そして夜は明けた



温かな何かに包まれている。身動きは出来ないが、不思議と不安は無い。ああ、母の腕に抱かれる赤子はこんな気分なのだろうか。何故か漠然とその様なことを思い浮かべながら、妓夫太郎は重い瞼を押し上げた。
視界を縁取る景色が凄まじい勢いで流れ去っていく。小雪の舞う夜空は恨めしいことに変わりない筈が、致命的な寒さは感じなかった。痛みなどとうに麻痺した動かぬ身で眼球だけを動かす。一体何が起きたのか。朦朧とする意識と頭を働かせるより先に、この身を抱きかかえ移動しているであろうの顔がすぐ傍に映り込んだ。
師匠。兄妹でそう呼ぶ相手に対し、疑問より先に本能的な心弛が芽生えた。

「・・・し、」

喉に血の塊が詰まったのか、それは思う様に声にはならなかった。しかし切り裂く様な風の轟音を物ともせず、女は酷く頼りない呼びかけを容易く拾ってくれる。
普段何かと子ども扱いをして愉快そうに微笑んでいる美しい顔が、目と目が合うことでの安堵と激情に歪む瞬間を、妓夫太郎はぼんやりと見上げるしか無かった。

「っ妓夫太郎・・・」

らしくもなく語尾が震えている。最初に示した色は動揺、そこから冷静さを保とうと女が懸命になっていること。説明のつかない速度で流れていく景色、そして、が逆の腕で何を抱え込んでいるか。
今宵自分たち兄妹を襲った悪夢を唐突に理解し、妓夫太郎は出来得る限りの力を振り絞り息を吸い込んだ。

「・・・たの、む」
「喋るんじゃないよ。じき安全な場所に、」
「梅、を・・・」

妹を、救って欲しい。
黒焦げになってしまった愛すべき家族は、少なくとも妓夫太郎が意識を失う寸前までは必死に心臓を動かし続けていた筈なのだ。知り合って以降、夜になる度現れては交流を繰り返してきたこの女が何者でも構わない。梅の命を救ってくれるならば、悪魔にでも喜んで傅ける。
妓夫太郎の言葉はやはり思い通りの形は成さなかったが、は全てを理解し力強く頷く。

「必ず、助けるよ。二人とも、絶対にこのまま死なせたりしない」

女の言葉は頼もしい。しかし、その瞳はこれまで見たことが無い程に思い詰めた色をしていた。




* * *




意識が戻ると同時に感じたのは痛みだった。受けた刀傷に沿う様な鈍い熱、しかし痛みを正常に感じることも、呼吸を繰り返しても血の味がしないことも、危うかった境目から生きる方向へと大幅に巻き返したことの証だ。
見たことの無い天井、木の香り、遠くで火が爆ぜる音、寒さを感じない空間。未だ混乱する頭を横へ動かし、妓夫太郎は漸く案じていた存在と隣り合って寝かされている現状に気付いたのだった。

「・・・梅」

愛らしかった白い横顔は、やはり見る影も無かった。しかし人間とは思えぬ程黒く焼焦げた惨状とは違い、その肌は火傷の影響で赤黒い。重症には違いないが、少なくとも前進している。
目を見張る妓夫太郎のすぐ傍、横たわる二人の間で石の様に微動だにしなかった女の影が、少々遅れて片割れの目覚めに気付き揺らめいた。

「痛くて寝てられないか。無理も無いね、まだ傷を塞いだだけだから」
「・・・師匠」

妓夫太郎に背を向けて梅へ向かうが、こちらを振り返る。傷を塞いだだけ。まるで至らなさを恥じ入る様な口調に流され、命を救われたことに気付くまでに少々時間がかかってしまった。

「悪いけどもう少しの辛抱だよ。梅の方を先に何とかしたら、あんたも眠れるようにしてあげるから。今は目だけでも閉じておきな」

普段通りの声、変わらぬ子ども扱い。しかしその米神に走る裂傷の如き深い筋と、梅の身に翳す手から発せられる白い光、そしての額に浮かぶ玉の様な汗に気付いてしまい、妓夫太郎の心臓が大きく跳ねた。

「・・・っ師匠、何、して」
「見苦しいのはわかってるよ。ただ、今だけは多目に見ちゃくれないかね」
「んなこと・・・っ」

何故気付かなかったのか。どう見てもは苦しんでいる。恐らくは、兄妹の命を三途の川から遠ざけた分だけ。
人智を越えた現実と動揺に声を荒げようとした妓夫太郎だったが、途端に背筋の熱源が痛みを主張しそれ以上の言葉が続かなくなってしまう。声を殺して呻く妓夫太郎を振り返りざまに見遣り、は飄々とした口調で優し気な苦笑を浮かべた。

「ほぉら、言わんこっちゃない。傷に響くから、大人しくしてるんだね」

梅の赤黒い肌がじわじわと甦っていく奇跡的な光景を目の当たりにし、妓夫太郎は乱れる心音をそのままに女の背へ視線を動かした。
見られることを恥じているのか、それとも心配をかけまいとしているのか、先程より前のめりに丸みを増した後ろ姿からはこれ以上無い程の誠意が滲み出ている。
は間違いなく命の恩人だ。しかし、その分負担を強いている。恐らくは、正しく理解が追い付かない程に強大な負荷だ。

「・・・梅だけ、助けてくれりゃあそれで良い」
「妓夫太郎」
「俺はもう良い。傷が塞がっただけで十分だからなぁ」

己の無力さは痛い程にわかっている。こんな身で何が出来るのか。懸命に頭を働かせた末の強がりは、呆気なく看破されてしまう。

「あんたね、そんな成りで何遠慮して、」
「師匠が俺たちと“違う”のは・・・わかってるつもりだ」

或る闇夜に知り合って以降、濁り切った街で兄妹が生きていく為、隙間を縫う様な安全を教え導いてくれた女だった。陽の高い内には姿を見せず、夜の闇にのみ明るい美しい女。何事も渋ることなく教示する姿勢から試しに師匠と呼んでみたところ、思いの外喜ばれたことから呼び名が定着して今に至る。
そんな師が、恐らく人間とは違う枠組に生きていることを、妓夫太郎は前々からぼんやりと悟っていた。知っていて尚、が周りの人間たちより余程情に熱く信頼出来ると感じ、妹が素直に懐く様を穏やかに眺めていられたのだ。今になり決定的な差異を示されたところでどうとも感じる筈が無い。

「けど、“助ける”ってのは・・・師匠の何かを、削ってるんじゃねぇのか」
「子どもが余計な心配するんじゃないよ」
「誤魔化すなよなぁ・・・!」

声を張ることでの痛みに負けじと、妓夫太郎は歯を食い縛る。
女が人間でないことなど構わない。しかし、自分達を救う対価にが苦しむと言うなら話は別だ。他の人間とは違う、蔑みも嘲りもしない存在はどうしたって害せない。見逃せない。
此処に至り尚子どもと呼ばれたことへの憤りか、対等に話せぬことへの嘆きか。懸命の訴えは加速度を増して届いた様で、は根負けしたかの様に溜息を吐いた。梅に片手を翳し続けたまま、その身を捻る様にして女が妓夫太郎の方へ身体ごと振り返る。

「・・・確かに消耗はする。けどね、察しの通り私とあんた達は“違う”から。多少疲弊したところで、時間を置けば元通りさ」

汗を拭うその表情は確かに疲れが滲む。しかし、やはり妓夫太郎にとっては師と呼ぶに相応しい存在だ。
救済と引き換えの消耗はじきに回復する。その言葉が真実であると、すんなり胸の中へ落ちていった。

「心配いらないよ、妓夫太郎。約束は必ず守るし、優しいあんたを悲しませるようなことは絶対にしないから」

全て信じ、全て教える。そして、全てを守る。
かつて交わした約束を持ち出し微笑むの瞳は、妓夫太郎の知る言葉では表現が叶わないほどに複雑な色をしていた。

「二人とも元気にして見せる。これからは、私があんた達の人生を守る。もう何も失わない様に、身体も環境も全部整えるからね」

白く細い指先が伸びてくる。これ以上の回復は不要と突っ撥ねる筈が、妓夫太郎はそれ以上の虚勢を失った。
の瞳に、光る何かを見つけてしまった為だった。

「・・・師匠?」
「痛かっただろう・・・寒かった、だろう」

依然として身体中に不可解な筋を浮かべたまま、人間とは決定的に違う証を体現したまま。しかし、これ以上無い程優しく頭を撫でる手も、声を詰まらせまいと懸命に言葉を紡ぐ口元も。何より、美しい雫を溢す目元の誠実さは、妓夫太郎の知るどの人間よりも温かく映った。

「遅くなって、本当にすまなかったね」

白い手元から何かを施された。それを悟ると同時に、妓夫太郎は意識を穏やかに手放したのだった。




* * *




次に目を開けた際にも、妓夫太郎は高い天井に目覚めを迎えられた。
屋内は薄暗いが恐らく今が日中であること、背中の鈍い痛みが消え失せていること、何故か空腹を感じること。ぼんやりとした意識をひとつひとつかき集め、そして。

「っ梅・・・!!」

最も大事なことを案じ跳ね起きた次の瞬間、妓夫太郎は隣の布団に横たえられた最愛の妹の姿を目にした。
美しいと町中の評判で、しかし眠った顔はほんの幼い頃のまま。黒く焼け焦げた惨事は夢だったのではないかと思う程に、普段通りの愛らしい寝顔がそこにあった。上掛けごと規則的に上下する胸は妹が息をしている証に他ならない。

「・・・生きてる」

ぽつりと、そう呟く。
生きている。元に戻せと天に向かって叫んだ通り、梅はこうして穏やかな顔をして眠っている。
願った以上の奇跡が起きた。無意識に握り締めた手元の柔らかな感触が、妹がくるまっているものと同じ温かな布団であることに気付き、数拍。

「大丈夫。起きるにはまだ少しかかるだろうけど、間に合ったよ」

背後からそっとかけられた声に、勢いよく振り返る。手拭いと桶を手にしたが、妓夫太郎のすぐ傍に屈みこんでいた。大丈夫だと、改めて告げられた妹の命を保証する声に胸の奥が熱くなる。

「妓夫太郎が大事に抱えてくれてたお陰さ。よく、頑張ったね」

白く細い手はもう光を発しておらず、女の姿のどこにも険しい紋様は浮かんでいない。人間と何も変わらぬその姿で、あの町の誰より大きな慈しみをもって頭を撫でられる。兄妹揃って、命を救われたのだ。

「師匠、俺・・・」
「あんたの調子はどう。痛いところ、辛いところ、隠さず言うんだよ」

礼を口にしようとしたが、何故か喉が塞がってしまう。どんな言葉を尽くせば良いのか、何から順番に詫びれば良いのか、皆目見当が付かない。口籠る内に水で濡らした布で優しく顔を拭かれ、妓夫太郎は慣れない甲斐甲斐しさにその機会を逸した。

「・・・師匠の方こそ、どうなんだよ」
「安心して良いよ、これでも随分良くなったから。梅が起き上がる頃にはすっかり元通りの状態で迎えてあげられそうだよ」

今目の前で世話を焼く女が疲れた顔をしていることくらいは、妓夫太郎にもわかる。まさしく全身全霊の力を尽くし、の消耗と引き換えに自分達が助けられたことも、よくわかる。

「師匠」
「ん?」

何てことは無いかの様に振舞っているが、何をしても返せない程の命の恩人であること。塞がった傷や癒えた火傷の跡だけでは足りない。汗や汚れを拭き取られた身体も、温かな布団も、何もかも。この身に受け止めるには大き過ぎる幸いに、妓夫太郎は心の奥底から戸惑った。

「俺も梅も、これだけして貰っちまったが・・・払えるもんが、何も無ぇ。こんなでけぇ借り・・・何をすりゃあ返せるのか、俺の頭じゃ思いつかねぇんだ」

何をするにも対価は必要な筈だ。しかし、一銭も持たぬ痩せ細った身で何が出来るのか。これまで幾度も交流を繰り返してきたに対し、覚えの無い緊張が芽生え妓夫太郎は布団を握る手を固くする。折檻に恐怖は無い。しかし、この女に見限られることは何故か怖くて仕方が無い。

「・・・まったく」

呆れた様な声、延ばされる白い腕。思わずびくりと震えた肩を包まれ、妓夫太郎は瞠目した。
布団の上で起き上がっていた上半身を、ゆっくりと抱き寄せられる。抵抗の気持ちを覚えることなく、妓夫太郎はすっかりの両腕に包み込まれてしまった。

「頭は良いのに。ばかな子だよ」

何故だろう。馬鹿という言葉は良い意味で無いことを知っている筈が、今どんな単語より優しい響きに聞こえて仕方が無い。

「あんた達が今日を生きてる。これから先、健康に育って歳を重ねていく。私にとってこれ以上の喜びは無いし、傍で見守れるならこれに勝る幸せも無いんだよ」

他人に向ける無償の愛情など知らない。知らない筈の夢物語が、こんなにも温かな現実としてこの身を包む。

「なんで、そこまで・・・」

妓夫太郎は喉から零れ出た自分自身の言葉に、はっとする。同じ様なことを、この女に以前問うたことがある。
何故赤の他人の自分達に構うのか、何故見返り無しに信じようとするのか。ごく自然な疑問に対し、が返した言葉も、よく覚えている。

「良いよ、何回だって言えるからね」

同じことを思い起こしていたのだろう。が緩く笑う気配と共に腕の力が僅か強められ、妓夫太郎は自身の鼓動が高鳴る音を感じ取った。まるであの真っ直ぐな言葉を期待しているかの様な、この高揚感は何だ。

「あんた達二人が、私の初恋だから」
「・・・」
「妓夫太郎と梅、ふたりの幸せが私の幸せなんだよ。こんな気持ち、随分長く生きてきて初めてさ」

以前は好きだからだと言われた言葉が、いつの間にか恋へと昇華している。相変わらずの言葉には嘘の気配が無い。その上、兄妹の幸せが女の幸せだとまで言い切られてしまえば成す術が無いではないか。
動揺と認め難い喜びの波に翻弄されるまま、妓夫太郎は懸命に両腕を張っての身体を押した。離せとは強く言えず、指先に触れた柔らかさにもどきまぎとしてしまったが、熱い頬で強引に顔を逸らす。

「何だよ、好きだの恋だの、師匠は頭がおかしいんじゃねぇのか・・・」
「そう?手紙を遣り取りしてる私の友達も、それは初恋だって返事くれたけどねぇ」

飄々とした口調、柔らかな微笑、そして変わらず頭を撫でてくれる大人の手。人間の枠組みやこれまでの理解からは遠く、しかし誰より兄妹の近くで慈しんでくれる存在。
これ以上は、突っ撥ねることなど出来はしない。梅と一緒にこの命を救われた。何より、もうこの温かさを知らなかった頃には戻れない。

「・・・教えてくれ、師匠」
「良いよ、何を知りたい?」
「全部だ」

特別な対価は不要だとが言うのなら、納得はいかないながらも従う他無い。
しかし、これから先共に在れるならば少しでも並び立ちたい。

「師匠のこと、全部教えてくれ」

のことを知りたい。
人間でないことも、不可思議な力も、消耗度合いも何もかも。今は何の役にも立てぬ身だとしても、いつかは。
強い使命感と生きる気力に満ちた声を受け止め、女の表情が驚きから緩やかな苦笑へと切り替わった。

「少し、長くなるよ。妓夫太郎にはまだ難しいこともあるかもしれない」
「良い。話す前から難しいって決めつけるなよなぁ」
「はは、そりゃあ失礼」

が溜息の末浮かべた自嘲の笑み。その淋し気な美しさを、妓夫太郎は生涯忘れはしないだろう。

「私はね、呪われた生き物なんだよ」

途方も無い虚無を生きる鬼の物語が、始まった。


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