Moon Light




甘えや我儘には使い時というものがある。頻繁に使ってばかりでは必要な時に叶わない恐れがあり、かと言って一切封じてしまえばそれこそ使い時を逸してしまう。ほどよく、節度を弁え、ここぞというタイミングを見極める。その点においてシャディクには自信があった。はよほどの事が無い限り、稀に請われる可愛い弟の願いをそのまま受け入れる。小さなボリュームで流れ続けるクラシック、温かな色合いの照明、仄かに漂う花の香り。優しい空気が広がるの部屋で、その主たる彼女の膝を枕にソファへ寝転ぶとは我ながら上手く攻めたものだと、シャディクは内心で口の端を上げた。

社用の外出を上手く利用してとの時間を確保することも慣れたもので、今日など二人並んで優雅にホームシアターを楽しんだところだ。必要な根回しは抜かりない。日々求められる以上の成果を挙げ続けてさえいれば、必要な時必要な助けを得ることは容易い。そうして手にした貴重な時間の中、シャディクは迎えが来るまでの僅か残された猶予を存分に堪能していた。柔らかな枕はほんの少し甘えた声を出せば呆気なく差し出されたものであるし、髪を撫でるの指先は上機嫌にすら感じられるほどだ。
さて、しかしこの状況は実のところ喜んで良いものか否か。惜しみなく開かれた愛情はシャディクしか鍵を持たないことも間違いないが、まるで意識の無い家族愛の延長線とも取れた。今にも歌を口ずさみそうなは、珍しく甘える弟を膝に脳裏で幼い頃の思い出に耽っている可能性が高い。術中通りに物事が進まないことは、もどかしいと同時になかなかどうして面白い。

「帰りたくないなぁ」

細やかな言葉にの手が止まる。横向きに転がっていたシャディクは、そのまま仰向けに体勢を変えた。目を丸くしてこちらを見下ろすに向かって、シャディクは弟の仮面をほんの僅か崩しながら苦笑を浮かべて見せる。

「どうしたの?」
「そのままの意味だよ。学園に戻りたくない気分なんだ」
「お仕事で疲れてしまった?」
「どうだろうねぇ。とにかく此処にいたいって言ったら、姉さんは匿ってくれるかい?」

刹那、大きな瞳に浮かんだのは紛れもなく困惑だった。戸惑いに下がった眉、言葉を探して小さく開閉を繰り返す唇、しかし深淵を覗き込むかの様に絡んだ視線は解かれない。
試した筈が、試された様な気さえする。向かい合った状況に居心地の悪さを感じたのは、何故かシャディクの方だった。

「・・・ごめん、冗談。少し困らせたくなっただけだよ。ちゃんと帰るから心配しないで」

勢いをつけて起き上がり、振り返った瞬間には長年慣れ親しんだ弟の顔になっている。隙無く不備も無い、の頼れる弟だ。根回しが不十分な思い付きで信用に関わる危ない橋など渡る筈が無い。普段通り飄々とした明るいトーンで語りかけ、改めて隣り合い安心させる様に笑う。
はきっと安堵した様に微笑む筈だ。胸を撫で下ろし、困った様な優しい笑みで目を細めるのだろう。いつだって都合良く表面上の顔に騙されてくれる、それが彼女の筈だ。

「ね、シャディク」
「なに?」
「私に、何か力になれることはあるかしら」

瞬間、シャディクは言葉を失った。隣り合ったは至極真剣な顔をして弟の顔を見つめている。

「いつも私、シャディクに助けられてばかりだわ。こんな私だけど、出来ることがあるなら何でもしたいの」

帰りたくないと言ったのは冗談だと繰り返し笑おうとした言葉が喉に痞え、シャディクは不自然な笑みを貼り付けることとなってしまった。
これは想定外だ。駆け引きを楽しむどころか自分の装いすら保てないだなんて、在り得ない。練らない言葉は愚策としか呼べない。しかし、シャディクは胸の内に生まれたばかりの言葉を声にした。

「・・・迎えが来るまで、姉さんの時間を俺にくれる?」
「勿論よ。全部あげる」

何でもしたい、全部差し出すと、は言う。
全幅の信頼は眩しいほど真っ直ぐで、惜しみない家族愛は慣れている筈が今日に限って鈍い痛みを伴った。

堪らず顔を背けると共に静かに立ち上がったシャディクは、部屋の照明を落とし代わりにカーテンを開いた。月明かりの美しい夜だ。
振り返った際に作った表情は完璧とは呼べなかったが、からは暗くぼんやりとしか映らないだろう。変わらずソファに腰かけたまま、不思議そうな顔をしてシャディクを見上げる表情は姉以外の何物でも無い。

何でもしたい。全部あげる。
その言葉に嘘は無いかと告げればどんな顔をするか。素知らぬ顔で本当だと繰り返すかもしれない。シャディクは薄く温度の無い笑みを浮かべた。
暗い部屋に二人きり。このままソファに押し倒すことも、ベッドに放り出すことも、造作なく出来てしまうと言うのに。

「・・・シャディク?」

の方へ伸ばした手のひらを、そっと上向かせる。
片手片足を下げ、恭しく頭を下げるシャディクの微笑みは柔らかいものになっていた。

「お手をどうぞ、レディ」
「えっ・・・?」
「残りの時間は全部俺にくれるって言ったよね。踊ろう、姉さん」

控え目な音量で流れ続けるクラシックが、スローなワルツを刻んでいる。
まるで予想もしていなかったのだろう。は戸惑いに目を泳がせたが、やがて自らの発言に責任を持とうと覚悟を決めた様に弟の手を取った。とはいえ、にはそれほど十分な体力が備わっていない。優し気な微笑みは、自信が無いと言わんばかりに俯きがちだった。

「・・・わかったわ。でも、」
「大丈夫、姉さんに無理はさせないよ。全部俺に任せて」

には欠片も負担をかけない、当然それくらいは心得ている。シャディクは預けられた白く細い手の甲に浅く口付け、そっと彼女を立ち上がらせた。

華奢という言葉では正直表現が追い付かないほどに、抱き寄せたの身体は薄く脆い。壊さぬ様、不安を感じぬ様、シャディクの腕はしっかりとその背を支えた。
その弱さ故に社交場へ出る機会が実際には無くとも、ゼネリの娘として彼女にはこうした事の最低限の基礎が身に付いている。ダンスの身の委ね方、姿勢の取り方。ひとつひとつが昔習ったきりとは思えぬ程洗練されており、感心するシャディクの内心を知ってか知らずかの頬が綻んだ。

「リードが上手ね」
「パートナーが姉さんだからだよ」
「本当?もう随分久しぶりだから、身体が覚えていてホッとしたわ」

広い部屋の中へ誘い込んだ月明かりと影の絨毯を踏み、静かな音楽に合わせて二人はそっと身体を揺らす。大きなステップは踏まなくて構わない。互いにしっかりと身体を引き合わせ、穏やかに音を感じればそれで良い。
そうしている中でつい先程まで並んで観ていた映画の一部を思い起こしたのだろう、の瞳が柔く細められた。

「舞踏会のシーンで、画面の向こう側に憧れたの」
「・・・知ってるよ」
「こんなに早く叶うだなんて、思ってもみなかった」

煌びやかなパーティー、大きなダンスホールで上品な音楽に乗り繰り広げられるワルツ。きっとにはこれまでもこの先も縁遠い場所。どうにもならない憧れに瞳を輝かせる彼女の隣で、シャディクが何も気付かぬ筈は無かった。スローなターンは送りも迎えも細心の注意を払い抱き留める。は小さな興奮に微笑みながら、少し困った様に眉を寄せた。

「さっきのお話は、私の為のお芝居だと思って大丈夫なの?」
「どういう意味かな」
「シャディクは優しい嘘が上手だから。時々、不安になるわ」

並んで映画を観た時から、この部屋でワルツに誘おうとは考えていた。口実は膝枕の上で色々練ってはいたが、あまり良い流れの誘いだったとは言えない。それでもは、シャディクに問うのだ。

「学校は、楽しい?お仕事は、辛くない?」

曲の終わり、瞬間静寂が訪れた。
普段あんなにも学校の話をせがむ彼女が。だからこそだろうか、真剣な顔をして真意を問う。
次の曲が流れ始めた。

「どっちもまぁまぁかな。姉さんが傍にいてくれたら違っただろうけど」
「答えになってないわ」
「姉さん。時間は有限なんだから、今は俺に集中してくれなきゃ」

半ば強制的にシャディクは話の舵を切った。危うく調子が狂いそうになったことは明かせない。大人しく口を閉ざしたが気落ちしない様、シャディクは更にしっかりとホールドしながら多少変則的にコースを変えた。無論彼女が疲れぬ様配慮も欠かさない。それだけのことで、は楽しげに小さな声をあげて笑った。

「もっと素敵なドレスを用意しておけば良かったかしら」
「何もいらないよ」

即答だった。
高級なドレスはいらない。他の参加者も、豪華なオーケストラも、天井を埋め尽くすシャンデリアも、何一つ不要だ。

「姉さんさえ居てくれれば、それだけで完璧だ」

ダンスの距離感は普段と違う。特別近くから囁かれた、最大限の尊重を込めた言葉。正面からまともに受け止めたの瞳が、若干揺れる。

「もう。上手なんだから」
「信じられない?なら・・・」

彼女が小さな動揺をひた隠しに誤魔化そうとすることを、今宵のシャディクは見逃さなかった。

背に回した腕で折れそうに薄い身体を引き寄せ、しっかりと片腕で支えていると理解させた上で結んだ手を放す。

シャディクの長い指がの顎を捉え、乱暴にならない力加減で小さな顔を上向かせた。

「俺の目を見て」

ワルツの音楽は依然として続く中、ステップが完全に止まった。至近距離で目と目が合う。

嘘をついている目に見えるかと甘く囁くつもりが、此処に来て尚シャディクはらしくもなく寸前で言葉を差し替えた。

「俺の気持ち、わかるよね」

本人ですら思いの外、真剣な声色だった。当然が落ち着いていられる筈も無い。月の光に照らされた白い頬が熱を持ち、瞳が多大な動揺に揺れ彷徨い、そして。

「・・・し、信じる。私が悪かったわ」

降参だと言わんばかりに、の方から強引にシャディクの胸に顔を埋めた。物理的に距離は近付いたが、少なくとも視線は絡めずに済む。
逃げられた。そう思いつつも、シャディクもこれ以上を追い詰めようとはしなかった。予定外のことは確かにそれなりのスリルもあるが、やはり計算不足は落ち着かない。

「信じてくれた?それは何より」

胸元にがいては正しいホールドが組めない。しかし、両腕で抱き締めたままでも身体を揺らすことは出来る。
月夜のダンスがそうして緩やかに再開すると、がおずおずとシャディクの背に両手を回し返した。

「素敵な夜をありがとう、シャディク」
「喜んで貰えて嬉しいよ」

彼女の溜息は、聞き間違いでなければ満ち足りた色をしていた。


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