Nostalgic Twilight





最初の日に発した台詞は、正直なところはっきりと記憶に残っていない。
ただ、養父からは家の為に尽くすことと彼女を支えることを同義とする旨言い含められていた為、貴女を守るだの誠心誠意尽くすだの、そうした背伸びした言葉を考えられる限り並び立てた様に思う。
身体も心も未成熟な少年にとって、透明で精巧な硝子細工の様な義理の姉は、酷く眩しく尊いものとして映ったものだ。

『素敵な騎士様ね、ありがとう』

自分の台詞は靄掛かる中、の一言一句は声の抑揚に至るまで細かく記憶されている。
ほんの数日前までただの孤児だった初対面の義弟を、彼女は柔らかな声で騎士と称した。

『でもね、お役目の為に頑張るのは、お互いお家の為だけにしましょう』

ひんやりとした綺麗な手。滑らかなそれが自分の両手を包み込んだ途端、不思議と胸の内が熱くなる様な感覚にあの日の少年は目を見張った。

『私たち、今日から姉弟だもの。ふたりでいる時くらい、肩の力を抜いて貰えたらと思うのだけど・・・どうかしら』

ふたつ歳上だと聞かされていた義理の姉は、当時の小さな少年にとってみれば実に大人びた存在だった。ほんの一言二言の会話からも伝わる気品と穏やかさは、このひとに尽くすのだという自然と背筋が伸びる様な責任感と同時に、これまでに経験したことの無い深い安堵を齎した。

『年の近い弟が出来るってお父様にお聞きしてから、ずっと今日を楽しみにしていたのよ。貴方に会えてとても嬉しいわ』

優しい微笑みが自分ひとりに向けられる、喜びと呼ぶにはとても収まりきらない感情の名前を、少年は未だ知らない。
このひとを守る為に生まれて来た。そう信じることで、少年のこれまでは報われた。

『仲良くしましょうね、シャディク』

名も知らぬ花の芳香を、決して忘れまいと心の奥底に刻みつけた。




* * *




夜明け前の瑠璃色が満ちた部屋で、シャディクは静かに目を開けた。眠るつもりは無かった筈が、暫し懐かしい夢に浸ってしまっていたらしい。温かなベッドの中、得難い幸福そのものの様な熱を腕に抱いていた為だろうか。
は日頃から寝息すらろくに音を立てず、昔から看病の際は時折不安になったものだが、こちらを向いて控え目に上下する肩は確かに彼女が生きている証だ。
眠りを妨げぬ様細心の注意を払いながら具合を確かめ、昨日と比べれば随分と落ち着いた様子の寝顔を前に柔らかな感情が込み上げる。
邪魔な者は誰一人起きていないであろう闇夜と有明の挟間、シャディクは何かを装うこと無く素直な笑みを零した。

この家に選ばれ随分と経つが、最初の幸運は彼女の弟になれたことの様に思う。
養子という不安定な立場故の懸命な奮闘を、いつも温かく見守ってくれたのがだった。ゼネリの姓を得たところで結果を出し続けなければ何ひとつ保証されることの無い、薄氷を踏む様な暮らし。そんな中でたゆまぬ努力を正面から認め讃えてくれるの存在が、少年の心にどれほど救いを齎したことか。脆弱な姉を文字通り身体いっぱいに支え感謝される日々が、いかに自己肯定の礎となってくれたことか。

彼女から最初に贈られた言葉の通り、このひとを守る騎士であろうと固く誓った。姉に向けるにしては行き過ぎた思慕を優しく受け止めて貰う度、孤独と不安から解放される思いがした。惜しみなく向けて貰える笑顔が堪らなく好きで、この表情を見る為ならばどんな困難も苦には思わなかった。家族として傍にいられることを、この上無い誉に感じた。芳しい花の香りは、この先も変わらず誰より身近に感じていられるものと信じていた。

に、最初の婚約話が持ち上がるその日までは。

突如決まった挨拶の場に、シャディクは同席を許されなかった。
遠ざかる姉の背を呆然と見送ることしか出来ない惨めさに背筋が凍り、最後に一度振り返ったの切ない微笑が瞼にこびり付きあらゆる思いを焼き焦がした。結論として成立には至らなかった早過ぎる縁談は、尊い幸福が永遠ではないという真理を少年に突き付けたのだった。

いずれ企業間の政略図に婚姻の駒として差し出される定めのもと生まれたと、孤児の出であるシャディクでは何もかもが決定的に違う。養子であることは生涯消え去ることのない劣等の枷だ。どんなに追い縋っても実子のとは対等に並べない。未熟さも相まり、大切な存在を攫うかもしれない相手と対峙することすら許されない。今の自分では、否、この先どんな努力をしたところで彼女を繋ぎ止めることは不可能だと、聡い少年は見て見ぬ振りをしていた現実を飲み下した。

しかし、既に知ってしまった温かさをどうして手放すことが出来るだろうか。何も持たないこの手に触れた眩い光を追い求めることは、果たして罪だろうか。負い目を感じつつも諦めきれない少年は思いを巡らせ、悩み、考え、やがてひとつの結論へと辿り着く。

出自の劣るシャディクの側から並び立つことが叶わないなら、の側から離れ難くなる様仕向ければ良いのではないか。

立場は対等でなくとも構わない。ただ、シャディクが彼女にとって唯一縋る先となれたならば。ただの義弟以上に、弱い彼女が生きる上で欠かせない存在へと昇華出来たならば。傍にいなくては息も出来ない程に、彼女の全てを侵食し征服することが叶ったならば。その時完成する二人の世界で、から誰より求められる未来は、きっと美しく満ち足りている筈だ。
彼女にとって脆弱であることは不本意であろうが、そんな姉を支えることも養父から命じられた責務のひとつだ。何もかも意のままに整えることは、巡り巡って外では生き辛い彼女を守ることにも繋がる筈だ。少年は懸命に利己的な立案を正当化した。

お飾りの婚姻相手程度では割り込む隙も無いほどに、遠い未来まで繋いだ手を離さずにいられる唯一の方法。生涯決してと対等には成り得ないシャディクへ、かけがえの無い温かな想いを奪われない為に残されたただひとつの茨道。
最も大切な存在を決して手放さない為、そうとわからぬ様時間をかけて支配する。例え、結果的に彼女を騙すことになったとしても。
歪な覚悟が宿ると同時に姉の不調と弟の劣等感は絶妙な角度で噛み合い、年月をかけて易々とは解けぬ有様へと拗れていった。

身長差が縮まりやがて逆転し、男女の成長の違いが如実に現れる頃より、包み込む様に彼女を守る機会が増えた。眩暈に揺れる細い背を受け止める度、当然の権利の様にその身を抱き上げる度。彼女に対し誠心誠意尽くせることに喜びを覚える己と、彼女から縋られることへの快感とも呼べる優越感に酔いしれる己が同居を始めた。シャディクは敬愛する姉に尽くす弟を自然に演じ、時に寄り添い、時に慰め、時に彼女の最奥へと囁きかけた。の人生に無くてはならない存在は親でも未来の配偶者でもなく自分ひとりだと、信頼される弟の顔を装い長年刻み続けた。

表向き、二人は昔から変わる事なく仲の良い姉と弟だ。しかし時間をかけた征服の種は漸く芽吹き、家族の域を逸脱した熱量は既にシャディクの一方的な物では無くなりつつある。
この部屋で月夜のワルツを踊って以降との空気感はこれまでと明確に温度を変え、縁談の是非を問われた日よりその変化は決定的なものとなった。思惑通りに美しい薔薇は日々従順さを増して行く。この手に堕ちることを躊躇する、それすら正直に吐露してしまう程に彼女の心は近い。

まさしく願った通りの未来は遠くない。にも関わらず時折虚しい想いが背を突き抜ける理由は、二人が血の繋がりは無くとも“姉弟”の為だろうか。
シャディクは腕の中で静かに眠るを見下ろし、困った様な優しい苦笑を浮かべた。家族であることの優位性は勿論ある。互いの立場を危うくせず、養父でさえ欺きこうして暁時に寄り添えるのはシャディクがの弟である故だ。家族だからこそ許された距離感、姉弟だからこそ踏み込めた領域、そもそもゼネリの養子に選ばれなければ出会うことも無かったであろう奇跡の様な縁なのだから、この関係性を悔やむ日はきっと訪れることは無いだろう。

しかし意味の無いことだと理解しながらも、頭の片隅で夢見てしまうことがある。
もし、シャディクが孤児ではなく正統な企業の跡取りだったなら。劣等感を感じる局面など一生訪れない血統の生まれだったなら。義弟ではなく、婚約者としてと出逢えていたなら。この様に想いを複雑に歪めず、ただ真っ直ぐに彼女を想えたなら。誰を欺く必要もなく、堂々と生涯のパートナーを名乗れたならば、どんなに---

「・・・無意味な空想、だな」

ほとんど声にはならない囁きだった。自嘲が夜明け待ちの部屋に溶け込み、吐息と共に短く消え行く。無いものは願ったところで仕方がない。生まれは覆せない。彼女を支え守り続ける為にも、この立場は失えない。互いに両腕で抱き合った優しいワルツも、こうしてただ寄り添う一夜も、永遠には続かないと知っている。あの日からずっと、突き付けられた現実を理解した上でここまで進んで来た筈だ。今更何を悲観する意味があるのだろう。

その時だった。腕の中のが僅かに身じろぐ気配で、静まり返った空気に波紋が広がる。

「ごめんよ姉さん、起こしてしまったかな」

独り言より数倍甘く優しく、シャディクはに囁きかける。長い睫毛が震え、その瞼が押し上げられるより早く、大きな手がそっと彼女の視界を覆った。

「まだ夜明け前さ。もう少し、眠っていよう」

部屋を満たす瑠璃色が、何層にも渡る遠くから徐々に薄まっていく。貴重なひととき、目の前の美しい光景をもう暫く眺めていたいと願ったのは、彼女の為か自身の為か。
反論は一言も返っては来ず、ゆっくりと手を退ければ再び夢の世界へ戻ったであろう穏やかな寝顔が待っており、シャディクは柔らかく微笑んだ。

「・・・良い子だ」

こんな時ですら、思う様にすんなりと眠りに落ちてくれるにどこか救われる様な思いがする。腕の中で薄明時に染まる尊い姿を目に焼き付け、シャディクはそっとベッドを抜け出した。定位置の椅子に掛け、手際良く寝具を整える。ベッドサイドに存在を許されたベルベットの箱は中身を検める必要もなく、仄かな嬉しさに頬が綻んだ。
閉ざされた瞼を見下ろし、改めて思う。少なくとも、この満ち足りた寝顔は変わりつつある状況下にあっても陰りが無い。やはりこれまでの遣り方は間違っていなかった。この先も美しく管理された箱庭の中で、大切に慈しみ心から尽くそう。きっとは、それを窮屈に感じることなく受け入れてくれる。幼き日に願った優しい未来は、遠くない場所で自分たちを待っている筈だ。

明るく変化していく色合いを存分に堪能し、シャディクは静かに立ち上がる。が目覚めた時の為に温かな飲み物が必要だ。
手慣れた様子でその場を離れた弟は、ベッドの中で薄く目を開けた姉に気付かない。

「・・・」

彼女が何を思い、何をひた隠しに生きてきたのか。シャディクはその全貌を知らない。 


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