真白の短冊





珠姫花魁の為に用意された最奥の部屋には、二重の格子窓があった。開け放てば中心街の雑踏を、逆に閉ざせば静寂を。両極端を好きに出来る権利を、日の本一美しき女は持っていた。

さて今宵は前者の気分だったのだろう。夜風に乗って流れ込んで来る雑踏は普段通り騒がしかったが、少々色合いが異なるのは気のせいではないだろう。客引き用の甘い声だけではなく、笑いはしゃぐ遊女達の声が目立つ夜だった。見せて、欲張り、そっちこそ、やっぱりあの殿方と、もっと聞かせて。笹竹に願いを記した短冊を飾る風習は、夜の街においても例外なく息づいている。

「ほんと、暇な連中よね」

うんざりした様な声に導かれ、の視線が膝へと落ちた。夏の盛りは暑くて苛々すると豪語しながらも、今日もこの花魁はの膝を枕にすることを止めない。それどころか腰回りに抱き着く様な甘え方は彼女の疲労と苛立ち、同時に信頼の証であることを知っているがこの状況を嬉しく受け止めない筈も無く、そっと慈しむかの様に主の肩を撫ぜた。

「皆、珠姫様の様な花魁になることを夢見ているのだと思います。少しでも芸事の腕を磨いて、近付ければと・・・」
「ふん。不細工共がいくら芸の腕を上げたって、一番美しいアタシと同じところに立てる筈が無いじゃない。次元が違うのに無駄な足掻き、笑えて来る」

遊女たちが主に願うことは芸事の上達だ。より良い客が付く様に、より良い稼ぎが定着する様に。そして星の伝承に準え、ただひとりの彦星が迎えに来てくれますように、と。
今を懸命に生きて幸福ないつかを夢見る遊女たちの願いは、堕姫にとっては鼻で笑ってしまうほどちっぽけでくだらない物に違いなかったが、にとってはそうでは無かった様子で。不意に表情が曇った様に思える専属芸者を見上げ、美しい顔が小さな不安に歪んだ。

「・・・あんたは別よ」
「え?」
「あんたは別。アタシの所有物、そもそも芸者なんだから他の不細工達とは違うわ。だからそんな顔するんじゃないの」

他人の顔色などうかがう必要が無い。この街のすべては己を中心に回る。それを軸に据えながらも、堕姫は囲ったを大事にせずにはいられない。街中の人間を虫の如く見下す花魁の、唯一にして最大の別格扱いだった。そしてそれは、隙間なく身を寄せたにも直接伝わる熱量をはらんでいる。

「申し訳ございません。誤解をさせてしまいましたね」

珠姫は美しいが性悪であると外の者は口を揃えて言うが、実情は違うことをは理解していた。心を預けた相手には優しく在れる、時々素直ではないことも含め大層魅力的な主のことが、は周りがどう言おうとも心の底から好きなのだ。
好きだからこそ、どうしようもないことを―――星に願いを許された今宵、思い描いてしまう。

「私の願いがもし叶うなら、珠姫様の美しいお顔をほんの一目だけでもこの目に映せれば良いのにと・・・そんなことを考えてしまいました」

閉ざされた視界に光が差し込むことは無い。何も映すことの無い黒い瞳が自嘲気味に細まる様子を、堕姫は複雑な思いで見上げた。

「いけませんね、こんな望みの無い願い事を知ったら、きっと神様もお困りになってしまう筈です」

生まれつきの暗闇を、は恨みも腐りもせず生きている。小さな弱音を恥じる様な苦笑と目が合うことは決して無かったが、ふたりきりの部屋に満ちた切なさは、彼女の膝を好きに独占していた堕姫を突き動かすだけの力を持っていた。

「・・・馬鹿ね」

唐突に身を起こしたかと思えば互いに座り込んだまま、ぎゅうとその細腕がを正面から抱き寄せる。
これには黒い盲目が驚きに見開かれた。

「珠姫様・・・?」
「目なんか見えなくたって・・・ほら、あんたは今、アタシに触り放題」
「えっ・・・?」

状況が飲み込めず戸惑うばかりのに対し、堕姫は抱擁が若干緩んだ隙間でその手を掴み自らの頬へと導いた。

「光栄に思いなさいよ。アタシはこの遊郭で一番の美女、最高位の花魁。たんまり金を積んだ男だってこんなことは許されないんだから」

鼻先が触れ合いそうなほどの近さ、芳しい白梅香。吸い付く様なきめ細やかな肌は性別の関わり無くの頬を紅潮させたが、この距離感と直接顔に触れることを許された誉に彼女の心が緩まっていく様子を、堕姫は満足気に見守った。

「・・・はい、私は途方も無い果報者です」
「見えなくてよかったんじゃない?こんなことで頬が赤くなってるようじゃ、アタシの美貌を直視したらあんた、目が潰れてたかもよ」
「ふふ・・・本当に、そうですね」

嬉しそうに目を細めて笑う、その様を至近距離に見据え思うこと。
は特別だ。
己にとっても、兄にとっても。

「ありがとうございます、珠姫様」

人間の短い寿命が尽きるその日まで、大事に囲い決して手放すものか。
艶めく赤い紅が純粋な慈愛で微笑みを象り、の熱い頬へと悪戯に押し当てられた。




* * *




「外の様子は、ご覧になりましたか」

静かな問いかけに、妓夫太郎は顔を上げる。壁を背に座り込む普段通りの位置取りに、が話しかけていた。
当然目は合わないにも関わらず、これもいつもの事ながら、視線が交わっているような錯覚に妓夫太郎は僅かな苦笑を零す。
眠る支度を整えたと向かい合うことは、最早毎夜の決まり事となって久しい。

「今宵は恐らく、どこの店の軒先も賑やかに飾りつけられていると思いますが」
「みてぇだが、生憎興味が無ぇからなぁ」

星祭だの七夕だの、人間達の活気など妓夫太郎にとってはただの雑音に過ぎない。ただ、夜半になって尚どこか静まり切らない様ではの眠りに障るのではと鬱陶しく思う、それだけのこと。しかしながら、彼女はそう受け止めてはいない様だった。

「色とりどりの短冊が、笹竹に吊るされて・・・きっと、素敵な光景の筈なんです」
?」
「私の想像です。平坂屋にいた頃、同じ部屋子や姐さん達に連れられて、雰囲気や音だけ、楽しませていただいたことがあります」

珠姫の専属芸者として奥田屋へその身を移されるより、以前の記憶。兄妹の知らぬ過去をかき集めるは、かつてを懐かしく思い返しながらも、当時感じたことを妓夫太郎に伝えようと懸命になっている。

「風に揺れる笹の葉、重なり合って賑やかな短冊、吹き流しの紙がそよいで、耳に優しい音がしました」

の言葉がそっと染み入る様に、妓夫太郎の中へと入っていく。
彼女の声は不思議だ。ひとつひとつ、胸の奥底を揺らし、朧げな輪郭を浮き上がらせる。
まるで彼らを繋ぐ、白昼夢の様に。
妓夫太郎が言葉通りの穏やかな光景を頭の中に描いていることなど気付く由も無く、空白を誤解したのかは照れ臭そうに笑って見せた。

「あ・・・白紙の一枚きりでは、まるで伝わりませんね。すみません」

言われて初めて、妓夫太郎は部屋の隅にひっそりと存在する小さな笹に気付く。
恐らく飾ったのは店の従業員だろう、しかしの言う通り願いを記すべき短冊は白紙の一枚きりだった。

「代筆、頼めば良かったんじゃねぇのか」
「珠姫様にも同じことを言っていただきました。ですが・・・私はもう、星に願うことが無いほど果報者だと気付いたので」

見えない為書けなかったのではなく、必要が無かった為書かなかったのだと。
そうして微笑むの表情は偽りなく満ち足りたもので、これには思わず妓夫太郎も伝わることの無い小さな笑みを返した。
妹の部屋での睦まじい遣り取りは承知している。妓夫太郎にとって、大切な二人が笑っているならばこれ以上無く尊い光景だ。

「過ぎた願いは、他でも無い主君が必要無いと諭して下さりました。芸事の上達も、有難いことに今の私をお気に召して下さっているとのことで、やはり間に合っていますし。それに私の彦星様は・・・」

そこで不意に、の言葉が途切れた。
私の彦星様。それを本人の前で口にすることを彼女自身が羞恥心から躊躇った為だったが、妓夫太郎にはすんなりと伝わらない。
目には映らぬ怪訝な顔を確信した様な表情で、が小さく俯いた。

「・・・何でもありません」
「あぁ?・・・星が何だってんだ?」
「そ、そうです、星です」

聞き違いで構わない。渡りに船と言わんばかりに話を繋ぐは、少々ぎこちなくも優しい顔をしていた。

「この目には見えなくても、こうして穏やかな夜風を感じていれば、素敵な星空を思い描くことが出来ます」

穏やかな声を発する、その口許に惹きつけられる。

「夢では何度も、見ている光景ですから」

小さく上向いた口角が、温かく緩んだ頬が。彼女の言葉の真意を物語る。

「貴方と、一緒に」

ああ、まただ。
見えてはいない筈の黒い瞳に囚われ、その優しく下がった眦に呼び寄せられる様に、妓夫太郎は一歩また一歩との方へと近付いてしまう。
畳を這う音と気配で接近を読む彼女の表情が、あまりに嬉しさ一色なものだから。妓夫太郎は困った様に苦笑を零しながらも、自然とその手を包み込むことで移動の終着とした。

「・・・お前に良いことをひとつ、教えてやる」
「何でしょう」
「今夜の空だけどなぁ、実際はお前が考えてるほど良い眺めじゃねぇんだよなぁ。見事に曇ってやがる」
「まぁ。星祭りの夜ですのに、それは残念ですね」
「そこはざまぁみろってなぁ、外のうるせぇ連中を嘲笑ってやるのが正解なんだが・・・まぁ良い」

小さく脆い、人間の手のひら。
鬼が力加減を誤ればたちどころに壊れてしまう、儚い寿命に囚われた弱い存在。
本来食糧でしかない筈の命が、酷く大切に思えて仕方が無いのだ。
込み上げる思いに蓋をすることも、背を向けることも、妓夫太郎はあの夜全てを放棄した。
細い手首を折らぬ様細心の注意を払いながらも、人間独特の匂いを鼻先だけで楽しむかの様に顔を近付ける。

「俺達の夢の中の方が、よっぽど良い夜空だって話だ」

俺達の夢。
特別にして説明のつかない不思議な体験を、共有している証。
の表情が喜びで柔く綻ぶ様を、妓夫太郎は瞬きひとつせず大事に見届けた。

「今夜もまた、夢でお会い出来たら嬉しいです」
「早く出て行けってんならそうするが」
「あっ・・・駄目です、もう少し、もう少しだけ、いらして下さい」

甘く蕩ける様な囁きは、ほんの悪戯心によって容易く焦りへと変貌する。
懸命に妓夫太郎を引き止める、その一挙一動の引力には到底逆らえる筈も無い。意思ひとつでは制御し切れぬ胸の熱さが、妓夫太郎の頬を緩めた。

「冗談だ。いつも通り、お前が寝るまでここにいるからなぁ」
「良かった・・・」

するりと抜け出たかと思えば手探りに背へと回る腕に、妓夫太郎は堪らない気持ちになってしまう。
骨が奇妙に浮き出たそこへ、は躊躇無く抱き着き離れようとはしない。妓夫太郎が人間とは違う枠組みにいることを勘づきながらも、最初の約束を頑なに守り追及もしなければ戸惑いもしない。

「私の短冊、妓夫太郎くんに差し上げます」

は妓夫太郎が何者であっても忌避しない。
ただ、傍にいたいのだと。彼女の全身全霊がそれを告げている。

「私は十分過ぎるほど幸せなので。折角ですから、何か残されて、」

の言葉が不自然に途切れ、宙へと掻き消えた。
声も呼吸も何もかも、思うままに激しく食い尽くしたい欲を他でもない彼女の為耐え、残った理性はどの程度真価を発揮しただろう。
時間感覚が麻痺する様な甘い静寂の中、極限まで短くした爪ですら食い込む程の力で己の拳を固く握りしめながらも、妓夫太郎は最後の最後までを傷つけることなく、唇をひと舐めしてふたりの繋がりを解いた。

「・・・俺も必要無ぇんだよなぁ」

星に願うことなど何もない。
幸福そのものが、今ここにある。

「まぁ、理由は教えてやらねぇが」
「・・・ふふ。そうですか」

囁きの合間を埋める様に、再度ふたりの影が重なり合う。
瞬く間に修復する妓夫太郎の掌の傷は、が眠りに落ちるまで幾度となく上書きと消滅を繰り返した。




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