してきた美少女を受け止める様な形で、は目を丸くする。

「あっ・・・」
「梅ちゃん」

美と愛らしさを併せ持った青い瞳が、訪問者を前に動揺したかの様に見開かれている。
折角会えたばかりだが梅は見るからに出かける装いだ。しかし彼女の脳裏には、今日も梅は素晴らしく可愛いだの、入れ違いにならずに一目会えて良かっただの、前向きな感想ばかりが踊っていた。

「ごめんっ、アタシこれから出かけることになっちゃって・・・お兄ちゃんは中にいるから」
「そうなんだ、気を付けて行ってきてね。あ、じゃあこれ冷凍庫に入れておいても良いかな?夏の新作、色々買ってきちゃった」

梅が気に入るかと色々考えた結果、買い過ぎてしまったアイスの箱を差し出しては苦笑した。頼まれてもいないのに張り切って空振りとは少々気恥ずかしいが、後でゆっくり選んで貰えればそれで良い。
しかし、普段であれば外箱だけで好反応が確実と思われたそれは、今日に限っては非常にぎこちないものだった。

「あ・・・り、がと」

何かに傷ついたり落ち込んでいる様子では無さそうな為、その点だけは僅かに安堵出来る。
しかしながら梅も当然好きな人気店、夏の新作。気になる要素は十分な筈が、この気まずそうな反応は大いに疑問が残った。

「・・・梅ちゃん?」
「何でもないっ・・・ありがと。冷凍庫、入れといて。夕方前には戻るから、帰ってから食べるわ。楽しみにしてる」

流石にの声色の変化を読み取ったのだろう、梅は両手を振って普段通りを装い礼を述べた。
若干引っかかる点はあれど、この美少女からの“ありがとう”に加え“楽しみにしている”という褒美にも似た一言を貰えたことにより、条件反射の様に笑顔を取り戻してしまう。そんなの横をすり抜け、振り向きざまに梅が気まずそうに囁いた。

「お兄ちゃんのこと、よろしく」
「え?」
「じゃあね!」
「あっ・・・行ってらっしゃい」

駆け出した梅はあっという間に姿を消してしまった。
兄をよろしくとはどういうことか。小首を傾げつつも、やはり去り際の笑顔の愛らしさで疑問の全ては棚上げとなる。
慣れた一室に踏み込み、お邪魔しますと小さく告げて奥へと進んだその先に。

「えっ・・・どうしたの?」

まさか妓夫太郎がぐったりとしているとは、考えもしない光景だった。
は一瞬硬直するなり、慌てて本人の元へと駆け込む。妓夫太郎は床に座り込んだ状態でローテーブルに上半身を伏し、険しい顔をしていた。兄妹揃いの青い瞳は彼女の姿を捉えたが、顔色を悪くした彼は呻く様な声しか出せない様子だ。

「・・・ちょっとなぁ」
「ちょっとって顔色じゃないよ、大丈夫?」

一体何事かと彼女が狼狽えたその時だった。

「・・・あ」

テーブルに置かれた空の容器をの目が捉え、間の抜けた声が漏れた。
巨大でカラフルな大変に目立つそのカップは、駅前で立ち寄った店で見かけたばかりの物である。年中アイスを販売している人気店の、夏季限定商品。中でも一日限定十個しか出さないという特大サイズのかき氷は、彼女がアイスを買いに入った時点で今日の販売分を終了していた。 ソールドアウトの張り紙と共に器だけがディスプレイされているのを眺め、これは一体何人がかりで食べる計算なのだろうかと感心したことは記憶に新しい。
まさにそれが今空の状態で目の前にあり、顔色を悪くして伏している彼の姿がセットになっている。は大凡を理解した。

「・・・なるほど」
「何でまた、どう考えても食い切れねぇもんを持ち帰って来るんだって話だよなぁ・・・」

罰が悪そうな梅の表情を思い返し、は苦笑を漏らした。

「期間限定とか、数量限定とか、そういうワードに弱いんだよねぇ。気持ちはちょっとわかるなぁ」

先着十人の枠を勝ち取り意気揚々とテイクアウトしたは良いものの、恐らく四分の一も食べきれず兄に泣きついた姿が目に浮かぶ。同時に、眉間に皺を寄せ文句を言いながらも、全力で応じた彼の姿を思い浮かべることも容易い。
謎は解けた。季節外れの寒さと冷たさで兄をぐったりさせてしまった中、アイスを手土産にした来客があれば狼狽えて当然だろう。その推理が当たっていた証に、妓夫太郎は伏せたまま溜息と共に頭を掻いた。

「まったく・・・しょうがねぇ妹だよなぁ」
「でも、そういうところも可愛いんだよね」
「・・・まぁなぁ」

何があろうとも梅は妓夫太郎にとって可愛い妹であるし、もまたその関係性をよく理解している。いくら振り回されたところで、あの愛らしい少女を中心に物事が回ることは微塵も揺らがない。ずれることの無い価値観に目と目を合わせ、お互いに小さく苦笑をかわし合う。
とは言え依然として顔色の悪い彼を案じてしまう気持ちには変わりなく、眉を下げて心配一色な顔をする彼女に対し、妓夫太郎は何とか上体を起こして見せた。

「私がもっと早く来れてたら、ちょっとでも助けられたのに。ごめんね」
「いや、良い。置いておけねぇもんを妙なタイミングで買ってきたのはあいつだからなぁ」

互いにフォローを交わしつつも、彼の視線が手土産の箱に移った瞬間に二人は何とも言えない空気に包まれた。無論、彼女は今この状況で妓夫太郎に更に冷たいものを勧めるつもりは無かったが、どうしたって一瞬気まずい雰囲気にはなってしまう。

「・・・悪ぃ、流石にそいつは今食える気分じゃねぇなぁ」
「いやいや、それは勿論。冷凍庫、入れとくね」

恐らくは暫く見たくもないであろうカラフルな箱を抱え、はキッチンへと駆けこみ冷凍庫へ仕舞い込んだ。
知らなかったとはいえ間の悪い物を持ち込んでしまったと後悔すること数秒、素早く切り替え棚からマグカップを取り出す。お茶の準備も当然手際良く出来てしまうほどに、勝手知ったるキッチンである。
彼が寒さに震えるならば、温めなくては。ケトルのスイッチを入れる彼女の表情はどこか生き生きとしていた。

「今あったかいお茶準備してるから、お湯が沸くまでもう少しだけ頑張ってね」
「・・・おぉ、助かる」

多少は調子を持ち直し始めた妓夫太郎の様子に、は安堵した様に微笑み隣へと座り込んだ。入室時の衝撃でそれどころでは無かったが、ふと今になり滲む汗をそのままにしていたことに気付く。急ぎハンカチで額を拭う彼女はまさしく真夏の光景そのもので、妓夫太郎は正しい季節感の恋人を横目に小さく呟いた。

「外、暑そうだなぁ」
「うん、お日様絶好調って感じ。参っちゃうよねぇ」

火照った頬を緩め、は気の抜けた様な笑みを浮かべる。
口の中の冷たさや頭痛を通り越した悪寒に苦しめられている妓夫太郎と隣り合うと、二人はまるで違う季節を生きているかの如く違和感に阻まれ、それが少々可笑しかった。

「寒いの、代わってあげたいくらい」
「それはこっちの台詞なんだよなぁ」
「ふふ。半分ずつに出来たら丁度良いのにね」

半分ずつに、出来たなら。
暑さと寒さを、分け合えたなら。

何の気無しに呟いた言の葉が、不思議と互いの耳に深く根付く。
穏やかな談笑から一変、不意に二人は口を閉ざした。
何故かはわからない。確証も無い。ただ、今相手も同じことを考えているのではないかと、強くそう感じる。
互いに互いの唇への視線を感じ合うなど、滅多に無いことだ。

「・・・あの、ね」

妙な緊張感に唾を飲んだのは、どちらだったのか。先にはっと我に返ったのは、の方だった。

「ううん、やっぱり何でも無い」
「・・・おい」
「お湯が沸いたらそれで解決」

外気の暑さとは違った意味で頬を熱くし、慌てて俯き折り畳んだハンカチで顔を扇ぐ。
浅くも深くも、数えきれないほどに覚えのある行為の筈が、今は酷くいけない思いつきに思えて仕方が無い。妓夫太郎は季節外れの寒さに苦しんでいるのだ。何を考えているのか。
そうしてキッチンへ逃げ戻ろうとしたところ手首を掴まれ、ぎくりと肩を揺らす。痛くは無いが振り解けもしない、絶妙な力加減ではその場に引き留められてしまった。

「・・・勝手に一人で解決するなよなぁ」

梅と同じ、美しい青い瞳に射抜かれては何も言えなくなってしまう。
否、逆だろうか。ふとそんな考えがの頭を過ぎる。妓夫太郎の色を写し取った瞳が、余計に梅を愛おしく見せているのではないか。
戸惑いがちに頬に触れる若干冷えた指先とは違い、じっと見据えて離さない青はじんわりと熱を帯びている。

「・・・お前が本当に嫌なら、無理にとは言わねぇが」

嫌な筈が、無い。困った様に僅か下がった眉も、細められた瞳も、何もかも好きで堪らないのだから。

キッチンからケトルのスイッチが切れる音がする。
同時には身を乗り出し、冷え切った唇と溶け合った。





* * *





「あ。アイス減ってる」

心臓の鼓動が不自然に跳ねる音がした。
は懸命に平静を装い、先程帰宅したばかりの美少女に向けて苦笑を向ける。

「ご、ごめんね、先に二人で少し食べちゃった」
「別に良いけど。なぁによお兄ちゃん、あんなに寒そうな顔してたのにアイス食べる元気はあったのね」

心配をしたのにという呆れが半分、もう半分は大事にならずに良かったという安堵。ふたつを混ぜた得意げな笑みを浮かべ、梅はソファに掛ける兄を振り返った。

「・・・あったけぇもんがありゃあ、食えるんだよなぁ」

今無反応でいることが、どれだけ難しいことか。
こちらを見ずに静かに答える妓夫太郎に対し、は叫び出したい気持ちを抑え込むことで精一杯だった。

冷たい心地よさが熱に浸食されていく感覚が、未だに唇に、口の中に、残っている気がする。

「ふーん。まぁそれもそうね。アタシもアイスとあったかい紅茶飲みたい」
「あっ・・・うん。今淹れるから好きなアイス選んで待っててね」

世話を焼くことには慣れている。自然な流れで背を向けられることに安堵してケトルを手にした彼女は、シンクの前で固まった。
重い。一度沸かした湯を使う機会が訪れなかった為だ。

「・・・」

いつの間にか隣に移動してきた妓夫太郎が、梅のマグカップの準備をしている。
今彼の顔を見上げたら、今度こそ赤面を隠し切れなくなる確信があった。

「ふふっ、二人で準備してくれるの?美味しい紅茶にしてよね」
「・・・きっ、緊張しちゃうなぁ」

の声が遂に裏返える。
隣に立つ妓夫太郎が、声を殺して笑う気配がした。




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