願い



二部の最終局面にてあの隊士達が現れないor誘拐前に始末出来ていたら、という時間軸のその後のお話です。
事件が起きていないので三人共に記憶は完全に戻っていませんが、妓夫太郎とは思いが通じています。
『梅ちゃん』については妓夫太郎が色々考えた結果、『言えないこと』としているので、珠姫=梅の認識も繋がっていません。



遊郭が誇る奥田屋の珠姫花魁は、天女の如き美貌の持ち主である。
彼女の美しさは日の本一とも謳われるほどに人間離れしたもので、男たちは身を亡ぼす程の大金を喜び投げうってでも彼女の元へ通い詰める。この遊郭の中で奥田屋が繁盛しているのはひとえに珠姫の存在あってのことであったため、彼女の行き過ぎた傲慢も奔放さもすべてが許されていた。

多額の金を積んだ客の相手をする以外の時間を、彼女は日の当たらない最奥の部屋で過ごすことを常としている。高級な畳敷きの広い部屋の中央で、四肢を投げ出し寛ぐ彼女の姿を、店の者は誰も知らない。
ただひとり、花魁の求めるままに膝枕を与えている盲目の芸者を除いては。

「・・・珠姫様、少しお話をしてもよろしいでしょうか」
「なぁによ」

額を優しく撫でられる感覚に、微睡む様な心地で弛緩しきっていた珠姫の目が開いた。という名の芸者は、とある春の夜に珠姫が見初めて以来強引に抱え込んだ女性であったが、あれから月日が随分と経った今も尚彼女の一番のお気に入りだ。良い意味で所有物であることを弁えているは、主である珠姫に対し絶対服従の姿勢を貫いている上、決して自ら意見をしない。

「実は・・・ひとつ、お願いがございます」

そんな彼女が発した“お願い”という珍しい一言に、珠姫はおやと美しい瞳を瞬いた。の方からこの様な話を切り出すなど、滅多に無いことだ。

「珍しいじゃない。言ってご覧なさいよ」

珠姫花魁の正体は美しい鬼である。
鬼の身でありながら、人間であるを飼っている。

人間であった頃の斑な記憶、そして度々見る白昼夢の中からこの世に移された存在が彼女だ。これは鬼の始祖たる男からも特別に許された、運命の様な絆だと珠姫は信じていた。寿命が尽きるその日まで大切に扱うことを決めている、ただひとりの愛しく弱い人間。そんなの願いなら、どんなに手間と金がかかろうと叶えてみせよう。そうして微笑む主君を見えない目で見降ろし、はおずおずと口を開いた。


* * *



妓夫太郎は日中、妹と身体を分離しながらも彼女たちの傍を離れない。大抵は妹の部屋の屋根裏に潜むことを常としているため、二人の会話は筒抜けに等しい。
よっての“お願い”については、確かに事前に知っていたのだけれど。

「・・・お前なぁ」

夜に彼女の部屋を訪れた際、実際に目にすることとなった現物を前に、妓夫太郎は重苦しい溜息と共に頭を掻いた。
何故そのような声を出されるのか、まるで意味がわからないといった顔をしてが大事に持っている紙。

薄い紙に挟まれた“押し花”である。

事の発端は、とある上客が珠姫宛にと豪華な花を献上したことにあった。
当の本人は表向き喜びつつも、切花などすぐに萎れて醜くなる塵だと顔を顰めていたものだったが、の反応は違った。見えない目にはその香りが特別魅力的な贈り物に感じられたらしく、その夜は如何にその花の贈り物が素敵なものであったのかという熱弁で埋め尽くされたほどだった。

無論、妓夫太郎には花の良さなど理解出来る筈も無ければ、そうした花をどこで調達出来るのかもわかりはしない。しかし、良い香りの花は素敵だと目を細めて笑うの顔が頭を離れず、不意に目に付いた木に咲く黄色い花をほんの一握り気紛れに摘んだ。それをの手に握らせたのが、昨日の夜の話である。

驚きに目を見開いた彼女は、それを蝋梅の香りだと言った。
恐らくは金持ちの人間が好いた女に用意するような花ではない。木に咲いていたほんの僅かな花に過ぎない。
まさかそれを、が妹の伝手で職人を頼ってまで保存しようとするなどとは、考えもしなかったのだ。

「意味のあることと無ぇことの区別くらい、つきそうなもんだろうがよぉ」

の目には見えないのだろうが、適当に摘んだ花なのだから当然形状はお世辞にも美しいとは言い難い。更に言うならば、目の見えないでも花なら一晩香りを楽しむことくらいは出来るのではないかと思い試しに差し出したまでのことだ。
乾燥させることで形式上は保存が出来ても、が重きを置く香りは一切楽しめないだろうし、そもそも目の見えない彼女がこれを手元に置いておく意味は無い筈だ。
適当に選んでしまったものが思いもよらぬ好待遇を受けていることへの気恥ずかしさも手伝い、妓夫太郎は眉間の皺を深めて頭を抱えてしまう。

「これはどう考えても・・・」
「意味は、あります」

しかし、これにはがはっきりと反論をした。
見えない目でも彼女は声と気配から妓夫太郎の位置を察知し、しっかりとそちらへ顔を向けたまま告げる。

「私にとっては、初めて殿方から贈られた花です」

あれを果たして贈り物と呼べるのか。逆に、あれを“初めて“にしてしまったことは失敗だったのではないか。様々な思いから顔を顰める妓夫太郎であったが、の声は淀みない。

「それに、妓夫太郎くんが私に下さったものを、取っておきたいと思う気持ちに・・・意味はあります」

反論をしていた少し硬い声が、ふいに柔らかくなる。は手元の押し花を愛おしむ様に胸に抱き、手探りで文机の引き出しへと大切にしまった。

「大切なひとからの贈り物は・・・例えこの目には見えなくとも、ずっと大事にしたいです」

両手がようやく空いたことで、膝に手を置いたの笑顔を正面から受け止めることとなり、妓夫太郎は何とも言えない気持ちに苛まれる。

到底贈り物とは呼べないような花を、は大事にしたいと言う。例え目に見えなくとも、例えその香りをもう感じられなくとも、妓夫太郎から貰ったものを大切にしたいと彼女は笑って告げる。
嬉しい反面、こんなにも眩しい彼女が狭い世界にしか生きることを許されない現実が、時折不憫に思えて仕方が無い。

「お前は、窮屈じゃねぇのか」
「・・・私は、珠姫様の所有物ですので」
「ろくに外にも出られねぇ、花の一輪も満足に摘むことも叶わねぇ生活に、嫌気が差すことは無ぇのかって聞いてんだ」

一瞬、何を言われているのかと目を丸くしていたであったが、その瞳はすぐに柔らかく緩められた。
正座をしたまま畳を擦る様に前進し、探る様に手を伸ばされれば迎える手を差し出すことも随分と慣れたものだ。

「私を案じて下さる妓夫太郎くんは、優しいです」

手を握られたことで安堵した様に緩むの笑顔は、紛れも無い喜びに満ちていた。

「珠姫様は私をお守り下さっているのです。この目で外に出れば、何かと問題も多いですから」

店の者を供に付けて外出させた際、危うく命に関わる大事故に巻き込まれそうになって以来、兄妹は彼女を日中外へ出さないことを徹底した。店の裏手やほんの目と鼻の先の距離以上に、が外へ出歩ける機会はほぼ無いに等しい。彼女の身を守る為とは言え、籠の鳥の様な生活を強いているのではないか。
それを憂いた妓夫太郎の心中を察しているかの様に、は感謝の気持ちをもって穏やかに微笑む。

「珠姫様に買っていただいた日、例えどんなお方であろうとも誠心誠意お仕えすると心に誓いましたが・・・今となっては、こんなにも良き主君に恵まれたことに感謝の気持ちしかございません。この目でその美しさを拝めないことが残念ではありますが、わかります。あの方は、素敵な女性です」

その言葉に一切の嘘偽りが無いことを、彼女の声と瞳が物語る。妓夫太郎の手を自身の頬へと導き、その感触を心から堪能するの表情は溶けそうに甘やかなものだった。

「それに・・・ずっと夢に見ていた貴方のお傍にも居られるんです。こんなに幸せなことは無いです」

妓夫太郎が人間ではないことを、は気付いている。その目は機能しなくとも、彼が人智を超えた何者かであることを、知っている。言えないことは明かさなくて構わない。実に都合の良いこの決まりを彼女が今も受け入れているために、鬼と人間である二人はこうして触れ合うことが叶っているのだ。

は弱く儚い人間の身で、異形の存在である妓夫太郎の傍にいられる今を幸せだと告げる。温かな何かが心の奥底へ染み入る様な感覚に、妓夫太郎は堪らずその華奢な身体を正面から抱き寄せた。

「・・・悪かったなぁ」
「え・・・?」
「試すようなことを、言っちまった」

の匂い、すっぽりと腕に収まる細身に触れる感覚、優しい声。
何もかも、今更手放せない程に大切だと言うのに。

「お前が窮屈を理由にいなくなっちまったら・・・困るのは、俺の方なのになぁ」

彼女を閉じ込めている罪悪感から許されたいという思いで、妙なことを口走ってしまった。
ほんの僅かでも力加減を誤れば壊れてしまう、脆い人間の身体を大切に包み込む今が、かけがえのない時間に思えて仕方が無い。食糧である筈の人間をこの様に囲うなど、鬼としては間違いなく異質なことだ。しかしを想うこの気持ちはどうにも出来ない。

満ち足りると同時に、酷く恐ろしい。失いたくない。何を犠牲にしてでも、失えない。

「傍にいます」

心の声が漏れたのではないかと、妓夫太郎が目を見張る。の声は柔らかく甘やかで、その細い腕が遠慮がちに妓夫太郎の背中へと回った。はっきりとわかるであろう骨の浮き出た背に触れて尚、は慈しむ様な声色を隠さない。

「私はこれから先もずっと、珠姫様の所有物です。妓夫太郎くんがこの部屋を訪れて下さる限り、ずっと傍にいます」

優しい声が、欲しい言葉をくれる。血の通った温かなぬくもりが、不安を包み込んでくれる。鬼より遥かに弱い筈の人間に守られている様な感覚に、妓夫太郎は堪らず細く息を漏らした。敵わない。もう彼女からの肯定の言葉無しには、生きてはいけない。
抱き寄せる腕をそのままに身を捩り、二人の顔が近付く。

すると今宵は珍しく、の方から僅かに唇を避ける様な仕草をした。

「・・・嫌か?」

掠れる声で問われたことに関して、がふるふると弱く首を横に振る。

「あの、妓夫太郎くん・・・お願いが」

何も映すことの無い黒い瞳が頼りなく彷徨い、口籠る。の方から願いを口にすることは、相手が珠姫であれ妓夫太郎であれ珍しいことだ。彼女の望みなら何だって叶えたい。
先を促す様に妓夫太郎の指先に頬を撫でられ、の表情が緩んだ。

「・・・名前を、呼んでください」

一体何を言い出すかと思えば。想像もしていなかった容易い願いに、妓夫太郎が目を丸くする。しかし確かに、言われてみれば今宵はその名を口にしていなかったことも事実だ。

「妓夫太郎くんに呼んで貰えたらそれだけで、自分の名前が特別な響きに聞こえて・・・」








『私も、妓夫太郎くんが名前を呼んでくれる度に・・・自分の名前が、好きになれた。あっても無くても変わらないって思ってた自分の名前が、特別に思えたの』








脳裏に、鮮明な映像が流れ込む。
未だはっきりと思い出せはしない、人間だった頃の斑な記憶の断片。
ああ、きっと同じ様なことを過去にも言われているのだと、今の妓夫太郎は理解が出来た。

「駄目、ですか?」

その名を口にすることで救われるのは、妓夫太郎の方だと言うのに。

「・・・

彼女はいつだって、満開の笑顔を咲かせるものだから。
言葉では表現しきれないほどの多幸感に、唇よりも先に二人の額が合わさった。
誰より近くに、いつまでもこうしていたい。

鬼と人間の一夜が、今宵も緩やかに更けて行く。

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