Mask




グラスレーの占有車が、独特の静けさで夜道を走る。隣の席で窓の外に意識を向ける愛娘へサリウスが声をかけたのは、ゼネリ邸へと間もなく迫った頃のことだった。

「・・・大事は無いか」

低く静かな問いかけだった。磨かれた窓ガラス越しに目を合わせたが、ぱっと身を翻す。その瞬間何かのスイッチが入ったかの様に娘が上機嫌に話し出すさまを、サリウスは注意深く見据えた。

「ありがとうお父様、でも大丈夫。初めてこんなにご挨拶周りが上手くいって、本当に感激してるんです。お疑いならシャディクに聞いてみて」

後部座席で交わされる親子の会話に、助手席に掛けるシャディクが即反応を見せる。

「本当ですよ。今日は姉さんが隣にいてくれたお陰で、普段は遠巻きに見ているだけの企業も率先的に声をかけてきたように思います」

今宵のインキュベーションパーティーはグラスレー社として上々の結果を齎した。プレゼンテーション然り、特に挨拶周り然り。という普段は滅多に社交の場に出てこない令嬢の存在に数多くの企業が興味を示し、実際に声をかけてきた者も多かった。シャディクの分析は正しい。しかし、サリウスの指摘とは意味が異なることもまた、シャディクは正確に読み取っていて。

「でも姉さん。父さんが心配しているのは今日の成果じゃなく、姉さんの体調のことだよ」

義父に対し礼節を重んじる声色から、数歩家族寄りに踏み込んだ気さくな笑みをもって、シャディクからへのフォローが入った。身体の弱い姉を案じる弟の言葉として、満点としか呼べない。パーティー会場に於いても、シャディクは後半現れたの傍を片時も離れず、姉に不安な思いをさせなかった。血の繋がりはなくとも、実に出来た弟だ。

「慣れないパーティー会場だったし、外出自体かなり久しぶりだよね。今は気が張っているから元気でも、心身ともに負荷はかかっている筈だよ」
「・・・その通りね。ありがとう、シャディク。お父様も、ご心配をおかけします」

は素直に己の脆弱さを認め、今日の外出を許した父にもまた深い礼の言葉を述べた。しかしながら、今宵のはそこで黙ることをしなかった。

「帰ったら早めに休みます。体調も、普段以上に気を付けます。でもお願い、また今日の様に外出をお許しいただけませんか」

サリウスの沈黙の意味を、子どもたちは二人して正しく読んでいた。
不信には至ることの無い疑念―――は先天的に非常に身体が弱く、つい先日まで遠いフロントでの療養すら真剣に検討する程だった。安全性を思えばあまり気軽には外出を許せるものでもなく、そうして長年を過ごしてきた。
娘の変化に対する困惑―――いつだっては消極的で従順な娘だった。自ら何かを強く主張したことなど、ほんの幼い頃から数える程しか無い。親の心労を案じ、使用人にかける手間を憂い、己の脆弱さを静かに呪うような内向的な性格だった。

「だって・・・今日は本当に、終わって欲しくないと願ってしまう程に心が躍った一日だったんですもの」

そんな愛娘から、ただひたすらに今日が楽しかったと眩しい思い出に浸る様な、多幸感に目を細めながらも先を望む様な懇願を向けられれば。如何に厳格なサリウスであっても、そう容易く拒むことなど出来はしない。

「・・・体調により、行く先には制限を付ける。何点か条件も課すが、従えるか」
「勿論、仰せのままに・・・!ありがとうお父様・・・!」

珍しい程にははしゃいだ。ガンドを拒み時代から逆行したチューブで繋がれた父の腕にそっと飛び付き、精一杯の喜びを表現する。サリウスの眦がほんの刹那ほどけ、そして次の瞬間には厳しさをもってミラー越しに指令を発するタイミングを、シャディクは十分な余裕を持って待ち受けた。

「・・・任せたぞ」
「はい、父さん」

車は邸の敷地内へ入る。今日という一日が、終わろうとしていた。



* * *



パーティー用に品良く纏め上げられた髪から、ピンを一本ずつ丁寧に外す。当然の様にその役割を引き受けるシャディクの手際を自室のドレッサー越しに眺めながら、がおずおずと言葉を探った。

「私は・・・上手に、振舞えていた?」

僅かな一瞬の沈黙を挟み、ふたりの視線がドレッサー越しに合う。その口許で柔らかな弧を描き、シャディクはの頬を撫でた。

「この上無くね。今日の姉さんは姫君の様に美しいだけじゃなく、賞を取れる程の女優さんだった」
「もう。揶揄わないで」

くすぐったそうに小さく笑ったが身体ごと背後を振り返ることで、ふたりは正面から向かい合う。の足元に跪いたシャディクはもう弟の顔を装ってはおらず、ピンの支えを失いはらりと落ちた彼女の髪を掬う指先には紛れもない熱情が籠もっていた。

「本当だよ。パーティーの招待客も、父さんも、俺たちの関係には気付かない」
「・・・そうね」

会場からシャディクが抜け出たそのひととき、二人は遂に姉弟の一線を越えた。血の繋がりはなくとも想いが通じることを恐れていたが本心を曝け出した瞬間、シャディクは待ち望んだ勝利を確信すると同時に、永久に彼女に囚われることを誓った。
ふたりはこれからも変わることなくサリウス・ゼネリの子だ。そしていずれは会社が選んだ相手と婚姻関係を結ぶことになる。それでも構わない。配偶者が誰であろうと関わりは無く、互いを最も尊び生きていく。そうして、誰に理解されずとも心だけは離れないと決めた。今日はその第一歩だ。
髪を下ろすことでまたひとつ魅惑的に思える姉を見上げ、シャディクが華奢な手の甲へと口付ける。びくりと震えた末、は何も言わなかった。反応の鈍さは緊張の現れか、不慣れさ故の戸惑いか。いずれにせよ無理を通すことは望んではおらず、シャディクは素早く表情を調整した。熱情よりも親しみやすさを。頼りになる弟の顔は、長年の積み重ねで息をするように染み付いたものだった。

「出掛けるのに良さそうな所をいくつか探しておくよ。勿論、父さんの言った通り体調優先だけどね」
「・・・」
「姉さん?」
「えっ・・・ごめんなさい、何だったかしら?」

彼女が呆けていた背景に、体調不良が真っ先に浮かぶ。素早く額へと手を当てるも具合の悪くなる前触れのそれは感じられず、熱以外の不調の兆しも見当たらない。小さく安堵の息を吐いたシャディクは、改めて美しい姉を見上げその手を取った。

「姉さんが土台を作ってくれたんじゃないか。父さんに直接、外出の機会を願い出てくれた。俺としては、デートが出来る絶好の口実が増えて嬉しかったけど・・・違ったかな」
「あ・・・そうね、違わないわ」

心ここにあらず。そんなの視線の先にあるものに、シャディクは漸く気付いた。

「ただ、心が躍ったのも、今日が終わって欲しくないと願ったのも・・・紛れもない本心だったから」

時計の針は0時を指そうとしている。今日という一日が終わる。の瞳に宿る寂寥の何とも言い難い引力の強さに、シャディクは恍惚と目を細めた。
愛している相手には笑顔や明るい表情を求めて然るべきところ、憂いや翳りの側面からしか得られない仄暗い想いも欲してしまう。もう随分と長いこと、シャディクはの温かさに焦がれると共に、脆さにも魅入られ続けているのだ。

「貴方と心が通じて・・・夢の様に幸せなひとときだったわ。もう、このまま消えても良いと思うくらいに」
「・・・俺も同じ気持ちだよ」

そっとその手を包み、欠片も負担をかけない様心掛けながら立ち上がる。ふらついたのか、意図的だったのか、すんなりと腕の中に収まった華奢過ぎる身を閉じ込め、芳しい薔薇の香りに酔いしれた。
儚さと美しさの狭間で揺蕩う、か弱い存在。ゆっくりと時間をかけて、漸く手に入れた一輪の薔薇。刹那の絶頂を尊ぶ思いはあれど、一晩だけで儚くなることを願えるほどシャディクは満ち足りた人生を送ってはこなかった。

「でも、姉さん。終わらない今日も素敵だけど、俺と一緒に明日へ行こう。何も怖くないよ。俺は決して姉さんを離さない」
「そうね・・・そうよね、貴方がいるもの・・・」

の細い手がシャディクのジャケットを掴む。縋る様なその声と仕草に覚えるのは、至上の愛でありながら堪らない優越感でもある。

「連れて行って、シャディク。行先は、貴方さえいてくれるなら何処だって良いから」
「仰せの通りに。快適な旅を約束するよ」

決して引き離されないよう、絡れ合う程に複雑に深まっていく。歪んだ支配欲であることは承知の上で、シャディクはの髪にそっと口付けた。


 Top