the Frozen Utopia





その日、幼い少女ミオリネ・レンブランは友人をまたひとり失った。

子どもなりにも大切に温めた交友関係の糸は、父の手により呆気なく燃やされ、成す術が無かった。何の相談も無ければ説明も無く、ただ一方的にもう会えないと告げられる痛みは小さな身体に酷く堪えた。
胸にぽっかりと穴が空いた様な虚ろと悲しみ、そして怒り。泣けば良いのか喚けば良いのか、それすら持て余してしまうミオリネは、しかし肩を震わせて涙を流すばかりの子どもではなかった。

インカムで状況を報告し合いながら、ロストした警護対象を探し惑う黒服の目付け役達。生垣の僅かな隙間から彼らを睨み、ミオリネは敵意を込めて舌を出す。やがて脅威が去るのを確認し、小さな少女はふうと息を吐き出した。

「・・・ざまぁみろだわ」

出先のフロントで雇用主の娘を見失ったとなれば大失態だろうが、追っ手の黒服を撒いたところで気分は晴れない。友はまるで服についた塵の如くむしられ、手の届かない場所へ引き離されてしまったのだから。勝手に気持ちを傷付ける父の待つ家へ、帰りたくない。

その時だった。
すぐ傍にある扉が、静かに開く。自動ではなく物理的に押し開けるガラス戸独特の音に、ミオリネは肩を震わせた。紛れもない不法侵入だ。追っ手なら捕まる、この敷地主なら怒られる。どちらにせよ表情を固くしたミオリネの目に映ったのはーーー

「ようこそ、ミオリネ様」

あまりに穏やかで、気品に満ちた歓迎だった。



* * *



・ゼネリ。三つ歳上の彼女を、ミオリネはよく知らない。生まれつき身体が弱く滅多には社交場に現れない彼女が、こんなにも親身に話を聞き寄り添ってくれる存在とは、考えもしないことだった。

ミオリネが生垣から強引に忍び込んだ先はゼネリ家所有の敷地だったが、は勝手な侵入を咎めず、ティーセットを二人分用意しミオリネを招いた。
こじんまりとした、しかし手入れの行き届いた温室だった。無理に急かさず、話も促さず、温かな紅茶を振る舞い隣に掛けるだけの存在が、今のミオリネにとってどんなに心強かったことか。

「それは・・・辛かったわね」

気付けば胸の内を思いの外打ち明けてしまった後で、ミオリネは戸惑いに目を瞬くばかりだったが、そっと背に添えられた手は堪らなく優しい。
温かな飲み物を身体に入れた効果と相まり、ふと気を抜けば涙を誘発されそうな心地にミオリネは強く鼻を啜った。
何故だろう。足が地面に根を張りそうなほど、この温室からは離れ難い。僅かに花の香りを纏うは優しく儚げで、縋りたい様な不安を煽る様な複雑な感情を抱かせた。

「帰りたくない」
「ミオリネ様」

顔馴染みとも言い難い些細な間柄で、無条件にミオリネを匿い優しく接してくれるひと。
今この場で大泣きをすれば、恐らくその胸を貸してくれるひと。
力を入れれば折れてしまいそうな、細く繊細な薔薇のようなひと。

「・・・嘘よ。帰る」

しかし、本心はどうあれ甘える訳にはいかない。
その小さな身に詰め込んだプライドで精一杯の強がりを口にして、ミオリネは立ち上がる。

「もし良ければ、またいらっしゃい」

背後から追って来た声は、やはり優しい。

「一緒に走り回って遊ぶことは出来ないけれど、ゆっくりお花を眺める相手くらいにはなれる筈よ」

戸惑いがちに振り返った先、生気は薄いが包み込むように穏やかな笑顔に、心臓の奥が聞いたことの無い音を立てた。
次会う約束など、誰と安心して交わせただろう。

「・・・は私と一緒で、大きな会社のひとり娘。だからお父さんも、勝手に私から取り上げたり出来ない。そうなのね?」
「私と貴女の立場は・・・」

がほんの一瞬言い淀んだ理由―――デリングとサリウス、グループ総裁と一代表の格差や、かつてとは立場の上下が逆転した父達の難しい関係性はその時のミオリネには理解の及ばないことだったが、結論としてデリングが手出し出来ない交友関係という意味では間違っていなかった。

「・・・いいえ。きっとそうだと思うわ。私のお父様だって立派な代表だもの。総裁も、私のことはそう簡単に貴女から引き離せないのではないかしら」
「そうよ!きっとそう!」

父の手が及ばない安全地帯。
勝手に引き剥がされる恐れの無いひと。
身に覚えの無い高揚感を与えてくれる、儚くも優しい笑顔。

「また来るわ。次は温室の花、全部見せて」
「ふふ。それなら、今度は生垣の隙間ではなく正面からいらしてね。ミオリネ様」
「わ、わかってる!」

可笑しそうに肩を揺らすその表情に、どうしようもなく惹かれた。

「・・・それから、その呼び方」
「え?」
「普通に呼びなさいよ。友達みたいに」

縋りたい。支えたい。
ほとんど交流の無かった相手に対して抱くには行き過ぎた激情が、小さな身体に勇気を齎す。

「ええ。わかったわ、ミオリネ」

喜びが込み上げて、羽が生えた様に身体が軽い。
小さな温室は、少女にとって理想郷そのものの様に思えた。



* * *



月日がミオリネの背を伸ばし、社交界の装いがフリルのドレスからジュニアサイズの正装に切り替わり間もなくの頃だった。

未だ慣れない窮屈なヒールに踵を詰め込むことは落ち着かない。しかし更なる気掛かりが、ミオリネの顔を顰めさせていた。
パーティー会場の別室にて、目の前を忙しなく右往左往し続ける金髪の少年が原因である。

「そんなに心配ならついて行けば良かったじゃない」

彼の名はシャディク・ゼネリ。ほんの数年前サリウスに迎え入れられた養子であり、の義弟にあたる少年だ。
うんざりした様なミオリネの呟きに対し足を止めた彼は、困り顔で口許だけの微笑みを浮かべる。ミオリネは、シャディクのこの表情が好きではなかった。

ミオリネはかつての温室での邂逅をきっかけにと距離を詰めようと試みたが、彼女の身体の弱さは想像を遥かに超えていた。
起き上がることすら出来ない調子の悪さを、ミオリネは知らない。身体が思う様に動かないとは、どの様な苦痛だろう。会いたくとも面会を使用人に断られる日々の中、ごく稀にパーティーで顔を合わせた時の喜びは大きかった。

大人たちの目を盗み、使われていない別室へ避難してこっそりと植物談義に花を咲かせる。限られた時間の中で、はミオリネを存分に甘やかしてくれた。年は三つしか違わずともはかなり大人びており上品で、ぴたりと寄り添えばほんのりと薔薇の香りがする。ミオリネにとって貴重でかけがえのない交流の輪に、後から加わったのがシャディクだった。

弟が出来たの。そう言って酷く嬉しそうに笑うの後ろから顔を出したシャディクに対し、最初にどんな顔をしたのかミオリネには自覚が無い。しかしを挟み気まずそうな顔を返された最初の接触から数年、が体調不良を理由に不在であってもシャディクは社交の場に出席していたものだから、何だかんだと接する機会が増えて今に至る。

デリングが手出し出来ない交友関係という点ではシャディクも同じ筈が、今一つ素直になりきれないのは彼がの信頼を勝ち得た弟の為だろうか。姉さんと呼び慕うそのポジションを、心のどこかで羨ましいと感じている為だろうか。

今日のパーティーにはも出席していた。久方ぶりに三人で示し合わせこの部屋へと移動し、ミオリネが勉強中の植物の話でを質問攻めにし、シャディクがやんわりと割って入り、怒るミオリネをが穏やかに宥める。破綻しそうでしない絶妙なバランスの取れた空間は、思いもよらぬ横槍で崩壊した。

子どもだけで会場を抜け出ていたことなど気にも留めない表情で、サリウス・ゼネリはにだけ同行を命じた。こういった状況で彼女一人が呼び出される理由はただひとつ、新しい縁談だった。

の表情から温かな灯が抜け落ちる瞬間を、ミオリネは不安気に見守った。従順な答えを口にしたはミオリネに小さく詫びの言葉を送り、そして最後にシャディクに対し切なく微笑みかけて部屋を後にした。
ミオリネとシャディクは会場に戻る様にと諭されることもなく、この場に残された。の後ろ姿を見送るシャディクの顔は、ミオリネの位置からは確認出来なかった。

義理であれ弟なのだから、気になるのなら付いていけば良かったのだ。そう指摘されたシャディクの苦笑は気に入らない上、も取り上げられミオリネの機嫌は悪くなる一方だった。

「・・・僕はまだ、父さんの横に並べるほど結果を出せていないよ」
「別に関係無いと思うけど。仮にも姉の婚約者になるかもしれない相手と会う席に、弟としてついて行くのはそんなに変なこと?」
「仕方がないよ。外から入った余所者だから。こういう場で姉さんの弟を堂々と名乗るには、僕はまだ何もかも足りてないんだ」

まただ。物分かりの良い顔で苦笑を浮かべ、自身が劣っていると肩を竦める。シャディクのこういった一面が、ミオリネは好きではなかった。
自嘲の笑みを浮かべ、とても手が届かないと己を貶めながら、その目は本心を押し殺し切れず燻っている。
―――を、取られたくない。
心の声が、手に取る様にわかる。

「あんた、面倒くさい」

落ち着いてじっと待つことも出来ず、元々二人であったなら出来た筈の当たり障り無い会話すら浮かばず、何を強がっているのか。
半ば苛々とした胸中を隠さないミオリネを見遣り、シャディクは考え込むような間を挟んだ末に浅い溜息を吐き出した。

「君は本当に思ったことをはっきりと言うね」
「“姉さんならそんな意地悪言わない“って?当たり前でしょ、私とは違うわ」
「・・・」

ミオリネの言葉に偽りは無かった。本心そのものである故に、時に相手を傷付けてしまう。そしてシャディクもまた、何を言われても笑顔で取り繕えるほど経験値も足りず、加えて琴線に触れるの話であるが為にヒートアップした。

「・・・そうだよ、姉さんは優しくて思い遣りがあるから君みたいな意地悪は言わないし、教養だって十分ある。人並みに健康だったなら、既に求婚者が後を絶たないよ」
「あっそう。じゃ今頃あんたは淋しくて泣いてたかもね」

がこの場にいたならきっと嗜められたであろうシャディクの反論は、ミオリネのカウンターで呆気なく砕け散った。単なる子ども同士の小さな諍いは、少年の胸中を静かに深く抉る。

「・・・それを言わないでくれよ」
「・・・」

やはり、面倒臭い。ミオリネは深く溜息を吐いた。
然り、ミオリネ然り。シャディクもまたゼネリ家の養子であれば、将来的に政略結婚のさだめからは逃げられないだろう。馬鹿馬鹿しいと感じながらも、ミオリネは生まれながらにそうした仕組みの世界を生きている。
の縁談とてこれが初めてでは無いだろうに、万度そうして負の渦に頭を抱えるのかと、ミオリネはシャディクに対し目を細めた。

「あんた達仲良いんだから、ずっとそのままお互いが一番でいれば良いんじゃないの」
「気休めは止してくれよ。どんなに姉弟仲が良くても、姉さんとは・・・いつか引き離される。家の意向には逆らえない」

いつか、引き離される。その言葉を口にする。それだけのことで傷付き、心が悲鳴を上げ、しかしそれを頑なに耐えるシャディクを目にした途端に、ミオリネの中で何かが崩れた。

何て真っ直ぐで、何て下らない。

「たかが政略結婚なのに、嫁いだら全部そいつのものって、あんた本気で信じてるんだ?」
「・・・え?」

ミオリネは自分の未来を半ば受け入れながらも、心の自由までは決して諦めてはいなかった。
父への反抗か、それとも友への遠回しな励ましか。どちらにせよ、それはミオリネの本心に他ならない。

「私はそんなの、絶っ対にお断りだけどね」

その一言がやけに大きく響き渡り、ふたりだけの空間は暫し静まり返った。
妙な居心地の悪さにミオリネが眉を顰めた、その刹那。

「・・・ミオリネ」
「何よ」
「君は・・・何て素晴らしいひとなんだ・・・!」

唐突に両手を強く握られ、ミオリネは目を大きく見開き二歩後ずさる。紺碧の瞳は見たことがないほど輝き煌めいていたが、不思議なことにこれだけ近くにいるミオリネを映してはいなかった。

「はぁ?ちょっと!離しなさいよ!」
「考えたことも無かった・・・そうだ、そうだよ、全部君の言う通りだ・・・」
「自分の世界に入る前に手を離して!鬱陶しいのよ!」

まともな会話が成り立たない。ミオリネが焦り困り果てたその時だった。

出入口から明確な物音と気配がし、反射的にふたりの手は離れた。誰かがそこにいる。応じたシャディクが扉を開けた、次の瞬間。

「・・・っえ、ちょっと、?!」

ミオリネの瞳に映ったのは、開いた扉に寄り掛かる様に崩折れる、そして素早く彼女を抱き留めるシャディクの姿だった。

「・・・シャディク」
「姉さん、疲れたんだね」

ミオリネは瞬間硬直してしまう程の動揺を強いられた。理由は咄嗟には絞れない。これほど明確に弱るを初めて目にした衝撃か。身長が揃い始めたふたりが強く求め合うかの如く抱き合う光景に、表現しようの無い熱を感じた為か。

ただ、何故か一歩も近付いていけない。を心配する気持ちは溢れんばかりの筈が、何ひとつ言葉になってはくれない。身体の内側がキリキリと悲鳴を上げるような錯覚すら覚えてしまう。薄く汗ばむほどの戸惑いにミオリネが身を固くする傍ら、シャディクはこれ以上無いほど優しく姉を介抱する。

「心配しないで。すぐ帰れる様に、父さんを呼んでくるよ」

姉を抱き留めたまま背を摩り、耳元で子守唄のように囁きかけるその流れは非常に洗練されたものだった。

「・・・姉さん?」

しかし、シャディクに絡み付いたの腕が離れない。父を呼びに行く役目を申し出た弟を、許さない。縋る様に掴むその手が、シャディクの上着に皺を刻む。

ミオリネはその時になり漸く、金縛りが解けたかのように言葉を取り戻した。

「あ・・・私、あんた達のお父さん、呼んでくるから!」
「ありがとうミオリネ、頼むよ」

二人の横を抜けて駆け出すことで、ミオリネは逃げる様にその場を後にした。

息苦しい程の緊張感の中、とは結局一度も目が合わなかった。弱っていた彼女が一心に求めたのは、義理の弟ただひとりだ。
あまりに、ふたりの世界は完成され過ぎていた。

はじまりは急速に心を引き寄せられた。それと同じだけの勢いで突き放されたように感じ、心臓が痛い。近付くなと、出て行けと。あの優しく穏やかな存在に突如全身で拒絶されたような、そんな気がした。

「・・・」

あの日、あの温室で、このひとならと思った。仄かな憧れと小さなときめきは、ほんのひとときの夢に過ぎなかったのだと突きつけられる。

理想郷が温度を失い、氷結で固く閉ざされていく音がした。



* * *



「聞いた?決闘で花婿探しだって」

ひとの言葉が悪意かそうでないか、即座に聞き分けられるようになったのはいつの頃か。嘲笑とも呼べる囁きはすれ違いざまの生徒から発され、ミオリネは歩く速度を上げた。

理事長の娘というだけで腫れ物扱いだというのに、今度は決闘の商品にされてしまった。当然、事前の相談などある筈も無い。
徐々に歩行速度は上がり、最後は半ば駆け込む様にして己の温室へ駆け込み、ミオリネは深く息を吐き出した。

この閉ざされた空間でのみ、空気を最低限に美味しく感じる。誰も入ってこない、ミオリネだけの小さな城。誰もいない、ミオリネの居場所。

「・・・」

あの日から随分と年月が流れた。次に会う約束を交わせたひととは、あれ以来顔を合わせていない。

何を間違えたのだろう。何かひとつでも違っていれば、今も温室のトマトについて相談をしたり、決闘への不満を打ち明けることも出来たのだろうか。

こんなにも、孤独を感じることも無かったのだろうか。

「・・・バカね」

下らない空想だ。
もう誰にも、期待などしない。

精一杯の強がりを己に言い聞かせ、ミオリネは温室のデータと向き合った。



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