眠れぬ良き夜



山の奥深く慎ましい小屋で、鬼の女を挟み川の字に眠る人間の兄妹の習慣は、何年経っても変わることが無かった。
彼らが大人になり、やがて妓夫太郎がと特別な関係を築いて尚、三人の位置取りは変わらない。

眠る必要の無いにとって、この時間は敵襲に備えるものでありながら実に尊いものだった。随分と遅咲の初恋相手達の寝顔は、例え幾つ歳を重ねても特別可愛いことに変わりない。
今まさにむにゃむにゃと口を動かし上掛けを跳ね飛ばした左側の姫に忍び笑いを漏らし、その手が梅を温かな布団の中へと優しく引き戻す。
いつまでも手の掛かる子だ。心の中で穏やかに囁いて身を乗り出し、健やかに成長した滑らかな頬にそっと口付け、そして。

「・・・驚いた」

振り向きざまに右隣の妓夫太郎と目があったことに対し、まるで動揺を感じさせない抑揚で彼女は呟く。

葛藤の末、鬼と人間の垣根を越え互いを人生の伴侶と定めてから一年と半年。
幼い頃から変わらぬ美しい青が、横たわったままをじっと見据えていた。

「どうしたのさ。眠れない?」
「まぁ、そんなところだなぁ」
「そう。喉が渇いたなら、水持って来ようか」

梅が傍で寝ている手前、示し合わさずとも微かな音量の会話だった。自然と世話を焼こうとした女鬼を遮り、妓夫太郎は立ち上がる。

「・・・良い。んなこと自分で出来るからなぁ」
「そりゃあ失礼」

女は何かと世話をしたがる。そして彼は、子ども扱いを嫌ってか必要以上に世話を焼かれることを拒む。至って普段通りの遣り取りを交わし、飲み水を柄杓から煽り振り返った妓夫太郎が、これでもかと言わんばかりに顔を顰めた。

中央は形ばかりであるが、三人横並びに長く陸続きの布団。妓夫太郎の敷布側へ寄ったが、腕を枕に差し出す様な体勢で待ち構えていた。

「おい。勘弁しろよなぁ」
「どうして」

川の字は今に至りいつものこと。兄妹がの腕枕で眠っていた日常も確かに在ったが、流石にそれは過去の話だ。不思議そうな顔で待つ彼女に深い溜息を返した妓夫太郎は、布団に戻りはしたが大人しく細腕を枕には据えなかった。代わりに、布団を巻き込みつつも華奢な身体を強引に掻き抱く。

「どう考えても、正解はこっちなんだよなぁ」

不意打ちにの目は丸くなったが、それは男女の触れ合いに心ときめくそれとは多少色が違っていた。布団ごと抱き寄せる腕は乱暴でなくとも強く、身の丈はすっかり彼女を包めるほどだ。当然のことながら、出会った当初の病的に痩せ細った少年とは大きく異なる。感心した様な吐息が美しい口元から溢れた。

「今更だけど、すっかり逞しくなって、まぁ・・・」
「でかくなったなんて続けるつもりなら、その口塞いでやるからなぁ」
「っはは、試してみようか。ふたりとも、立派に育ってくれたよ」

同じ布団で腕の中。挑戦に対し至近距離で睨み返してきた青い瞳は、余裕綽々に楽しげな視線に根負けしたかの様に伏せられ、再度溜息混じりの抱擁へと引き下がっていった。

「良い夜だね」
「ただの夜に良いも悪いもあるのかよ」
「あるさ」

互いにしか聞こえない密やかな囁きが、闇夜にそっと溶けていく。今宵を良い夜と称したは目を閉じ、伴侶の首筋へと鼻先を擦り寄せた。人間特有の柔らかな匂いに、心の奥底から満ち足りた様な顔をして口端を上げる。

「こんな身体じゃ、陽が昇れば当然潜まなきゃならない。けど昔の私にとっちゃ、たとえ陽が沈んでも良い夜なんてひとつも無かった」
「・・・」
「夜は途方も無く長いばかりだから、無気力に生き永らえる理由を考えるだけで滅入ったもんさ。眠って遣り過ごせない鬼の宿命を呪ったよ」

始祖の支配下にあった頃からも、呪いが外れて以降すら、女にとって長い夜は虚でしかなかった。しかし、暗く濁った過去を回想する声はそれほど沈んではいない。頭を突き合わせる様な形で、の瞳は闇の中で尚美しい青を捉えた。

「あんた達と暮らし始めるまではね」

先の見えない虚無で覆われた夜は終わりを迎えた。鬼の女にとって、夜明けは美しく光り輝くふたつの命を象り遂に現れた。それはまごう事なき、錆び付いた心が息を吹き返した瞬間だった。

「夜が深まる度、ふたりの可愛い寝顔をいつまでも眺めていられる。眠る必要の無い身体はこの為に授かった素晴らしい贈り物だって、信じられる様になった」

眠ることの叶わない呪いは、愛し子を見守れる祝福へと姿を変えた。暫し唖然と瞠目する妓夫太郎を至近距離で見上げ、の細い腕が抱き返し、そしてその美しい手は慈しみを込めて黒髪を撫でる。

「呪いも悍ましさも、私の濁った部分は全部、あんた達が優しく造り替えてくれた。感謝してるよ、心の底からね」

身体ごと押し上げる様にして、彼女はそっと妓夫太郎の頬へと柔らかな熱を贈る。名目上夫婦となって尚、加えて闇夜の中で身を絡ませあった状況下、その口付けは艶めきからはほど遠く祈りにすら似ていた。

「そうやって歳上ぶっていられんのも、今の内だからなぁ」

一見苛立った様な口振りは、しかし何とも言えない薄い苦笑により中和される。

「俺たちと老いてく。そういう道も見えてきたって言ってただろうが」
「・・・妓夫太郎」
「もう一方的に守って手ぇ引く立場じゃねぇんだって、そろそろわかれよなぁ」

細胞操作の血鬼術で、人間の速度で自らに老いを齎す。同じく逃れ者となった珠世の助け無しには成し得ない道だったが、は既に滅びの道を選んだのだ。

「・・・それもそうだね」

一方的に庇護欲の対象とする時期はとうに過ぎた、大きな身体。これから先は共に老い、手を引くのではなく携えあって生きていく。妓夫太郎の言い分は正しい。正しい、けれど。
歳上の立場を振り翳して揶揄うことはやめられない。どうしたって、初恋を捧げた片割れを可愛がることはやめられそうに無い。の口元が愉快そうに緩んだ。

「けど・・・残念だったね。見た目や寿命は揃えられても、私が妓夫太郎より遥かに歳上な事実は変わらないんだなぁこれが」
「うるせぇ口は本当に塞いじまうぞぉ」
「へぇ。やれるもんなら――」

そこで言葉は途切れた。

唇に押し当てられたそれは、柔く、熱く。触れるだけでそれ以上押し入ろうとはしない繋がりが、時間感覚を曖昧にさせた。熱源が離れると同時に、不満気に寄った眉の下、がこの世で最も美しいと感じる青に射抜かれる。

「・・・歳の差はどうしたって縮まらねぇ。そいつはわかってる。けどなぁ」

ただでさえ密やかな会話は、最早消え入りそうな囁きと化した。それでも、掠れた熱意は容易く耳へと届いてしまう。

「いつまでも餓鬼のままの俺だと思うなよなぁ」

可愛くて、大切で、守りたい――そして唯一、この心を攫ったかけがえの無い家族。理解はされ辛いだろうが、の中でとうに両立された感情がふわりと花開く。

「・・・思ってないよ」

ふたりを繋ぐ隙間が、ほんの僅か甘やかに温度を上げた。やはり今宵は、良い夜だ。

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