菜箸の先が震えた。料理は好きだし、作る工程は得意分野なのだけれど。美しく華やかに盛る―――特に、お祝い用の小さな小鉢にちょっとずつ飾り付ける、なんて芸当は正直かなり苦手なところで。

「あー・・・台無しってこういうことを言うんだろうなぁ」

挨拶も無しに厨に入り込み手伝いもしない輩は、私の手元を覗き込むなり無慈悲にそう告げた。

「うっさいよ期聖、手元がますます狂うじゃん」
「責任転嫁はどうかねぇ。さんの盛り付けの才能が死んでることと俺は無関係だよ」
「あんたって奴は・・・本当に・・・」

こちらを無駄に煽って楽しんでいることは明らかだった。安い挑発になんか乗る必要は無い。頭ではそう理解しているのに、絶妙にこちらを刺激するにやついた顔を前にすると、腹の底から煮え立つ何かが込み上げてきてしまう。ぞわりと髪が逆立つような憤りにわなわなと口元が歪んだ、次の瞬間。

さん落ち着いて!荒れると先生が心配して様子見に来るっすよ・・・!」

軽やかに割り込んできた私の太陽が、極限まで歪に膨れ上がった負の感情を鎮静化してくれた。典坐の分析は正しい。このまま期聖の挑発に乗り声を荒げれば、即座に先生が仲裁にやって来るだろうことは明らかだった。

「・・・確かに」
「ね、今日は自分たちだけで準備完遂するって張り切ってたじゃないっすか。頑張りましょう!ほら、佐切さんも手伝いに来てくれたっすよ」
「あっ・・・佐切、いらっしゃい」
「お邪魔します」

入り口で深々とお辞儀をする佐切は普段より少しおめかしをしていた。けれど袖は襷でしっかりと纏め上げ、厨で手伝いをする心得は万事整っているようで感心する。一切手を貸す気も無く煽ることしかしないどこかの誰かさんとはえらい違いだ。

「期聖さんもそのへんでやめてほしいっすよ。ここにあるもの全部、昨日の晩から丁寧に仕込んでくれたのはさんっす」
「そうですよ期聖殿。作り手のさんに文句を言うのなら今日のご馳走は食べないで下さい」
「へーへー。俺が悪ぅございましたよー」

三対一では流石に分が悪いと感じたのだろうか。期聖は両手を上げて棒読みの謝罪をするなり、私の肩にしな垂れかかるように腕を回してきた。

「な、さん。俺に食わせないなんて意地の悪いこと言わないよな?俺達、本当は仲良いもんな?」

本当は。そこの意味するところ―――困った際、金銭さえ払えば説明無しに助けてくれるという割り切った関係―――は、典坐と佐切には伝わる筈も無い。

「・・・好きにすれば」
「そう来ないと。お、見た目はともかく味はいける」
「しれっと摘み食いやめてよ。一言多いし」

散々けなしていた一口大の小鉢を流し込むように空にして、期聖はふらりと厨を後にした。まったく、褒めるならもっと普通に褒めてほしいものだ。ぶちぶちと小言で呪いながら私は手早く空いた器を洗う。尤も、すぐさま隣に飛んできて布巾で受け取ろうとしてくれる佐切の健気さと、仄かな椿の香りによって私の気分はすぐさま浄化されるのだけれど。

「大丈夫でしたか?期聖殿にも困ったものです」
「平気平気、期聖はああいう奴だし。でも庇ってくれてありがとね、佐切。勿論典坐も。大事なこと思い出させてくれて感謝だよ」
「へへ。お安いご用っすよー」

来たる本日、大晦日。この家ではこれから山田の門下生達が続々と集い、年越しの宴会が開かれる運びとなっている。当然の様に手伝いに参加しようとした先生を拒んだのは、私だった。この家の主たる先生には、とにかくお客さんと一緒に宴を楽しむことに専念して貰いたい。それゆえ手伝いは不要と言い切った側から、くだらない心配をかける訳にはいかなかった。とはいえ私ひとりでは捌き切れる仕事量ではない為、典坐と佐切、そして間もなく到着するだろう仙汰が手伝ってくれることになっている。

「厨に立たせて貰うのは、いつぞや士遠殿の留守中にお招きいただいて以来でしょうか。今日が来るのが本当に待ち遠しくて。朝も随分早くから目が覚めてしまって、私も気が昂っているようです」
「ふふ。そっかそっかぁ」

如何に今日を楽しみにしてくれていたのか。真面目な口調で正直な思いを語る佐切が可愛らしく、私の頬は緩みっぱなしだ。そんな折、彼女の背がぴんと伸びたかと思えば、不安げな顔が私に向けられる。

「あ・・・ですが、さんは三人で年を越すことを楽しみにされていたのでは・・・今更ですが、お邪魔になってしまったら」
「なぁに言ってんの」
「ん!」

味見用に分けておいた栗きんとんのひとさじを、乱暴にならない勢いでその口元へと運び込んだ。
先生と典坐と三人で年越し。それは考えるまでも無く最高に幸せなイベントだろう―――だからこそ、私はそれを自ら回避しようと決めたのだ。

「皆と一緒に年越ししたいって言い出したのは私だよ。邪魔な訳無いじゃんか、可愛い気遣いしてくれちゃってもう」
「んん、摘み食いははしたないです・・・」
「ごめんごめん。で、味はどう?」
「・・・とても美味しいです」

もごもごとした口許を手で隠しながらも、佐切の表情が明確に綻ぶ。私は隠すことも無く達成感に満ちたガッツポーズを決め、そんな私たちを見て典坐が明るく笑った。

「っはは!でしょう。さんの料理上手っぷり、あれから更に進化し続けてるっすから!」
「こんな感じで日頃から推しがめちゃくちゃ褒めてくれるからさぁ、自然と気合い入るんだよねぇ」
「ふふっ・・・その様ですね」

玄関口の方から、御免下さいという控え目な声が聞こえてきたのは丁度そんな折で。

「お。仙汰も着いたかな」
「みたいっすね!自分、連れて来ます!」
「ありがと、よろしく!」

元気良く飛び出していった典坐を見送り、私は佐切と顔を見合わせ頷き合う。

「さて。お手伝い期待しちゃうけど、良いかな」
「お任せください・・・!」

きっと今日は良い夜になる、そんな予感がする。ふと気を抜くと脳裏に浮かびそうになる先生の顔に気付かないふりを決め込み、私は大鍋に手をかけたのだった。



* * *



膳が綺麗に整列していたのは最初だけで、今や皆思い思いの場所で酒を酌み交わしている為、足場は慎重に選ぶ必要があった。それでも私は隙間を縫う様に進路を定め、細い道を辿って目的のひとの傍へと滑り込む。

「衛善さん、食べてますか?呑んでますか?」

熟練者から入門間もない者まで幅広い宴会は無礼講で、常であれば上座で厳かに座しているこのひとも賑やかな輪の中だ。追加の酒とつまみを差し出した私を認めるなり苦笑を浮かべた隻眼も、この賑やかさに紛れて普段より少し砕けた様子に見える。尤も、まったく酔いの隙は見せないあたりが衛善さんらしいのだけれど。

「十分に楽しんでいる。酒も足りているぞ」
「なら良いんですけど。じゃあ甘味はどうですか?結構自信作です」
「戴こう」

金柑の甘煮は工程自体は単純だけれど、この時代で採れるものは新鮮無添加ゆえに自然の苦みやえぐみが強いものも多い。煮ることひとつ取っても、若干の匙加減で台無しになり兼ねない綱渡りなのでそこそこ気は遣うのだ。私の生まれ育った世界が如何に便利で何かとお手軽だったのか痛感した経験は数知れずだが、今はその話は割愛しよう。

「美味いな」
「良かった!私も食べちゃお」
、僕も頂戴」
「どうぞどうぞ付知も食べな、美味しいよ」

一度席を外していたのか、近付いてきた小柄な兄弟子を私は喜んで手招いた。付知の分を小皿に取り、目の届く範囲で空になった皿を手早く回収し盆に積み、自分用として少しだけ取り分けた金柑を口に運ぶ。我ながら良い塩梅の甘さが疲労感に染みわたった。

「お前も忙しくしてばかりで、碌に落ち着けていないのではないか?」
「そりゃあ今日は招く側ですから。でも大丈夫。隙間で食べて呑んで、宴会満喫してます!あ、典坐達には交代できっちり食事とらせました!」
「それ、はちゃんと食べてないんじゃないの。なんかいつも以上に溌剌さに振り切ってる反動で急に気絶とかしそうで怖い」
「付知は私を何だと思ってんのかね・・・けど皆のお酒注いだりお皿回収したり、合間にひとくちふたくち食べてるだけで十分。心配ありがと。今日は嬉しいことだらけだから全然へっちゃら」
「・・・嬉しいとは。理由が気になるところだな」

お猪口を傾けた末、衛善さんが静かにそれを問うた。

「年越しは皆家族優先が当たり前の筈なのに、こんなに集まって貰えるなんて嬉しいじゃないですか。先生の人望でしょうけど、良い眺めだなぁって」

集まれる者だけで良い。今年はこの家で年越しをさせて貰えないだろうかと最初に先生にお願いした時には、こんな賑やかな光景は想像出来ていなかった。
当然暮れは家族と過ごす門下生も一定数いて、源嗣もその一人だ。昼過ぎに直接酒瓶を届けに来てくれた律義さに一層親しみが湧いた。他にも不参加の門下生から気遣いの届け物があったり、同じく今日は早々に不参加を宣言した羅芋が努努に持たせたギラギラの金箔カステラには流石に笑ってしまったけれど。何にしても今この宴には山田の門下生殆どの思いが詰まっているようで、自然と感慨深くなってしまうものだ。
衛善さんが何かを言い淀んだのは、丁度そんな時のことだった。

「・・・士遠の人望は否定しないが、集った理由はそれだけではあるまい」
「え?」
「血縁は無いが、此処にいるのは皆家族の様なものだろう」

賑やかな笑い声が耳を覆うのに、心は静まり返ったような不思議な心地がする。
先生の人望ゆえにこれだけ年越しに皆が集まってくれたと感じていた矢先、衛善さんの厳かな声で告げられた“家族の様なもの”という思ってもみなかった表現。それは私の時間を暫し止めるほどの力を持っていた。

「少なくとも私はそう感じている」
「流石衛さん、良いこと言うね」

長い時間をかけて培われた同門の絆。その尊い枠は、果たしてどこまで有効だろうか、と。

「・・・それって、私も入ってるって思って良いですか」

この世界に来た当初であれば、私なんかが恐れ多いと全力で自己否定していたであろう局面。それでも、後ろ向きになる度先生が前を向かせてくれたお陰で今がある。ドキドキと緊張しながら口を一文字に引き結んだ私を見据え、付知が真顔のまま小首を傾げた。

「何それ。逆に入ってないって思う理由がわからない。変な
「・・・無論だな」

衛善さんの静かな肯定が上乗せされ、肩の力が抜けた。
ただの読者であった頃から大好きな世界。憧れの山田家。家族のようなものと称されるその枠組みに、当然の様に私を加えて貰える喜び。

「私も、家族みたいなもの・・・そっか」

自然と熱いものが込み上げた。正座のまま背筋を伸ばし、山田家の主柱たるひとと向かい合う。

「そんな名誉ある称号を拝命したからには、来年もますます精進します」
「ああ、期待している」

私は恵まれている。序列一位のひとに来年の抱負を告げることが叶い、周りには頼れる兄弟子達が沢山いて。何より、一番に理解してくれるひとを直接の師に持てているのだから。
今日だけは意図的に意識しないよう努めていたひとを遂に目で探してしまったのは、会話の流れ上避けようもなく。しかし私は今この時、先生を宴会の中から見つけ出すことが出来なかった。

「シオさんなら珠くんの見送りに立ったよ」

一言も先生の名前など出していない中、何故看破されたのか。否、それよりも見送りという事態が寝耳に水で、私は目を瞬き付知に詰め寄った。

「え?殊現帰ったの?いつの間に」
「ついさっき。珠くん、今日はいくつも宴の招待受けてるから忙しいんだよ。僕は偶然出て行くところですれ違ったから知ってるけど、多分誰にも言わずに発とうとしたんじゃない?シオさんはそういうの察知するの得意だから」
「あちゃー・・・全然気付かなかった」

付知の口から淡々と告げられる内容はどれもこれも、冷静に考えれば予測出来た筈のことだった。先生とは違った意味合いで人望のある殊現は、今日という日に分道場や奉公人達からも宴の誘いを受けるであろうことは明白で。その全てを断ることなくそれぞれに顔を出し静かに消えて次へと急ぐ、多忙も負担も極まりない道を難無く選ぶ男なのだ。殊現の事情も、他の誰もが気付かないことまで気を配れる先生の細やかさも、何もかも感じ取れなかった己の不手際にがくりと項垂れる。

「そんなにへこむこと?今なら全然間に合うと思うけど」
「お前も行くと良い、見送りは招いた側の務めだぞ」
「あっ・・・はい!」

出遅れたのなら取り返せば良い。そう背を押されたような気がしていそいそと立ち上がった、その刹那。

「今宵は月が特別美しい」

衛善さんの静かな声から確かな優しさを感じ取り、私は小さく目を見開いた。

「折角外に出るなら見て来ると良い」
がいない間は僕も周り見とくよ。夜は長いんだから、適度な休息は合理的でしょ」

瞬間、兄弟子達に私の内心―――忙しさを盾に自ら先生を遠ざけておきながら、淋しさを覚えてしまう矛盾―――を見透かされているのではないかと、ぎくりと身を固くして。ひと呼吸の末、そんな筈は無いだろうと自分自身に言い聞かせる。

「・・・じゃあ、少しだけ。お言葉に甘えようかな」

私が忙しいのは事実。付知の言う通り、休息は必要だ。鼓動が高鳴るのは先生を追いかけるからじゃない。ただ、年越しの晩に浮かんだ綺麗な月に心が躍る。それだけのことだ。



* * *



「士遠殿、慌ただしくして申し訳無い」
「いや、構わないよ。忙しい中顔を出してくれてありがとう」
「こちらこそ・・・!長居は出来ずとも、お招き頂けて嬉しかった」

角をひとつ曲がった先の門から、殊現と先生の会話が聞こえてくる。小袖に上着一枚を引っかけて出ていこうとした私は、この土壇場で自分の勇気が萎む音を感じ取った。

「皆、楽しそうだった・・・温かな光景とは、まさに今宵のことだろうと。俺はこの宴を、胸に刻みます」

顔を見ずともその声からありありと感じ取れる、山田家へのまごう事なき愛。大袈裟な台詞も一言一句、彼の本心なのだろうことがわかる。殊現という男の善性を知っている分だけ、こうして時折恐怖に足が竦みそうになるのだ。彼が山田家を真に愛しているからこそ、彼と敵対する未来に胃が痛くなる。私は自分の足元を睨み付け、深呼吸で鼓動の乱れを抑え込んだ。

「裏方を仕切っていたのはさんでしょう。料理も実に美味だったと、伝えて貰えますか」
「勿論だ」
「かたじけない。では、俺はこれにて」

不鮮明な未来に怖気づいてしまう、こんな私にすら慈しみを向ける。そういう男なのだ。白い息を短く吐き出し、私は遂に覚悟を決めてその場から飛び出した。

「・・・珠現!」

歩き出した兄弟子の背に向かって振りかぶったもの。江戸時代の文明を逸脱しない範囲で試行錯誤の末手作りした、小豆カイロ。振り返りざま難無く片手でそれを受け止めた兄弟子の黒い瞳が、驚きに見開かれながら私を真っ直ぐに見つめる。

「この後も宴会回るならあったかくしないと。風邪引くよ」

掌の熱源を噛み締めるような空白が約五秒ほど。相変わらず黒い隈の目立つ彼の目が喜びに細められる光景に、胸の内がズキンと鈍く痛んだ。

「・・・ありがとうさん!貴女だと思って大事に使わせて貰おう!」
「いやそれはちょっと重い・・・まぁ良いや、よいお年をー」

過剰な身内愛は今に始まった話ではなく、私は突っ込みを放棄して手を振った。大きく手を振り返した殊現は遂にこちらに背を向けて歩き出す。一歩、また一歩。殊現が遠ざかる分だけ、隣に立つ先生の存在感が増していくのを感じた。

「頑張ったな」
「少しですけどね」

明言したことは一度も無いけれど、殊現に向けた切り離せない苦手意識すら自然と汲んでくれる。普段通りの先生の優しさが一層沁みるのは、今日一日物理的に遠ざかることを意識していた為だろうか。意を決して隣を見上げると、穏やかな笑みが私を迎え入れてくれて。まるで花が咲いたような心の華やぎに、私は思わず瞠目した。

「随分と久しぶりにと話せたような気がするよ」
「・・・あはは。今朝ぶりですかね」

たかが一日足らず。それでも別離を長く感じていたのは私だけではなかったのだと。考えもしなかった心の繋がりに、無意識に口元が緩んでしまう。日常的に、当たり前の様に傍にいてくれる。家でも道場でも、特別探しに行く必要が無いほど近くで安心感をくれるひと。

「準備から全般任せきりですまない。気を配ってばかりだろう、きちんと食べているかい?」
「ふふ。衛善さん達にも同じ心配されましたけど、ちゃんと食べてますし呑んでますし、宴を一番楽しんでるのは私です。ありがとうございます」
「私の方こそ。のお陰で賑やかな年の瀬を過ごせているよ、ありがとう」

ありがとう。先生からそう言われると、どうしたって嬉しくて仕方が無くなる。朝から晩まで、ほんのそれだけの時間徹底してすれ違い続けた反動で、普段通りの会話が特別な多幸感を連れてくる。
こんなことではいけないと感じていたから。典坐が代行に就任した日の誓い―――余計な恋心は封印するという決意を今一度思い起こす為に、三人ではなく大勢での年越しを望んだのではなかったか。己の大きな矛盾にひっそりと下唇を噛み、次の瞬間にはそれを誤魔化すべく苦笑しながら夜空を見上げる。衛善さんが教えてくれた月は、残念ながら薄い雲に覆われて輪郭がぼやけていた。

「あー・・・今日は月が特別綺麗だから見て来ると良いって言われたんですけど、雲が割と出てますね」
「ああ、その様だ」

こればかりは運が無かったと諦めるしかないだろう。細い吐息を区切りに踵を返そうとした私に対して、先生はその場を動こうとしなかった。

「・・・晴れ間が来るのを待とうか」

刹那の沈黙から、ゆっくりと顔を見合わせる。喉が渇く様な動揺を無理やり飲み下し、私は自然を装う為に後ろ手に組んだ拳を強く握り締めた。
衛善さんも付知も暫しの休憩を勧めてくれたけれど、先生からそれを言われると意味合いが大きく違ってくる。晴れ間が来るのを待とう、とは。月が顔を出すまで、一緒にいてくれるということだ。踊ってしまいそうになる心臓の鼓動を押さえつけるのに難儀してしまう。

「良いんですか?今日はおもてなししなきゃなのに」
「少しなら構わないさ。寒くはないかい」
「私は大丈夫です。あ、そうだこれ」

必要以上にドキドキするなと自身に厳命する中、苦し紛れに差し出したもの。殊現に渡したものと同じく私の手製ゆえに決して綺麗ではないけれど、寒い冬の夜に先生を温められるならこれ以上無いほど良い使い道だろう。

「一個珠現に投げちゃいましたけど、もう一個あるんでどうぞ。私の“推し”を凍えさせる訳にはいきませんから」

先生は、私の推し。それ以上の特別な感情は向けない。為すべきことの為にも、恋心は封じなくてはいけない。それを意識する為に敢えて口に出した言葉が、自分でも驚くほど芝居がかったものに聞こえてしまって。不審がられるのではないかと身を固くする私の不安をよそに、先生は何の引っかかりも無く私の手元を覗き込んだ。

「ほう、中身は熱した小豆かな」
「あ・・・えっと、正解です。袖に入れてもじんわり温かいし、直接握ったり寒いところに当てても熱過ぎないから便利なんですよ」

流石は先生だ。袋の中身まで“お見通し”なんですね、なんて。こちらからの冗談でこの場を乗り切ろうとした、次の瞬間。
先生の両手がカイロを包み込んだ―――手渡そうとした、私の両手ごと。ドッと音を立てて、全身が硬直した。

「っ・・・」
「成程。確かに温かいな」

世界が白く染まりそうな底冷えする夜。凍える程寒いのに、顔と心臓は急激に熱を帯びて。そして両手に至っては、先生に触れられた箇所だけが轟々と燃えるように熱い。大き過ぎる温度差に目を回しそうになる私の隙を、先生は逃さなかった。私の上着の下、小袖の中へと小豆カイロを落とし込み、掬い上げた袖ごとその熱源を握らされてしまう。

「あっ」
「だが、君が使うべきだ」

真剣な表情は先生が指導モードに入っている証。弟子として反射的に従う姿勢が身に付いた私は、ドキマギとしながらも大人しく両手にカイロを握ったまま姿勢を正すしか無い。

「指先が随分冷えていた。食べているとは言っていたが、酌に回る隙間で微々たるものだろう。そんなことでは身体が温まらない。中に戻ったらまず落ち着いて座って温かいものを食べてくれ。私が君の仕事を代わるよ」
「えっ、あの、それはだめです。今日は先生に宴会を楽しんで貰わないと・・・」
「君の責任感の強さはわかっているし、気遣いも嬉しく思うよ。だが、私もこの家の者なのだから。もてなしは私にも協力させて欲しい」
「でも・・・」

でも。だって。だめです。私の決めた方針が覆されようとしているというのに、先生本人を目の前にすると反論のどれもこれもが弱弱しくなっていく。まるで、この手の中からじんわりと温もりを感じる熱源で溶かされていくように。頼りない言葉尻が消え入りそうになる。

「締まりの無い本音を、君だけに明かすよ」

煮え切らない私の反応に、先生がほんの僅か距離を詰めて来る。息が止まる程の動揺と、その分暴れ狂う心臓で、目の前が点滅しそうになる。その刹那。

「正直なところ、蚊帳の外は―――少し淋しい」

確かに先生の口から零れ出た言葉は、どうにも馴染みの無いもの。若干拗ねたような声色も、何もかも。私の知る先生とは、等記号で結び辛い子供じみたもので。気が動転しそうな羞恥心が見る見るうちに萎んで、代わりに何とも言い難い可笑しさが顔を出す。見間違いでなければ、ふんすと白い鼻息さえ見えた気がして。思わず、肩が震える程の笑みが込み上げた。

「・・・っはは」
「なかなかに勇気の居る告白をしたのだから、笑わないでくれるかい」
「だって、ふふ、鼻息が・・・それに蚊帳の外で淋しいなんて、先生らしくないですし」
「それはそうかもしれないが・・・同じ家に暮らしているのに朝以来ろくに会話する機会も無い。日頃近くにいる存在が急激に遠ざかるのは、地味に堪えるよ」

脇腹をくすぐられた様な不意打ちとしか言えない笑いの衝動が、緩やかに鎮まっていく。いつも傍にいるからこそ、突如として離れれば淋しい。それは私だけじゃなく、先生も同じなのだと。穏やかな幸福に包み込まれたような心持ちで、寒さなど感じなくなった。

「私も仲間に入れてくれないかい。お願いだ」

聡い先生のことだ。言葉の通りではなく、私の多忙さを案じての方便な可能性も高い。それでも、たとえ嘘でも、冗談でも。離れているのは淋しいと、誰より大切なひとからそう乞われたなら。それ以上の抵抗なんて、何の意味も持たなくなってしまう。

「・・・そういうことなら、是非」
「交渉成立だな」

真摯な様相から、優しい笑顔が花開く。先生のこの笑顔を見ると、どうしようもなく心がほどけていくのを感じる。降参だ。たかが一日足らず傍にいない反動でこんなにも揺さぶられるくらいなら、そもそもこの策は最初から穴だらけだったのではないか。きゅうと縮こまる心臓が少し苦しくて、それでいて嬉しい。互いに白い息を漏らしながら笑い合えるこの時間は、幸せ以外の何物でも無いと。そうして白旗を上げた次の瞬間、腹の底に響くような低い音が遠くから聞こえ始めた。

「あ・・・鐘が」
「じきに年が明けるな」

この世界で除夜の鐘は百八回も鳴ることは無いらしく、この音は年越しが目前に迫った目安なのだという。
もうじき今年が終わる。来年か再来年か、更にその先か、何にせよ近い内訪れるだろう命がけの試練も。そして私が抱えた身勝手な思いの封じ方も。次の年へと持ち越さなくてはならない。一度息継ぎをして仕切り直そう。今だけ、この甘やかな幸せを存分に享受しよう。そうして私は自分に甘い決断を下した。

「先生。今年も大変お世話になりました」
「こちらこそ」
「来年も精一杯頑張ります。至らない弟子ですけど、どうか懲りずに・・・“見”捨てないで貰えると嬉しいです」
「む。それは・・・冗談でも受け止め難いな。万に一つもありえない」

ほんの出来心と、多少は前進しつつも消え去りはしない自信の無さから生まれた自虐の冗談だった筈が、顎に手を当てて首を捻る先生の表情は思いのほか真剣そのもので。目と目が合って、僅かな間を置いて先生の口許が綻ぶ。穏やかな微笑みから、目が離せない。

「それに君がいなくては、我が家はもう成り立たないさ。を引き取る以前はどうだったのか、記憶が曖昧になる程にね」

山田家は門下生同士は家族のようなもの。そして私もその一員だと当然の様に認められた時の喜びとは、まるで別種の何かに心を鷲掴みにされた気分だ。私がいなくては成り立たない、だなんて。心臓が熱い。身体は軽い。そして、内から込み上げてくる思いがこの上無く温かい。

「・・・光栄です。嬉し過ぎて、もう、何が何やら」

大き過ぎる多幸感に戸惑って緩く笑うことしか出来ないその最中、優しい明かりに導かれて顔を上げる。
雲が晴れた。衛善さんの言った通り、見事な満月が私たちを見下ろしていた。

「―――月が、綺麗ですね」

あなたが好きです。言葉には出来ないのに溢れ返るこの思いを、古の文豪の言葉に替えて紡ぐ。

「ああ。美しいな」

しみじみとした返事。穏やかな声。ひっそりと覗き見る、月明かりに照らされた綺麗な横顔。好きです。好きです。先生が大好きです。声にならない思いを何度も繰り返して、私は満ち足りた笑みを浮かべる。今だけだから。きっと、また年明けからは在るべき私に戻るから。そうしていつまでも眺めていたいような時間を愛おしむその折、先生が私を見下ろした。
私はこの顔を知っている。狙った冗談を絶好のタイミングで披露する時の、ご満悦な笑顔。その顔も大好きです。私は明るく笑って先生の言葉を待った。

「まさしく“目”が覚めるような月夜だ」
「っ・・・目ぇ!あはは!」
「うん。切れ味良く年が越せたようで何よりだ」

お約束の流れで力いっぱい笑いながら、はっとした。周りの民家からも、往来のひと達からも、めでたいと讃え合う声が聞こえてくる。

「新年おめでとう、
「おめでとうございます、先生」

二人で年を越せただなんて、思い悩んでいた頃には考えもしなかった奇跡だけれど。新年初めての挨拶を交わせたことすら、今はただひたすらに嬉しい。

「君の望みが叶うよう、今年も共に力を尽くそう」
「・・・ありがとうございます」

私の願いを汲んでくれる。出会った時から、ずっとそう。私の恩人。私の先生。私の大好きなひと。このひとの笑顔を守る為に、私がいる。使命感を上手に引き出してくれるような言葉に感謝し、私は和やかな気持ちで先生と笑みを交わし合った。
家の中でも年越しを祝い始めたらしく、乾杯の声やら大きな歌声やら、一層の賑わいが私たちを手招きしているように感じる。

「さて、夜は長そうだ。戻れるかい」
「勿論です!まだまだ張り切っておもてなしします!」
「頼もしいよ。だがその前に君はまず食事だ」
「・・・はぁい」
「誤魔化しは通用しないよ。“見ている”からね」
「っあははは!先生新年からキレッキレですね!」

手と手が触れ合いそうなほど近く、隣り合ったまま家の敷居を跨ぐ。これが私たちの距離。沢山笑い合って、沢山言葉を交わして、そうして今年も共に前へと歩いていく。きっと先生を明るい未来へ連れて行くのだと、私は晴れやかな気持ちで宴会へと戻った。