なりたい自分になる為に
―――参った。
妓夫太郎は心底居た堪れない思いで溜息を吐き出した。全身泥塗れ傷だらけ、打ち身は酷く流血を伴う怪我もあったが、そんなことは最早どうでも良かった。
「・・・っ」
悲鳴を飲み込む様な息遣いに、ぎくりと緊張が走る。常であれば穏やかである筈の幼馴染とのひとときを、こんなにも苦行に感じることはそうそう無い。
崩した胡座へ伏せていた視線をそろりと上げた、その刹那。正面に座る
の瞳から涙が零れ落ちる瞬間を目の当たりにし、妓夫太郎は内臓が締め付けられる程の罪悪感に駆られるやら、その透明な美しさに瞬間時を忘れた己を殴り飛ばしてやりたい思いに支配されるやら、酷い困惑で自分自身を呪った。
遊郭最下層の街に、奉行所から遣わされたという謎の優男が現れ少し経つ。顔が良く地位も力もある上、口が異様に達者なその男に丸め込まれ、治安が良いとは言えない一帯の見回りに連れ回され早数日。成り行きで支払いを渋り暴れる輩を叩きのめし、己が体格の割には荒事に向いていると気付き始め、更に数日。取り立てとして仕事に出来たら一人前だ、というもっともらしい言葉に、胸が騒ついたのが昨日の出来事だったのだ。
そして今日、妓夫太郎は見事な返り討ちに遭い、酷くみっともない有様で
のもとへ帰還することとなり話は冒頭へと繋がる。
ここは幼馴染の作業場であり、昼間は小規模ながら商売も始めたばかりの大事な場所だ。これ程汚れ切った姿で足を踏み入れること自体が卑屈な思いを駆り立てるというのに、
に手当をさせ、更には泣かせてしまうとは何たる体たらくか。妓夫太郎の内側で自己嫌悪がどす黒く渦を巻いた。
は妓夫太郎の患部から丁寧に泥を拭い、青痣や傷口が下から現れる度に悲しげに目を見張り涙を浮かべるのだ。またひとつ、堪え切れず零れ落ちたひと雫を腕で拭い、彼女が俯く。
「ごめん、ごめんね。痛いのも辛いのも、妓夫太郎くんだよね」
「・・・」
が心を痛めることではない。いちいち気にしなくても構わない。荒事なのだから、流血沙汰は仕方のないこと―――と言いかけ、踏み止まる。
これはあくまで取り立てなのだ。相手を痛めつけることはあっても、逆に痛めつけられるようでは話にならない。
『筋は悪くないんだけどねぇ。いいかい、きちんと仕事として任せて貰えるようになるには、店側から信頼して貰う必要があるんだよ。君なら強いから不届きな客から支払いを回収出来る。荒事を任せても安心だ、ってね。今みたいに返り討ちに遭うようじゃ、依頼する側の店だって不安に感じてしまうだろう。まだまだもっと頑張らないと。ふふ。誰の為に、とは言わないでおいてあげようねぇ』
そう、つい先程も妓夫太郎の失態を帳消しにすべく立ち回り華麗に大男を抑え込んだ優男から、そうして痛い所を突かれたばかりなのだ。殴っても殴り返されるな。組み伏せても組み伏せられるな。頭ではわかっていても、情けない現状が己の経験値の無さを物語る。
またひとつ、
が新たな傷に眉を顰める光景を前に、妓夫太郎は堪らず目を逸らした。痛みなど別段大したことは無い。それよりも、この怪我をまるで自分のことの様に痛みをもって受け止める
の姿が、余程辛かった。
「妓夫太郎くん。本当に、これをお仕事にするの・・・?」
「・・・これ以上無い程うってつけだろうが」
遊郭という美醜が絶対条件の街に生まれ、物心つくより前から蔑まれ嘲笑われ、散々な目に遭って来た。そして漸く見えて来た活路が、取り立てという荒事だった。
枯れ枝の様な身でも、ひとより強い。何とも思わない連中を殴ることに、抵抗など無い―――尤も、ひとつ拳を振り上げる度に、暴力を好まないであろう優しい幼馴染の顔が脳裏にちらつき、何とも言えない苦い思いに歯を食い縛っていることなど、本人には言える筈も無いことだけれど。
何にしても、醜く生まれ忌み嫌われている己にはこれ以外に生きる術が無い。たとえ
が何と言おうとも、この街で生き抜くにはこれしか方法が無いのだ。そうして毅然と言い返そうとした傍からまた
の瞳が潤み始め、妓夫太郎の決意は容易く挫けるのだった。
駄目だ。この涙を前にして、何かを無理に押し通せる気が一切しない。
「・・・妓夫太郎くんがよく考えて決めたこと、否定したくない」
は常日頃から妓夫太郎を尊重していた。頭ごなしに何かを否定されたことも無ければ、無学なことを笑われたことも一度として無い。例え考え方が食い違ったとしても、まずは妓夫太郎の思いを汲み取ろうとしたり、わからないなりにも話を聞き理解を示そうとする。そんな性分である筈の
が、こうまで不安な顔をして引き留めようとしているのだ。妓夫太郎とて、響かない筈は無い。
「でも私、妓夫太郎くんが痛い思いするのは・・・嫌だよ」
の思いやりと優しさが沁みる。それがわかっているからこそ、もどかしい思いで心が張り裂けそうになる。妓夫太郎は深く溜息を吐いた。
過ぎ去りし雪の夜、この幼馴染が得体の知れない男達に嬲られそうになる現場を目撃した。頭に血が昇る様な怒りも、目の前が色を変える程の憎しみも、身の毛がよだつ光景も、焼き印の如く刻まれて頭から離れそうにない。
なのに、結果として
を救ったのは妓夫太郎ではなかった。大人達の手の上で転がされ、すべては陽動作戦だったことを知らされて尚、
を危険に晒したことへの激昂すら容易く抑え込まれてしまった。
『君はとても勇敢だ、それは誇って良い。でも、大事な子を守るにはまだまだ力も経験も足りない』
もう、御免だと感じたのだ。
が危険に晒されることも、大事な時に
を守れない自分自身も、何もかも。
荒事ではあるものの、取り立てであればそこそこの適性はありそうだと自覚がある。今回の様に手痛い失態はあれど、そう簡単には繰り返すまいと誓える。生きる為には、そして
や梅を守る為には、もっと強く在らなければならない。
しかしながら、沈んだ顔で涙に暮れる
を前にすると、どうしたって焦燥に駆られてしまう。貧しさを極めた最底辺の生活の中、兄妹ふたりで生きる希望を持てるのはこの幼馴染がいるからこそだ。ひとを信じることも、感謝することも、悲しみに寄り添うことも、すべて彼女が教えてくれたことだ。
の為なら何でもしたい。
が笑ってくれる、その為なら―――
「・・・お前の薬は、よく効くんだよなぁ」
苦肉の策だった。しかし辛うじて絞り出したその案に、
は目を瞬き顔を上げてくれる。それだけのことで安堵に肩の力が抜ける、そんな自分自身に対して妓夫太郎は苦笑を浮かべた。
「俺が血塗れのひでぇ恰好で帰ったら、梅は混乱して泣き出すだろうしなぁ」
事実、
の煎じる薬はどれも質が良かった。それは出会った当初から、それこそ互いの名前も知らない頃から彼女の世話焼き気質により身に染みてわかっていたことであるし、最近は
の噂を聞きつけて遊郭の外から相談にやって来る客もいる程だ。
の薬は効きが良い。妓夫太郎は荒事しか仕事に出来ない。梅の為にもなるべく身綺麗で家に帰る必要がある。幼馴染に全面的に甘える形にはなってしまうが、協力を願い出ることで妓夫太郎自身も一層負けられないという自戒の意識が高まるだろう。
「・・・お前の迷惑じゃねぇなら、帰りに」
「任せてくれるの?」
帰りに寄らせて貰えたら助かる。その言葉を最後まで待つことなく、
は目を丸くしてポツリと呟いた。
「私に・・・妓夫太郎くんのお世話、任せてくれるの?」
相変わらず涙の膜が決壊しそうな瞳で、もともと下がりがちの眉を更に下げて。それでも小さな期待と、紛れも無い友愛をもってこちらを見つめる
の表情が―――どんな強がりも意味を無くす程の、心の芯から溶かしてしまう力を持っているのだ。妓夫太郎は溜息交じりに眉を下げ、口端を緩く上げる。
「・・・お前以外に誰が信用できるってんだ、ばぁか」
の目が感情の波に揺れ、輝く。その口元が小さく窄められたかと思えば、じわじわと何かを噛み締めるかのように和らいでいく。
「―――嬉しい」
何故、そのような顔をするのか。至福の喜びを得たような、最高に価値のあるものを授かったような、途方も無い幸福を噛み締めるような。そんな顔を、幼馴染が自分だけに向ける。
の笑顔が、自分だけに開かれる。まるで自分自身が特別な存在であるかのような眩しい錯覚を、妓夫太郎は下唇を噛むことで精一杯に否定した。
「わかった。心配な気持ちは変わらないけど・・・私に任せて貰えるなら、必ず役に立てるように頑張るから」
「・・・別に。そこまで気負う必要は無ぇからなぁ」
「ううん、頑張りたいの」
危険と隣り合わせの妓夫太郎の決断に対して、諸手を上げて賛成も応援も出来ない、それでも納得をして励むと決意に燃える顔をしていた。
らしいと言えば
らしいが、そう気負うことも無いだろうと息をつく妓夫太郎の汚れた手を、彼女の綺麗な手が掴む。ひゅっと音を立てて肺が縮んだ気がした。
「妓夫太郎くんが怪我してもすぐ治せるように、もっともっと薬草のこと勉強する。妓夫太郎くんが信じてくれたことにちゃんと応えられるように、沢山頑張るから・・・」
は妓夫太郎に触れることを一切躊躇わない。元より痣だらけの汚い手に嫌な顔をすること無く、温かく触れる。わかっていても狼狽えてしまう妓夫太郎の前で、
の黒い瞳が輝く。真剣そのものな剣幕に、瞬間空気が静まり返る。
「だから・・・ちゃんと帰って来て」
それは、この上無く優しい懇願だった。心配しながらも妓夫太郎の決めたことを尊重し、信頼に応えようと真摯に燃える
からの、切なる願い。それを向けて貰える程の価値が己にあるとは思えないながらも、こうして向き合った時の底知れぬ喜びを、妓夫太郎は既に身をもって知ってしまっている。
「・・・当たり前なんだよなぁ」
「っ・・・うん!約束ね!」
が嬉しそうに笑ってくれる。たとえ己の価値を計れなくとも、それだけで良い。
込み上げる笑みに涙を拭いながら、自身の頬を軽く叩くことで気合いを入れ直すその健気さに心臓のむず痒さを覚える。凛々しく切り替えた表情で薬棚に手を伸ばす、その意識の高さを素直に感心する。同じ遊郭の生まれであっても本来なら到底縁など無かっただろう優れた
と、幼馴染という間柄を築けている今を―――荒んだ環境の中に咲いた一輪の小さな花のように、大切に守りたいと、心の底からそう願う。
泥を丁寧に拭われた大きめの傷口が、そっと薬で覆われていく。痛みなど微塵も感じない。
が真剣な表情で手当てにあたってくれる、それだけで胸の奥が温かくなる。
「・・・
」
「・・・なぁに?」
大事なものを守れるようになりたい。
「・・・何でもねぇ」
それは、彼女を前にしてはなかなか口に出来ない本音だけれど。
「ふふ。そっか」
優しく微笑む
の声が、内に秘めた思いすら肯定してくれるような気がする。願いだけでは終わらせない。大事なものを己の力で守れる男になるのだと、妓夫太郎は決意を新たにした。