先生の家には稽古場があった。山田本家の道場と比べればこじんまりとした規模だけれど、私と典坐が先生から剣を教わるには十分過ぎる広さの其処は、日々私たちの鍛錬で騒がしく。その日、朝の澄んだ空気の中で一際存在感を放つ音が気持ちよく響いた。
信じられないような思いで、私は握った竹刀を見下ろす。先生に見守られながら、典坐と打ち合う中で生まれた一刀。ほんの一瞬、すべてがスローモーションに思えるような体感を経てはっきりと見えた勝利の糸口。
私がこの世界にやってきてもうじき一年。これまでで一番綺麗な軌道を描いて、典坐から完璧な一本を取れた瞬間だった。

「やっ・・・た・・・!」
、まずは礼だ」
「あっ・・・ごめんなさい」

血管がドクドクと脈打つ様な歓喜に舞い上がった私に対しても、先生の指導の声はどこか優しい。その分馬鹿者めと自分を叱咤しながら向き直った先で、典坐は乱れた息を整えながらも爽快な笑顔を見せてくれた。
私は、一本取れたんだ。一年前は剣術が何たるかを知りもしなかった私が、この年下の兄弟子から遂に貴重な一本を取れたんだ。熱く込み上げる感慨深さを噛み締めて、深く頭を下げる。

「ありがとうございました」
「ありがとうございました・・・っかー!悔しいけど完敗っす!」
「へへ、ありがと典坐・・・」

礼の姿勢を終えると同時に砕けた雰囲気が、全身のこわばりを解きほぐした。まだ心臓が忙しくて興奮は冷めそうにないながらも、私はお叱りを受けたことへの反省を忘れない。自分から進み出て頭を下げようとしたところを、先生は片手を上げることで押し留めてくれた。

「さっきはすみません。嬉しくて、つい・・・」
「わかっているならそれで良いさ」

先生の切り替えは早かった。叱責は後を引くことも無く、穏やかな笑顔が私を真っ直ぐに褒め称えてくれる。

「良い動きだった。日々の努力が実り始めたな」
「っ・・・!!ありがとうございます、先生・・・!!」

嬉しい。何よりも、このひとに認めて貰えることが堪らなく嬉しい。全身を駆ける血潮が熱い。氣が漲るとはこういうことだろうか、と。知識ばかりでまだ実践には届かない領域に思いを巡らせながらも、私は頬の緩みを止められなかった。
そんな中、負けたにも関わらず溌剌とした笑顔で典坐が声を上げる。

「強烈な一本っした!さんの剣は色んな顔を持ってるから勉強になるっす」
「んん?色んな顔?」

思いがけない表現に小首を傾げること数秒。まだ少年らしさが抜けない兄弟子は、言葉の引き出しを探るように頭を掻きながら私の疑問に答えてくれる。

「っと・・・源嗣さんなら重たく一撃必殺、期聖さんならいなして不意打ち、自分なら剣速で押す。それぞれ大体の型があるもんだと思ってるんすけど、さんは毎回違った型で攻めてくるから凄ぇなぁって」

瞬間目を丸くした末に、私は緩く苦笑した。
皆には突出した強みがあり、私にはそれが無い。特別な剣才を持たない私だけれど、その分型に嵌らない柔軟さを身に付ければ良いと説いてくれたのは先生だ。私が凄い訳じゃない。素材として決して有能では無かった筈の私をここまで丁寧に育て、導いてくれた先生が凄いのだ。

「それは・・・」

正直な胸の内を打ち明けようとした、その刹那。私は不意に視界の隅で動いたものに、気付いてしまった。
長い胴体にうねる多足。外で稀に見かけるそれより随分と大きな個体が壁に張り付いている恐怖に、背筋を冷たいものがぞわりと駆け抜け。

「っ・・・いやあああああ!!!!!」

気付けばとんでもない悲鳴を張り上げ、反射の様に飛び退き先生の背後に逃げ込んでいた。

「んん?虫?」
「足!足が!足がうねって・・・!」
「そりゃあムカデっすからね。いやー、こいつでかいっすね」
「見せないでえええ!!!」

流石男の子と感心したいのは山々だけれど、お願いだから私の方にむんずと掴んだ手を伸ばさないで欲しい。虫全般はあまり得意ではないし、ムカデやミミズといった長くて揺れ動くものは特に苦手なのだ。ひーひーとみっともない声を上げる私に対し、典坐は面白がって追撃してくるタイプの子ではなく、そこだけは本当に心の底から救いだったけれど。

「外へ出してきなさい、典坐。なるべく遠くで放すように」
「了解っす!」

先生の指示は的確だった。御役目を意識してなのか基本的に殺生は好まないながらも、総毛立つ私の様子から二度と目にしたくないという意図を細やかに汲んでくれる。典坐が素早くこの場を後にすることで生まれた静寂の中、私は恐る恐る縋り付いていた手を離す。先生の背中に刻まれた不恰好な二つの皺が、急速に私の罪悪感を煽った。

「ごめんなさい、先生・・・」
「何がだい?」
「先生を壁みたいに使ったり、その・・・かなり情けない姿もお見せして・・・」
「ほう。私に“見せる”か。も大分わかってきたな」
「あっ・・・はは、違くて。いや違わないけど、あの・・・」

冗談を織り交ぜることで、暗く淀んだ気持ちを自然と晴らそうとしてくれる。先生は優しいひとだ。
でも、私は自分を戒めなくてはいけない。虫に怯えて飛び退くようでは話にならない。この先目指す地獄のような島で、どんな魑魅魍魎の類が手ぐすねを引いて待ち受けているのか―――私はそれを知っているのだから。

「典坐の表現は正しかったな」
「え?」
「剣だけではなく、には色々な顔がある。鍛錬に明け暮れ遂に鮮やかな一本を取るほど強くなったかと思えば、虫一匹に悲鳴をあげたりもする」

客観的な評価を下す声は穏やかで。

「だが、それで構わないんだよ」

そして、私に向けられる微笑みは陽だまりの様に温かい。私は思わず瞠目し言葉を失った。

「叶えたい望みがあるとはいえ、ずっと気を張っていてはどこかで折れてしまうよ」
「・・・先生」
「過ぎた自己嫌悪で苦しそうな顔をしていたように思ったが、違ったかな」
「それは・・・」

二人きりの今でさえ《叶えたい望み》という言い方をして、先見の明―――私の奇妙な事情を隠すことで、あらゆる危険から守ろうとしてくれる。どこまでも思慮深いだけじゃなく、私の情けない胸中すらすんなりと見通して寄り添おうとしてくれる。
一年前は本を通して眺めるだけで幸せだった推しとこうして向かい合い、尊い優しさを直接向けて貰えるだなんて。それも、未来を変えたいという漠然とした願いすら受け止めて貰った上で、だ。恵まれ過ぎた状況だと何度だって痛感する。知らず知らずのうちに、拳を固く握り締めた。

「君は時折、後ろ向きな方向に思い詰める帰来があるようだが・・・強くなることと、君が持つ生来の良さを磨り潰すことは、まったくの別物だと私は思う」
「・・・私の、良さ?」

思わず聞き返してしまうのは自信の無さからか、それとも先生への甘えなのか。
なのに、このひとが私の頭に優しく手を置く。それだけで、心の内側から暗い霧が取り払われていくのを感じる。

「ああ。感情表現が豊かで、嬉しいことがあれば周囲まで明るくなる程に喜び、何か不測の事態には力の限り悔しがる。日々を誠実に生きている証だよ。誰もが持ち得る生き方じゃない、君の誇れる長所のひとつだ」

騒がしくて落ち着きが無い声の大きなオタク気質、それを丸出しにして生きているだけ。そんな私の普通を、先生は特別素晴らしいことのように言葉にしてくれる。何の取柄も無い私に何かひとつでも出来ることが増える度、心から褒め称えて努力を肯定してくれる。
先生は優しいひとだと、そんなことは直接出会う前からよく知っていた筈なのに。このひとに笑いかけて貰う度、温かな言葉を向けて貰う度、私という平凡な人間も磨けば光り出すものがあるのかもと、嬉しい背伸びをしたくなってしまう。

「山田家の者として精進することは勿論必要だが、鍛錬一辺倒で日常の彩りを疎かにしては褪せてしまうことも多い。そのままの君こそ大事にすべきだと、私は思うよ」

そっと手が触れてドキっとするのも束の間。掌に短い爪が食い込みそうになる程固く握られた私の拳を、先生の手が優しく解いて離れていく。血が通い始めた掌はこの一年でまめだらけになったけれど、私にとっては先生に指導して貰えた勲章と同じこと。
おずおずと顔を上げた先、盲目でも関係無く目と目が合ったような感覚に心が温かくなる。腕を組んでそっと浮かべる飄々とした笑み。推しの好きな仕草を前に、私の内側に生じかけた後ろ向きな思いはすっかりと晴れてしまった。

「強くなりはじめたも、不意の弱点に慄くも、どちらも等身大の君だ。私は弟子の新たな側面を垣間見ることが出来て、素直に嬉しく思うよ」
「・・・垣間“見る”!」
「いつもながら冴えた反応速度だ、非常によろしい」
「ふふっ・・・!」

先生の弟子になれて幸せだ。こんな風に冗談を拾うことが出来て幸せだ。虫一匹に悲鳴を上げる情けなささえ受け止めて貰える今が、堪らなく幸せだ。

「それに、背中を使って貰うことも存外悪くなかったよ」
「え?」
「私の後ろに隠れようとするの必死さが何とも・・・はは、可愛らしかった」

幸せ過ぎて―――臨界点を超えた心臓が火を噴いた。

「かっ・・・?!」
?」
「うううっ・・・先生たまにそういうファンサが過剰なんです・・・!オタクには刺激が強過ぎるんですよぉ・・・!」
「ふぁんさ・・・?」

指示通り典坐が虫を遠くに放して戻って来てくれるまで、残り僅か。下心無き素の殺し文句にあたふたする私は、不細工な形相で自分の顔を両手で扇ぎ続けるしかなくて。そんな私の様子に先生が小首を傾げながらも小さく笑う。穏やかな朝の出来事だった。



* * *



地面にめり込みながら不快な呻き声を上げていた巨大な竈神は、脊髄にあたる箇所を切り刻んだことで今漸く沈黙した。一体何をかけ合わせたらこんな奇怪な様相になるのか。歪な亡骸の上に乗り上げたまま、私は刀を鋭く振るうことで僅かな肉片を払い落とした。

「すげぇ・・・全部斬った・・・こんなでかい生き物、身体ごと足場にしちゃうんだな」
さんはすごいひとっすよ。自分も勉強させて貰うことばかりっす」

少し離れた位置から感心したように声を上げるヌルガイに、典坐が同調するやり取りが聞こえて来る。これ以上の敵襲の気配が無いことを確認した上で、むず痒い思いと共に私は手を振った。

「二人ともそのへんでやめてよー、照れるじゃん」
「本当のことっすよー」

典坐の声は明るかった。一時はどうなることかと思った重症具合も、持ち前の回復力と先生の相生によって快方へ向かっているようで安堵する。本来なら死んでいた筈の年下の兄弟子。どうしても死なせたくなかった眩しい存在。切なさと喜びが綯交ぜになった思いで、私は苦笑を浮かべた。

島中に闊歩する竈神、更に天仙に近いとされている道士。奴らを切り伏せ死に至るまでの流れを検証し、氣の精度を上げていく。実地鍛錬を積みながら今目指すべきは蓬莱―――仙汰の花化という次なる絶望を防ぐことだ。
まずは予め氣の知識を持っていた私と先生が練度を上げ、敵の生態系を大まかに把握する。典坐にも回復次第で学びを深めて貰いたいところだ。ヌルガイに関しては剣術の基礎以外のことを詰め込むのは逆効果だというのが先生の見解のようだけれど、私はあの子にも結構な伸びしろを期待してしまう。正史と違い、今は典坐が生きている。典坐が強くなれば、きっとヌルガイだって何らかの共鳴が起きてもおかしくない筈だ。勝手な思い込みだと言われればそれまでだけれど。これも“可能性”のひとつだと、私は信じずにはいられないのだ。

ゆっくりと刀を鞘に納めたその時だった。伏した化け物のすぐ傍から私を見上げていた先生が、控えめに声を上げる。

「・・・平気かい」
「大丈夫です。特別良い刀ですから、刃毀れも全然無くて」
「そうではなく、君だよ」

すぐ近くでこと切れている別個体は先生が斬り捨てたものだったけれど、息一つ乱すことなく流石の余裕があった。先生本人は恐らく殆ど消耗していない筈なのに。私を見上げる表情は、こちらの胸が苦しくなるような慎重な気遣いに満ちていて。

「この類の虫は得意ではないだろうに」

瞬間、言葉を失った。私が乗り上げた竈神は虫を使役する類のものだった様で、巨大な屍の周りには無数のムカデが絶命していた。
私が“読んだ”杠の情報によればムカデは死肉しか喰らわず、こちらから手を出さなければ放っておいて問題無いとのことだったけれど。画眉丸や厳鉄斎と交戦した道士然り、戦術のひとつとして使われる群れはその限りでは無いのだろう。尤も、其々は大した威力を持たない為に氣を乗せた一刀で容易く切り刻めることも実証済だ。

今は遠い記憶。稽古場の壁に張り付いていたムカデ一匹に悲鳴を上げていた頃が懐かしい。あれすらほんの赤子に思える程島に蔓延る個体は其々が大きい上、禍々しく双頭を掲げた異形すらいる始末だけれど。無数の死骸を見下ろす今、心は欠片程も動かない。

「今は全部忘れます。大事な局面を控えてますから」

上陸以来、麻痺したことはいくつかある。普通の感覚。己の物差しでの常識。苦手なもの。そして逆に研ぎ澄まされるように敏感になったこともある。ひとの命が如何に脆く儚いものか―――ふと気を抜くと喪ったばかりのふたりの兄弟子の顔が頭に浮かび、涙が込み上げそうになる衝動を必死に飲み下した。
救えた命と、救えなかった命と、これから救えるかもしれない命がある。一大事を前に、虫に怯える未熟な私なんて存在を許せる筈も無い。でも、追い詰められた状況で私ですら忘却の彼方だった弱い一面をこのひとが覚えていてくれたことは、正直なところ少し心が緩んでしまうことも本当で。

「でも、ありがとうございます。こんな時でも、いつもの私を心に留めてくれて」
が忘れても、私は全て覚えているよ」

思慮深くて途方も無く優しい声と、気遣わし気な表情が私に向けられる。化け物で溢れた悪夢の様な島。とても現実とは思えないような惨状の中にあって尚、先生は私の些細な一面を忘れないと言ってくれる。

「さあ、手を」

ひとりでも十分降りられる高さ。それでも当然の様に差し出される温かさが、胸の奥に沁みる。私は瞬間躊躇った末にその手を取り、柔らかく着地した。

「ありがとうございます、先生」
「・・・無理は禁物だよ」

極楽浄土とは名ばかりの、命の実験場。死んでも構わない命として送り込まれた彼らを、ひとりでも多く救わなくてはならない、私の目指した決戦の地。甘えや余所見ひとつで命取りになるこの局面に於いて尚、先生が私に向けてくれる優しさは本土にいた頃とひとつも変わらない。

「・・・大丈夫です」

「先生がいて、典坐がいて、ヌルガイがいる。無理が無理じゃなくなるくらい、最高の条件が揃ってるんですから」

取返しのつかない命をふたつも取り零し、今度こそ後が無い私にとって、先生の存在がどれほど大きな支えになっていることか。ひたすらに心配してくれる温かな手を取ったまま、私は努めて明るく笑うことでまたひとつ心を強くする。
失えない。もうこれ以上、ひとつだって失えない。そうした私の決意すら見通した様に、先生が微かな溜息の末に小さく口端を上げた。

「心境が変わった時はいつでも言ってくれ。背中は空いているからね」
「もう、先生ってば」

本当の意味で気は抜けないけれど。例え仮初めであっても、こうしたやり取りが無ければこの先続かないことも今ならわかる。

不意に、小さな疑問が生まれた。この島を出た後、張り詰めた気が緩んだその時はまた虫に悲鳴を上げることもあるのだろうか。そんな平和ないつかは、果たして私に訪れるのだろうか、と。
仄暗い火種をすぐさま踏み消して、私は顔を上げる。心の機微に敏感なこのひとは、きっとどんなに些細な曇りも拾ってしまうだろうから。

「行きましょう。今日の内にもう少し蓬莱に近付いておきたいです」
「・・・ああ。そうだね」

僅かな空白から、私への配慮が痛い程伝わってくる。それを有難く感じながらも気付かない振りをして、私は典坐とヌルガイを呼ぶべく踵を返したのだった。