インターホンのモニター越しに見つけたのは、お隣さんの可愛らしい女の子だった。学校帰りだろうか。一体何事かと扉を開けた先で、ランドセル姿のその子が私を見上げる表情は大変に可愛らしくて。
メイという名の女の子。お父さんと二人暮らしの小学生。それくらいしか知らないのに、すっかり虜になってしまう引力が働いているようだった。
「ばれんたんの、お礼です」
ばれんたん。バレンタインだよと訂正するのも憚られるほど声も可愛らしい。小さな両手から私に差し出されているのは、どう見ても手作りのチョコレートだった。お隣さんでしかない私に、天使の様に可愛い女の子からバレンタインの贈り物。嬉しいけれど、お礼をされる覚えが無いのも正直なところで。
「お、お礼?何のお礼・・・かな?」
「いつもニコニコあいさつ、元気をくれるから。ありがとうの、お礼」
「ッ・・・!!」
ゴン、と音を立てて私は開けっ放しの扉に頭から沈み込んだ。
何それ。同じマンションのお隣さんだ。勿論顔を合わせる度に挨拶はしていたけれど、可愛い笑顔に元気を貰ってるのは私の方なのに。こんな尊いことってある?
健気にも私の打った頭を心配してくれる優しい子だ。私はラッピングされたそれを丁寧に受け取り、目一杯の感謝で応えることを決めた。
「ホ・・・」
「ほ?」
「ホワイトデーはたっくさんお返し準備するからね!めちゃくちゃ嬉しいよ、ありがとう、ありがとうね・・・!」
「・・・!」
これまた可愛く編まれた桃色の髪が浮き上がるほど、輝く百点満点の笑顔が返って来る。心が芯から溶けるような思いに、私はすっかりデレデレになってしまったのだった。
「という訳なんですよ・・・」
「なるほど。それは思いがけない贈り物だったな」
―――という出来事を報告すると共に、私はとびきりの宝の如くその頂き物を掲げて見せた。
すぐ食べてしまうのは勿体ないこともあったけれど、嬉しかっただけにこのふたりに共有してから開封したい、という思いもあった。
メイがお隣の部屋ならば、ここはお隣のマンションである。近所の高校教諭の先生と、同校卒業生の典坐が同居するこの部屋に、私は日頃からお邪魔させて貰うことが多い。私も典坐より数年先輩の卒業生なので、先生の教え子仲間だ。
「バレンタインって女性から男性にってイメージ強かったんすけど、同性でも関係ないんすね」
「そりゃあね。友チョコとか家族とだって普通に贈りあうし、お世話になってる気持ちを表現する日って感じかなぁ」
いまどき女同士の交換の方が主流になりつつあるチョコ市場において、典坐の持つ印象はややレトロとすら呼べるのが現実だ。
が、しかし。私は隙を逃さない。この後輩に熱烈なアタックを続ける女の子を私は心から応援しており、日々まめに連絡を取り合う仲なのだから。
「ま、恋する女子にとっては一年に一回の特別な日だっていうのも本当だけどね!ね!ね!ヌルガイからとびきり大きなチョコ貰ったてーんざ?」
「っ・・・!自分ちょっと用事思い出したんで出て来るっすよ!すぐ戻りますから!」
顔を赤らめた典坐が転がるように部屋を出ていくことで、静寂が満ちる。私と先生は顔を見合わせ、同時に小さく笑い合った。
「・・・逃げたな」
「ですね」
ヌルガイは勿論先生とも面識があるし、私たちふたりから温かく見守られることを典坐は恥ずかしがっている。わかってはいるのだけれど、つつくことを止められないのは私のサガとしか言いようがない。
「ふふ。ヌルガイ、本命は典坐ですけど私にもチョコくれたんで、ホワイトデーはたっぷりお返しするつもりでしたけど。今年はまさかのかわいこちゃんからも貰ってしまったので、来月は腕がなりますよ!どんな計画立てようかなぁ」
「楽しそうだね」
「勿論!可愛い子たちの喜ぶ顔を思い浮かべるだけで最高に楽しいです!おもてなしって準備することは山積みですけど、受け取る側の笑顔の為ならばんばん働きますよって感じですから!」
いつも応援してくれてありがと。そんな言葉と共に差し出されたカップケーキを潰さないよう、ヌルガイをハグで迎えいれたのは数時間前のことだけれど。
さて、今年のホワイトデーはヌルガイだけじゃなくメイにもとびきりのお返しを企画しなくては。そうしてニマニマと宙を仰ぐ私の手元。ローテーブルに乗った私専用のマグカップの隣に、何かが静かに置かれた。
「そんな働き者の君に、細やかながら贈り物だ」
白く縦に細長い紙袋。自然な流れで中を覗き込んだ私の目に映ったのは、綺麗に包装された一輪の赤い薔薇だった。
瞬きの刹那、時間が止まる。何が起きたのか理解が追いつかない。
「・・・え」
「海外では男性から女性に花を贈る日だと聞くよ」
コーヒーを飲みながら、何てことは無いかのように先生はそう告げる。私だって海外の風習は知らない訳じゃないし、日々読む漫画でも男性から花を贈られるシチュエーションに憧れる読者のひとりだ。
そんな輝かしい奇跡が今、私の身に起きている。よりにもよって、在学中から長年片想いを続けている相手から、こんなにもあっさりと、である。
「まさか先生は大量に仕入れた薔薇の花を配り歩いて、世の女性たちを一網打尽にする気だったりしますか」
「心外だな。買い求めたのはこの一輪だけだよ」
脳内で張り巡らせた予防線の中から探り当てた手は、あっけなく真正面から否定された上、正真正銘これが唯一の薔薇であることを示されてしまった。
手が震えそうになりながら、私は美しく包まれたその一輪を取り出した。私が知る限りこんなにしっかりとした薔薇は見たことが無いし、素人目にも上質な一輪であることは間違いない。生唾を飲んだ。
設問 手作りの本命チョコを手渡すより先に、とんでもなく美しい薔薇の花を貰ってしまった女の心情を百文字以内で答えよ、ってやつだ。
「・・・あの、こんな展開全然想定してなくて、大変に見劣りする感じで恐縮ですが」
「ほう。“見劣り”か」
「あっいや、冗談じゃなく本当に。この素敵な薔薇を前にしたら何を用意しても絶対歯が立たないでしょうけど、それにしたってもっとこう、ああもう準備不足が悔やまれる・・・!」
高級ブランドの一番高いチョコを買ったとしても、正直並び立てないものを貰ってしまった気さえする。でも、いくら悔やんでも今更引き下がれない。
「いっ・・・一応、私も女子なので。気持ちだけは、きちんと込めました」
私は意を決して、自分でラッピングしたチョコを差し出した。
もっとシックな包装紙を選べば良かった。そもそももっと手の込んだ大作を作るべきだった。だってバレンタインは毎年、それこそ没収の名目で押し付けていた高校の頃から変わらず、こんな感じのシンプルなものを渡し続けてきた訳で。まさか今年になって、こんなカウンターをくらうことになるだなんて―――そこまで考えて、頭の中が白くなる。
先生。どうして、こんな素敵な薔薇を私だけに用意してくれたの?
「ありがとう。今年も大切に貰い受けるよ」
「わ、私の方こそ。ありがとうございます。今すぐ専用の花瓶を買いに行ってきます」
「大袈裟だな。だが、それほど喜んで貰えるとは・・・嬉しいものだね」
柔らかな先生の笑顔はいつも通り、私が好きで好きで仕方のないそれで。普段と変わらないからこそ、真意が読めなくて余計に胸が騒つく。
でも真正面から、これは例年のチョコへのお礼ですか?それとも私を漸く教え子の枠からひとりの女性枠に格上げしてくれたんですか?だなんて聞ける勇気がある筈もなく。
本気で花瓶を買いに出ようといそいそ立ち上がった私を追うように、先生も腰を上げた。
「外に出るなら一緒に行くよ。今日の夕飯は食べていくかい?」
「はい・・・!というか典坐のリクエストで今年はチョコの代わりにカレー作る約束を・・・あれ?聞いてません?」
「まったく。あいつはいつまで経っても報連相が定着しないな・・・」
「あはは。すみません、決まった時点で私から先生に言っておけば良かったですね」
いつも通り、笑い合う。怖くて深くは踏み込めない。でも、薔薇の花が目に入る度、飛び上がりそうになる程嬉しくて堪らなくなる。
半ば悶えながらごそごそと上着に手を通したその時になり、先生が何が思い至ったかのように顎へ手を当てた。
「ところで、典坐へのチョコの代わりと言ったか」
「はい。甘いのより大鍋のカレーが良いって」
「その流れからすると・・・君から既にこれを受け取っている私は、今夜カレーを食べる権利が無いということにならないか」
空白を三秒ほど挟み、私は肩を揺らし噴き出した。大真面目な顔で何を言い出すかと思えば。家主の先生だけ大鍋の夕食をお預けだなんて、ある筈が無い。
「もう、先生ってば。当たり前じゃないですか、沢山作りますから」
「なら良かった。ホッとしたよ」
和やかな笑顔。優しい声。私の大好きな、いつも通りの先生。それがほんの半歩分私との距離をつめて、前屈みになったことで間近に迫る。
「ふたつ分だな。来月を楽しみにしていてくれ」
耳元に囁かれた声は初めて聞くような甘さに満ちて、じわりと全身が熱を持つような、心臓がギュッと握られたような、とんでもない硬直が私を襲う。
なのに先生はそれ以上私に触れることも迫ることもなく、上機嫌な鼻唄混じりに扉を開けてしまった。鍵もすっかり私に預けたものを使わせる気満々で、ゆっくりではあるものの先を歩き出してしまう。
「っ・・・え?先生?」
「確かに君の言う通り。相手の喜ぶ顔を思い浮かべると企画段階から胸が弾むよ」
「ちょっと、待って。もうこんな素敵な薔薇貰ってますから!むしろお返ししなきゃなのは私・・・あっ待って下さいってば、先生・・・!」
動揺のあまり鍵をかけることすら無駄にまごついてしまう私を見兼ねて、先生が苦笑混じりに戻ってきて片手でカチャリと施錠した。
行こうか。そう呟き歩き出す先生の隣に、私は精一杯並んだ。大好きな匂いをいつもより近く感じる。わからない。期待して良いのかわからない。緩みそうになる頬を必死に堪える私を横目に、先生が小さく笑ったような気配がした。