小暑、縁側にて



じりじりと陽光が照りつける日盛り、梅は上機嫌に家路を辿る。長く美しい髪はこの暑さにすっかり纏め上げられ、頂でちょこんと団子の形を成していた。
貢ぎ物欲しさとはいえ、忌み嫌っていた街の人間相手に美貌と愛想を振り撒く必要がなくなり、少し経つ。汗で貼り付いた前髪を雑に避け額を丸出しにしても、走り回って頭上の団子が歪に崩れても、転居先の町民達は変わらず朗らかな挨拶をくれる。
草臥れるばかりの芸事稽古からも、独特の匂いが好きではなかった白粉からも、すっかり縁遠くなった。将来有望な遊女見習いではなく、他の子ども達と同列のただの梅として扱って貰える今が、こんなにも嬉しくて堪らない。自然にきゅっと上がってしまう口角を無理に引き下げ、梅は不意に自問自答した。普通の扱いは歓迎だが、子ども扱いは如何なものだろう。十四歳とは立派な年頃ではないだろうか。そんな胸中など知る由もなく、暖簾をくぐり近所の女が顔を出した。

「梅ちゃん、寺子屋の帰りかい?」
「そうよ」
「暑い中感心だねぇ。ほら、ちょっと足出してみな」
「きゃっ!」

女の柄杓から水が放たれ、梅のすぐ傍の地面を勢いよく濡らした。小さな水飛沫が足元に跳ね返り、暑さに火照る肌へひやりと触れる。それは、もう―――

「・・・っおばさん!もう一回!」
「はは、良いよ。それ」
「きゃあっ!冷たぁい!」

―――子ども扱いは御免という強がりを取っ払ってしまえるほどに、心地の良い冷たさ。梅の楽しげな笑い声が響き渡り、辺りの町民たちは揃ってにこやかな笑みを浮かべた。



* * *



打ち水で涼を楽しみ鼻唄混じりに帰宅した梅は、開口一番に今日の出来事を捲し立てようと息を吸い込んだものだが、思わぬ指示に目を丸くした。

「・・・」

こちらを背に縁側で座り込む兄が、振り返り様に人差し指を口許に当て静粛を求めている。何事かと怪訝な顔で近付けば思いの外長閑な光景が待っており、梅は蕩けんばかりに頬を緩めた。

「・・・なぁに。可愛過ぎるんだけど」

妓夫太郎の腿を枕に眠っているのは、義理の姉となっただった。仰向けに転がり僅か口を開けて、微かな寝息を立てている。囁きひとつでは飽き足らずつんと指先で頬に触れる、柔らかで愛おしい感触に梅は肩を揺らして笑った。
梅が物心つくより早く、それこそ赤子の頃からはすぐ傍で惜しみ無い愛をくれる存在だ。甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる上、賢く万能を常とする中、この様に気の抜けきった姿はあまり馴染みが無く新鮮だ。無論、どんな姿も愛おしい義姉に変わりはないのだけれど。

「お姉ちゃんがこんなにぐっすりお昼寝だなんて、珍しいわね」
「・・・よっぽど疲れてるんだろうなぁ」

眠りを妨げないよう一段階落とした声に、更に輪をかけて微量の囁きが返って来た。妻の午睡を見下ろす妓夫太郎の表情は堪らなく優しい。ふたりが並んだ時の温かな雰囲気は、昔から梅にとって最良の眺めであったが、最近は一層それを強く感じる。
一頻りにんまりと口端を上げた末、梅はこの縁側の居心地の良さに改めて気付いたかのように顔を上げた。日差しを遮る心強い簾が、このところ厳しくなってきた暑さを存分に和らげてくれている。聳え立つような大きさの簾は、昨日近所の大工が厚意で譲ってくれた中古品であった。

「いきなり大活躍ね。立派な簾、持ってきて貰えて丁度良かったんじゃない?」
「おぉ。涼しくて良いなんて感心してる傍からうとうとし始めてなぁ」

新生活を送る平屋の表で、は薬草調合の仕事を請け負い忙しくしている。完全に自宅と一体型故に店としての開け閉めの時間は融通が利く様で、日雇い用心棒の妓夫太郎が早く戻った際には、臨機応変に早仕舞いをしてふたりの時間を楽しむ日もある様だった。
今日もその様にふたりして、簾の取り付けられた縁側の快適さにまったりしている内こうなったのだろう。苛烈な陽射しからは守られ、誂えたような風鈴の音が夏の風に乗り優しく転がる。ふたりの様子を察するには容易かった。
噛み殺しきれなかった欠伸、肩を竦めながら叩かれた胡座の膝。気恥ずかしさと眠気との葛藤の末甘える様にこてんと横になるに、家族以外には見せない穏やかな苦笑で応える兄の姿を思い浮かべる。それだけで、梅の胸中は小さな光が煌めくようにときめいた。

「帰って来て早々、話も聞いてやれねぇで悪かったなぁ」
「え?」

意識を引き戻されると共に待ち受ける兄の瞳は、普段通り優しい。

「今日はどうだった。ま、嫌なことがあったような顔には見えねぇけどなぁ」

眠るを起こさぬよう、相変わらず声は落としたままに。しかし聞き役の務めも果たそうと妓夫太郎が先を促してくれる。身体中が嬉しさで満たされるような、どれひとつ取っても良いことしか無い今日をどこから報告すべきか迷ってしまうような。柔らかな忙しさで頭を働かせながら、梅はあのねと前のめりに距離を詰めた。

「帰りにね、そこのおばさんに打ち水して貰って、足元がひんやりして楽しかった。それから今日も先生から面白いことを教わったわ」

これまでと違い、この町では美貌が絶対的な免罪符になり得ない。しかし知らないことだらけの梅を、寺子屋の面々は馬鹿にすることも笑うこともしない。ならば成すべきは、学ぶ姿勢を正すことだ。遊郭の外に出た後、己に何が出来るのか不安だと俯いたあの日、共に学びながらその道を探ろうと言って貰えたことを梅は忘れない。



『大丈夫です。梅殿の未来には、素晴らしい可能性が沢山広がっていますから』



あの時も今も変わらず、穏やかな声でそう言って貰えるに相応しい自分で在りたい。その一心で文字の読み書きから始め、日々齎される様々な“はじめて”を、全ては対処しきれないなりに噛み砕き自分のものにしていく。寺子屋の跡継ぎによる講義内容は多岐に渡った。外の世界は、確かに梅の知らないことで満ちている。それゆえ、帰宅後には家族であるふたりにそれを報告することが、梅の日課となっていた。

「お兄ちゃん知ってる?一年は春とか夏とかの四個よりもっと細かくて、二十四個に分けられてるんだって」
「そりゃあ、初めて聞くなぁ」
「二十個以上だなんてびっくりよね。小さく区切り過ぎじゃないかって思ったけど、その分意識すれば季節をもっと楽しめるようになるって言われたら、確かにそうかもって。今日は夏の中で最後からふたつめ。小さい暑さって書いて、しょうしょ、なんですって。一年で一番暑くなる時期の前触れで、今の内にしっかり体力をつけて夏を乗り切らなくちゃって先生が・・・」

冬が来れば寒さに凍える。夏が来れば暑さに苦しむ。そうした負の時間経過を、名前を付け細かく区切ることで深く味わおうだなどと、昔ならば相手にもしなかったであろう講釈。それを懸命に頭の中で組み立て直し、兄にも伝わるよう言葉にすることはなかなか難しいと同時に、どこか楽しくて。指先で宙をなぞるように動かしながら言葉を紡ぐ、その刹那。不意に、こちらを見つめる青い瞳の優しさに触れ、梅は小首を傾げた。

「お兄ちゃん?」
「寺子屋は、楽しいかぁ?」

大きな目を瞬く。答えはとうに決まり切っていた。

「うん。すっごく」
「そうかぁ。偉いなぁ、お前は」

伸ばされた大きな手に頭を撫でられ、思うこと。一年を二十四個にも分け、ひとつひとつの名を学び、流れる季節を愛おしく感じながら暮らす。果たして己に何が出来るかは模索中ながら、他の子ども達の輪に入り日々新しいことを学び、家では大好きな兄と大切なが帰りを待ってくれている。誰も兄を悪く言わない。街中で堂々と三人手を繋いで歩いたとて、誰からも眉を顰められない。好きなことを、好きに満喫して生きている。幸せで幸せで堪らない生活を送っている。それでもなお、この優しく大きな手は昔から変わることなく梅を褒めることをやめないのだ。それが嬉しいやら、くすぐったいやら。心の栓が緩むような心地に、梅は思わず苦笑を浮かべてしまう。
そんな時だった。

「・・・うめ、ちゃん」

か細い声が下から聞こえ、兄妹はぎくりと肩を強張らせる。声は出来る限り抑えていたつもりが、遂に眠りを妨げてしまっただろうかと。恐る恐る視線を降ろした先に待つの口許は穏やかに綻んでいたが、しかしその瞼はしっかりと閉ざされたままだ。

「えらい・・・ねぇ」

普段通りの微笑み、普段通りの優しい声。それらの余韻を残し、静まり返った縁側に再び微かな寝息が聞こえ始める。二対の青い瞳は注意深く渦中の人物を見下ろし、やや間を置いた末に顔を見合わせ、そして同時に緩く破顔した。

「・・・寝言だなぁ」
「っふふ・・・もう、お姉ちゃんったら」

一体どんな夢を見ているのやら。幸せそうな寝顔を晒す愛しい家族に、二人して頬の緩みが止まらない。の前髪に触れるか触れないかの境界を妓夫太郎の指先がなぞり、風鈴がまたひとつ優しい音を立てた。

「梅、悪ぃんだが奥に布団敷いて貰えるかぁ?」
「どうして?」
「こんな寝心地の悪ぃ枕なんかより、真っ当な布団で寝かしてやりてぇじゃねぇか」

支度さえ整えて貰えたならばすぐさま抱いて連れて行く、と。至極真っ当な顔をして妻の安眠を守ろうとする兄の思いを、梅は渋い顔で否定した。

「・・・お兄ちゃんは女心を全然わかってない」
「あぁ?」
「別にお姉ちゃんは、ふかふかのお布団で、ひとりでお昼寝をしたい訳じゃないと思うわ」

が横たわった瞬間に居合わせなくとも、それくらいは梅にも理解出来る。

「縁側で日差しを避けて、風鈴の音を聞きながら、大好きなお兄ちゃんの膝を枕に安心して寝転んで」
「・・・」
「それがお姉ちゃんにとって、夏の・・・あ、違った。小暑の一番素敵な楽しみ方なのよね、きっと」

一年で最も暑くなる時期を前に、我が家の縁側で夏の風を感じながら、人生の伴侶に膝を借りて眠りに落ちていくの胸中が、いかに満ち足りていたか。一言一句、比較的ゆっくりと話した分だけ妓夫太郎は気圧された様に目を逸らす。今このとき何が一番大事か、という議論に於いては勝ちを確認し、梅が得意げに笑って見せた。

「それにお兄ちゃんの膝枕は、お兄ちゃんが考えてるよりずっと寝心地良いんだから。アタシがよぉく知ってるわ」
「・・・んなこと言われてもなぁ」
「いつも頑張ってるお姉ちゃんを休ませてあげたいんでしょ。今は大人しく枕になることがお兄ちゃんのお仕事よ」

さて、それでは今自分に出来ることとは何か。甘えるばかりではいなくなった証に、梅は胸をはり腰に手を当てた。

「アタシ、ご飯の買い物行ってくる。そうしたら今日はお姉ちゃん、何もしなくて良いでしょ」
「お前、ひとりで大丈夫かぁ?」
「平気よ。お店のおばさん達、きっとアタシでも作れる献立相談に乗ってくれる筈だわ。皆良いひとよ、アタシ仲いいんだから。あ、薬屋のおばあちゃんのところにも寄ってみようかしら」

の為の突発的な計画はすらすらと淀みない。あれもこれも、駄目ならまた別の案が頭の中で列をなす。あまりに自信たっぷりな梅の様子に、妓夫太郎が瞬間目を丸くした末に眉を下げて苦笑した。

「・・・随分とまぁ、馴染んだなぁ」
「そうよ。アタシ、この町が大好きだもん。お兄ちゃんもそうでしょ?」

まるで思案の間を必要としない即答だった。我が家とその町を好きだと胸をはって言える日が来るなどとは、昔は考えもしなかったものだけれど。今、梅は心身ともに健やかな毎日を送っている。の夢がいつしか皆の夢となり、年月をかけて実を結んだ結果だ。

「・・・否定はしねぇけどなぁ」
「そうでしょ」
「鬱陶しいお節介連中が多過ぎんだよなぁ」
「ふふ。意地はらないの」

素直ではない反応を笑いながら一蹴し、梅は立ち上がりかけた動きを止める。すやすやと寝息を立てる愛する家族の傍へ、一歩二歩、四つん這いのまま近付いた。

「行ってきます。沢山良い夢を見てね、お姉ちゃん」

柔らかな頬に、囁くような口付けを贈る。の口許が心地良さそうに弧を描くものだから、兄妹は顔を見合わせそっと笑いあった。


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