Parable Flight






そこは柔らかなアイボリーで統一された、窓の無い船室だった。
十分な広さがあり、片方の壁側に偏って客席は点在しているものの、今この場には以外の利用客の姿が無い。何をするでもなく、何を見つめるでもなく、しかし彼女は大人しく席に座し思い人を待つ。ひたむきな思いに応えるかの様に、一か所しか無い出入口が小さな電子音と共に開いた。

「一人にしてごめんよ、姉さん」
「シャディク」

無重力用のノーマルスーツに身を包み、シャディクは一息にのもとへと飛んできた。それなりの勢いも危なげなくふわりと着地し、普段通りの優し気な笑みを浮かべて姉の髪を撫でる。決して詫びるほどの時間は経過していなかったが、心地良さそうにが目を細めれば二人の空気は穏やかに円を成した。

「手続きに少し時間がかかってしまってね。でもこれで、晴れてこの船室は俺たちの貸切さ。到着までは二時間ある、ゆっくり帰路を楽しもう」
「嬉しいけれど・・・民間船なのに、一部貸切だなんて大変だったんじゃないかしら。お父様の船なら、お願いすれば使わせて貰えたかもしれないわ」

いくつかの船室が中央の航行制御室に各々連結された、独特な形状の船だ。ふたりの行先はゼネリ邸の建つフロントだったが、民間船である以上直行では無く決められた停留区域へ順に乗客を運んでいく。貸切は有難い話だが、わざわざ手間をかけずとも父の有する船のひとつを借りれば良かったのではとが肩を竦める。しかし姉に向き合う弟の表情は日頃の通り飄々とした、それでいて小さな企みに輝いた目をしていて。それ以上の言葉を遮るかの様に、長い指先がの唇へと悪戯に当てられた。

その触れ方ひとつ、その眼差しひとつ。
ふたりは手を携えて、ただの姉弟であった頃とは違った航路を進んでいる。

「あとでわかるよ。期待して、待っていて」
「まあ。何かしら」

そっと囁き合う声は、愛を語らずとも堪らなく甘い。誰に理解されずとも互いを唯一とした姉弟は、至近距離で可笑しそうに肩を揺らして笑い合った。

「それより、疲れてはいないかい?」
「ありがとう。大丈夫よ」
「なら良かった」

何ひとつ負担を掛けぬよう、何者からも害されることの無いよう、彼女は至宝の如く愛され守られている。それは今回の外出先でも何ら変わることは無く、労られるべきはどちらかとが苦笑を浮かべた。

「道中もずっと気を遣ってくれてありがとう、シャディク。でも、私に合わせることは無いのよ」
「何の話かな」
「・・・スーツよ。窮屈でしょう。貴方こそ疲れているんだから、ゆっくり寛いで欲しいわ」

ノーマルスーツは無重力下で身体への負担軽減及び有事の際に備えたものだが、環境の整った民間船であえて身につける健常者は少ない。メットは装着せずとも、纏うだけで動きを制限されるスーツをシャディクが着ているのは何故か。それが己に疎外感を与えない為の気遣いであると気付けないでは無かった。

ふたりの関係性を変えたインキュベーションパーティー以降、は気分転換を理由に外出を願う様になった。許される行き先は体調により様々だったが、生まれつき脆弱な愛娘が少しでも明るい顔をするならばサリウスも案じることはあれど強く引き止めることはしない。常に誰かを供につけること、無重力下ではスーツを装備すること。いくつかの定めを忠実に守るべきはひとりであり、弟にまで強いることを姉は憂いたのだった。

「確かに、それもそうだね」

シャディクはほんの数秒考えた末に、もたつく事無く大柄なノーマルスーツを脱ぎ捨てた。下に着ていたセミカジュアルが良く似合う。余計な重さから解き放たれた弟を見て微笑むは、間も無くしっかりと腕を掴まれ唖然と目を瞬くこととなった。大きく綺麗な手が、の首元へとかかる。

「っえ・・・シャディク、ちょっと、」

難無くスーツのロックを解かれ、彼女は大層狼狽えた。

「あぁ、ごめんよ、突然で怖かったかな。脱ぐなら一緒にどうかと思ってね。解放感が違うよ」
「・・・怖くは、ないけど」

シャディクと同じく、もまたスーツの下には外出用のドレスを着ている。奇妙な気恥ずかしさに空振ったのは自分だけの様に思え、彼女は小さく首を振って苦笑した。この場でスーツを脱ぎ捨てることは不可能ではない。しかし、不安は残る。

「でも、お父様の言い付けだし、私は着たままで大丈夫よ。本当に気にしないで」

スーツと客席は簡易的な安全プラグで結ばれていた。普通であれば不要の装備だが、彼女にとっては必要な命綱だ。父からの言い付けには理由があると理解したの微笑みは、優しくも儚げでどこか切ない。依然として器用に漂ったまま、シャディクはしっかりと姉の肩を抱いた。

「勿論何かあった時はすぐに着て貰うことになるけどね、身体への負担なら心配いらないさ。俺がこうして、片時も離れず支えていれば解決だよ」

にとって何が危険か、何に備えなければならないか。ひとつひとつ先回り、聡い弟は姉とスーツの合わせ目を紐解いていく。命綱が必要なら、シャディクが何より強靭な命綱になれば良い。そう説かれ目を泳がせ始めたに向かい、彼は甘える様な声で最後のひと押しに踏み切る。

「どうしても嫌なら、女性に失礼は働かないけど。そうじゃないなら、俺は姉さんと一緒にこの時間を楽しみたいな」

駄目かい?と囁かれること数秒、の困った様で嬉しさに緩んだ溜息が浮かんだ。

「・・・シャディクには敵わないわね」
「姉さんならそう言ってくれるって信じてたよ。さ、俺の方に身を乗り出して」

言われるがまま、望まれるがまま。大人しく心を決めたのスーツを、一切躓くことなくシャディクは脱がせていく。解放された上半身を片腕で抱き留め、長いドレスの裾を引っ掛ける失態が起きる可能性はゼロに等しく、仕上げに脱殻となったスーツと座席を繋ぐプラグを断ち切った。
三十秒にも満たない早業に、終わったよと優しく囁かれることでは目を瞬く。これまでに無い大きな浮遊感は、重厚なノーマルスーツを着ていては決して味わえない感覚だった。

「・・・すごい。本当に、あっ・・・」
「おっと」

きょろきょろと辺りを見回す、それだけのことでうっかり浮き上がりそうになった華奢な身体は、次の瞬間にはシャディクの腕の中だ。普段以上に迷惑をかける身になってしまった様な気もしたが、癖になりそうな解放感は呆気なく負の感情を塗り潰して余りあるものだった。頼もしい弟の首元に正面から抱きつき、は普段より少々明るく微笑む。

「ありがとう・・・バランスを取るのが難しいわね」
「舵取りは俺に任せて欲しいな。しっかり抱き締めて、隕石からも守ってあげるよ」
「ふふ。それは心強いわね」

戯れとわかっていても、信じずにはいられない。シャディクが出来ると言うならば、それはの常識を容易く書き換える。依存に近い信頼を胸にが身を預ければ、心得た様なタイミングでシャディクが床を軽く蹴り、ふたりは抱き合ったまま宙へと浮いた。ドレスの裾を揺らし、明るい船室を漂う。それだけのことが冒険の様に心弾ませ、は感嘆の息を溢した。

「姉さん、少しだけ目を閉じて」
「シャディク?」
「お願いを聞いてくれたら、良いことが待ってるよ」
「ふふ、さっきの答え合わせかしら・・・わかったわ」

父の船ではなく、民間船を選び貸し切った意味とは。素直に伏せられたの瞼へ、シャディクが僅かな音を立てて口付ける。くすぐったさに微笑みながらも言い付け通り目を開けない姉の従順さに口の端を上げた末、シャディクは器用にも腕の中でその華奢な身体を反転させた。
背後から改めてしっかりと抱き直し、音も無く切り替えた進路。その先にあったスイッチを入れると流石に誤魔化すことの出来ない重い機械音が響いたが、びくりと肩を震わせたは未だ忠実に目を閉じたままだ。船室の照明を落とし、準備が整ったことを確認し。シャディクは数拍の間を敢えて空けた後、彼女の耳許に優しく囁き掛けた。

「さあ、目を開けて」

その瞬間の感情に、名前を付けることは難しい。はただただ呆然と目を見開き、細く息を飲んだ。

窓の無い設計はスイッチひとつで姿を一変させた。片側に偏った客席、無駄な物の無いがらんとした船室。今、壁いっぱいの展望ガラスがふたりの目の前で壮観な景色を映し出す。

「どうかな、特級船室の眺めは」

照明の落ちた船室で無重力に揺蕩い、眼前に広がるのは一面の宇宙空間だ。重いスーツで座席と繋がれたまま、従来の窓枠から覗く景色とは根本からして違う。

「・・・言葉に、ならないわ」

の語尾が小さく震える。それが恐怖ではなく興奮によるものだと、体温を通して伝わる喜びにシャディクが柔く微笑んだ。

「それは何より。材質が特殊なマジックグラスでね、ぎりぎりまで近付いても外からは見えないんだ。民間企業の開発だけど、今とびきり人気の船室なんだよ」
「こんな素晴らしい景色を貸切だなんて・・・ありがとうの言葉じゃとても追い付かないわ」
「どういたしまして。姉さんのその反応だけで十分嬉しいよ。さ、折角だしもう少し近付こうか」

予告の通り、ゆっくりとした速度でふたりは前進した。フロントの中から見上げる夜空とは少し違う、四角く切り取られた筈の神秘の空が、今はこうして視界を埋め尽くしている。暗く漂う中での特殊ガラスは外との境界を曖昧に錯覚させ、この景色が特級と呼ばれるに相応しいものだと物語った。

「本当に、美しいわ・・・こんなことが、叶うだなんて」

どこまでも広がる、途方も無い宇宙。煌めく星々を眺め、背後からしっかりと最愛の体温に抱かれ、無重力に揺蕩う。

何かもかも、取るに足らないことに思えるほど。人間は小さな存在だと、思い知らされる。
家も会社も、互いが義理とはいえ姉弟であることも、この広い宇宙にふたりで漂っている錯覚の前では瑣末な事象に思えてしまう。

「ずっと、このまま・・・」

無意識に溢れ落ちた本音を、は素早く恥じた。

「・・・いいえ、ごめんなさい。何でもないわ」

どうにもならないことだと、理解している。
夢の様なひとときは永遠には続かない。
しかし心だけは絡み合ったまま、何が起きようともふたりはひとつだと信じられる。
大丈夫だ。

そうして淋しげに微笑むの空気を察し、シャディクは腕の中にある姉の頭へ頬を擦り寄せた。

「もしも今、百年に一度の流星群が流れたとしても。姉さんの気分がほんの少しでも優れなければ、俺は迷わずスイッチを切れると思う」
「・・・突然どうしたの?」
「例え話だよ。俺にとって、姉さん以上に引力の強いものは存在しないからね」

ふたりして、ガラスの向こう側に広がる宇宙を眺めたまま。視線は交わらないが、誰より近くに互いを感じながら言葉を交わす。

「自分で用意しておきながら淡白かもしれないけどね。どんな美しい光景も、姉さんに喜んでもらいたかっただけで・・・俺自身には、あまり意味は無いんだろうなと・・・そう思っていたんだ」

百年に一度の流星群を前にしたとしても、姉の為ならば迷わず背を向ける。そう告げる弟の腕に、僅か力が強まった。
優しい抱擁には変わりない。邪魔など入る筈も無い空間でを一層引き寄せ、シャディクは薔薇の香りに酔いしれる様に彼女の髪へ口付ける。

「でも、今こうして姉さんをしっかり抱いて、宇宙を眺めて二人で漂うこの時間は・・・確かに、魅力的だなと思って。永遠を願ってしまうくらいには、ね」

愛おしい温もり、柔らかな声。それらが全てを肯定してくれると気付き、は甘やかな思いに瞳を細めた。
公には許されない関係に、永遠は無い。それでもこの光景を前にしては、叶わない夢を描くことも愚かではないと。同じ思いでいると、背後から抱き締める熱が伝えてくれる。込み上げる思いを胸に、逞しい弟の腕へとはそっと触れた。

「今からこの船室だけが突然切り離されて、どこかの星系に迷い込んで、帰れなくなってしまったら」
「また、例え話?」
「そうさ、もしもの話」

耳元へと唇を寄せる様に囁きかけるのは、意図的な誘惑か、それとも戯れか。どちらでも構わないとが可笑しそうに小さく笑えば、シャディクもまた幸せそうに微笑んだ。

「水と食料は積んでいる分しか無いし、救難信号を出せない以上助けは来ない。もしそんな状況になったら・・・姉さんはどう思う?」

生還は極めて厳しいであろう、穏やかではない例え話を、まるで子守唄の様な耳心地の良さでシャディクは語る。美しい星々を眺めながら、はもしもの話に思いを馳せた。

水や食料に限界がある。
人間のたわい無さを痛感するこの広い宇宙を前にしては、餓死すら終わり方のひとつとして受け入れられた。

誰も助けに来ない。
つまり、誰にも邪魔されず最期までふたりでいられるということだ。

歪んでいることは承知している。
それでも今だけは、美しい夢に浸ることもきっと許されるだろう。
永劫共に在ることが叶うのならば、破滅の道すら尊いものだ。

「貴方とふたりきりでいられるなら・・・とても素敵な旅ね」
「気が合うね。俺もそう思ってた」

耳朶を優しく喰む様なキスで、小さく声を上げて笑い合う。いつの間にかの手が胸の前で交差したシャディクの腕に絡み、ふたりの身体は一層ひとつに繋がったまま暗闇を漂う。

誰にどう思われようとも、幸せだ。

「この上なく、素敵な時間だね」
「ええ、とても」

いつまでも、こうしていたい。
広大な宇宙を眺めながら、ふたりは互いの温度を慈しむ様に身を寄せあった。


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