アルバイトのひまわり




「すっ・・・素敵!!可愛いっ!!」

言葉のひとつひとつから、羽が生えて軽やかに飛んでいきそうだ。
アルバイトの彼女は雇用主夫婦の世界をほんの数秒でも長引かせようと、厨房の手前で足を止めた。

「はああ・・・キュンキュンしちゃう!どうしてこんなにキラキラしたケーキが作れるのかしら!小芭内さんは天才ね!」
「・・・君が手伝ってくれるからだ」
「えっ?!も、もう、小芭内さんったら・・・!!謙遜することないのに・・・!!」

謙遜どころか、彼は客の為ではなく妻の喜ぶ顔が見たいが為だけに腕を振るっているのだろう。愛する妻が手伝ってくれたケーキだ。彼のプライドにかけて失敗させる筈が無い。仲睦まじいやり取りを耳に、は自然と頬を綻ばせた。

本職のケーキ作りから軽食の提供まで幅広くこなす伊黒夫婦が経営する、遠郊の小さな喫茶店。
もっと栄えた都会であれば行列の絶えない人気店になったであろうこの店で、は平凡な大学生活の傍らアルバイトをしている。
個人雇用主としては優し過ぎるこの夫婦のことが、はとても好きだった。まるで今来たかのような流れを装い、厨房へ一歩踏み込む。

「店長、新作の場所空けました。持っていきますね」
「よろしく頼む、ひまわり」

その場の空気が瞬間固まった。
ひまわり。それはの名では無い。
伊黒の眉が後悔に歪み、重々しい溜息と共にその視線が外された。

「・・・すまない」

しかしながら、伊黒がこのアルバイターをひまわりと誤って呼ぶことには当然理由がある。
は苦笑を浮かべながら両手を胸の前で振って見せた。

「い、良いんです。私も何だか、最近その名前がしっくりき始めてて・・・」
「本当?私も時々、ひまわりちゃんとか、ひまちゃんとか、咄嗟に呼んじゃうのよね。でも、貴女の可愛いお名前、忘れた訳じゃないのよ」
「奥さんもどうかお気になさらず。呼びやすい方でお願いします」

ひまわり。それはにつけられた渾名である。

命名はこの雇用主夫婦ではなく、ここ最近彼女の出勤日に決まって現れる女子中学生なのだけれど。
従業員が胸元につける名札、そこに蜜璃がだけに貼ってくれた向日葵のシールは可愛らしく少々目立つものだったが、まさかそのまま周りに波及するほどの呼び名に定着するとは思いもしなかった。数少ないアルバイト仲間の間でも、ひまわりと呼ばれるほどなのだ。
もはやこの店にいる間はそう改名しても良いのでは。自身、そう思うほどに気に入っていた。ひまわりという呼び名も、そして、その名付け主も。

「それにしても、すっかり懐かれたわね。今日も来てくれるのかしら」
「月初めにシフトも確認しているくらいだ。恐らくもうじき・・・」

時計は午後三時半を回った。

「ひまわりー!!」

扉の開閉で揺れる軽やかなベルの音、続いて遠慮無しの大声が響き渡り、三人は顔を見合わせ表情を緩ませた。

「・・・来たな」
「ふふっ、陳列は私がしておくから、おもてなしお願いね」
「はい」

厨房とフロアを繋ぐ、ほんの短い距離を抜けて顔を出す。
今日も眩ゆい白髪を揺らす美少女が、両手を腰に当てて仁王立ちしていた。

「いらっしゃいませ、梅ちゃん。いつもの席で良い?」

ここからすぐ近くの中学に通う美少女の名は、謝花梅という。
気難しそうな表情は目当てのの登場を経て、甘えを全面に出したものへと一変した。

「ん!疲れたぁもう!小テストふたつもあったんだからぁ!褒めてよぉ!」
「ふふ、それは大変だったね。お疲れ様」

客と従業員の距離感としては、若干正しくないかもしれず。しかしこの小さな喫茶店の中では店主の意向や疎らな他の客の理解もあり、の腕に纏わりつく梅とその頭を撫でる彼女の姿は、最早日常と化しつつあった。
ほんの数年前までランドセルを負っていたであろう中学生に懐かれることは、大学生のにとって可愛い妹が出来たような嬉しい錯覚を齎した。

「今日のおすすめ、なに」
「なんと今日から新作がインしたよ。マスカットのムースケーキ」
「何それ美味しそう!それにする!」

窓際の定位置にエスコートする最中、背後で新作を飾る蜜璃が楽し気に忍び笑いを漏らした。




* * *




梅は大抵午後三時半から四時の間に現れ、ケーキセットを注文する。
他の店員では誰ひとり扱いきれぬ横柄さで大暴れしていたこの美少女は、何故かを一目で気に入るなりぴたりと高飛車を潜め、喫茶店には平和が訪れた。
今日も梅はすすめられたケーキとそれに合う飲み物をオーダーし、時に彼女の仕事の隙を狙って構えと甘えたり、時に不機嫌そうな顔で唸りながらも学生らしくノートを開いたり、そうこうしている内に陽は落ち始め午後六時が迫る。

そろそろだろうか。ケーキのウィンドウを丁寧に拭きながらがぼんやりとそう感じると共に、どこからともなくバイクの音が轟いた。
騒音には程遠いが存在感のある低い音、それは店の前で停止して静けさが暫し訪れる。
扉の開閉とベルの音、ひとの気配。来た、とは静かに瞬いた。
返答は無いことを承知の上で、いらっしゃいませ、と声をかける。今日も変わらぬ繋ぎ姿と細身ながら長身の彼は、案内も必要とせず窓際の席へと進んだ。

「梅ぇ、帰んぞぉ」
「お兄ちゃん!」

ぱっと顔を上げるなり満面の笑みで飛び付いてきた妹を軽々と抱き留める背中は今日も逞しく、はこっそりと苦笑を漏らす。
澄ました顔は中学生とは思えぬ美貌の梅であるが、あの兄を前にしてはほんの幼い子どもの様に笑顔が輝いている。いくらが特例として梅に懐かれていようが、彼女が梅を妹の様に可愛がっていようとも、本物の兄を前にしては手も足も出ない。ちょっとした羨望であると同時に、いつまでも眺めていたい優しい光景だ。

「ねぇ聞いて!アタシここにいる間に宿題仕上げたのよ!凄いでしょ!」
「そりゃあ偉いなぁお前は・・・。生徒の鑑ってやつだなぁ」
「ふふっ!」

妹を前にして緩み切る彼の声、そして上機嫌な梅の笑い声。

「まぁ、ちょっとだけひまわりにも助けて貰ったけど」
「えっ」

思わぬところで自分の存在を挟まれ、はぴくりと肩を強張らせた。
ほんの一瞬の空白を挟み、彼がこちらを振り返る。ひまわりですなどと名乗った覚えも無ければ、まともに会話をしたことも無い。ただただ事務的な会計の数秒しか接点の無い彼は、どうやら彼女がひまわりと呼ばれていることを理解している様であったが、突然の橋渡しはの心臓に負担しか齎しはしなかった。

「・・・」
「あっ、いえいえ、私なんかは一言二言口出しただけですよ。全部妹さんが頑張ったので」

妹とまったく同じ色をした瞳と視線が交差し、妙にドギマギとする胸中を抑え込みながらは笑顔を貼り付ける。言葉は多少早口にはなったが、噛みはしなかった。

「お会計ですよね、こちらです」

彼が梅を迎えに来る。テーブルには置かないスタイルの伝票でレジ会計をする。梅と挨拶を交わして見送る。その間、彼は声も発さなければ視線も絡まない。いつも通りだ。

「ケーキセット一点で七百五十円です」
「・・・」
「千五十円お預かりします、三百円とレシートのお返しです」

いつも通りの筈が、ほんの僅か手先がぶれる。釣銭を手渡した際に指先が大きな手のひらを掠めてしまい、は危うく目に見えて動揺するところを寸前で堪え切った。
貼り付けた笑みのまま、ゆっくりと顔を上げる。彼の青い瞳と正面から視線が噛み合い、またもや胸の中は酷く騒ついた。

仕事中、仕事中。
念仏の様にそう脳内で繰り返し、気怠げな瞳が逸れるのを辛抱強く待つ。

「じゃあねひまわり。ケーキ美味しかったわ」
「ありがとう。またね、梅ちゃん」

横から梅が入ってくれたことは、にとって大きすぎる助け船だった。手渡されたヘルメットを両手で抱きかかえる様にして梅が踵を返す。それに続く彼が扉を押さえ、そして最後にもう一度、目が合った。これほど実際に視線が絡む日はかつて無い。

「ありがとうございました」

深く頭を下げる寸前、きちんと営業用の笑顔が出来ていたか、正直自信が無い。しかしベルの音を最後に閉ざされた扉と少しの静寂を挟み、兄妹を乗せたバイクの音は店から遠ざかっていった。は鈍い動きで頭を上げ、知らず知らずのうちに細い溜息を漏らす。

「お疲れ様」
「っ・・・!!」

後ろから肩に触れられ飛び上がる程驚いてしまったことは、張り詰めていた糸が切れたとしか言いようの無い醜態だった。負けず劣らずびくりと肩を揺らした蜜璃が心配そうに眉を下げる。

「えっ?!ご、ごめんなさいびっくりさせちゃって・・・!!」
「いっ、良いんです、こちらこそすみません奥さん、少しぼーっとしてたみたいで・・・」
「疲れてるのかしら。いつも一生懸命働いてくれているものね」

頬に手を当て小首を傾げる蜜璃に、心底癒される思いがする。
今日は心臓に負担がかかり過ぎた影響で随分と疲れてしまい、は曖昧な笑みを浮かべて見せた。

「表は私が見てるから、奥へどうぞ。小芭内さんが賄い準備してるわ。今日はね、ナポリタンよ!」
「わ。嬉しい!いつもすみません・・・それじゃ、少し休憩いただきます」

優しい心遣いに癒される。アルバイトの身で大切にして貰えている有難さを噛み締める。
は厨房へ続く短い通路へ入り、表情を強張らせた。



言えない。

ここ最近眠りに落ちる度、あの青い瞳と至近距離で視線を交わし合っていることも、あの大きな手で頭を撫でられていることも、あの長い腕で抱き寄せられたことすら幾度もあるなど。

貴方と恋人同士の夢を度々見ています、だなんて。決して、言える筈が無い。実際に交わした視線に痛い程心臓が波打ったことも、明かせる筈が無い。



は自らの頬を両手で強めに打ち、ひとつの深呼吸を切り替えとして厨房の扉を開く。
ナポリタンの香ばしい匂いがした。

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