Doggy, My Lover



爽やかな風が小さな市場を吹き抜けた。片手に大きな買い物袋、更には犬のリードを握ることに忙しい女は、愛用のハンカチがふわりと攫われてしまったことに気付かない。

「落としましたよ」

まるで狙い澄ましたかの如く、しかし人懐こい笑顔で男が女に駆け寄った。その手に見慣れた青いハンカチを認めた時になり漸く、女は状況を理解する。

「あぁ、すみません。ありがとうございます」

女が浮かべたのはいかにも押しに弱そうな、柔和な笑みだ。ここ数日、男が頭の中で思い描いた通り。そうして濁った内心をひた隠しに男が半歩距離を詰めようとした、その時だった。

女の連れていた白い子犬が突如牙を剥き、力の限り男に吼えかかったのである。

「あっ・・・!」
「うわっ!!」

青い瞳は平時であれば愛くるしく輝くものだろう。それをギラギラと怒りに燃やし、白い毛が逆立つ程の威嚇だ。そのあまりの剣幕により、手に触れる口実に最適と考えたハンカチから、男は一も二もなく手を引っ込めざるを得なかった。喉を憤りに震わすその小さな身を、女はリードごと包み込み抱き上げてしまう。

「大丈夫だよ、落ち着いて」

女がそっと囁き抱き締めると、白い犬の怒気は多少薄まった様ではあるが鎮静には至らない。頬を震わせ見え隠れする牙が、警戒心をこれでもかと表現していた。

「すみません」
「あっ、いえいえ、大丈夫です。僕小さい犬好きなので」

適当な嘘は口だけに留めた。今うっかりと手を出せば噛みつかれると、それがわからぬ男ではない。

「あの、良ければ家まで荷物持ちましょうか」
「え?」

しかし、小さな飼い犬の威嚇如きで易々と引き下がる男でもなかった。

「最近町外れに越して来た方ですよね?僕もこの辺りに住んでるので、近所のよしみってことで」

ここは小さな町だ。新顔はすぐわかる。独り身か、恋人はいるか。男が数日観察した結果、答えは何れもノーであった。更には今、女の細腕は荷物と怒りに暴れる子犬で今にも溢れ返りそうな有様なのだ。

男には自信があった。いかにも世間知らずな顔をした女に親切を盾に押し勝てる、確信にも似た自信だった。

「・・・」

それはほんの一瞬の出来事だった。

男の自信も濁った狙いも、急激な悪寒によって全て崩れ去る。急所という急所に、刃先が食い込んだ様な威圧。無論全て例え話だが、呼吸が浅くなるのは紛れもない現実だ。

どこからともなく現れ男と女の間に身を捩じ込んだのは、巨大な黒い犬だった。大型犬と呼ぶのも規格外の体躯を、一体今までどこに隠していたと云うのか。得体の知れない不気味さは、しかし今はそれ程重要では無かった。

長い毛の間から覗く青い瞳が、白い子犬より更に激的な殺意を物語っているのだ。

「ご親切にありがとうございます。でも、すみません。私はこの子で両手が塞がっているので。今度こそ、何かあった時に止められません」

女の口調は変わらずおっとりとしたものだったが、何かあった時というフレーズに男の背筋が凍り付いた。

これ以上踏み込めば黒い犬に噛み殺される。理屈ではなく、本能でそれがわかるのだ。

「お気持ちだけ、頂戴しておきますね。ありがとうございます」

女は目を合わせず穏便な態度を貫き、男に背を向ける。しかし黒い犬は用心深く標的を睨んだまま動かない為、男は生きた心地をなかなか取り戻せずにいた。

「大丈夫だよ。行こう」

女が黒い犬に優しく声をかけ、男は漸く呼吸を思い出す。

「ありがとう」

白い子犬を腕に、黒い犬へと囁く女の声。まるで恋人に向ける様な甘やかな響きを、男は信じ難い思いで見送った。




* * *




町外れの丘に建つ小さな家に、は越してきたばかりだった。

犬を二匹連れ帰った彼女を迎える人間はいなかったが、その後が用意したのは三人分の夕食である。太陽が完全に沈み、シチューの煮込み時間がいよいよ仕上げ段階に入ったその直後。

「っあのクソ野郎!!」

ダンと足を踏み鳴らす音、続いて愛らしい声色に似合わぬ罵声が響き渡り、は鍋底をかき混ぜながら苦笑を漏らしてしまう。

「あらら、ご機嫌ななめだね」
「・・・妥当な苛つきなんだよなぁ」
「そうよっ!!住んでる場所まで嗅ぎつけてるじゃない!!気持ち悪いっ!!」

ごそごそと部屋着を纏いながらキッチンに現れたのは、白髪の妹と黒髪の兄だ。揃いの青い瞳を不満一色に歪める表情がよく似ており、憤る兄妹とは真逆にの中には穏やかな気持ちが込み上げる。

「お兄ちゃん噛み殺してやれば良かったのに!」
「・・・出来ればそうしたかったんだがなぁ」
「まぁまぁ。今日のところはハンカチ拾って貰っただけだから」

話題は昼間に市場で声をかけてきた男のことである。未だ怒りと嫌悪がおさまらない二人に対し、は宥める様に苦笑する。

彼らはそこにいた。

日光の下では人間でいられない。特殊な体質であるが、ただそれだけのことだ。

意思があり心が通い、彼女の傍にいる。

「大丈夫、ちゃんと気をつけるよ」
「もうっ!なんで当のアンタがそんなヘラヘラしてるのよ!あんな気持ち悪い男に付け狙われて心配じゃないワケ?!」
「だって、二人がいつも傍にいてくれるから」

心細いことなど、不安なことなど何も無い。はそうして当たり前の様に微笑んだ末、不意に罰が悪そうに肩をすくめて見せた。

「なんて。流石に頼りっぱなしが過ぎるかな。ごめんなさい」

守って貰うことを当然と感じている訳では無い。ただ、傍にいて貰えることが心強いのだと。

そうして困った様に小首を傾げる彼女を眺め、眉間に皺を寄せながらぴたりと寄り添ったのは白髪の妹ーー梅だった。怒りも癇癪も、いつだっての穏やかさに丸く絡め取られていく。梅はその感覚が嫌いではなかった。

「・・・ふん。アタシたちがいないとなぁーんにも出来ないんだから。しょうがない奴。頼まれなくてもあんな不細工蹴散らしてあげるわよ」
「ありがとう梅ちゃん。さ、ご飯もうすぐ出来るから席に着いて待っててね」
「良い匂い!早く仕上げてよね!」

スンと鼻を鳴らし、鼻唄を携え踊る様に去って行く背中が愛おしい。堪え切れない笑みで見送り、は逆側に立ったままの黒髪の兄ーー妓夫太郎を見上げた。

「妓夫太郎くんも。すぐ仕上げるから梅ちゃんと待ってて」

彼らは日没と共に人間の姿を取り戻す。謂わば、寝起きの様なものだ。恐らく妹の枕になっていた勲章たる寝跡を頬に見つけ、の指先が讃える様に優しくなぞる。

「・・・」

あたたかな眼差し。疑う余地の無い愛情。陽光が完全に消え失せるまでは獣の姿でしかいられない兄妹を、慈しんでくれる存在。頬を滑る優しげな感覚に身を委ねると共に、妓夫太郎の奥底から昼間の人間への憎悪が湧き上がった。

荒事は彼女が望むまいと懸命に脅しで留めたが、繰り返す様であれば容赦はしない。指先ひとつ、触れさせてなるものか。気怠い溜息と共に、半ばのし掛かる様な形で長い腕がの背を抱いた。

「次は無ぇ」
「え。私何かしちゃった?」
「・・・こっちの話なんだよなぁ」

鼻先を押し付けて呼吸を繰り返す抱擁は犬でも人間でもくすぐったく、は思わず身を捩って小さく笑う。そこへ顔を出した梅が、キッと形の良い眉を吊り上げ飛びかかってきた。

「あーっ!お兄ちゃんだけずるい!アタシも!」
「ええ?・・・っふふ、もう。二人とももうすぐご飯だってば。それに今・・・」

触れ合いはいつだって歓迎と言いたいところであるが、生憎今は火を使っているのだから。の言い分は妓夫太郎の大きな手が火を止めたことにより遮られた。

くつくつと煮立ったシチュー鍋からは、とうに良い匂いが立ちのぼっている。

「どう見ても食べ頃なんだよなぁ」

静寂はほんの一瞬、穏やかな笑い声が近過ぎる距離で響いた。

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