神のみぞ知る




正月を祝う笛や太鼓の音が、賑やかな雑踏と自然に交じり合う。新年の初商いとは、これほどまでに陽気な活力に満ちたものなのか。夜の街に生まれ育った妓夫太郎とにとって、この健全さは燦々と降り注ぐ日光と同等に眩しく、不慣れ故の戸惑いが無いとは言えなかった。
しかし、遊郭と違う空気に触れた幼馴染が目を輝かせてくれるならば、例え鬱陶しい人混みですら尊いものだ。いつかの祭の夜を心の片隅に思い起こしながら、妓夫太郎は用心棒の責務を全うすべくの隣を歩く。
肩を抱くのは、華奢な幼馴染が人の波に攫われるのを防ぐ為。仕事という建前を盾に、妓夫太郎は彼女の赤い頬を視界から懸命に遠ざけた。

ここは江戸の町、茅川町。薬草調合の顧客拡大に伴い、が最近縁を結んだ小さな町だ。主に向かう先は仕入れ先となる老舗の薬屋で、今日も今日とて風呂敷の中身は充実しているらしい。当然の様に妓夫太郎が荷を預かり、経営者の老夫婦に親切にして貰ったのだというの話に相槌を打ち、そして圧倒的な活気で満ちた初商いの混雑を漸く抜けた、その時。

人混みから守る為の不可抗力とはいえ、密着に上気していたの頬。少々乱れた髪に手を当てる、恥じ入った柔らかな表情から、血の気が明確に引いた。

・・・落ち着けよなぁ」
「落ち着いていられないよ・・・!」

挿していた筈の簪が無い。それに気付くなり、は妓夫太郎の制止も聞かず混雑した道を逆走した。血相を変えたまま薬屋へ再度出向き、通った道を懸命に辿り、この寒さの中額に薄汗を浮かべてまで彼女は狼狽えている。遂には地に手を着いてまで出店の屋台下を覗こうとするものだから、これには流石に妓夫太郎が待ったをかけた。

「おい、止せ。俺が見る」
「いいの、早く見つけなきゃ・・・!」
「・・・」

賢明である彼女ならわかる筈だ。これだけの大賑わいの中、失せ物を探し当てることが如何に困難か。手に収まってしまう程の簡素な簪など、この雑踏から引き上げようとは無謀でしかない。
しかし、人の波で乱れた髪からそれが抜け落ちたと知れたの表情が妓夫太郎の脳裏に焼き付いて離れない。彼女が傷付き、焦り、そして冷静さを失っている原因が、自分が贈った物だなんて―――表現しようの無いもどかしさに頭を掻き、妓夫太郎は溜息を吐いた。

「・・・なぁ。別にあんな簪一本、どうだって、」
「どうだって良いなんて言わないで・・・!」

弾かれた様な反論は、哀しい悲鳴に似ていた。
思わず言葉を失う妓夫太郎を前に、の黒い瞳がはっと丸くなる。

「・・・ごめん、乱暴な言い方だったね」

己の非を認め詫びる声は優しいが、同時に今の妓夫太郎には酷なものだった。
違う。こんな顔をさせたかった訳ではない。
違う。謝らせたかった訳でもない。
ただ、己の贈り物には彼女にここまでして貰える価値は無いのではないかと。自己肯定感の低さ故に妓夫太郎は奥歯を食い縛る。

「でも、私にとっては・・・本当に・・・」

俯いた黒い瞳の端に光る何かを見つけてしまい、いよいよ絶望的な罪悪感に蝕まれそうになるその刹那。

「っ・・・!」

それは、大事な存在を害されまいという防衛本能か。の肩に伸ばされた見知らぬ腕を妓夫太郎は鋭く振り払い、手加減無く拘束した。

「いでででで!!ま、待ってくれよ!!」

まるで悪意の無い声だった。
カランと音を立てて、締め上げた男の手から青い簪が転がり落ちた。




* * *




「ほぉら、どうだい?」

商いの賑わい、その真っ只中。茶屋の店先で腰掛けるに手鏡を渡した女は、とんだ誤解により痛い目を見た男の妻だ。遅れてやって来た女の手によりの髪はほつれひとつ無く結い直され、簪も安定して挿し込まれている。
驚きと感心に瞬く黒い瞳に、先程までの翳りは無い。傍らで見守るしか出来無い妓夫太郎にとって、それは今この上無い安堵を齎す光景だった。

「・・・すごい」
「随分しっかりしたろ」
「あの、厚かましいのはわかってるんですが、出来ればもう一度・・・」
「っはは、良いよ。こんなの慣れればすぐさ」

年頃の娘であれば、更に言うなら遊郭に生まれ育った娘であるのなら、当然身に付いているであろう髪飾りの扱いに、はまるで慣れていなかった。幼い頃から帯よりも図鑑を、白粉より三角巾を重宝する生活がそうさせたが、真摯に教えを乞うに対し女は多くを語らず頼もしく笑って見せた。

真相は実に奇跡的で、親切心の連鎖により起きた。取り乱したが薬屋を後にした直後、彼女を心配して店先で簪を探す老夫婦と、往来で渦中のそれを拾った家族は偶然行き合ったらしい。小さな町で他所者は目立つ。それほど時間が経っていないならと届け役を買って出た男は見事妓夫太郎に締め上げられたが、小さき失せ物は無事の元へと戻って来たという訳だ。

「ご丁寧にありがとうございます!本当に助かりました・・・」

そう簡単には抜け落ちない挿し方を伝授されたの声は明るく、感謝と心からの喜びに満ちていた。

「もう絶対に落としたりしません。とても・・・大切な物なので」
「そうかい。そりゃあ良かった」

妓夫太郎はほんの一瞬、息の仕方を忘れる。が不慣れなりに一生懸命髪を結った理由も、あれほどまで狼狽え地を這ってでも探し出そうとした理由も。喜べば良いのか、戸惑えば良いのか、判別がつかない。嫌になる程己に自信が無い。彼女の隣にいられる未来など、容易くは思い描けない。

しかし同時に、忘れられない。あの簪を贈り、今は途方も無い夢に向かって金を稼ぐと宣言した夜。大粒の涙を流してくれた震える肩の華奢さを、忘れることが出来ない。己などには相応しくないと諦めることが―――どうしても出来ない。

「あの、すみませんでした。届けて下さったのに。どこか痛くしたり・・・」

の目がこちらに向いたことで、妓夫太郎の意識は引き戻される。正しくは、妓夫太郎の隣に佇む男をは心配したのだけれど。

「気にすんなよぉ嬢ちゃん、この通りぴんぴんしてっから」
「・・・」

初商いの混雑を潜り抜けを探し出し、わざわざ失せ物を届けようとしたにも関わらず、誤解で容赦なく腕を捻り上げられる。新年早々とんだ大損に違いない筈が、何故この男は憤りも恨み言も無く呑気な顔で笑っていられるのか。妓夫太郎は気まずくて仕方が無い。

「そうだよ、気にしなさんな。得体の知れない男がこんな可愛い娘さんの肩に突然触れようもんなら、連れとして締め上げんのは当然さ」
「おいおい、得体の知れねぇは余計だろ」

女に肯定された通り、今日の妓夫太郎はの護衛の為此処にいる。幼馴染に忍び寄る手は悉く振り払う。それが責務であるし、事情を知らなかったのだから容赦してやる道理が無い。
しかし、妓夫太郎はの顔が曇ることもしたくは無いのだ。腕を組んだまま眉間に皺を寄せ、深く溜息を吐き、そして。

「・・・悪かった」

今にも消え入りそうな、掠れた謝罪。それを賑やかな雑踏の中から拾い上げ、男はにっと歯を見せて笑った。

「良いってことよ」

見ず知らずの相手とこんなやり取りをする準備など出来ている筈もなく、ふんと視線を逸らした先。小さな驚きに唖然とした末、心底嬉しそうに眦を下げたと目が合ってしまい、妓夫太郎の心臓が早鐘を打つと同時のこと。
何とも気の抜けた腹の音がした。発信源は、男の後ろに隠れる様にして成り行きを見守っていた幼子である。慌てて顔を赤く染めているが、解散には良い頃合いだ。

「ふふ。この子のお腹の虫が煩いから、そろそろ帰るよ」
「すみませんお引き止めして・・・」
「困った時は助け合いさ。ま、全然大したことはしてないけどね。あんた達も気をつけて帰りなよ」

深々と頭を下げると隣に佇む妓夫太郎に手を振り、三人家族はすぐさま角を曲がり見えなくなったーーーと、思われた。足早に駆け戻ってきた男が、に小さな紙包みを手渡したのである。

「えっ?あの、これ」
「少しだけど、持って帰んな」

包みは容易く解け、中からいくつかの丸餅が覗く。二人して目が点になった末、先に我に返ったのはの方だった。

「そんな!悪いです・・・!」
「新年に堅ぇことは無しだぜお嬢ちゃん。丁度買い込んだ所だったからお裾分けさ。めでてぇ正月は皆で祝おう!な?」

は瞬間言い淀んだが、男の親切を受けると決めたらしい。深々とした礼に照れ臭い顔を返し、そして男は妓夫太郎に目を向けた。

「兄ちゃんも、景気の良い年になると良いなぁ!」

悪意の無さに気圧され、完全に反応が遅れる。男は挨拶の様に妓夫太郎の肩を親しげに叩き、妻と子が帰った方向へ消えて行った。

「・・・」
「あっ・・・ありがとうございました!」

誰もいなくともが発した礼の言葉を最後に、ふたりは漸く元通りのふたりに戻る。
ほんの僅かな時間の筈が、体感では随分と長く感じたものだ。どちらともなく目が合い、の柔らかな苦笑を受け止めて思うこと。

「・・・色々足りねぇなぁ、俺は」
「どうして?」

守るべきものは、決まっている。ただ、その為に自分がどう在るべきか。課題は、山積みの様だ。

「普段の仕事が、仕事だからなぁ・・・初対面で目ぇ逸らされるくらいで、漸く半人前だ。陽気に肩叩かれてるようじゃ、丸っきり足りてねぇんだよなぁ」
「・・・」

恐れられることは一向に構わない。しかし親しまれては宜しくないだろう。取立てで生計を立てるしか無い今、初対面で温かく肩を叩かれ反応が遅れる様ではいけないと妓夫太郎は己を戒める。
見る見るうちに黒い瞳が気落ちする、致命的な様子を目の当たりにするまでは。

「私はこの町が、好きだけど・・・」

は恐らく妓夫太郎の言わんとする意味を理解してはいる。しかし、納得とは違う感情で小包を強く掴む手を目にするだけで、胸が締め付けられる様だ。ああ、何故こんなにも上手く行かないのか。

「・・・おい、履き違えるなよなぁ」

悲しい顔をさせたくない。真っ直ぐな黒い瞳を、曇らせたくない。妓夫太郎は懸命に、を傷付けずに済む言葉を選ぶ。

「俺の問題だからなぁ。別にお前の出先に文句がある訳じゃ・・・」
「じゃあ、これからも一緒について来てくれる?」

妓夫太郎は瞬間虚を突かれ、そして脱力してしまう。
これから先も、共に。それを望んで藻掻いているのは、どちらだと思っているのか。

「・・・当たり前だろうが」

無愛想な返事だった。しかし、不安で曇っていたの表情は雪が溶ける様に解けていく。

「・・・ありがとう」

安堵と、喜びと、そして。

「・・・良かった」

幸福を噛み締める様な、堪らない笑顔。
正面から受け止めるには眩し過ぎる、途方も無い想い。
あくまで用心棒として必要とされていると割り切れたならまだ気楽なものを、彼女の雄弁な瞳はとっくにそれ以上の熱意を示すものだから困ってしまう。
羞恥と、戸惑いと、自己否定。そして、仄かな喜び。全てを誤魔化す様に、妓夫太郎はの前髪を雑に混ぜ返した。

「っ・・・なんて顔してんだ、ばぁか」
「わ・・・!」

好き放題に撫ぜられた額を抑え、抗議しても良いところをは優しく笑うのだ。

「ふふ、元々こういう顔だよぉ」
「・・・」

簪を無くして以来、沈んだ顔を度々目にした今日は、目の前の光景をより尊く感じる。
自信の無さも、普通を望むことへの恐れも。何もかも棚上げに出来るほど、この笑顔は妓夫太郎にとって妹と同等に特別なのだ。

「・・・帰んぞ」
「うん。戴いたお餅、美味しく仕上げなきゃ。梅ちゃんが喜ぶね、きっと」
「そうだなぁ」

陽の光を受けて、前を向いて歩き出した彼女の黒髪に青い簪が光る。今は口に出来ない思いに胸が熱くなる感覚を堪え、妓夫太郎はの隣で冬空を見上げた。




* * *




三人家族が角を曲がり本当にすぐの長屋に住んでいたことは、妓夫太郎とにとって想定外だったことだろう。

「ふー。何か悪いことしちまったかと思って冷や冷やしたぜ」
「ま、お若いのが仲睦まじく纏まったみたいだし、良いんじゃないのかい」

思い出したように餅を土産に渡したは良いものの、何やら瞬間妙な空気になったことも筒抜けた為男は気が気では無かったが、無事にふたりして穏やかな帰路に着いた様で何よりである。

「にしても、怖がられてる方が都合が良いって聞こえたねぇ」
「変わった兄ちゃんだなぁ」

ふたりにとって想定外だったことは、もうひとつある。

「怖がられてぇから、いつも険しい顔して歩いてんのか」
「いやー、あれは多分あの娘がちょっかい出されない様に気を張ってるからじゃないかね」

茅川町において妓夫太郎との並びは本人達が思うよりずっと目立ち、既に有名になりつつあった。
曰く、薬屋に度々現れる娘は年若いにも関わらず随分な学を持つのだとか。物珍しさで考え無しに声をかけようものなら、隣を守る男が命を奪う勢いで睨み付けてくるのだとか。
しかし、恐ろしげな男は娘を前にすれば---。

「あの兄ちゃん、隣にいた姉ちゃんにはいつも優しいよ」

いつも、優しい。
先程までは緊張と人見知りから黙っていた幼子にすら、この様に認知されているのだ。的確な観察眼に、夫婦は同時に破顔した。

「こりゃ駄目だ。こんな子供にも見抜かれてらぁ」
「本当だね。あの兄ちゃんには悪いけど、どんなに強面だろうがちょっと話せば普通の若者だって、誰にでもわかっちまうよ」

普通の若者。この表現が遊郭において妓夫太郎と如何にほど遠いか。暗く澱んだ町で妓夫太郎とが何を思い外の世界を望むのか。当然のことながらこの夫婦は知る由もないが、この町に暮らす者の多くがこうした感覚の持ち主であった。

「ふむ。本当のところは兎も角、周りからは怖がられてぇ兄ちゃんかぁ」

ぼんやりと呟かれた父の言葉に、考えこむこと数拍。
幼い瞳が、閃いた様に丸く輝く。

「鬼の兄ちゃんだね!」

聞き慣れない単語は子どもの声に乗り、そしてすぐさま耳に馴染んだ。

「っははは!悪くねぇな!」
「確かに!鬼みたいに頼もしい腕っ節だし、響きだけなら怖い呼び名じゃないか!うちの子は言葉選びが上手だね!」

父に抱き上げられ、子が楽しげに笑う。穏やかな家族団欒から生まれたこの呼び名が、この先思いの外早く町中に浸透することも、妓夫太郎が怖がられるどころか子ども達の憧れを一身に受けることになることも、今この瞬間は神のみぞ知る。

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