Cross the Line





仄かな月明りに照らされたの寝顔は、同じくこの部屋でワルツを踊った甘やかな夜と違い病的に青白い。衰弱の激しかった日中を思えば、熱が引いただけでも善しとするべきか。疲れ果てた様に眠る姉の顔を眺め、シャディクはほんの僅かに眉を顰めた。

体調が優れないことは生まれつき彼女の人生の常だ。健康な身体であれば取るに足らない些細な負荷、それらの内何が引き金になるかわからない不調に苦しみ続けるを長年傍で見守り支えて来たシャディクであったが、今日の発作は随分と酷かった様に感じられた。この様な生活が続けば早い段階で心が荒みそうなものであるが、は周囲に当たることも自棄になることもなく、ひたすら耐え忍び迷惑をかけることを度々詫びる。二人だけの秘密と前置き漸く口にしてくれた本音は、もっと丈夫に生まれたかったという切実なたった一言のみだ。

何ともいじらしい、哀れな姉。そんなを心の底から慈しみ守りたいとも思うが、その一方で指先の挙動ひとつに至るまで全てを支配したいとも考えてしまう。そうして目を細めるシャディクの前で、不意にの寝顔が歪んだ。咄嗟に疑ったのは再度の発作であったが、どうやらそうではない。言葉にならない声を出そうと小さく開閉する口元、苦し気に寄せられた眉。回復の為にも眠らせておきたいのは本音だが、これでは心身共に休めることも儘ならない。数秒悩んだ末に彼女を悪夢から救い出そうと、シャディクの手がそっと薄い肩に触れ揺らす。乱暴ではない導きに誘われるかの様にの表情から苦悶が抜け落ち、ゆっくりとその目が開いた。

「・・・シャディク?」
「魘されていたよ」

掠れた声で名を呼ぶを見下ろし、シャディクは優しく微笑む。慎重に肩から抱き起こし用意していた水を差し出せば、彼女は拒むことなく飲み干した。体力の消耗は著しいが、発作も発熱も無い。安堵した様に一度額を合わせ、シャディクは丁重にの身体をベッドへと戻した。上掛けをしっかりと胸元まで引き上げていると、未だぼんやりとした様子のが不思議そうに囁く。

「・・・どう、して」
「おや。忘れてしまったかな」

半分開かれたカーテンから、鈍い月明りが差し込む暗い部屋。時刻は夜中だ。何故この様な時間まで、寮生活をしている筈の弟がいるのか、と。自らが発した疑問の答えにが自力で辿り着くまでの過程を、シャディクは一秒たりとも見逃すまいと観察した。
高熱と酷い発作という苦しみの波に揉まれる最中、事前の連絡無く突如現れた弟に手をしっかりと握られた際、自分が浅い呼吸を繰り返しながら一体何を告げたのか。






『お願い、シャディク』



『何処にも行かないで』



『私を置いて、帰らないで』






自らの“過ち”をはっきりと思い起こしたのだろう、呆然と大きな瞳が見開かれていく。

「っ・・・私、何てこと・・・!」
「大丈夫だよ、落ち着いて」

シャディクは起き上がろうとするを制し、唇の前で立てて見せた人差し指で、彼女の唇にそっと触れた。戯れの様にしぃ、と囁けばすんなりと言葉を失う姉を満足気に見下ろし、弟は変わらず穏やかな笑みを象る。

「無断外泊じゃないよ、父さんから学園に話を通して貰えたから。心配しないで」
「・・・お父様、が」
「そう。お蔭で俺はもう何日か堂々と休みを貰えるよ。父さんにもそうだけど、姉さんにも感謝しないとね」

最後は敢えて明るい声色を心がけたが、内容に偽りは無い。
果たして彼女が気付いていたかどうかは定かではないが、何しろ普段より明確に重い発作だった為、日中この部屋には他にも数名の人影があった。使用人や医師、多忙な筈の養父もまた例外ではない状況下、はただひとつ、弟を留めおくことを願った。我儘とは無縁に育った病弱な娘からの、涙ながらの訴えだ。容体が落ち着くまでの間シャディクが滞在し付き添うことに、異論を唱える者などいる筈も無かった。

「・・・無理を言ってしまって、ごめんなさい」

わかってはいたことだが、やはり彼女は先ず自分を責める。謝ることなど無いと、何ひとつ迷惑ではないと伝えたところで、が楽観的には受け止めきれない性格であることも十分に理解している。

よってシャディクは、遣り方を少々変えることにした。整えたベッドの中へ忍ばせた手と手は難なく重なり、互いの力で柔く握り合う。決して一方通行ではない証とも呼べる繋がりに、シャディクの頬が綻んだ。

「こんな時間まで一緒にいられるだなんて滅多にないから、俺はとても嬉しいよ。姉さんは?」

嬉しい。その言葉を使って問われてしまえば、彼女も否定的になれる筈が無い。の表情は晴れ渡るには至らずとも、雲間から差す細い光の様な苦笑が零れ落ちた。

「・・・私も嬉しいわ。申し訳ない気持ちも、同じくらいあるけど」
「姉さんらしいね。今くらい、何も気にしなくて良いのに」

苦笑でも構わない、伏し目がちに自責の念に駆られる姿はあまりに胸が痛むというものだ。少なくともこうして笑いかければ、は眉と共に眦を下げて微笑んでくれる。何と言うことは無いただの苦笑だったが、無性に一秒でも長く引き延ばしたい気持ちに駆られ、繋いだ手をそのままに親指で彼女のそれをくすぐる様に撫ぜた。心なしか苦笑が笑顔に近付いた様な気がする、それだけのことで酷く心が緩む。夜中の男女の戯れにしては艶の無い触れ合いだったが、シャディクの胸中は強く揺さぶられた。

「シャディク、私は大丈夫よ。貴方がいてくれたお蔭で大分良くなったから。部屋に戻ってゆっくり休んで頂戴」
「いくら姉さんでも、それは聞けない頼みかな」

少しずつ彼女の頭が冴えて来た影響か、こちらを案じる為に出て来た提案を即刻捩じ伏せる。当然、予想の範疇であったことだ。シャディクは優しい微笑みをそのままに、繋いだ手の力を僅かに強める。

「昼間は本当に辛そうだったし、また突然悪化したらと思うと心配なんだ」
「・・・でも」
「俺は今晩、姉さんを極力一人にしたくない。わかってくれるよね」

ノーとは言わせない。あくまで物腰は柔らかいまま、しかしはっきりと圧をかければはそれ以上強く出ては来ない。筋書き通りに口を閉ざす姉の表情は、戸惑いと誘惑への迷いに揺れている。もうひと押しだ。
シャディクは繋がれた手を敢えてベッドから引き抜いた。が無意識に目で追って来ることを確認した上で、これまで彼女と絡まっていた指先を使い今度は前髪を撫ぜる。柔らかな髪に指を絡め、額に触れるか触れないかの際どい境界を流した。堪らず目を細めるに笑いかけ、若干身を乗り出す。顔と顔の距離が近付き、青白かった頬に血色が戻る度心が躍った。

「姉さん。俺を望んで貰えて、本当に嬉しかったんだよ」

何処にも行かないで。まるで幼子の様に涙声で縋る彼女に、どれほどの強い喜びを感じたことか。

「何処にも行きたくないんだ。少なくとも今晩は、俺も姉さんの傍を片時も離れたくない」

それはを納得させる為の計算でありながら、紛れも無いシャディクの本心でもあった。

傍にいたい。
離れたくない。
戸籍上は義理の姉である彼女に対し、決して対等には成り得ない少年が願った原点がそこにある。

「・・・シャディク」

不意に遠くに馳せた意識が、細い声によって引き戻された。
は若干目を泳がせながら弟の顔を見上げている。その頬は確かに赤く色付いていた。

もしや。想定外では無かったが、可能性としてはなかなかに低かった筈の願望がゆっくりと形を成す様を、シャディクは一切の期待を滲ませることなく見守った。

「なに?」
「もし・・・もしも、貴方が嫌じゃなければ、だけど」

羞恥と迷い、そして何処か後ろめたい様な表情では目を逸らす。
淑女たる彼女には易々と口に出来る筈も無い提案だ。同時に、シャディクにとって酷く都合の良い誘いとも呼べる。
部屋に戻ることを善しとしないならば、このまま休むことをは勧めているのだ。シャディクが押し入る訳ではなく、が自ら開いたということに価値がある。嫌な筈があるものか。シャディクは柔らかく微笑んだ。

「・・・姉さんは優しいね」

胸に込み上げるのはまた一歩深く踏み込むことへの愉悦か、恥じらう姿への途方も無い愛おしさか。
良質なベッドは二人分の重さで軋みすらしなかったが、いそいそとが空けたスペースに乗り上げた際の背徳感が全身を甘く駆け抜ける。
元より十分な広さの中に、二人の身体はすんなりと収まった。必要以上に密着することも、どちらかが端に偏ることも無い。ただ、同じベッドで向かい合い横たわることは例え様もない多幸感を伴った。

「懐かしいな。昔はよくこうしていたのに。弁えろって父さんに叱られて以来かな」
「・・・そうね」

当然のことながら、昔と今では随分と事情が違う。シャディクはとうにの背を追い抜き、仲の良い姉弟というだけでは逃れられない柵もあることを知った。
誰に咎められることもなくこうしていられた時分には、彼女を慕う気持ちはこれ程までに歪んだものでは無かった筈だった。これまでのことが何かひとつでも違っていれば、ただ彼女を純粋に慕い姉として敬うだけの弟でいられただろうか。
否、きっと難しい。羞恥と隠し切れない熱に浮かされた様な瞳と見つめ合い、シャディクは求める方向へ指先をそっと伸ばした。

「心配はいらないよ。朝になって誰かが様子を見に来るより早く俺は起きるから」

優しく触れた頬が温かい。発熱とは違ったサインが、特別嬉しくて仕方が無い。

「だから今夜こうして眠ることは、俺と姉さんだけの秘密だよ」

二人だけの新たな秘密。その単語に胸の奥が熱くなったのは恐らく独り善がりでは無かった筈だが、不意にの瞳が伏せられる。

「・・・シャディク」
「なに?姉さん」

彼女は、小さく震えていた。

「・・・怖いわ」

一瞬の瞠目と共に、シャディクはの頬から静かに手を引いた。しかし恐れと震えの原因はそこではないらしく、シャディクの見ている目の前での瞳が強く閉じられ、華奢の過ぎる小さな身体は精一杯の力で縮こまる。
探る様な思いで距離感を測りかねた刹那、の口元から震える吐息が零れ落ちた。

「私、本当に・・・駄目になってしまいそうで、怖い」

その瞬間の思いは、表現し難い熱さに満ちていた。
彼女が何を以って駄目としているのか、何を恐れているのか。事細かに言葉にさせることもきっと出来たが、シャディクは今宵その全てを放棄する。

嗚呼、何ということだろう。
思いの外、勝利は目前の様だ。

「怖くないさ」

その声は低く、熱を帯びた。
呆気無く、二人を阻む距離はゼロに変わる。
強張っていた肩は両腕の抱擁で瞬間跳ねたが、時間をかけた雪解けの様にやがて弛緩した。

芳しい薔薇の香りを吸い込み、指通りの良い髪を優しく撫で慈しむ。
あまりの歓喜に眩暈すら錯覚する自身を押し殺し、シャディクはの耳元に低く囁きかけた。

「俺はこの手をずっと離さないよ。怖がらないで、安心して」

夜中のベッドの上でその身を手中に収めて尚、血の繋がりは無くともが姉でありシャディクが弟である事実は変わらない。ゼネリ家の子である以上、二人の立場はこの先も揺らがない。しかし、心は着実に絡まり合い、決して解けぬ領域にまで至ろうとしている。

恐怖を覚える必要は無い。何ひとつ案じることは無い。
何人たりとも理解が及ばぬ奥深くまで、強く繋がり合おう。
誰であっても決して引き裂けない程、心で結ばれた姉弟であろう。

抱き寄せた腕はそのままに、至近距離で見つめ合う。今にも涙が零れ落ちそうなの目元に、シャディクはそっと口付けた。弟と呼ぶには明確に行き過ぎた熱を込めながらも、その腕は再度大切に姉の身体を抱き寄せる。
望んだ未来は目前だ。順序は違えない、何を優先すべきかも理解している。シャディクはこの上無く優しい声で腕の中の温もりに囁いた。

「眠ろう、姉さん。まだ本調子には遠いんだから」
「・・・そうね。ありがとう」

月明りに祝福され、静かな夜が更けていく。
引き返すことの叶わぬ一線は、すぐそこまで迫っていた。


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