地獄花は月夜に消えた



澄んだ水の中を、沈んでいく。
光も音も届かぬ深淵へ、背中から静かに落ちていく。
ゆっくりと遠去かる水面は酸素の届かぬ証の筈が、息苦しさを感じないことにぼんやりと疑問を覚えた、次の瞬間だった。

果てのわからぬ水底から、得体の知れない何かに頭を鷲掴みにされる。
穏やかに揺蕩う青い光が、一瞬で赤く塗り潰される。
本能的な恐怖に目を見開いたが、身体は指先ひとつ自由には動かせなかった。

『探せ』

脳裏に直接響く声は氷の様に冷たく、それでいて内臓を焼こうと業火を上げる。途端に呼吸を封じられ、激しい気泡が口から溢れ出た。
声の主を知っているからこそ、はっきりと理解出来る。
無駄だ、逃れることは叶わない。

『青い彼岸花を、探せ』

赤く澱んだ視界に、一条の光が差し込む。
悪寒と灼熱地獄の中、真っ直ぐに心臓へ伸びてきたそれにより呼吸と自由を取り戻す。

妓夫太郎は夢から醒めた。




* * *




良好とは呼べない気分を、妓夫太郎は水で喉の奥へと流し込む。照明は最小限に薄暗いままのリビングで深く息を吐き出し、規則的な時計の音にのみ浸っていると、乱れた心音を幾分か誤魔化せる様な気がした。

今更だ。兄妹揃って再び生まれてからは何の関わりも無い、恐怖に縛られた遠い過去の記憶。この様な悪夢は滅多に見ない筈が一体どうしたと言うのか。眠りに戻る気分には到底なれそうもなく、朝までも遠い。なんとも恨めしい夜だ。

「・・・どうしたの?」

控えめな呼びかけに振り返れば、そこに佇んでいるのは先ほどまで同じベッドで寝ていた筈の家族だ。妙な時間で眠いだろうに、の穏やかな笑顔はあまりに普段通りで、妓夫太郎は罰の悪さに頭を掻いた。

「・・・悪ぃ、起こしちまったなぁ」
「ううん、平気。喉渇いてたから、丁度良かったの」

寝巻に薄いカーディガンを羽織り、スリッパの音を軽く立てて冷蔵庫を開けたは、コップ半分の水を飲み干すと傍へ寄って来る。照明は依然として最小のままだった。

「くっついて、良い?」
「・・・おぉ」

律儀な問い掛けは配慮の表れだ。苦笑混じりに妓夫太郎が返した応に、正面から抱きついて来る妻は寝起きの為か非常に温かい。重苦しかった気分がじんわりと溶かされていく様だった。

「多分なぁ、嫌な夢だった。もうはっきり覚えちゃいねぇが」

人間では無かった頃の絶対的な恐怖など、正直に話したところでを困らせてしまうだけだ。そうして極力声を静めた嘘に、果たして勘の良い妻が騙されてくれるかまでは読み切れないけれど。

「そっか」

は簡潔で優しい声色の返事をする。それ以上は何も追及しない代わり、唐突に抱擁を解かぬままの前進をしたがった。体格的に決して抗えない訳では無かったが、妓夫太郎は合わせる様にゆっくり後退をしながら腕の中を覗き込む。

「・・・どうしたぁ?」
「んん、そのままあと五歩、バックオーライ」

ゆっくりと左右に揺れながら、段々と窓際へ近付く。背に回っていたの手が瞬間離れたかと思えば、その細い手によって閉ざされたカーテンが勢い良く開かれる。

「・・・」

見事な満月が、暗闇に優しく浮かんでいた。

「月が綺麗ですね」

その言葉が文字通りの意味でないことくらいは知っている。
うずうずと期待に輝く黒い瞳を見下ろし、妓夫太郎は瞬間言い淀んだ末に溜息を吐いて見せた。

「・・・生憎だが、俺は昔の作家を気取るつもりはねぇからなぁ」
「ふふ。残念」

残念。そう言いながらも、腕の中から動こうとしない妻の表情は愉しげだった。

「今日はとっても良い月夜だって、天気予報で言ってた。忘れたまま寝ちゃったから、今一緒に見れて良かった」

まず夫の顔を見上げ、次に夜空に浮かんだ月を見上げ、そしてはうっとりとした顔で頬を擦り寄せる様に、零の距離を更に詰める。
優しくもどこか力強い抱擁が、確かに自分を此処へ繋ぎ止めている。不思議と強くそう感じた。

「素敵な夜をありがとう」

真夜中に起こされたことに腹を立てるでもなく、月夜を喜ぶ。恨めしいと感じていた長い夜も、にかかれば“素敵な夜”に早変わりだ。胸の内に込み上げる柔らかな波に、妓夫太郎は自然と目を細めてしまう。

「・・・お前には敵わねぇなぁ」
「そうだよぉ。どんな悪夢も、向こう側からの悪戯だって、全部私がやっつけるから」

ふと、その言葉に引っ掛かりを感じた。

「・・・向こう側?」
「うん、お彼岸だから。向こう側」

がすんなりと口にする単語、彼岸。
日中に少々遠方へ赴き、彼女の祖父母に当たる人物の墓石に向かい手を合わせたことは記憶に新しい。

墓地の近くに群生していた赤い花。燃える炎の様な、それでいて意思を持つ生き物の様なそれを視界に入れた時の胸の騒めきを、思い出す。
見違え様も無い鮮烈な赤。しかし潜在的な記憶がそう錯覚させるのか、斑らに冴えた青が混ざり込む。
悪夢の形を借り再び現れたそれはの言う“向こう側”とは少々異なるだろうが、今に至り尚刻み込まれた恐怖心は拭えない。

彼岸。
彼方側と此方側の境界が曖昧になり、あの様な体験をしてしまったのだろうか。
夢と現実が混濁しようとするその最中、元より絡みついていた手に背中を撫でられる感覚に、妓夫太郎は我へと還った。

「勿論良いご先祖様なら大歓迎だけど、そうじゃない悪戯はお断り。今日はお墓参りも付き合ってくれたし、妓夫太郎くんはゆっくり労わられるべきだよ」

不安に揺らめいた意識が、優しく引き戻された。明確な体格差も、男女の力の差もまるで意味を成さない。今宵誰より頼もしく強いのは、腕の中にすっぽりと収まる妻に違いない。上向いた黒い瞳と、視線が絡む。いつまで経っても薄らぐ気配の無い好意を乗せて、が笑った。

「大丈夫。夢でもひとじゃない何かでも、相手が誰だって私は負けないよ。大事な旦那さん、私が絶対に守って見せるから」

悪夢に肩を揺らし覚醒した瞬間、この胸元に頭を擦り寄せ寝息を立てるの姿にどれほど救われた思いがしたことか。
苦痛にもがく最中届いた光の正体が、何だったのか。
誰にも負けない。絶対に守ると笑う妻の有り難みに込み上げるのは、途方も無い愛おしさだ。

「・・・そりゃあ、心強ぇなぁ」

底知れぬ恐怖も、悪夢に繋がれた不安も。例えかつての始祖からの人智を超えた干渉であろうとも、この温かさを前にしてしまえば緩やかに溶けて消える。
妓夫太郎が堪らない思いに額へ口付けた次の瞬間、の瞳が丸くなった。

「あっ・・・」
「どしたぁ?」

視線が虚空を彷徨ったかと思えば、いや、でも、と口籠もり、そしてが小さな苦笑と共に肩を竦める。

「・・・前言撤回。梅ちゃんにだけは、白旗上げちゃう」

不敗の例外。絶対的に大事な妹には敵わないと眉を下げる彼女の表情は、やはり優しい。心の内側からくすぐられる様な甘やかさに、妓夫太郎は思わず口の端を僅か緩めてしまう。

「安心しろ、そこは俺も無条件で降伏だからなぁ」
「ふふ、そうだよねぇ」

軽やかな笑い声が、耳に染み入る様に馴染んでいく。すっかり穏やかさを取り戻した月夜。何にも変え難い思いに、妓夫太郎は妻を抱き寄せる腕を僅かに強めた。

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