ハッピー・サニー・デイ




六月に入ると同時の梅雨入り宣言はどこへやら、真夏並の猛暑と日照りに茹だる人々の様子が気象情報と共に流れて来る。
急激な暑さで体調を崩さない様にと、注意喚起がテレビから繰り返し告げられるその最中。

「お兄ちゃんクーラーの温度下げて」

設定温度二十四度の空調を指差し、梅がなげやりにそう呟いた。
可愛い妹から名指しの頼みであれば、妓夫太郎とて従わぬ道理は無い。無い、が。

「お前なぁ・・・」

妓夫太郎は眉間に浅く皺を寄せ顔を顰めた。
温度を下げる要求は二度目にあたり、先程は扇風機を近付けろと言われすぐ傍まで動かし、手の汚れない冷たいものが欲しいと請われ飲むアイスとゴミ箱まで手渡した。
暑い暑いと喚く妹はその間一歩も動くことなく、ソファに横たわったままだーー最愛の彼女の膝を、己の枕に陣取って。

「・・・暑ぃなら離れろよなぁ」
「えー?!嫌よ!」

一体何を言っているのか。妓夫太郎にしてみればこちらの台詞としか言えない顔をして、梅はお気に入りを取られまいと益々柔らかな枕に顔を埋めた。

「良いでしょ。今日は独り占めさせないんだから」
「・・・日本語は正しく使えよなぁ。それを言うなら今日も、の間違いなんだよなぁ」

まるで滅多に会えない様な口振りであるが、他でも無い梅が日々に張り付いている故に、妓夫太郎は昨日も一昨日もこれまでも彼女を独占出来た試しが滅多に無い。
ぶちぶちと小言を言いながらも要求通り室温を下げて戻った妓夫太郎のすぐ隣で、膝を提供し続けているがそっと梅の頭を撫でた。

「梅ちゃん。風、当たり過ぎてない?大丈夫?」
「何よ。こんなの全然・・・」

外は六月とは信じ難い猛暑だ。エアコンと扇風機の二段構えに飲むアイスを手にして漸く快適と呼べる。
そうして心配の声を鬱陶しく否定する為にごろりと角度を変えた梅は、不意に目を丸くした。
背を向けて寝転がっていた間に、の肩に先程までは無かった薄いカーディガンが掛けられている。彼女は梅の拘束により動けない。知らぬ間に兄が用意したのであろうことは明白だったが、思えば誰の了解も得ずに室温を下げ続けていたことに、今更ながら梅は罰が悪そうな顔でを見上げた。

「・・・アタシは平気だけど、寒いの?」

そんな梅を見下ろす彼女の表情が、ふわりと綻ぶ。
心配も罪悪感も不要だと、優しく頬を撫でる手が物語った。温かな陽だまりの様な赦しに、美しい顔を曇らせる不安がゆるゆると解けていく。

「二人とくっついてるから、寒くないよ」
「・・・ふふっ、そうよねぇ」

すんなりと上機嫌に笑い、梅は再度に背を向けてテレビへ方向転換した。当然の様に差し出される膝枕に、催促せずとも優しく頭を撫でてくれる手が心地良い。ほんのお返し程度ではあったが、彼女の丸い膝小僧を撫で返す手は親愛に満ちていた。
そうして腰から下を守られる感覚に、は目を細めて微笑む。用意された薄いカーディガンごと肩を摩る様に抱かれるタイミングが重なった。

「・・・無理すんなよなぁ」
「してないよ。心配してくれてありがとう」

膝の上に寝転がる梅然り、隣に掛ける妓夫太郎然り。二人分の体温にぴたりと寄り添われているのだから、直撃の冷風を受けても寒くないという感想に嘘は無い。
気を遣って準備された上着も手伝い感じる温かさに、の口許から堪えきれなかった溜息が零れ落ちた。落胆ではなく、空気が優しく彩られる様な、実に満ち足りた色濃い溜息だった。

「なぁに?今のご機嫌な溜息は」
「あ。聞こえちゃったかな」
「生憎、無視出来る距離じゃねぇからなぁ」
「ふふ、それもそうだよねぇ」

膝の上で身動ぐ綺麗な髪も、自然と顔が近い隣との距離も。
何もかも愛おしく、は堪らない気持ちになってしまう。

「外は梅雨どきに真夏の異常気象だけど。快適な部屋でふたりとくっついて、まったり寛げてる」

三人して寄り添ったままテレビを見ている為、誰とも視線は交わらない。

「恵まれた環境で大好きな二人を独り占め出来る私は、本当に幸せ者だなぁって。そう思ったの」

けれど、が如何に柔らかく微笑んでいるのか。これ以上無いほどに、満ち足りた目をしているのか。
それが不思議と伝わる感覚に、兄妹の青い瞳が同時に綻んだ。

「そうよ。アタシもお兄ちゃんも独占出来るなんて特別中の特別なんだから」
「うん、感謝してます」
「だからずーっとこうしてて。この膝はアタシのよ。一日中動いちゃダメ」
「えー?身動き禁止は困っちゃうなぁ」

困ると言いながら、嬉しそうな声色でが小さく笑う。妹と最愛が戯れ合うという何より尊い光景を片腕に抱いて、妓夫太郎の頭がこつりと隣へ傾いた。
同じシャンプーの筈が、特別落ち着く香りがするのは何故だろうか。

「お前の言葉、そっくりそのまま返すからなぁ」
「本当?だったら嬉しいけど」

幸せ者は自分達の台詞だと軽く体重をかけられ、くすぐったそうに目を細めたの挙動が、不意にぴくりと静止した。
前を見ていろと彼女の鼓膜でしか拾えない低い囁きが直接注がれ、柔く啄む様な熱が米神に、耳朶に、ひっそりと足跡を残していく。
左肩を抱く大きな手の力が心なしか強まり、かと思えば薄く笑う様な吐息が敏感な耳元を掠め、膝に梅を乗せている為微動だに出来ないもどかしさと背徳感で彼女が下唇を噛んだその刹那。

「ちょっと。背中向けてるからってバレてないと思わないで」

厳しい指摘が飛んだ。
同時にごろりと上向いた青い瞳に射抜かれ、はぎくりと肩を強張らせたが、妓夫太郎の手は左肩から離れて行く気配が無い。
あわあわと目を泳がせる彼女を介して、兄妹は眉を顰め牽制し合う。

「言った筈よ。今日は独り占めさせないって」
「俺も言ったつもりだけどなぁ。まともに独占出来てねぇってよぉ」

兄妹は基本的には似ていない。しかし、ふとした瞬間の表情は写し絵の様にそっくりで。
小さく火花を飛ばす同じ瞳に挟まれていると感じた瞬間、の肩から力が抜けた。

「・・・っふふ」

堪え切れない笑みが溢れる。

「なぁによ?」
「どしたぁ?」

同じトーンで集まる視線は、やはり写し取られた様な美しい青だ。

「ううん、何でもない」
「何それ。誤魔化したってダメなんだから」

は肩を揺らし微笑んだ。
梅の言う独り占めの対象は恐らくひとりでは無いが、大切に思われていることは有難くも確かな話だ。
何にしても、兄妹と同じ輪に入れるだけで途方も無く胸が温かい。
今彼女は誰に脅かされることもなく、傍にいたい二人と共に在れる。

「私は、世界一の幸せ者だなぁって」

なんて平和で愛おしい時間だろう。
数拍遅れて返って来た、呆れた様なそれでいて優しい苦笑は、鏡の様にそっくりで。
三人は涼しい部屋の中、益々ぴたりと寄り添った。

付いているだけで関心の向けられないテレビからは、変わらず晴天の中継が流れ続けていた。

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