Nの旅路



外はよく晴れていた。
張り出した白いウッドデッキで洗濯物を干す華奢な背を、部屋の中からぼんやりと眺める。のんびりとした穏やかなひとときが心地良い。
XXXX年六月六日、梅雨の気配はまだ遠かった。

風の悪戯でばさりとひと煽り、見事に真正面から顔に張り付いてきたシーツを引き剥がし、が気恥ずかしそうな顔をしてこちらを振り返る。上気した頬、陽の光がよく似合う健康的な顔色、好意を隠すことの無い真っ直ぐな笑顔。どれひとつ取っても、人間である彼女の尊い部分に他ならない。
肩を竦めながら苦笑を返す。が一仕事を終えて戻った時に備え、飲み物を準備するのが己の仕事である。冷蔵庫には、彼女が口にする物しか入っていない。吟味はほんの数秒、アイスティーの瓶を取り出した。

小振りな邸は街外れにひっそりと佇んでいた。家主は他者との関わりを嫌い素性の知れない男だが、夜間に時折人の出入りはあるらしく、やれ高名な芸術家だの、やれ怪しい製薬会社の取締だの、根拠のない噂は絶え間無く。しかし実態は霧の中である筈の隔離された世界に、鬼と人間が仲睦まじく暮らしているだなどと、誰が考え至るだろうか。

ひと仕事を終えて空調の効いた屋内に戻ったが、火照った頬に冷たいグラスを押し付け心地良さそうに笑う。氷で冷えた水分を喉に流し込み、極楽といった様子で宙を仰いだ。

「はぁー。美味しい、生き返る」
「あんま無理すんなよなぁ。時間を選びさえすりゃあ俺も出来ることなんだからよぉ」

日の出前に干し物を終え、日没後に引き上げる。認識阻害を会得する前までの間、人間の暮らしを装う為に繰り返していたことだ。代謝も何もかも人間とは違う、鬼の暮らしには不要な営み。それでもは多くを問わず、優しく微笑み返すばかりだ。

「私がしたくてしてることだから平気だよ」
「・・・そうかよ」
「心配してくれてありがとうね」

ほんの些細なことで彼女は腕を伸ばし、その身に触れてくる。形ばかりの薄いシャツを纏った両腕で、当然の流れのように温かな体温を抱き留めた。
歪な身体形状を成していたのはもう随分と遠い昔のことだ。人間と同じ姿形、陽の光の下にさえ出なければ不自然なことなど何も無い外見。輸血用の血液しか口に出来ないことを除けば、異形の者とは縁遠い。すべて、の傍にいる為に必要なことだ。

「ね、妓夫太郎くん」
「この前の話なら、決着はついた筈だけどなぁ」
「まだ何も言ってないのに」

口調は普段通り柔らかい。しかし声の根本が少々固く、何かを打ち明けようとしていることはすぐさま察せた。
そしてそれが、最近が固執し始めた叶わぬ願いであることも、容易に想像がつく。

「私、愈史郎さんに会いに行ってみようかなと思って」
「・・・あぁ?」

しかし、これには流石に驚きを隠せない。
発想のあまりの突飛さで瞬間遅れを取り、ふたりを取り巻く空気が変わった。



* * *



気が遠くなるほどの昔、何が起きたのか何ひとつ理解が追い付かぬまま、己だけが命を繋ぎ、始祖の支配から外れた。
半身たる妹を喪い茫然自失となっている間に鬼と人間の争いは終結し、それでも尚滅びぬ身に絶望する中現れたのが愈史郎だった。
人間を害さず密やかに生きていくことを誓えるのなら、同じ境遇の身として力を貸すと。
大切な妹を守れず、何故己だけがこのような姿になってまで生き延びているのか。いっそ、陽光に焼かれて妹の後を追うべきなのではないか。
同胞からの手を振り払い、最後に残された自滅の道へ歩もうとしたその時だった。

『何度でも生まれて来い、何度でもお前を見つける』

かつて己が発した約束の言葉が、足を縫い留めた。
不滅の身であるからこそ、人間として転生を繰り返すを待つことが叶う。何度でも見つけると、死を目前にした彼女に誓った。
本来であれば妹と二人で歩む筈だった道とは異なるが、とうに砕けた心が縋る先としての存在はあまりに優し過ぎた。
いつかは、可愛い妹も、きっと。
一条の光を追い求め、ひとり奈落の底から這い上がることを決めた。



* * *



「ここを見えにくくする方法も、必要な血の量を抑える調整も、愈史郎さんが教えてくれたんでしょう?」

率先した交流は無く、互いの立場もあり殺伐とした空気感ではあったものの、もうひとりの生き残りは人間社会に溶け込む術に長けていた。外見の擬態も長い年月をかけ会得したことであるが、彼の手助けがあったことも否定しきれない。認めるのは癪だが、何だかんだと面倒見の良い鬼だ。
しかし、が願う未来に結び付けるとなれば話は別となる。

「もしかしたら、私の夢を叶える方法も、教えて貰えるかもしれないから」

の笑顔は生きるよすが、そのもの。しかし、そんな希望に満ちた表情で夢と呼ぶ先が、破滅の道であって良い筈が無い。
反射の様に華奢な身を壁際へ押し込み、腕の檻で退路を断つ。

「・・・っ」
「んな悍ましいことを夢だなんて、二度と言うんじゃねぇ」

普段の様に優しさを心掛けることは出来なかった。その代償に、黒い瞳に驚きと委縮の色がありありと浮かぶ。

「悍ましくなんか、無いよ」

それでも彼女は逃げようとしないのだ。胸板を突き飛ばすことも、怯えに涙することもせず、ただ真剣な色でこちらを見上げて来る。

「私も、大好きなひとと同じ存在になりたい。そんなに、おかしいこと?」

永きに渡る歳月が、ある程度のことであれば融通の利く財力と人脈を積み上げた。の望みであれば何なりと叶えてやりたい。しかし、人間であることを捨てたいという願いばかりは受け入れられない。
重く長い溜息を吐き、ぐっと眉間に力を入れた末に打ち付けた拳から力を抜いた。大きく屈む形で柔らかな髪に手を差し込み、そっと互いの額を引き寄せる。人間特有の、そしてよく知るの優しい香りがした。

「鬼を増やせる奴はなぁ、とっくの昔に滅びてんだ」
「・・・」
「俺もあいつも、何の因果かこの世に残っちまった最後の鬼だが、人間を鬼に作り変える術は持ってねぇ」

鬼と人間は違う生き物だ。鬼の側から擬態で外見を寄せることは出来たとて、の側から壁を超えることは出来ない。そのようなことは、例え可能であってもさせられない。
最後の本音は隠し通したままに、つんとした鼻先へ小さく口付けた。こうして諭せば、こうして触れ合えば、彼女の警戒が解ける。もう身に沁みついた様に、心得ていることだ。
黒い瞳の上、やや下がり気味の眉が困った時のそれを象った。

「じゃあせめて、もっと愈史郎さんと仲良くして欲しいよ」
「冗談よせよなぁ。今の関わり方でお互い許容範囲ギリギリだろうが」

定期連絡などは取らないが、互いに異形の者として最低限の関わりは無くせず今に至る、それだけのことだ。しかし彼女は、わかっていたであろう返答にも困り顔を返す。

「でも、それじゃあ・・・」

僅かな一瞬、細い声が震えた。

「私がいなくなった後、妓夫太郎くんがひとりになっちゃう」

瞠目はほんの刹那。心の奥底に温かな灯が点るような心地に、自然と眦が下がる。
そうだ、はこういう人間なのだ。

「残される俺を、不幸だと決めつけんなよなぁ」
「妓夫太郎くん」
「今のお前を見送ったら、次に生まれて来るまで気長に待つからなぁ。俺はその時間も嫌いじゃねぇんだ」

生きる世界の違いなど痛い程理解している。それでも尚、彼女が歩み寄って来てくれることは最上の喜びとしか言い様が無い。
それでも納得には至らないのだろう、きゅっと寄った眉間の皺に音を立て口付けた。次いで降りた瞼へ、無防備な米神へ、遂に弛み始めた頬へ。複雑に絡んだ糸を解く様に、順を追って溶かせば最後には必ず笑ってくれる。それを誰より知っているのは己に違いない。期待を裏切ることなく、は肩を落としながらも苦笑を見せた。

「私だけ、どんどん歳とっちゃう」
「そもそも今も擬態だからなぁ。お前に合わせて姿変えるくらいは問題無ぇ」
「妓夫太郎くんの気持ちはわかってても、何度もメソメソ泣き言言っちゃうと思う」
「安心しろ、そん時ゃ一番手っ取り早い方法で口塞いでやるからなぁ」

人間らしく、の頬が耳まで色を変える。言いたいことを悉く返された戸惑いか、更なる密着を求めてのことか。つま先立ちになった細い腕が首元に絡み、熱い頬が冷たいそれに触れた。

「もう。どうしても妓夫太郎くんには敵わないや」
「そうかぁ。そりゃあ光栄な話だなぁ」

敵わない。それはいつだってこちらの台詞だった筈が、逆転したのはいつの頃からか。

妹は未だ見つからなかったが、その間幾度も、生まれては天寿を全うするを見守ってきた。
記憶を持ったままの時もあれば、持たない時もあった。しかしどの彼女も例外無く、ひとの理から外れた己を受け入れ、心を開いてくれる。出会いの状況は都度様々ながら、昔のままの笑みを向けてくれるまでにはそう時間はかからなかった。
そして関係が深まった後、必ずは願うのだ。鬼になれたら良いのに、と。
その度否定し、不安事を取り除き、出来る限り日陰で寄り添うことでその願いを遠ざけてきた。似たような問答を幾度も繰り返せば、先手取り強くもなれるというものだ。
今この瞬間も背伸びをした抱擁に目を閉じながら、が内心諦めきれていないことも、不安が燻っていることも、知っている。

「心配すんなよなぁ」

何度でも繰り返し、同じことを囁こう。

「お前が考えてる以上に、俺は今幸せなんだ」

命の流転を見守れる。幾度もの傍を生き続けることが出来る。不滅も悪くは無い。
ああ、後は梅さえ見つけられたなら。
胸の内に燻る切望に蓋をし、腕の中にある尊い温かさを一層大切に抱き寄せる。

デッキに干された白いシーツが、風に大きくはためいた。


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