先生とさんには欠かすことの無い日課があった。眠る前に瞑想をして心を落ち着ける為の時間だと、俺は教えられていた。
その日課を俺の為に隔日に減らすと言われた時は、まったく理解が追い付かなかった。俺は何時何処でも眠れるのに、代行免許を取ったからって瞑想が必要になるとは思えない。先生の時間をわざわざ割いて貰う必要性も感じなかったし、さんから大事な日課を半分取り上げる罪悪感もなかなか重かった。先生の教えには従うべきだが、本当に必要無さそうなら数日後に辞退しようと俺は秘かに決意していた。

いざ蓋を開けてみた後、こんなにも頭を使って消耗することになるだなんて、考えもしないことだった。

「・・・だあァッ!頭から煙出そうっす・・・!」

俺の前には、円の中に星が入った図の書かれた紙が置かれている。木、火、土、金、水と書かれたその図もよくわからないし、更には先生が盲目にも関わらず周りを知覚している要因が音や匂いだけじゃなく“波”と呼ばれるものだという説明も難し過ぎる。瞑想とは。もっとこう、正座してるだけで頭が揺れそうになるような睡魔との戦いを想像していたのに。訳がわからないことだらけで熱を出しそうになる俺を見据えて、それでも先生は呆れた顔をしなかった。

「すんません。かなり丁寧に説明して貰ってんのはわかってるっすけど・・・自分、本当に馬鹿で」
「お前にこの手の理論が通じ辛いことは承知の上だ。すぐさま理解出来るとは最初から思っていない。私も可能な限り噛み砕いて説けるよう努力するよ」

無意味だから辞退しようとはもう思わない。そもそも想定していたものとはまるで違う展開だった。ただ、どう考えても頭の足りない俺には難題なことも間違いない。先行きが不安過ぎて宙を仰ぐ俺に対して、先生はあくまで背を正したまま静かに告げた。

「今は途方も無いことに思えるだろうが、この先山田家の人間として生きていく上で必要になる可能性がある話だ。理解度や向き不向きに関わらず、お前には今から先んじて学ばせておきたい」

これはいつか来るべき時への備えだと先生は言った。出来ることなら外れて欲しい勘だとも、苦い表情で重ねた。
俺には先生の真意がわからない。でも例えどんなに難しく理解が追い付かない内容でも、必要になる場面が来るかもしれないから覚えろと先生が言うなら、俺はその通りに努力すべきだ。先生の弟子として。拾って貰った恩に、少しでも報いる為に。
ただ、気になることもあった。

「他のひとには・・・さんにも、秘密にしなきゃいけないんすよね?」
「・・・ああ」

表向きは代行就任に伴う鍛錬の強化とし、この部屋で一晩おきに学ぶ内容の口外を禁じる。他の山田門下生は勿論、同居しているさんにも。先生は俺に対して真っ先にそう告げた。
同じ屋根の下で暮らしているさんにまで伏せる意味だけは、俺には理解出来なかった。俺にとっては年上の妹弟子。先生にとっては俺と同じ直弟子。少し風変りだけど優しくて熱い心を持ってる、いつだって元気をくれる良いひとだ。
三人で暮らし始めてから何度も季節が巡って、もうすっかり彼女は家族のような存在なのに。普段なら必ず大事なことを共有するさんを、今回に限って先生は頑なに締め出した。

「私からお前に対し、事情を詳しく話すことは出来ない。だが、これは私の独断で備えていることだ。には極力、余計な心労をかけたくない」

ただ、先生からさんへの気遣いを痛いほど感じ取れることも本当で。

「・・・お前は納得がいかないだろうが」
「大丈夫っすよ」

隠すことがさんにとっての最善だと先生が決めたのなら、俺が異論を挟むことも無い。俺が気にするべきは現状が封鎖されていることじゃなく、圧倒的に理解力が足りてないことだと気持ちを切り替える。

「先生がそう思うんなら、きっとそれが正解っすよ。さんにも、誰にも言いません。覚えが悪いのは本当に申し訳ないっすけど・・・」

俺は何も無いところから先生に拾って貰い、道が拓けた。世界が変わった。頭の冴えねぇ俺だけど、先生が目をかけてくれるからには出来る限り応えたい。

「馬鹿なりに精一杯やってみるっす。よろしくお願いします、先生」

眉間に皺を刻みつつ五芒星を睨む俺を見て、先生が優しく笑った気配がした。



* * *



神仙郷と呼ばれる島で、二度目の夜が深まっていく。さんと先生の導きで島の中心・蓬莱と呼ばれる場所へ進む中で辿り着いた空っぽの集落の一部を借りて、俺たちは一晩を過ごすことにした。
休眠は交代制だ。さんとヌルガイさんが屋内の隅で眠りにつく、その入り口付近。先生の手が肩に触れることでじわじわと消耗が回復していく感覚に、俺は目を見開いていた。

「すげぇ。なんか、体力がぐんぐん戻ってるのがわかるっす」
「これが相生の氣だ。五行属性で私が木、お前は火。私からお前には、氣を意識して流し込むことで回復を促すことが可能になる」

誰もが生まれながらに持っている力。先生が波と呼んでいたそれが氣というものであること。五つの属性に別れたそれは相性があること。強めたり弱めたりする力の関係で、戦況が有利にも不利にも傾くということ。この島を生きて出る為には避けられない敵が、氣を極めていること。同じく俺たちも氣を使えなければ同じ土俵にも上がれないこと。今日ここに至るまでの間にさんから聞いた話と、今先生が実証してくれる氣の脈動と、そして本土にいた頃の記憶が綺麗に合わさることで、漸く俺はここまでの全てが繋がっていることを実感した。

「・・・先生が自分に教えようとしてくれてたことは、これだったんすね」
「ああ。そうだ」
「もしかして・・・自分が瀕死の重体から持ち直せたのって」
「察しの通りだ。私の相生でお前の欠損を補った」

欠損―――先生がそう表現するのも頷ける。死を覚悟する程の傷を負いながら、俺は生かされた。そしてこの救出劇には先生だけじゃなく、さんが大きく関わっていたということも、俺は既に知っている。

「・・・が私に氣の概念を説き、蘇生の時間を稼いでくれたお陰だ。波の漠然とした感覚は幼い頃より持ち合わせていたが、相生の仕組みを事前に知っていたからこそお前の窮地に間に合えた」

さんは先のことを知るひとなのだと、打ち明けて貰った。この島で起きる悲劇をさんは知っていて、何とか未来を変えたくて。それで先生と二人で奔走していたのだと、教えて貰った。
本当なら俺だってこの二日目の夜を越えられなかった―――天仙によって葬られる筈の命だったと聞かされて、正直かなり動揺した。でも、俺は今も生きてる。さんと先生が運命を変えてくれたお陰で、今こうして心臓の鼓動を刻めている。それは途方も無く有難いことだと、俺は今日一日で何度も痛感した。
同時に、先生も単独で何とかしようと模索した結果が本土での秘密対策だったのだと思うと、何度教わってもまともな理解に届かなかった自分が情けなく思えて仕方が無くなる。

「すんません。こんな土壇場になんねーと結局全然掴めなかったっすね」
「いや、今少しでもお前が氣への理解を深める一助になれたなら、十分に意義のある時間だった」

目には見えない力。五行の属性、その相性。何の前知識も無くこの島で開示されていたら、俺は完全にお手上げ状態だっただろう。先生は俺が少しでも早く氣の概念に馴染めるよう、根気強く説き続けてくれた。さんにも秘密にして、このひとが水面下でどれだけ多くのことに備えようとしてくれていたのか。俺は今更ながらに、先生の凄さを思い知る。
先生が改まったように表情を引き締めたのはそんな時だった。

「典坐、この先はお前がこの力を使い熟せるかどうかが鍵だ」
「・・・自分っすか?」

声色や顔つき、姿勢の正し方、先生の所作の全てが真剣さを物語り、俺は思わず小さく息を飲む。俺が鍵になる。それは単なる師から弟子への期待というより、失敗の許されない大一番の予告に思えた。

「私がお前を回復させられることと同じ様に、お前は土属性のを回復させることが出来る。否、を助けられるのはお前だけだと言っても良い」

さんを回復させられるのは、相生の氣を持つ自分だけだと。本土での積み重ねがあったからこそ、俺にしてはすんなりと理解に手が届く。

はお前の命を救うという悲願を果たし、次は仙汰の花化を阻止しようとしている。だが、この島に於いて目的達成の為には自らの犠牲を厭わない。それがの遣り方だ」

先生の表情は硬かった。犠牲を厭わないという言葉からは、多くのことを読み解けた。俺を救いヌルガイさんを逃がす為に、さんひとりがあの天仙の元に残ったこと。さんの頬に刻まれた、一閃の痛々しい傷のこと。俺の知ること以上の代償もあったかもしれない。この先控える仙汰さんの救出に於いても、確かにさんは無理をするだろうということもわかる。
音も無く先生が頭を下げる。紛れも無い誠実さが胸を打った。

「頼む、典坐。の為に相生を会得してくれ。お前だけが頼りだ。が傷付き消耗したその時、相克の私では彼女を救うことが叶わない」
「頭上げて欲しいっすよ、先生。今言われたこと、肝に銘じるっす。ぜってー、朝までに掴みますから」
「・・・ありがとう。これで、大分安心材料が増えたよ」

安堵したように微笑む先生の顔が、どこか寂し気にも見える。さんを一番理解してるのも、一番信頼しているのも先生の筈なのに。俺は今この時だけは、意見せずにはいられなかった。

「けど先生。物理的な相性が良いのは自分でも、本当の意味でさんを助けられるのは先生だけっすよ」
「・・・だが、私はにとって相克の相手だ」
「相生とか相克とか、そういうことじゃないんすよ」

属性がどうとか、氣の理解がどうとか、そんなことじゃ測れないものがある。さんのことを心から心配して、何もかも一緒に背負おうとしている先生の思いは俺にだってはっきり伝わってくるものなのに。相克だと割り振られた温度の無いものを理由に一歩退く理由が、俺にはどうしてもわからない。

さんが誰かの為に色々背負い込もうとするひとだってことくらいは、同居人として自分もわかってるっす。仲間の命がかかってるなら、尚更」

源嗣さんが致命傷を負ったまま崖から落ちた。先生の辛い報告を虚ろな顔で聞いていたさんは、突然弾かれたようにひとりで海辺の洞窟へと向かって。酷い血痕が飛び散るその場に泣き崩れ、衛善さんの名前を絶叫した。
同門の二人を亡くした痛みは勿論俺にも先生にもあったが、さんの嘆きは底知れない絶望に満ちたもので。いつも底抜けに明るいさんの心が折れる瞬間は、表現しようの無いほど重い影を伴うものだった。
ここまでどんな思いで歩いてきたのか。どんな覚悟を背負い込んで鍛錬を続けて来たのか。俺には正確に察することは出来ない。けど、さんがここまで一人で来た訳じゃないことも俺は知っている。

「洞窟での様子からして、さん自身かなり追い込まれてるんだろうなってこともわかってます。けどそれと同じくらい、さんには先生の存在が何より特別なんだってことも、自分にははっきりとわかるんすよ」

仙汰さんを助ける。そう決めてもう一度立ち上がったさんと、その肩を支える先生との間には、何にも阻まれない確かな絆があった。俺はそれを目の当たりにして、心がじんわりと温かくなるのを感じた。

さんが危ねぇ橋ばかり渡ろうとして心配なら、先生が止めれば良いじゃないっすか」
「・・・がこの島で起きる悲劇を防ごうと、どんなに必死だったか。どれ程懸命に努力を重ねてここまで辿り着いたのかを私は知っている。無論、私とて心配しているが・・・彼女の覚悟は、誰であれそう容易く引き止められるものでは無いよ」

先生は切なく俯くばかりだが、俺は納得出来ない。さんの意志を尊重することと、先生の思いを通すことは本当に両立出来ないのか。否、出来る筈だ。

「目的も大事っすけど、自分の命も同じくらい大切にして欲しいって。他の誰の説得が通じなくても、先生の声なら聞いてくれる筈っすよ」

三人で暮らす毎日の中で、俺にとって欠かせない光景があった。先生とさんが笑い合う時間。先生、って。俺や他の皆と同じ呼び方なのに、さんの声は特別輝いていて。

「だって、さんっすよ。先生の真剣な言葉が届かない筈無いじゃないっすか」

さんが先生を呼ぶ。先生が応える。二人が向かい合って笑う。俺の大好きな風景。不意に気付いたさんが手を振って俺の名を呼ぶ。二人の温かくて幸せな笑顔を向けられる度、俺が覚えていた眩しい尊さは間違いなく本物だ。
氣の相性なんて関係ない。さんに一番必要なひとは誰かなんてこと、決まり切っている。一番近くで見て来たからこそ、俺はそれを知っている。

「何かあった時は自分が氣で力になるっす。だから先生は、先生にしか出来ない方法でさんを守ってあげてください。自信もって欲しいっすよ。さんを一番良い笑顔に出来るのは先生でしょう」

先生の声がさんに届かない筈が無い。先生がさんの力になれない筈が無い。

「自分は先生にも、さんにも、ずっと笑顔でいて欲しいんすよ。守りたい大事なひと達っすから」

小さな間を挟み、先生の空気が変わった。微かな溜息と苦笑を浮かべ、顔を上げる。寂しさや重い葛藤は、もう感じられない。
安堵なのか嬉しさなのか思わず笑ってしまう俺に対して、先生は部屋の隅を―――もっと言うなら、ヌルガイさんのことを指した。

「守りたい、か・・・彼女も含めてのことか」
「はは。そうっすね。自分にとっては、ヌルガイさんも守りたいひとっす」
「お前も言うようになったな」

死罪になる理由を持たないひと。俺はそこに納得がいかなくて自ら担当に名乗りを上げたけれど、その決断は間違っていなかったと言い切れる。共に島の脅威に立ち向かい、共に生還を目指す仲間だ。女の子だったことは想定外だったけれど、それも今となっては笑い話に思える程、さんと寄り添い眠る彼女のことも守りたいと強く思う。

「典坐」
「はい」
「・・・忠告、感謝する。私なりに最善の手を探るよ」

先生の顔は、吹っ切れたとは言えなくとも一段足を進めたような、そんな清々しさを香らせたもので。俺は込み上げる嬉しさを隠すことなく笑う。
先生は俺の恩師だから。暗い顔で立ち止まるより、こうして前を向いてくれたらそれだけで嬉しい。

耳が掠れた呻き声を拾ったのは、丁度そんな時のことだった。

「・・・ヌルガイさん?」

膝立ちのまま数歩近寄る。魘されているのか、その身体を縮こまらせて顔を顰めているヌルガイさんがそこにいた。悪夢なら起こすべきか。こんな状況で一分でも長く休ませる為には上手に宥めるべきか。先生と俺で顔を見合わせた、その刹那。

「・・・大丈夫」

さんの静かな声がした。瞬間、いつから起きていたのかと目を丸くするが、その瞼は閉ざされたままだ。さんが手探りに腕を伸ばし、隣に寝転がるヌルガイさんを引き寄せる。重ね重ね確認しても眠ったままだ。なのにさんは、魘されるヌルガイさんの強張りを和らげるほどの安定感で抱擁を解かない。

「・・・ぜったい、私が守るから」

言い聞かせるような囁きだった。それを合図にヌルガイさんの眉間の皺が抜けて、さんからも言葉が消えて。静かな寝息と、抱き合ったまま眠る二人の姿だけが残る。俺も先生も数秒呆気に取られて、すぐに顔を見合わせて小さく笑い合った。眠ったまま、私が絶対に守るだなんて。さんはどこまで格好良いひとなのだろう。

「寝言なのに逞しいっすね」
らしいよ」

さんが腕を伸ばしてヌルガイさんを引き寄せた分、掛けた薄い上掛けがずれていた。それをそっと二人の肩までかけ直す先生の手付きは優しい。
一瞬の間を置いて、先生の指先が遠慮がちにさんの額をなぞる。不思議とその光景が、俺の目に焼き付いた。

「夢の中ですら、大人しく守られる側にはなってくれないんだな」

さんの寝顔を見下ろす先生の横顔は優しくて。

「・・・悩みは尽きないよ」

その声は、途方も無い情に満ちていて。

俺は思わず、込み上げた言葉を口に出してしまった。

「・・・先生は、さんのこと」
「典坐」

俺を遮る先生の判断は早かった。

「・・・それは私の一存で口に出せることではないんだ」

俺を見据える先生の表情は口端こそ上がっていたけれど、言い様の無い切なさも漂わせたものだった。

俺は同じ家で、ずっと二人を見て来た。その手のことは決して得意ではない俺でもわかる。気持ちはきっとお互いに通じているのに、二人して―――特にさんの方が頑なに、そこに一線を引こうとしていること。
言葉にしなくたってわかる。もう随分と前から、さんの目が、先生を好きだと言っていること。
上陸以降、本当に有難いことに命を救われて行動を共にするようになって。さんが躓く度に身を挺して支えようとする先生の真摯さも、先生に向けられるさんの視線が一層の特別さを増していることも、全部俺に直接伝わってきているのに。

余計なことは言えないと思っていた。ただ、先生のさんに向ける愛情深さを目の当たりにしたら、本音がつい零れてしまった。正直かなりもどかしい。もどかしいけれど、先生にそんな顔でそんなことを言われたら、それ以上何も言えなくなってしまう。

「・・・難しいっすね」
「簡単なことではないさ。はこの御役目に、すべてをかけているからね」

先生の声は温かい穏やかさに、ほんの少しの苦笑を混ぜ込んだものだった。困ったように少し眉を下げて、それでも手放しの慈しみを込めてさんを見下ろす表情は、ただ優しいだけじゃない唯一無二のもので。

「だが、儘ならなくとも彼女の願いを叶えたいと思うよ。の支えで在り続けたい。これまでも、ここから先も。が望んでくれる限り、ずっと」

思いを言葉で伝えることよりも、さんの強い意志に寄り添うことで、このひとは最大限の愛情を示そうとしているのかもしれない。俺は漠然と、そんなことを考えた。

不意に先生の横顔から特別な熱が抜けて、若干気まずそうな表情が俺の方へと向けられる。

「・・・気が緩み過ぎたか。随分と余計なことを口にしてしまった気がする」

冷静な声は俺も知っているいつも通りの先生なのに、今この瞬間までさんへの思いを語っていたそれとはまるで別物で。
違和感が面白可笑しいやら、それだけ歴然の差があることを身をもって知れた機会を貴重に感じるやら。俺はほんの少し得意げに笑いながら鼻を掻いて見せた。

「生意気言いますけど。二人を一番近くで見守ってきた自分の前でくらい、もう少し素直になってくれても良くないっすか?」
「まったく。調子に乗るんじゃない」
「あ痛っ・・・」

戻ってくるなり重めの手刀が頭に降って来た。いつもの先生だ。

「外に異変が無いか確認して来る。お前はここで二人を守りつつ、相生の形を思い起こしておくように」
「了解っす。気を付けて」

先生の切り替えは素早くて、照れたり慌てたりする素振りも一切無く、淡々と言いつけを残して見回りに出てしまった。俺だったら確実に墓穴を掘りまくってうまく口が回らなくなる自信がある。流石は先生だ。
女性二人の寝息だけが支配する静かな空間に取り残された俺は、再び小さな声を拾うこととなった。

「・・・てんざぁ」
「っはは。何っすかぁ」

またしても寝言だった。ヌルガイさんはさんと上掛けにしっかりと抱かれたまま、夢の中から俺を呼んでいるらしい。さっきと違い穏やかな寝顔が実に幸せそうで、見下ろしていると思わず笑ってしまう。

「・・・男女の関係は難しいものらしいっすよ。簡単に婿とか言ってて良いんすか、ヌルガイさん」
「んぅ・・・ムコに来てくれぇ」

会話が成立しているような、していないような。今度は少し深めの寝息で夢に戻っていったヌルガイさんの表情は、安心しきったそれだった。夢の中でもこのひとから大切に守られているんだろう。頼もしい年上の妹弟子に、俺は感謝の念を唱えつつ。不意に思い出すのは先生とのやり取りで、俺は再び二人の近くへと座り込んだ。

「難しくなんかない・・・単純な話だと思うんすけどね」

さんは先生のことが好きで、先生もさんのことを誰より大切に思っていて。三年に渡る秘密の共有者で、悲願を叶える形で今この島で支え合っていて。
さんと一対一ならあんなにもわかり易く先生の態度が緩むこと、俺以外は気付いていないのだろうか。否、俺がその手のことに疎いだけで、案外周りの皆も気付いているのかもしれない。

そんなことを真剣に思案してしまう俺自身を、何だか可笑しく感じてしまった。ギリギリのところで命を救われて、今だって危機は去っていない島のど真ん中を目指す道中だというのに。先生とさんといると、本土での平和な日々を思い出すからだろうか。ああ、出来るならヌルガイさんも一緒にあんな時間を過ごせたら良いなと、本心からそう願う。

否、過ごせたら良いじゃない。必ず過ごす。その為にも、この島で終わる訳にはいかない。

「・・・皆で守り合って島を出ましょうね、さん」

救われた命を大事にしながら、俺は守りたいひと達を守るのだと。穏やかな寝顔を見下ろし、尊敬する師の姿勢を思い起こし。俺はもう一度、妹弟子の助けとなる相生を会得する為に呼吸を整えた。